横浜歴史さろん

コーヒー コーヒー
快楽亭ブラックコラージュ

お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。

1.本町通りにあったゲーテ座 2.ブラックを三遊派にスカウトした五厘(初代橘家圓之助) 3.ブラックの名がみえる番付 4.伊勢佐木町にあった新富亭 5.英国実話「みなしご」表紙 6.「快楽亭ブラック」(イアン・マッカーサー著 内藤誠・堀内久美子訳、1992年)表紙とその中にある役者姿のブラック 7.ブラック高座姿のスケッチ 8.「富竹亭」(横浜馬車道) 9.初代浪花亭愛造 10.グラモフォンのガイスバーグ 11.寄席「久本」 (御徒町)のビラ 12.ブラックの養子のホスコとその妻ローザ 13.ブラックの墓

お知らせ

★New「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」もご覧ください!

  • イベント情報 八聖殿歴史講座追加しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「明治時代に活躍した“元祖 外タレ”快楽亭ブラックの人生」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 3) 明治期の横浜港の歴史を物語る「象の鼻」 ~長期間議論に終始した横浜港の改修築事業~」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「“郷土とつか”を、見て、知って、楽しむ、『戸塚見知楽会』」の紹介記事を掲載しました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「ハマのヘンテコ建築ビッグ3」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「泥亀新田」および「大熊弁玉」を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 2) ~横浜開港:横浜村の変貌にオールコックが驚愕、 とは言え、お粗末な港湾機能の下の荷役作業~」を掲載しました。
  • 「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」http://sampo.yokohamasalon.link/に「レトロな鶴見線 京浜工業地帯繁栄の面影」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「緑区生涯学級『横浜線ものがたり』」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川の由来は金川」を掲載しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part3-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part1)~開港前夜に米国人がみた横浜の風景~」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川でのヘボンの施療」と「江戸時代の刑罰」を 掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 有料会員の期間のうち、半年会員を廃止し、年会員のみに変更しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part2-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「生麦事件参考館」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページ「コバ・テル先生のハマ歴ワンポイント」
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART II) ―多才な彼は発展途上国日本には打ってつけの人材、その資質の源泉は―掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「吉田新田一つ目沼地の難事業‐吉田南家の没落」追加しました。
  • 仲間・施設ページに「ドラマチックな郷土史探究 鶴見歴史の会」の紹介記事を掲載しました。
  • トップ特集「横浜nbsp;英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part1-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 八聖殿郷土資料館の2017年度歴史講座を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 「テル先生のハマ歴ワンポイント」始まりました!
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART Ⅰ) ―彼が夢見たのは鉄道技師、しかし来日時は灯台技師―
  • 「歴史すぽっと」に6件追加しました。
    ・おもしろプレート(ワシン坂、飯田道、ラインマン)
    ・神奈川落語① 大山詣り
    ・神奈川落語② 三人旅より神奈川宿
    ・神奈川落語③ 新作落語「横浜(はま)の雪
    ・神奈川落語④ 抜け雀
      ・神奈川落語⑤ ミルラー事件関係
  • イベント情報更新しました。
  • 「昔の生活ツール」の年号対照表を見易く作り直しました。お役立てください。
  • イベント情報更新しました。
  • トップ特集「横浜と水の今昔物語」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「謎の八聖殿と歴史講座」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
    スマホ画面でも見やすいように調整しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 会員制スタートしました。
    有料会員による会員交流広場開始しました。
  • イベント情報更新しました。
  • トップ特集「横浜歴史のブラタモリ的地形考察」掲載しました。
    仲間・施設ページに「NPO法人  神奈川区いまむかしガイドの会」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の特集と紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「ホテルの歴史 in Yokohama」追加しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「パンの歴史 in Yokohama」追加しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「神奈川歴遊クラブ」の紹介記事を掲載しました。
  • 横浜歴史さろんホームページ開始しました!

特集  明治時代に活躍した“元祖 外タレ”
    快楽亭ブラックの人生

カセイジン

カセイジン

現在、日本の芸能界では外国人タレントは当たり前の存在になっている。いわゆる外タレの元祖を考える時、横浜とゆかりのある落語家、「快楽亭ブラック」という名前に行き当たるが、この人の名前は1980年代から流行った漫画「美味しんぼ」に出ているくらいで、それも月日の流れとともに忘れられかけている。現在、快楽亭ブラックを名乗っているハーフの落語家がいるが、初代の快楽亭ブラックとの関係はない。開国後まだ間もない明治時代の日本社会で、落語家、役者、奇術師、作家etc. として活躍した“元祖 外タレ”のブラックはどんな人生をおくったのだろうか?
正座するブラック
正座するブラック。出典「参考文献」No. 6
椅子に座って話すことも多かった。

快楽亭ブラックの寄席姿

神戸クロニクルの記者は、寄席で見たブラックを次のように描写している。「・・・ブラック氏は想像通り日本人離れしている。がっちりとして、太り気味・血色がよい。声は並外れて力強く、朗々としている。彼はあらゆる階級の日本語の弁を会得している。彼の芸は西洋人にも日本人にも驚歎に価する。眼をつぶって耳をすますと、日本人が話しているのではないとは外国人には及びもつかないし、日本人もその判断はむずかしい位だ。」(下記、参考文献 No.7の(二)より引用)外国人でありながら、子供の頃から日本で育ったブラックの日本語は相当達者だったのは間違いない。

1.ブラックの生い立ちと家族

快楽亭ブラックこと、ヘンリー・ジェームズ・ブラック(Henry James Black)は、オーストラリアの北アデレード市で1858(安政5)年12月22日に生まれた。彼の父であるイギリス人、ジョン・レディ・ブラック(John Reddie Black)は、横浜に1863(文久3)年にやってきて、その後、「ジャパン・ヘラルド」紙の編集長となり、名の知られたジャーナリストとなった。その父を追って、ヘンリーと母は1866(慶応2)年横浜に上陸した。

 父ジョンは著名なジャーナリストであるが、テノール歌手としての一面も持っていた。日本での活動は、1864(元治元)年7~9月に、滞在していた居留地53番の隣の倉庫での音楽会から始まり、たびたび音楽会への出演や独演会の開催をしていて、亡くなる年の1880(明治13)年5月まで出演記録がある。母もピアノ伴奏をしていたという。ヘンリー・ブラックのエンターテイナーとしての血は、父親から受け継いだものと思われる。その父は、大著「ヤング・ジャパン」の完成を見ずに1880(明治13)年6月、脳溢血にて53歳で亡くなった。
 母、エリザベス(Elizabeth Charlotte)は、上流階級の英語教師をしたり、イギリス聖公会の熱心な信徒で小笠原諸島の伝道事業にも関わったりしたという。1922(大正11)年に亡くなった。ブラックの唯一の理解者だった。ブラックもその翌年に亡くなっている。
 妹、ポーリン(Elizabeth Pauline)は、福澤諭吉など、上流家庭の英語教師をしたり、キリスト教の伝道をしたりした。生涯独身で、1945(昭和20)年に死去した。兄ブラックを嫌っていて、母の死を兄に知らせず、ブラックは、後から、これを知り、号泣したという。
 弟、ジョン・レディ2世は、1867年生まれ、イギリスで学び、サミュエル商会に入社。1890(明治23)年に神戸、翌年横浜に赴任した。キルビー商会の経営者で、横浜の外国人社会の重鎮といわれた人物の長女と結婚し、のち神戸に移り、神戸クラブの会長を務めた。1929(昭和4)年に死去し、神戸、春日野墓地に眠っている。この弟については、際立ったエピソードがある。兄の芸人活動に反対だった彼は、1895(明治28)年10月、口演中の兄を罵倒し、経済的援助をしてくれている英国の叔父に言いつけるなどと言い、舞台から引きずり下ろした事があったと伝わっている。
 父親が息子の芸能活動をどう思っていたかはわからないが、弟妹には嫌悪され、不仲だった。

富竹亭
ブラックが初高座を行った寄席「富竹亭」(横浜馬車道)

2.演芸との出会い

1869(明治2)年、11歳のブラックは、あるガーデンパーティーの余興で、蝶使いの木下の芸を見る(「木下」に関する詳細は不明)。この時、舞台によばれて、コツを教わり、15秒ほど蝶を飛ばしたという。それがブラックの演芸との出会いだったらしい。

彼の自伝によると、当時の攘夷運動の中でのエピソードがあり、母と米国公使の家族と馬車で角筈の十二社へ遊びにいった時、刀を抜いた2人の武士に囲まれたが、役人が取り押さえてくれたことや、父に命令されて、横浜に新聞用の紙を調達にいった帰り、夜道で侍に後をつけられたが、横浜に着いて事情を聴くと護衛してくれていたことが分かったと語られている。父親は、その頃、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、河村謙三郎、その他の名士たちと親しく交際しており、江藤新平が、よく家に来ていたという。ブラックが政治演説を行うようになったのは、そういう人たちの影響があったのかもしれない。

1876(明治9)年、父が上海に拠点を移し、母をともなって出国後、父の友人の退役海軍将校 堀竜太の仲介で、浅草の芳川亭において、手品師 柳川一蝶斎の一座の西洋手品師として初舞台を踏んだ。1878(明治11)年、講談師 松林伯円の一座で、横浜随一の寄席、富竹亭に出演。寄席の経営者、竹内竹蔵の目に止まり、当時の巡査の給料の10倍の出演料で、馬車道の清竹亭の初席(15日間)に出る事になり、「チャールズ1世伝」「ジャンヌダルク伝」を語り、人気を博した。1879(明治12)年、横浜元町物産陳列所で政談演説をする。1880(明治13)年、横浜―小田原間の東海道本線沿いの駅で、国会開設請願運動、自由民権、徴兵制反対の政治演説をする。同年、放牛舎桃林の一門に加わり、軍談(軍記物を節おもしろく読み聞かせること)をした。
 しかし、1886(明治19)年には、家族や知人たちの猛反対を受けて、芸人を辞め、英語教師に転身することとなったが、その一方、翻案物の講談を出版していた。

英会話本
ブラックが出版した英会話本。
出典「参考文献」No. 6

3.英語教師としてのブラック

芸人をやめたブラックは、宗十郎町(今の銀座七丁目5~6)で英語学校を開いた。これには、母や妹も賛同して、2人とも同校の教壇に立ったという。また、ブラックは、同校の教科書に使われたと思われる100ページの「容易独修英和会話篇」を1887(明治20)年に中外堂出版より発行した。同書の第二部の会話篇には、訳語の語尾が「~ござりやす」調であることや、例文に以下のような演劇論があることなど、のちに、ブラックが、役者をすることを予感させる。

Whom do you consider the best actor Tokio?  汝ハ東京デ第一等ノ俳優ハ誰ダト思ヒマスカ
Danjuro is certainly the cleverest. 團十郎ガ請合テ一番巧者デス
I do not agree with you, I prefer Kikugoro’s acting.  私ハ汝ト御同意セズ寧(ムシロ)菊五郎ノ動作ヲ好イト思ヒマス

ビラ
ブラックの名前が載っている寄席「久本」
(御徒町)のビラ。出典「参考文献」No. 6

4.芸人に復帰

しかし、1年ほどで、英語教師を辞めたブラックは、友人の五代土橋亭里う馬に誘われ、三遊派の寄席に出演。さらに、三遊派の正式メンバーとなり、1891(明治24)年、真打落語家快楽亭ブラックを名乗る。1893(明治26)年、菓子商石井みねの養子となり、帰化し、石井貌刺屈となる。これは小泉八雲より4年早い帰化である。みねの養女であるアカと結婚し、妻の助けを得て、今でいうコピーライターの看板もあげたというが、数年で離婚したようで、2人の間に子供はいない。

ブラックは、催眠術師としても活躍していて、1896(明治29)年10月の横浜毎日新聞に記者の前で、3人の子供に催眠術をかけた様子が、3回に渡って掲載されている。

ホスコ夫妻
ブラックの弟子・養子、ホスコ(右)、
ホスコの妻ローザ(左)出典「参考文献」No. 4

『落語家人名録伝』によると、ブラックは全盛期には、養子のホスコ(西洋手品師)を筆頭に、6人の弟子をかかえ、一時期は、弟子たちを率いて、コミックバンドをしていた。
 養子のホスコは、純粋の日本人で、本名は石井清吉。1903(明治36)年頃には、奇術の松旭斎天一門下となり、天左となった。ホスコの夫人は、ローザを芸名とする青い目の義太夫語りで、フランスから横浜に渡ってきて、横浜のフランス人女学校を卒業し、日本人の養女になり、女弁士若柳燕嬢の口上でデビューしたという。ブラックはべらんめぇの変な外人といったキャラで明治30年代までは活躍の場が多かったが、その後は人気が落ちて、息子夫婦の一座に加わっていた。

役者姿のブラック
幡随院長兵衛に扮するブラック(左)、
『妹背山婦女庭訓』三段目「吉野川」で雛鳥(女形)
を演じるブラック(右)。出典「参考文献」No. 6

5.役者としてのブラック

役者ブラックは、1892(明治25)年、講談師連中の芝居で「鈴ヶ森」の長兵衛をやってほしいと、松林伯知と初代大林伯鶴に頼まれて出演したのが最初という。日本語は、話すのは達者だが読めないので、ローマ字に直してもらった台本で、ブラックが長兵衛のセリフを覚えている時、中村勘五郎が来て、いろいろの型を教えてくれたとか、中村芝鶴は、鏡台を貸してくれたり、男衆を一人付けてくれたりしたという。1894(明治27)年、本郷の春木座(本郷座)で、幡随院長兵衛を演じた際、江戸歌舞伎の宗家、九代目団十郎にも教わったという。1891~99(明治24~32)の間、多くの舞台に立っていた記録が残っている。

6.レコーディングプロデューサーとしてのブラック

ガイスバーグ
ガイスバーグ

1903(明治36)年1月に英国グラモフォン(現、ユニバーサルミュージック)の米人技師フレッド・W・ガイスバーグ(Gaisberg)が1902(明治35)2月~翌年8月、アジアを出張録音して回った。横浜には、1903(明治36)年1月16に上陸。2月4日から、ホテルメトロポール(東京築地明石町、現、聖路加ガーデン)の一室で、レコーディングを行った。ブラックの仲介で、三代目小さん、初代円遊、初代円右、四代目円喬、五代助六(三代志ん生)、六代むらく、初代小遊三(六代円太郎)らがSPレコードを残した。

浪花亭愛造
初代浪花亭愛造(Wikipediaより)

ブラックのレコードには、以下のものがある。片面で、1分半~3分くらいの収録時間であり、すべて、CD「全集・日本吹込み事始め」に収録されている。「孝子の人情噺」、「滑稽噺蕎麦屋の笑」、「風土言葉の噺」、「待身音曲入滑稽噺」、「滑稽芝居稲川の夢」「江戸東京時代の噺」、「英日結婚の噺」、「横浜居留地ミーラー」都古紫郎(共演)(この話の内容は当サイト「歴史すぽっと」に、「神奈川落語⑤ ミルラー事件関係」として掲載されているので参照ください)、「俳優声色―幡随院長兵衛・白井権八」、初代三遊亭円右(共演)

特筆すべきは、浪曲のレコードとして、初代浪花亭愛造が残されていることである。ブラック自身は、浪曲と落語の合同興業も考えたようだが、三遊派の幹部からは、「土場芸たる浪花節との共演はまっぴらこうむる」と拒否されたそうである。

さらに、米ビクターにもブラックのレコードがあることが分かっている。
 ただ、当時の録音技術は低く、様々な問題点があったため、貴重な記録ではあるが、芸人本来の持ち味が出せていない。動画サイトで、ブラックの落語のいくつかは、無料で視聴可能である。ガイスバーグによる録音は「全集・日本吹込み事始め」という10枚組のCDとして発売されている。

7.ブラックの終焉

明治30年代の末頃から、青い目の落語家という売りも薄れ、人気が落ちて来る。ブラック自身は、弟ジョン・レディ2世のようにイギリスで教育を受けたわけではないし、妹のように、ずっと母のそばにいて、影響を受けたわけでもない。そのため、おまえは、イギリス人だと言われても、生まれは、オーストラリア、育ちは日本で、イギリスにいたことがないということもあり、イギリス人ということに、それほど、強いアイデンティティを持てなかったのではないか、だからといって、純粋な日本人でもないため、自分の居場所であった三遊派の落語家仲間ともしっくりいかないこともあった。また、前述のように、兄が芸人であることを嫌う弟に高座を下ろされ、口論となった時も、芸人は決して賎しまれる存在でなく、人気を現わす番付でも自分の名前は上位にあり、自分は、尊敬を集める存在になっていると主張し、心の拠りどころとしていたが、その人気に陰りが出たことは、彼を追い詰めたようだった。1908(明治41)年に、兵庫の寄席「恵比寿亭」での自殺未遂にいたった。その後は、弟子で、養子でもあるホスコ夫妻の一座に加わって手品を披露したり、晩年は、上方で活動弁士をしていたようだ。

関東大震災直後の1923(大正12)年9月19日、目黒の自宅で脳卒中のため66歳の生涯を閉じた。墓所は、山手外国人墓地で、両親、妹と一緒に眠っている。

多才多芸なブラックではあったが、始めは物珍しさから面白がられ、人気を博してはいたが、落語界にあっては日本人ではないハンディもあって、噺家としての能力には限界があり、人気を維持できなかったように思える。

快楽亭ブラックの墓
快楽亭ブラックの墓(山手外国人墓地)

こうして彼の人生を辿ってみると、現代とは全く違って閉鎖的だった日本の社会で、最後まで芸人として生き抜いた「快楽亭ブラック」に、「よく頑張った!」と、ねぎらってやりたいと思う。

ブラック略年表

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