横浜歴史さろん

コーヒー コーヒー
絵図「御貿易場」

お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。

絵図「御貿易場」(開国開港期:1854-1867) (表示スペースに合わせるためやや横広に修正) 横浜市中央図書館所蔵
左上方の白い建物「異人屋鋪」とあるのが、英一番館らしい

お知らせ

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    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART II) ―多才な彼は発展途上国日本には打ってつけの人材、その資質の源泉は―掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「吉田新田一つ目沼地の難事業‐吉田南家の没落」追加しました。
  • 仲間・施設ページに「ドラマチックな郷土史探究 鶴見歴史の会」の紹介記事を掲載しました。
  • トップ特集「横浜nbsp;英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part1-」掲載しました。
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  • 八聖殿郷土資料館の2017年度歴史講座を掲載しました。
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    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART Ⅰ) ―彼が夢見たのは鉄道技師、しかし来日時は灯台技師―
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    ・おもしろプレート(ワシン坂、飯田道、ラインマン)
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    ・神奈川落語② 三人旅より神奈川宿
    ・神奈川落語③ 新作落語「横浜(はま)の雪
    ・神奈川落語④ 抜け雀
      ・神奈川落語⑤ ミルラー事件関係
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  • 「昔の生活ツール」の年号対照表を見易く作り直しました。お役立てください。
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    前回掲載の特集と紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
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特集  横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社

―ジャーディン・マセソン・ヒストリー, Part1―

横浜開港とともに一番にやって来たジャーディン・マセソン商会は、19世紀中葉、極東における最大最強のイギリス商社でした。その活動の影響は広大無辺であり、特に、日本の幕末から明治期における同商会の影響力は、経済的にも政治的にも計り知れないものがありました。アヘン戦争を起した悪徳商人とも言われていますが、この商会の活動を通して、当時の日本の姿も見えてきます。今回Part1は開港時の日本と、ジャーディン・マセソン商会の成立ちについてのお話です。

コハクチョウ

トップ画像「御貿易場」の左上の地図の拡大図
トップ画像「御貿易場」の左上の地図の拡大図
五ヶ国異人 假(?)居所の赤丸のあたりがJM商会のあった「一番」と思われる。
地図というよりイメージ図という感じの絵図

1. 開港 一番乗り

幕末、自由貿易港として開港(1859年7月1日)した横浜に、いち早く乗り込んできたのはイギリスの巨大商社、ジャーディン・マセソン商会でした。責任者は上海支店からやって来たウィリアム(W)・ケズウィックでした。ジャーディン・マセソン商会は建てた商館の一番の地番(住所のようなもの)から、「英一番館」と呼ばれ、その場所は現在の中区にあるシルクセンター辺りでした。(以後、見出し、引用文を除き、ジャーディン・マセソン商会はJM商会と表記)開港当初、横浜の人々は面倒な英語を使わずに、商館を居留地の地番で呼び、居留民もイチバン、ヒャクバンと日本語で地番を覚えたそうです。お茶場の女たち(茶の再製場の女工)は「鬼の三番、仏の五番、なさけしらずの六十番」と茶工場を歌いました。現在も山手にある女学校のフェリスは百七十八番、共立は二百十二番、彼女たちが通った海岸教会は百六十七番と、皆、地番で憶え愛着を持っていたのでした。

ウィリアム・ケズウィック
ウィリアム・ケズウィック(1834-1912)
創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の娘の子。
その後、今日までJM商会を率いる
ケズウィック一族の創始者

JM商会は、日本と貿易を始めるにあたり、それまでに中国やインドとの貿易で蓄えた豊富な資金があったので、船には洋銀(=メキシコ銀貨=メキシコドル)を満載してやって来ました。日本にはまだ銀行がなかったので、現金取引でした。JM商会の貿易額がいかにすごかったかは、多いときには全国総計の6分の1近く、とくに輸出では5分の1以上を占めていました。また、1860年度(1860年7月‐61年6月)から63年度では、同商会対日貿易の実に92~98%が横浜に集中していました。それは、とくに横浜が生糸と茶の主要輸出港であったためでした。初期の日本貿易は輸入よりも輸出がずっと多かったのです。

JM商会横浜店は、香港本店、上海支店などと、頻繁に書簡を交換し、密に連絡を取りながら、取引における指示もしばしば受けていました。JM商会は現在も存続している企業なので、そうした書簡や帳簿がイギリスのケンブリッジ大学に多く保管されていることから、JM商会の歴史や経営、その影響力に関する詳しい研究が進んでいます。

2.その前に長崎で

幕末の長崎港全景
長崎港全景 ロシエ撮影 1860年

JM商会は開港の約5ヵ月も前、1859年2月9日に、帆船トロアス号に200トンの砂糖を積んで長崎を訪れています。正式な開港の前に入港するので、もしかしたら拿捕(だほ)されるのではないかと恐る恐る行ったのですが、意外にすんなりと入れたのです。出港までの約2か月間に、トロアス号のホームズ船長は殆ど何の規制も受けず、長崎の町中を歩き回り、珍しいもの(生き物も)、様々なものを買いあさり、朝夕かまわず日本人の家に何度も上がり込んで、親しく交流したのです。(詳しくは「『ホームズ船長の冒険 開港前後のイギリス商社』 杉山伸也/訳 H.ボールハチェット/訳 有隣堂 1993.11」をご覧ください。非常に面白い内容です。)

一方、JM商会のW. ケズィックたちはしっかりと商取引を行い、日本商人から生糸の直接仕入に成功したのです。つまり正式な開港前に、すでに貿易は始まっていたのです。JM商会はここでの経験により、神奈川(横浜)が開港されれば、十分な利益をあげられると踏んだので、開港するや誰よりも先に横浜に上陸したのでしょう。

それにしても、正式な開港前に、果敢に突き進むJM商会の商魂もすごいですし、長崎の役人が入港を許可したというのにも、驚かされます。出島にオランダ人がいたから慣れていたのかもしれないですが。ホームズ船長は集めたものを上海で殆ど売り払い、かなりの利益を上げています。

3.ジャーディン・マセソン商会の始まりとその経営形態

ウィリアム・ジャーディン
ウィリアム・ジャーディン
ジェイムズ・マセソン
ジェイムズ・マセソン

東インド会社所属商船の医師として商業活動をはじめたウィリアム(W)・ジャーディン(1784-1843)と,貿易業者のジェイムズ(J)・マセソン(1796-1878)とが,ポルトガル領マカオでJM商会を設立したのは1832年のことでした。両者ともスコットランド出身です。JM商会設立前に彼らはマニアック商会のパートナーでした。このマニアック商会と、その後日本でもJM商会と激しく競うデント商会は、1829年までにインドの綿花およびアヘン貿易を独占するようになっていました。マニアック商会は1832年6月末をもって閉鎖し,事業を引き継ぐかたちでJM商会がスタートしたのです。1834年の東インド会社の中国貿易独占権の廃止に伴い、35年には新たな茶や生糸取引のために,JM商会は、ロンドンでの代理業務を担当するマニアック・スミス商会と契約を結びました。二人は事業を拡大すべく懸命に働きましたが、7年後の1839年、W. ジヤーディンはにJM商会を引退、帰国し,このマニアック・スミス商会にパートナーとして迎えられ、このとき,同商会は名称もマニアック・ジャーディン商会と改められ、ロンドンにおけるJM商会の代理業務を一手に行うことになりました。

JM商会は、広東十三公行(特許を受けた中国人貿易商ギルド)時代に最大であった中国商人怡和(いわ)行の名称を自らの中国名として、「怡和洋行」と名乗るようになりました。1841年、目をつけていた香港に土地を購入して本店を置きました。アヘン戦争後、香港が自由港となったことを機に業務の拡大を図っていきました。J. マセソンは,1843年に引退して帰国しました。

創業者のいなくなったJM商会は,彼らの甥(W.ジャーディンとJ.マセソンの兄弟姉妹の子供たち)やその子供たちに引き継がれ,支店を中国の開港場に次々と設置していきました。1844年に上海、1846年に広東、マカオ、厦門(アモイ)、そして、1859年には日本に進出しました。貿易業務のみならず、船舶代理業務、保険会社等、様々の分野に進出していきました。創立者の甥デイヴィッド・ジャーディンが1850年に、民間人として初めて香港の行政・立法議会のメンバーとなり、行政にも参与していきました。

JM商会は,設立以来一貫して“パートナーシップ”として経営されています。商会は4~8人のパートナーの出資のもとに運営され、パートナーは殆どが同族の者たちでした。こうした同族経営にて、JM商会は19世紀半ばには極東最大の商社に成長しました。マセソン一族は、1850年代に事業からは手を引いてしまいましたが、甥の1人、アレキサンダー(A)・マセソンは、帰国後JM商会のロンドンにおける代理業務を行っていたマニアック・ジヤーディン商会を引き継いで1847年12月末にマセソン商会を設立しました。マセソン商会は、商取引のみならず金融面でも重要な機能を受け持つことになりました。以降、香港の本店とロンドンのマセソン商会とは、緊密な連繋の下にアジアの貿易・金融活動を拡大していきました。経営スタッフも両商会にまたがって担当する場合が多かったようです。A. マセソンは、イングランド銀行の取締役も兼任してシティでの地歩を固めていきました。

1877年、JM商会頭取のW・ケズウィック(横浜一番乗り)が香港上海銀行(HSBCとして知られる)の取締役となり、以降、JM商会は金融面で香港上海銀行と深く結びついていきました。ちなみに、記録に残るJM商会の1872年当時の人員の規模は,西洋人職員38名(上海15、福州3、横浜2、天津・広東各1)で、その下に総買弁に統括された中国人・日本人の買弁や使用人が働いていました。

4.アヘン戦争とジャーディン・マセソン商会

JM商会のアヘン戦争への関わりについては、様々に記載されていますが、下記の鳥居民著の「横浜山手 日本にあった外国」(p30-33から抜粋)にある描写は、当時のJM商会の姿がよく表れているので紹介します。

  「ジャーディン・マセソンは広東で中国貿易に参加したが、ここでの貿易は長崎の出島に劣らない厳しい束縛があった。外国商人が広東の狭い居留地にとどまることができるのは、9月からつぎの年の3月までだった。4月になると広東を退去しなければならず、ポルトガル領のマカオヘ行き、9月までそこで待たねばならなかった。
  ところでこれらやくざな商人たちはいつまでもおとなしくしていなかった。かれらは広東の高級官吏を抱き込んで、マカオの海上20マイル先の小さな島に倉庫を置くことを認めさせた。ジャーディン・マセソンはこの密輸基地にカルカッタから木綿製品、そして大量の阿片を運んできた。
  阿片はインド政府がつくり、定期的に競売した。ジャーディン・マセソンはこれを密輸基地に運び込み、中国人の密輸業者に引き渡した。この儲けでかれらは中国茶を買い入れたのである。(筆者注:中国茶はイギリスで非常に売れた)
  ジャーディン・マセソンは積極的に阿片を売り込んだ。1833年に阿片を満載した武装快速船を中国沿岸へ向かわせた。このときに通訳として広東語のできる牧師を乗せた。この牧師が阿片の売りさばきをつづける6ヵ月の間に、聖書を配布し、キリスト教の布教に努めたのは、不思議であり、皮肉でもあった。(中略)
  ジャーディン・マセソンを筆頭とする英国商社のあくなき貪婪さが、英国と中国のあいだの戦いの原因となった。ジャーディン・マセソンやその他の商社は外相パーマストンに強硬手段をとるように訴え、戦いの目的からその計画までを助言した。戦いがはじまるとジャ―ディン・マセンンは軍隊をインドから輸送するのに自社の阿片クリッパー(快速船)を貸与した。さらに船長を水先案内人にして操舵輪を握らせ、雇い人を通訳として、上陸した軍隊の先頭にたたせた。
  この戦いの結果、英国は香港を獲得し、ここが英国商人の新しい通商基地となった。さらに中国沿岸の港が開かれ、ジャーディン・マセソンや他の有力商社は上海、マカオ、その他の港に新しい支店を拡げ、各港を結ぶ航路網をつくった。」

5.開港当初の生糸取引

商人鑑札
英一番館の商人鑑札 横浜市中央図書館所蔵
「元治元年三月中より、壱番英国商人ライトル方?傭人・・・」
と読むのか。「横浜町会所」と読める焼印のようだ

 横浜の生糸取引で最も早い時期に日本商人として名前の挙がっているのは、芝屋清五郎、甲州屋忠右衛門、中居屋重兵衛などの売込問屋でしたが、その売込先だったのが、JM商会のW・ケズウィックと番頭バーバーであり、また、デント商会のロレイロと手代ハシャウ(買弁)でした。これら二大商会が開港当初の横浜における生糸取引をほぼ完全に牛耳っていたのです。とくに横浜での始めの1年は、生糸仕入をなしうるのは、巨額の洋銀を満載した船を次々と横浜へ送り込む実力を有する巨大商社でした。貿易開始直後の横浜生糸価賂が世界市場の価格水準と比してきわめて低かったのは、JM商会が、その独占的地位をフルに活用しつつ低価格を押しつけることに成功していたからでした。

しかし、生糸取引で儲けようと中小商人が続々と進出し始めたことにより、仕入原価の上昇と売上価格の低落のために、利益率は急落していきました。特に、横浜での仕入原価が、しだいに上昇していったことが問題だったので、JM商会は1860年新糸季節から、前貸しによる産地買付という方式を、巨大な資力を背景に開始しました。上海店の生糸仕入は太平天国の乱の影響もあり、不振だったために、横浜店の資金前貸しは、他の外商に先かけて大規模に展開されました。上海支店からは、横浜に向けて次々と洋銀が送られ、日本商人に前貸しされました。

<高須屋事件>

JM商会の前貸しによる産地買付を担当した日本商人は何人もいましたが、その代表格でもっとも多額の前貸しを受けたのが生糸売込問屋高須屋清兵衛でした。ケズウィックが書簡で、高須屋のことを「身分のある人」と呼んでいるのは、おそらく「豪[郷]士」の出であることを指していたらしいし、また、「横浜中でもっとも立派な商人」としている点からみると、開港後1年間に芝屋・中居屋らとともに急速に蓄財した人物のようでした。高須屋は、生糸産地の中心である上州から奥州にかけて仕入活動を展開し、大量の生糸を相対的に“浜売り”よりも安く提供したのです。こうして、W・ケズウィックが横浜店を離れる1862年5月中旬までは、高須屋への前貸金もほぼ順調に回収されたのでした。

ケズウィックに代って、1862年5月下旬からS・J・ガワーが横浜店の担当になったのですが、その年の12月ごろから、産地よりの入荷が停滞しはじめました。翌年2月に入ると、高須屋から9日の1万ドル分を最後に以後ばったりと入荷が途絶えてしまい、肝心の高須屋が姿を見せなくなってしまったのです。ガワーは、高須屋が奥州で病気になったという店員の言葉に一縷の望みを托しつつ待ったのですが、その期待は裏切られ、5月にはイギリス領事ヘ訴えでることとなりました。上海からはケズウィックが事情調査に訪れ、高須屋への貸金残高が約9万2000ドル(現在の20億円以上か)であることを調べ上げました。

JM商会からの巨額の前貨しを受けつつ一挙に最大級の売込問屋にのし上った高須屋の弱点は、おそらく「忠実勤勉な」番頭格の人物を欠いていたことにあったようです。やや後になってからガワーは、「高須屋の横浜代理人は数多くの浪人達とつき合いがあり、主人を破滅に追い込む程の多額の金を盗み出し、山地へ逃げていった」という話を番頭から聞かされたと記しているが、その真偽はともかく、高須屋の業務が拡大すればするだけ、貧弱な店員組織ではやっていけなくなったのでした。

こうした事件を発生させたのは、幕末貿易というものの背景がありました。通商条約で、日本側には関税自主権がなかった代りに、内地通商権否定条項により、外商側には国内旅行権が認められていませんでした。それ故、日本商人への前貸しを介してひそかに行われる産地買付は、国内旅行権をもたない外国人が実質的にそうした禁を破る手段として編み出した方式でした。外商側からすれば、内地はブラックボックスのような暗黒地帯であり、そこへ巨額の前貸金を与えた日本商人が奥深く入り込んだあと、彼等が仕入れた高価な生糸とともに戻ってくるまでの数ヵ月というものは、通信手段も未発達の当時のこと故、ひたすら信じて待つしかなかったのです。かりに国内旅行権が認められていたならば、自ら産地買付に赴くか、または買付状況の実情把握のために視察に行くことで、前貸金の行方不明を防ぐことができたでしょう。この点は、天津条約(1858年)において外商の国内旅行権が認められた中国の場合とは大きな違いでした。
   初期の売込問屋の多くは、自ら生糸買付に産地へ乗り込んでいっており、巨利を博することもあった反面、損失を蒙ることもあり浮沈が激しかったのです。 (次回Part2へ続く)

参考文献:
 「横浜山手 日本にあった外国」 鳥居民/著 草思社 1977.6
 「近代日本とイギリス資本 ジャーディン=マセソン商会を中心に」 石井寛治/著 東京大学出版会 1984.6
 「ホームズ船長の冒険 開港前後のイギリス商社」 杉山伸也/訳 H.ボールハチェット/訳 有隣堂 1993.11
 「近代中国とイギリス資本 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に」 石井摩耶子/著 東京大学出版会 1998.2
 「香港 アジアのネットワーク都市」 浜下武志/著 筑摩書房 1996.9

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