横浜歴史さろん

コーヒー コーヒー

お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。

相場師田中平八の信条

お知らせ

★New「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」もご覧ください!

               
  •  
    トップ特集「『天下の糸平』と言われた相場師田中平八の生涯」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
    歴史すぽっと記事「ザ・ゴールデンカップス」に情報を追加して更新しました。
  • 1. 歴史すぽっとページに「横浜天主堂と横浜天主堂事件」を掲載しました。
    2. 歴史すぽっと記事「ライジングサン石油横浜本社」に写真を追加して更新しました。
  •            
    お詫びと訂正:特集記事(2018年6月18日掲載)「大江卓(おおえ・たく)人権擁護・人道主義に生きた! ―明治初期の神奈川県権令時代・マリア・ルス号事件を中心に―」(現在はアーカイブページに収納されている)内のフェリス女学院創設者のお名前がアンナ・キダーとなっていましたが、正しくは、メアリー・E.キダーでした。訂正し、謹んでお詫びいたします。
  • コバテル先生講演会ビデオ「変遷する港湾社会を介して港都横浜の現代史を語る① 」YouTubeにアップしました。
  •            
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  •            
    仲間・施設ページに「磯子森地域に残る古文書を読み、郷土の歴史を学び伝える『火曜古文書会』」および新設の人物紹介コーナー「磯子地域で活躍するこの人 ―市内の古文書会の連携を提唱― 」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「日枝神社とお三さま “おさん”はどこから?」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • コバテル先生講演会ビデオ「開国日本と横浜 Part 6」YouTubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  •      
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 有料会員ページ「会員の論稿」に正会員執筆の論稿の掲載を開始しました。今後、索引をつくり検索しやすくする予定です。
  • トップ特集「カリュー氏毒殺事件~山手外国人居留地版2時間ミステリー~」掲載しました。
  •              
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「熊谷伊助① 曽祖父がペリーにもらった本人の写真」および「熊谷伊助② 下岡蓮杖師と清水東谷師の写真」を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「ペリーの記念碑 ―幻と消えた横浜でのペリー像建立、すでに原型はできていた―」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • ビデオ「開国日本と横浜 Part 5 」YouTubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「上を向いて歩こう! 電柱考古学のすすめ」掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「古文書習得は『石の上にも三年、習うより慣れろ』―神奈川宿古文書の会」の紹介記事を掲載しました。
  • ビデオ「開国日本と横浜 Part 4 」YouTubeにアップしました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「富貴楼お倉―横浜の名物女、待合政治の元祖」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「横浜郷土研究会 60年のあゆみ その2 多極化・多様化した横浜の郷土研究(後半の30年間を見る)」の紹介記事を掲載しました。
  • 「当サイト」ページにある「横浜歴史さろん」の“めざすこと”に新たな文言が加わりました。それにともない、会員制に賛助会員(有料)が創設され、その説明など関連事項の変更をしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 横浜歴史さろん会員の名称を有料会員→正会員、無料会員→一般会員へと変更しました。
  • 5/12コバテル先生歴史講演会「開国日本と横浜 Part 3」の録画ビデオをアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「キリスト教諜者・安藤劉太郎のち関信三の半生 ―キリスト教信奉者・中村正直との数奇な出会い―」掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「ホテル・ニューグランド(中区山下町・1927年竣工・震災後の横浜繁栄のシンボル)」を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「横浜郷土研究会 60年のあゆみ その1 横浜の郷土研究の中核をなした専門家集団(前半の30年間を見る)」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページ 「歴史仲間の予定」更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「中華街の歴史(横浜中華街、幕末~、かつては職人の街)」を掲載しました。
  • 1月20日の講演会をYoutubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その2」掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「アカデミックでチャレンジングな『横浜黒船研究会』」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「ウィリアム・ウィリス―幕末・明治に多くの日本人を治療した英国人医師」のPart1とPart 2を掲載しました。
  • コバテル先生講演会「開国日本と横浜 Part 2」(1月20日開催)のチラシを掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その1」掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • 9月9日の講演会をYoutubeにアップしました。
  • 仲間・施設ページに「港南に残る『古きもの』を蘇らせ、地域に貢献する港南歴史協議会」の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「『生麦事件で夷人を斬殺した私』久木村治休述」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 4) パーマーと横浜港の改修築事業 ~パーマー計画案採用の背後に外相大隈重信の決断が~」を掲載しました。
  • トップ特集「大江卓(おおえ・たく)人権擁護・人道主義に生きた人 ―明治初期の神奈川県権令時代・マリア・ルス号事件を中心に―」 掲載しました。
  • 9月9日(日)10:00よりの「コバテル先生の歴史講演会 Part1」のチラシを掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「和・話・倭・輪・わっ」-金沢区生涯学習“わ”の会の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「オランダ商人、デ・コーニングが見た幕末の横浜」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページ「オードリーと横浜」に【訂正】を追加しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報 八聖殿歴史講座追加しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「明治時代に活躍した“元祖 外タレ”快楽亭ブラックの人生」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 3) 明治期の横浜港の歴史を物語る「象の鼻」 ~長期間議論に終始した横浜港の改修築事業~」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「“郷土とつか”を、見て、知って、楽しむ、『戸塚見知楽会』」の紹介記事を掲載しました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「ハマのヘンテコ建築ビッグ3」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「泥亀新田」および「大熊弁玉」を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 2) ~横浜開港:横浜村の変貌にオールコックが驚愕、 とは言え、お粗末な港湾機能の下の荷役作業~」を掲載しました。
  • 「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」https://sampo.yokohamasalon.link/に「レトロな鶴見線 京浜工業地帯繁栄の面影」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「緑区生涯学級『横浜線ものがたり』」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川の由来は金川」を掲載しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part3-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part1)~開港前夜に米国人がみた横浜の風景~」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川でのヘボンの施療」と「江戸時代の刑罰」を 掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 有料会員の期間のうち、半年会員を廃止し、年会員のみに変更しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part2-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「生麦事件参考館」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページ「コバ・テル先生のハマ歴ワンポイント」
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART II) ―多才な彼は発展途上国日本には打ってつけの人材、その資質の源泉は―掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「吉田新田一つ目沼地の難事業‐吉田南家の没落」追加しました。
  • 仲間・施設ページに「ドラマチックな郷土史探究 鶴見歴史の会」の紹介記事を掲載しました。
  • トップ特集「横浜nbsp;英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part1-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 八聖殿郷土資料館の2017年度歴史講座を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 「テル先生のハマ歴ワンポイント」始まりました!
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART Ⅰ) ―彼が夢見たのは鉄道技師、しかし来日時は灯台技師―
  • 「歴史すぽっと」に6件追加しました。
    ・おもしろプレート(ワシン坂、飯田道、ラインマン)
    ・神奈川落語① 大山詣り
    ・神奈川落語② 三人旅より神奈川宿
    ・神奈川落語③ 新作落語「横浜(はま)の雪
    ・神奈川落語④ 抜け雀
      ・神奈川落語⑤ ミルラー事件関係
  • イベント情報更新しました。
  • 「昔の生活ツール」の年号対照表を見易く作り直しました。お役立てください。
  • イベント情報更新しました。
  • トップ特集「横浜と水の今昔物語」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「謎の八聖殿と歴史講座」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
    スマホ画面でも見やすいように調整しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 会員制スタートしました。
    有料会員による会員交流広場開始しました。
  • イベント情報更新しました。
  • トップ特集「横浜歴史のブラタモリ的地形考察」掲載しました。
    仲間・施設ページに「NPO法人  神奈川区いまむかしガイドの会」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の特集と紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「ホテルの歴史 in Yokohama」追加しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「パンの歴史 in Yokohama」追加しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「神奈川歴遊クラブ」の紹介記事を掲載しました。
  • 横浜歴史さろんホームページ開始しました!

特集  「天下の糸平」と言われた相場師田中平八の生涯 

田中平八
田中平八
 
田中平八は、生糸商人、実業家、銀行家でもあるが、洋銀相場・株式取引などで大儲けした相場師がその本質だと思っている。50歳で亡くなり、その葬儀には、時の政府の要人から財界の重鎮まで含めた長蛇の列、1000人ほども参列した。だが、平八を大物と言っても偉人とは呼ばないであろう。それは、元々が相場師だったからだと思う。ともかくも横浜開港期に大活躍した“凄い奴”の人生は面白い。
Yusa-sei

「明治の豪傑を失いたり」平八葬儀の報道

明治17年6月10日付けの東京日日新聞(現在の毎日新聞)には、「糸平氏没す 天下の糸平と人に知られたる横浜の田中平八氏は、病気の処養生叶わず、8日午前5時に死去せられたり、依って来る14日午後3時、同港伊勢山の自宅より出棺、神奈川駅良泉寺へ埋葬せらる由、惜しむべし、明治の豪傑を失いたり」と報道された。6月16日には、遺言とされる記事を掲載している。
 また、東京横浜毎日新聞は6月17日、18日の二日にわたり葬儀当日(6月14日)の模様を報じている。「騎馬の先駆は、桜木橋を経て鉄道停車場前まで繰り出せり、横浜両替商組は凡(およ)そ300名列を正して相従う。次は蛎殼町(かきがらちょう)仲買組凡そ400名、(中略)さてこれに続くものは会葬の諸人なり。即ち伊藤博文、井上馨、岩倉具視、松方正義、吉川府知事、吉原日銀総裁、松本前軍医総監、沖神奈川県令等を始めとして大小の官員壱百余名。銀行にては、渋沢、安田、原、三井等凡そ90名、送葬せらりたり。先駆は既に高島町を過ぐるに、殿列未だ伊勢山を出でざるの有様とは見えたり」「その人波の物凄まじく、云うも、愚かの事なりけり。聞く、この葬儀に係るすべての実費は、凡そ2万6千円の上に出たりしと」。

文末の[]内の数字は本稿における注および参考文献の番号です。右欄(スマホなどの狭小画面では、一番下のほう)に掲載しています。

平八の生立ちと初期の足跡

田中平八は1834(天保5)年、信濃国伊那郡赤須村に生まれる(現在の長野県駒ヶ根市)。幼名「釜吉」。父は雑貨商を営む藤島小伝二(のち卯兵衛)と母(赤須村の名主の娘)「さと」との三男として出生。生家は資産家であったが米と綿相場で失敗し没落したという。1846(弘化3)年ころに飯田城下の魚屋に丁稚奉公に出された(12歳)。1849(嘉永2)年ころには魚屋として独立し、尾州や信州地方を往来していた。
1853(嘉永6)年に飯田城下の染物屋(藍屋)の娘、田中はると結婚し、田中家の婿養子となる。長女「とら」を儲ける。「相場は騎虎の勢い」が座右の銘で、それが長女の名前の由来といわれている。1859(安政6)年、妻子を残し店の金を持って、名古屋へ出て米相場に手を出す(25歳)。(飛び出した理由とその間の行動には確たる記述がない)平八が飯田にいたのは1859年(安政6年)までの約7年間である。それはちょうどペリー来航から横浜開港までの7年間にあたる。

その後、平八は横浜へ向かう。なぜ平八が横浜をめざしたかは、はっきりしないが、若いころから東奔西走して商売は時流に乗ることの必要を肌で知っていたことは想像できるし、横浜が開港し、横浜で商機があると思ったことは当然だったかもしれない。
 横浜に出た平八は、初めのうちは利益になる商品ならば何でも手掛けたと思われ、カジメ(海藻)、木材、水晶、銃器などを扱って商売していたようである。資金も不足し、あちこちに借金もしていた。親戚の家に1866(慶応2)年ころに借金返済は待ってほしい旨、藍玉は少々高くとも仕入れておいて欲しい旨などの書状を送っている。

 

<平八もやったかもしれない生糸密売のカラクリ>

開港後の貿易は、生糸の輸出制限があり1日に500斤以内と定められていた。(1斤=160匁=600グラム)外国からの需要は多く、そのため密売をやれば大きな利益を生んだ。その密売の方法は、羅斜面女郎が、異人館に一夜妻で呼ばれることがある。そのとき、羅斜面女郎は長持ちに夜具一式を持って行き、持って帰る。その長持ちに生糸を入れ居留地に生糸を持ち込む。当然、関門の役人には袖の下、つまり賄賂は必要だっただろうと思われる。
 ※羅斜面=羅紗緬・ラシャメン:外国人相手の娼婦。洋妾(ようしょう)、外妾(がいしょう)とも言われる。

横浜における平八の活躍

① 両替商人として名を成す

1864(元治元)年ころ平八は横浜の貿易商大和屋三郎兵衛の貿易を手伝っていた。平八が横浜で両替商を始めたのは1865(慶応元)年で、大和屋から独立し「糸屋平八商店」を設立、糸屋の平八であることから、「糸平」と自称した。平八31歳。3年後の1868(明治元)年にはもう横浜の主な両替商人としてその名が「横浜市史産業編」に掲載されている。この年、両替商の今村清之助[13]、雨宮敬次郎、田中平八ら13名が共同で南仲通り2T目に「洋銀相場会所」を設立し、所長となり、洋銀相場の取引を開始した。

糸屋
糸屋田中平八の店(子孫の田中雄平氏所蔵と参考文献[2]に記載)
益田孝
益田孝

<益田孝(三井財閥創業者)の回想>

1935(昭和10)年に第1回貿易顧問会議の席上で男爵益田孝がドル相場に関して語った。
「その頃(開港後のこと)横浜における貿易の通貨はメキシコドルであった。売込み問屋はメキシコドルで代金を受け取り、引取屋は外国商館にメキシコドルで代金を払うのである。しかし売込み問屋が荷主に払うのは日本貨幣である。そこでメキシコドルと日本貨幣の交換、つまりドルの売買が行われた。これがどういうわけか、仲町通りでおこなわれ、ドル相場の仲買いはみな仲町通りにいた。(平八がいち早く南仲通りに洋銀相場会所を設立したことには先見の明があったか。)(中略)ドルの仲買いで大きいのは、やはり田中平八であった。ある時、大きな買い注文が出た、値ざやを稼ぐのではなく現物を持って行くのだから始末が悪い。探索してみると、買い手は大蔵省であった。当時各藩が外国商館から船や武器を買った。そのため藩債を乱発した。その後始末を井上馨が引き受けた。三井などに命じてドルを買わせると忽ち相場が上がるから、井上は手を回して。平八を通してそっと買わせた」。

1909(明治42)年に「横浜貿易新報」(後の神奈川新聞)は、富貴楼(ふうきろう)の女将、お倉に横浜の昔話を特集した記事の中に「井上が平八を通してそっとドルを買わせた」ことを裏付ける記述がある。

 ※富貴楼:平八の生涯で富貴楼のお倉は欠かすことのできない存在で、富貴楼は平八が資金を出したもので、現在の中区尾上町5丁目にあった。政府高官や実業界のトップクラスが次々と汽車で横浜入りしたといわれ、明治維新後の政治、経済に大きな影響をもたらしていた。その中には、伊藤博文、井上馨、山県有朋、大久保利通、岩崎弥太郎、西郷従道、陸奥宗光、福地源一郎、三井高福、今村清之助、そして渋沢栄一、渋沢喜作などがいた。[7]

井上馨
井上馨

「1871(明治4)年9月初め頃、お役人さん(井上馨)が『私に向かって(お倉のこと)「糸屋平八という両替屋を知っているか」とお尋ねになりました。『平八の評判はどうか、今横浜にいるか』というご質問です。『明日の朝、平八君をここに連れてきてくれ。ただし、このことは誰にも言わないでくれ、平八君にもそう言ってくれ。二人連れで神奈川まで来るのはまずい。二人のうちどちらかは野毛橋、野毛坂をまわってきてくれ』というお話です。その費用として一円銀貨を何枚も渡された。翌朝、お役人さんが『お国のためだ、協力してくれ』といい、糸平さんは白信ありげに『協力します』と答えました。糸平さんはこの時初めて『幸運』を運んでくる人とあったのです。その後、井上さんは糸平さんとそっと会い、情報を交換し、作戦を立てる場所が必要となりました。糸平さんが『カネは私が出します。お倉さんに小料理屋を買ってもらいます』と言い、井上さんが『そうしてくれ。』と言われたのです。」

この辺りが平八の人生のターニングポイントだったのではないだろうか。また、お倉は平八のことを「平八さんは生糸、ドル、米の相場師でしたから町で起きていること、人の動き、誰が何と言った、誰がどこへ行ったということを、人よりも早く知ろうとしました。ですから女将にも芸者さんにも好かれるようにしたのです。」とも言っている。[5]
 ここ富貴楼で、平八はお倉を通し、政財界から、いち早く貴重な情報を得ていたのであろう。平八は30代の前半で、すでに天下の大富豪となった。まだ、岩崎弥太郎も渋沢栄一も何者と言うほどのこともなかった時期である。

 

富貴楼のお倉に関しては  当サイトの特集記事にて「富貴楼お倉―横浜の名物女、待合政治の元祖」が掲載された。アーカイブページにPDFファイルとして収納されているので、ご参照ください。

 

② 横浜の関税収入を4倍にする

1868(明治元)年当時、横浜の貿易は隆盛を極めていたと言っても、関税局の収入は誠に少額で税関局長(初代税関長は星亨)は1869(明治2)年これを憂い打開策を平八と鈴木保兵衛に相談した。税関が課税する際、外商が輸入する場合、輸入原価は外商の申告通りで課税していた。そのため、外国商人は原価を安く申告していた。そこで平八は外商が安い申告をした場合は、即座にその品物を申告原価で買い取る施策をとった。これにより外商たちは原価を正しく申告するようになり、その翌月から、関税収入は4倍になった。わが国初期の貿易界に貢献した業績は、末永く評価されている。

③ 横浜為替会社の創立

政府は1869 (明治2) 年外国貿易を管理する通商司を横浜に設置し、その下に為替会社と通商会社を設立した。為替会社は通商会社を援助する機関であり、通商会社は商業・貿易の振興を図るためのもので半官半民の会社であった。この横浜為替会社で平八は当初貸付係を命ぜられ、まもなく重役である肝煎(きもいり)になっている。しかし、その後為替・通商会社も下火になり、新しい制度の必要から国立銀行条例が発布されると、全国の為替・通商会社は多くの負債を抱えたまま廃業または転業に追いやられた。
 横浜為替会社は国立銀行への転業が認められ損失を処分し、第二国立銀行として営業を続けることになった。第二国立銀行の移行の際、先頭に立ったのが平八だった。推進者はほかに原善三郎、茂木惣兵衛らがいた。時の大蔵大輔は井上馨だったので第二国立銀行に移行の際、影の力にはなったようである。その後、井上は平八の存命中は資金的な世話になったようである。1872(明治5) 年、平八は第二国立銀行の大株主となる。
 一方、通商会社のほうは同年9月金穀相場会所となり、平八は初代頭取に就任した。

④ 水道敷設と高島学校生徒の救済

1870(明治3)年神奈川県令が水道敷設の必要性を訴えると、平八ら18名で水道会社を設立し、その頭取になって玉川(=多摩川)の水を引き、短期間に完成して町民の飲用水の便を図っている。(編集者注:ただし、当時はまだ鉄管ではなく木樋だったので、漏水や衛生面の問題もあり、その後この会社は潰れた。)

また、この年、高島嘉右衛門が高島学校を開設したが翌年(明治4年)の7月廃藩置県が発せられ文部省が置かれ、生徒たちの多くが藩からの学資給与の道を失った。平八は前途ある青少年が途中で挫折するを見るにしのびず、私財をなげうち50余名の学資を貢ぐこと数か月に及んだ。学制の発布されたのは1871(明治5)年の8月。

⑤ 鉄道建設に寄せた情熱

東京・横浜間の鉄道建設には横浜居留の外人からも建設願書が提出されていたが、東京・横浜の商人たちは自己資本による建設を目指し、また高級官僚の大隈重信・伊藤博文・寺島宗則らも鉄道建設の必要性を唱えていて、外務省から太政官に1869(明治2)年、上申書が提出され1870(明治3)年3月に着手し、1872(明治5)年3月に完成した。
 この鉄道建設には、横浜の有力商人が資金の拠出を惜しまなかったことは極めて注目されるが、平八が具体的にどれほどの資金をつぎ込んだかは資料がない。しかし、平八は1872(明治5)年9月、浜離宮で明治天皇出席の鉄道開業の祝賀会で横浜港民の総代となり、天顔に咫尺(しせき=近い距離)して祝辞を献上、陛下から勅語を賜わっている。この事実から、莫大な資金提供をしたことは想像できる。尚、高島嘉右衛門、平野弥十郎は埋め立てを含めた土木工事を担当している。

⑥ 横浜生糸改会社と生糸の売込みと買い集め

輸出される生糸の出荷
輸出される生糸の出荷風景[7]

1873 (明治6)年、横浜生糸改(あらため)会社は「生糸製造所では殖産の真理を尽くし、開港場では製品の精粗を改め、従来の弊害を矯正して、一般の公利をおこさねばならないと、国々の生糸総代の人々と協議して作成した」。
 これは横浜生糸改会社の規則の冒頭文である。地方から持ち込まれた生糸とその付属屑物を再検査するための生糸会社で弁天通6丁目にあった。発起者は原善三郎、茂木惣兵衛ら5人。副社長には田中平八、吉田幸兵衛ら4人。この会社は単に製品を検査するばかりでなく、技術的指導をし、製品に銘柄を与え、我が国蚕糸業の発展に資するための機関であった。 田中平八在任中に1874 (明治7) 年、欧州殊にフランス、イタリヤに蚕病が発生したためにわが国の蚕種輸出需要が急激に増大した。造りさえすれば売れたから粗悪品が乱造された。平八らは粗悪品の蚕種紙、44万5千余枚を買い集めて焼却した。粗悪なものは悉く除去してわが国の貿易振興に寄与した。

生糸
生糸※※[7]
蚕卵紙
蚕卵紙※※※[7]

平八がいつどのように伊那(長野県の南部に位置する)から生糸を横浜に運んだか、また、横浜で生糸貿易にどのように係わっていたか明確な資料はないが、1879年度(明治12年度)には、『信濃蚕糸業史』によると諏訪・上伊那・下伊那地域から糸屋への生糸入荷量は213梱9分8厘と記載されているから莫大な量であったという。また、平八の親戚による「大沼日記」の明治4年6月の記には「糸平から2千両預かり、佐次郎と平右衛門が中沢地区や木曽で生糸、藍、綿、など購入する」と記されていることから平八は親類縁者に頼り、親類もこれに協力していたと思われる。また、平八はそれらの親類には各地の相場を知らせる書簡を送っている。
 ※生糸1梱=9貫目=33.75キログラム。 生糸1枚=120キログラム
 ※※生糸は束ねられて横浜港から海外に出荷された。中央部の黄色い紙は生糸の品質鑑定結果を示している。©横浜生糸記念館
 ※※※蚕に卵を産ませ、手作業で升目1つずつに配置したもの。©紙の博物館

⑦ 横浜金穀相場会所でのフィドンとの仕手戦

 ※仕手=人為的に作った相場で短期間に大きな利益を得ることを目的に公開市場で、大量に投機的売買を行う相場操縦のー種。脱法・違法まがいの(風説の流布、見せ板、など)手法を取り入れ、価格操作を行う売買筋のことを仕手筋と呼ぶ。
 ※仕手戦=仕手と呼ぱれる投機家同士が売り方と買い方に別れ、争い、投機的な売買で利益を得ようとする相場の状況をいう。

横浜金穀相場会所で明治7(1874)年の4、5月の頃、外国米その他の輸入が巨額に上がったので、平八、今村清之助らの仲買人は洋銀の騰貴を見越し、盛んに市場に買付を行った。中国の洋銀ブローカー、フィドンと香港上海銀行は敵手となり逆に売り手に回る。ここに劇的な仕手戦が始まる。買い方は騰貴せしめようとして200万ドルの買い占めを行ったが、売り方が優勢で相場が下落し、買い方は数十万円(今のお金で40億円と言われている)の追加証拠金を納入せねばならぬ状況となった。資金調達の目途がつかなかったので会社役員と謀って虚偽の紙幣入り行李を提供し、役員はこれに封印を施して追加証拠金納入済として売り方を欺いた。その上、売り方に対して今後の取引には正ドル(現金のドル貨幣)の授受をしようと迫った。これに対して売方は神奈川県令にその不正行為を訴え、売方の資金の検査を申し出た。県会はさらに大蔵省に具申したので大蔵省は官吏を派遣した。買い方はその臨検に先立ち追加証拠金を回収せねばならず、役員と買い方は謀議の上、窪田半兵衛を買い方とし、都会屋与兵衛を売方とし高値で売却するよう謀り、翌日、午後2時の立会いで買い方が突然64匁買い(相場は59匁)を発注これに売方が呼応し、役員は閉会を宣した。これで買い方は追加証拠金を清算し逆に売り方はこの分を納入することになった。
 県会は仲裁の労をとり円満解決に至った。が、これは典型的な「お手盛り相場」で、内外人の信用を失墜し、ついに横浜金穀相場会所は閉鎖の止むなきに至った。これで平八は横浜にいづらくなり、その後、東京兜町に活動の場を移すことになったといわれている。
 ※お手盛り相場=自分の地位を利用して自分の都合のいいように市況を導くこと。

⑧ 神奈川県第一大区議員に推挙される

1877(明治10)年11月、平八は神奈川県第一大区議員に推挙される。(第一大区は旧横浜市にあたることから、さしずめ横浜市会議員か)。平八、43歳。

渋沢栄一
渋沢栄一

⑨ 洋銀取引所の設立

金穀相場会所が禁止された1879(明治12)年、渋沢栄一をはじめ田中平八らの出願で横浜洋銀取引所が開設された。洋銀取引所出願当時、開港以来の大騒動となった。資本金10万円のうち5万円を、設立願いを出した11名が占めたため、残り5万円に買い手が殺到して100円が忽ち160円から170円に騰貴してしまった。多くの業者が俄然騒ぎ出し、全港挙げての騒動となった。政府を攻撃するもの、11名を恨むもの、徳義を説くもの様々である。そこで渋沢栄一、田中平八他2名で資本金総額20万円にして話し合いが成立し開業の運びとなった。この時の主な株主は渋沢栄一(70株)原善三郎(55株)、茂木惣兵衛(55株)、田中平八(45株)らであった。

以上の他に、1870(明治3)年、平八、高島嘉右衛門、鈴木保兵衛、益田孝ら9人で神奈川裁判所にガス事業の申請をしているが、ドイツ商社と競合したことや、ガス事業の前途に不安を感じたことなどから、平八、西村勝三、益田孝、鈴木保兵衛の4人は中途で手を引いている。ガス事業は高島嘉右衛門が免許を取得しガス事業の経営を成している。

東京における平八の活躍

平八が東京に進出したのは1872年から1873年の初めと思われる。

① 米商会所(べいしょうかいしょ)の株主・頭取、株買い占め

今村清之助
今村清之助

1876(明治9)年、米商会所条例が発布され、米取引の東京商社は兜町米商会所となり、中外商工会社は蛎殼町米商会所となり、東京ではこの二つの米商会所が対立していた。平八は兜町米商会所の頭取になっている。米商会所は米の先物取引をしていた(後の東京米穀取引所、現在の東京穀物商品取引所)

1879(明治12)年から1880年にかけて蛎殼町米商会所の株式買い占め事件が起こる。蛎殼町米商会所の資本金は5万円、総株500株(1株100円)。その会所の株数の少ないのに着目し平八は株の買い占めを企てる。買い占めの手が伸びるに従い、1879年中に株価は高値820円、安値250円、という大波乱の値動きだった。平八は高値で売り抜け、また、翌1880年には高値238円、安値215円まで崩落し、チョウチンを付けた買い方はものの見事に失敗した。これは敵対的買収の第一号であった。平八はこの買い占めで相当な巨利を得たという。
 ※チョウチン=値動きの激しい銘柄に相乗りをすること。

1883(明治16)年、兜町米商会所と蛎殼町米商会所が合併して東京米商会所の初代頭取になり、東京米会所を上場させるがなんとこの株式の買い占めを仕掛けている。この買い占めに昔からの仲間の今村清之助[13]らを誘っていたにもかかわらず、密かに上値を追う清之助たちに対して自分の株を売り抜けたという。こうして儲けるためなら仲間も裏切ることもやっていた。(編集者注:今村は平八と同郷の伊那出身、平八より15歳年下。横浜に来てから平八と知り合い、何かと一緒に仕事をしていたようだ。その後、「鉄道王」と言われるほどの実業家となっている。)

この時期、大隈重信は、日本の近代化のため積極財政を推進していた。西南戦争(明治10年)の出費がかさみ、紙幣が乱発され悪性インフレ状態になる。そして井上馨と伊藤博文の手により大隈重信が筆頭参議の座から追放される。(明治十四年の政変)。これは富貴楼で計画は練られたといわれており、お倉はこの情報を平八に知らせていたと思われ、平八は生糸、洋銀、米を買い漁っている。1881(明治14)年に松方正義は大蔵卿に就任し、インフレを抑制するため不換紙幣の整理にあたり、緊縮財政を断行する。いわゆる松方デフレである。平八はこのデフレ政策もいち早く情報を得、買い方から売り方に素早く転じていた。

② 東京株式取引所の設立

東京株式取引所
東京株式取引所 1910年
東京株式取引所
東京株式取引所内部の様子 1910年
金禄公債
金禄公債[7]

旧士族は明治7年秩禄公債、明治10年金禄公債を受け取ったが、結局は生活に困窮し、公債を現金化するものが増え、これが両替商たちの手に渡り、盛んに売買されるようになる。公債が盛んに売買されるようになるとその売買も円滑にしなくてはならないし、商社の設立によって株式の公募も始まり公開市場の必要性は日ごとに高まり、1878(明治11)年5月、東京株式取引所は設立する。株主は深川亮蔵140株、渋沢栄一、今村清之助98株、平八は82株所有(4位)。
   ※秩禄公債=士族の秩禄を数年分まとめて債券化し、金利が受け取れるような仕組みにしたもの。(募集に応じた者だけを対象にした)いわぱ退職手当のようなもの。
 ※金禄公債=旧士族の家禄制度を強制的に廃止する代償として旧士族に交付した。

③ 長野県為替方担当と田中銀行の設立

平八が日本橋に田中組を創設したのは1876(明治9)年、大阪、神戸、新潟などに支店を置き、物産輸出の荷為替業を営む。明治10年長野支店を設置し、長野県の為替方を担当した。そして田中組は1883(明治16)年、合資会社田中銀行と改組し長野県内への銀行進出の先駆けとなった。田中銀行は県下全域の官金預金の80%を占めていた。その後新しい銀行も設立され、明治36年に長野支店を閉鎖し県内から引き揚げた。

糸平その他の逸話

高崎藩財政のたて直し

1869(明治2)年9月、平八は高崎藩の商法局から商法取立役を命ぜられ、平八は藩札の改良と財務の立て直しに成功したため、藩主は召しかかえて士族に列しようとしたが、平八は固辞した。それでも苗字帯刀を許され、刀・槍と乗馬を賜ったのはこの時で、以後平八は乗馬を愛用したという。尚、平八は為替会社の肝煎となった時も帯刀を許されている。
 ※平民の乗馬は1873年(明治6年)まで禁止されている。

渋沢栄一が解合いの斡旋

東京日日新聞(後の毎日新聞)が渋沢栄一の1876(明治9)年4月29日の日記を紹介している。「中外商工所(後の東京穀物商品取引所)の米相場で売り方、島田慶助、買い方、平八で仕手戦となり、両者共に意地の張り合いで中々折り合わないなか、(渋沢が)解合いの斡旋をして米価4円85銭を提示して和睦にあいなった」。
 ※解合い(とけあい)=相場の暴騰・暴落で決済ができなくなったとき、買い方と売り方とが協議して一定の条件を決めて売買契約を解消すること。(デジタル大辞泉)

その他、平八の豪胆・奔放な逸話はいくつも残っている。飯田で買い集めた多量の生糸を倉庫に積み、それを焼き払い、横浜の生糸の値上がりを策したこと、中居屋重兵衛が密貿易で失脚した際、中居屋の倉庫から商品をかすめ取ったという話などはその最たるものだろう。

平八の最期

1881(明治14)年ころ肺を患い、熱海で療養を始める。この時を契機に投機的な事業からー切手を引いたようである。ここでは私財三千円を投じ熱海に簡易水道を敷設した。また平八の寄付によって小田原―熱海間に静岡県下初の電信線が架設された。
 1884(明治17)年6月8日「兜町の鬼将軍」と言われた田中平八は、横浜花咲町掃部山下(紅葉坂、伊勢山とも)にあった豪邸にてこの世を去る。50歳。神奈川の良泉寺に眠る。

碑
伊藤博文の揮毫による「天下之糸平」碑

平八の碑「天下之糸平」

平八の碑は墨田区堤通りの「木母寺」に1891(明治24)年6月に建てられた。高さ5.45メートル、幅3.6メートル、厚さ0.6メートルと堂々たるもので石は緑泥花圈岩。初代総理大臣の伊藤博文の揮毫で「天下之糸平」と刻まれている。碑の裏には渋沢栄一、高島嘉右衛門、渋沢喜八、大倉喜八郎、雨宮敬次郎、原善三郎、茂木惣兵衛らで、お倉の名はなく最後に「横浜 富貴楼」と刻まれている。(女性の地位が低かった時代である)
 この碑がこの地にある理由については、木母寺は明治維新と共に廃絶になったが、北白川宮、伏見宮など皇族、高官らと共に渋沢栄一、平八らが木母寺再興に協力した記録があり、その縁でこの木母寺に建碑したと考えられている。

なお、故郷の駒ケ根市には「天下の糸平出生地」の碑、「天下之糸平田中平八生誕郷」の立派な碑があり、また、飯田市の田中邸跡には「天下の糸平」碑が建っている。今年の8月には、駒ヶ根シルクミュージアム(東伊那区)で、田中平八の特別パネル展が開催されていた。中居屋重兵衛同様、開港地横浜で活躍した郷土の英雄なのだ。

終わりに

幕末・維新の動乱期を駆け抜けた平八の若い頃の話には驚くようなものがいくつもあるが、虚実ない交ぜの本人の作り話の可能性もあるので、省略する。また、平八の子孫には巨額の財産を受け継いで起業し、さらに大企業へと発展させた者や、有名人も多数いるがここでは言及しない。

平八が巨富を築く端緒となったのは、生糸相場であった。1859年~1860年ころ、中国の絹が減産のため生糸相場が上昇した。商機到来と見た平八は飯田に帰り地元の生糸をできるだけ買いまくった。一梱り平均39両で仕入れ、中居屋重兵衛に一梱り60両で売っている。大儲けである。(当時は相対取引)。お倉との出会いからは重要な情報はいち早く手に入れることができただろうがすべてうのみにしたわけでもない。やはり平八独自の情報分析能力があってのことだと思う。平八の基本的な商法には、取引所を効率的に利用する方法が見て取れる。洋銀取引では今でいうスプレッドを利用した取引で儲けている。フィドンとの仕手戦では相手方に不利なルールに改変して最終的に大儲けしている。東京米会所の上場の際にも大きな仕手戦を仕掛け大儲けしている。このように平八は取引所を通して儲ける術を知っていた。
  ※スプレッド=異なる期間の金利、為替レートなどの差。

平八が果たした役割が何か劇的なもので、歴史の記録に残っているわけではないが、1878(明治11)年、東京株式取引所創立には平八は今村清之助と共に重要な役割を果たしている。それは明治7年株式取引条例が施行するにあたり、その内容に多少の問題があったなか、仲買人、事業化、銀行家、政府らとパイプを持ち、調整ができ、且、取引所の実務がわかる人間は人材多しといえど、平八以外にいなかったのではないだろうか。東京株式取引所創立証書に、10番目に平八の署名がある。
 木母寺の碑の揮毫は伊藤博文であること、葬儀の際の政財界の大物、錚々たる人物の名があることは当時の政財界に大きな影響力を持っていたことを意味している。平八の遺した数々の業績は当然評価できるが、私としてはむしろ、日本最初の「相場師」として後世に名を遺したほうを評価したい。
 

文字がはっきりしているpdfファイルの年表はこちら

碑

トップへ戻る