横浜歴史さろん

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お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。

ペリー来航経路

お知らせ

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  • コバテル先生講演会「開国日本と横浜 Part 2」(1月20日開催)のチラシを掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その1」掲載しました。
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  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 4) パーマーと横浜港の改修築事業 ~パーマー計画案採用の背後に外相大隈重信の決断が~」を掲載しました。
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  • トップ特集「明治時代に活躍した“元祖 外タレ”快楽亭ブラックの人生」 掲載しました。
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  • 仲間・施設ページに「“郷土とつか”を、見て、知って、楽しむ、『戸塚見知楽会』」の紹介記事を掲載しました。
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    前回掲載の特集と紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
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ペリー提督
 ペリー提督

特集  開国日本と横浜 ―黒船に乗ってペリーがやって来た!― その1

コハクチョウ

ペリーは突然やって来たわけではない。その前ぶれ的な出来事は、それまでにいくつも起こっていたが、いずれも幕府の鎖国政策ゆえに追い返されていただけのことだった。だから今度は違った。それが「砲艦外交」といわれる所以である。当時の世界情勢を振り返れば、これは必然であり、ペリーは他の列強国の様子も注視しながら、しっかり準備してやってきた。

1.米国政府 ペリーを遣日使節に任命

マシュー・カルブレイス・ペリーMatthew Calbraith Perry, 1794年4月10日~1858年3月4日)は、太平洋捕鯨業の一中心となったアメリカ、ロードアイランド州のプロヴァンスやニューポートなどで育った。ペリーの父も兄も海軍軍人だった。彼は多才な方面にわたって偉大な功績をあげていたが、特に、蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたり、「蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)」と称せられた。大変家族思いだったようだ。2017年5月20日の毎日新聞地方版に、静岡県下田市の「第78回黒船祭」(平成29.5.19~21)に、ペリーから6代目と7代目の子孫が訪れた、と報じられている。

フィルモア大統領
フィルモア大統領

当時の共和党のフィルモア大統領は、日本訪問の任務について、1851年11月ごろ当時の東インド艦隊司令長官代将オーリックに命じて、日本政府と談判を開始させようとしたが、彼が事情によりその職を去ったので、ペリーに引き継がせることになった。ペリーは使命を遂行するには、広範な権限が必要とさらなる権限を要求した。1852年3月24日、東インド艦隊司令官および遣日米国特派大使を正式に兼任することとなった。このときペリー58才。
 早速、日本に関する海図、著書を集め、日本近海を航行した船長に海流や地勢などを聞き調査、貿易業者にアジア貿易の状況を聞き、科学者などにも遠征に参考となるべき意見などを聞いた。当時、同行を熱望したシーボルトなどに対しては、海軍上、外交上としては必要ないとして拒否している。

当時のアメリカの為政者たちが、どれだけ日本を理解し、どのように対応していくべきかを画策していたかは、1852年11月5日付の陸軍長官兼国務長官代理コンラッドから海軍長官ケネディ宛の訓令(ペリーに回訓)の内容に、適確に表れている。(以下要約であるが、かなり長い)

「・・・日本の鎖国政策は厳重に行われおり、外国船舶は遭難にさいしてもその諸港に入ることを許されず、遭難した自国民にたいしてさえも親切な待遇は許されていない。・・・本艦隊司令長官(ペリーのこと)は、(1)日本諸島沿岸において遭難しもしくは台風のためにその港に避泊するアメリカ船員の生命財産を保護するために、日本と永久的な協約を成立させること。(2)アメリカ船舶が薪水・食料を補給し、または遭難のばあいにはその航海を続行する必要な修理をするために、日本国内の一港または数港に入る許可をうること。(3)アメリカ船舶がその積荷を売却もしくは交換の目的をもって、日本の一港または数港に入る承諾をうること。
 これらの目的を達成するには、過去の経験によれば、日本国民にたいする議論や説得は、もしもそれが堂々たる兵力の示威に支持されるのでなければ、まったく無益であることは明白である。それゆえ、司令長官は、日本沿岸においてもっとも適当と思われる地点に全艦隊を集め、そこにおいて日本政府との交渉を開始する。もしできれば日本皇帝(将軍のこと)に謁見して大統領の親簡を棒呈(ほうてい)する。そして二国間の重要問題について日本政府と交渉するよう大統領に委任されてきたことを伝え、大統領は日本にたいしては好感情を懐いているが、日本の領海に自ら出漁し海難にあって漂着するアメリカ人があたかも最悪の敵のように待遇されるのを聞き、驚愕しかつ遺憾としている旨を、特にモリソン、 ラゴタ、 ローレンス事件を引用して述べること。(事件の概要は右欄下方に、スマホでは最後に掲載)
 アメリカ政府は日本政府にたいして今後日本沿岸で遭難しあるいは台風をさけて港に避泊するようなアメリカ人には人道的な待遇をするという確たる保証を要求し、さらに両国間のいっそう拡大された通商関係樹立のための契約を結ぶことを希望する旨を伝える。
 また日本国民はキリスト教を嫌忌するゆえ、米国政府はほかのすべてのキリスト教国家とは異なり自国はもちろん他国の宗教には干渉しない旨を表明すべきである。さらに日本国民は英国が東洋を征服しまた最近のシナ侵略の事情について聞知していて、対英恐怖を増加しているようである。アメリカ人は英国人と言語を同じくするので、混同されるのも当然であり、事実前述の遭難海員にたいする苛酷な待遇はそのために生じたふしもある。それゆえにペリーはアメリカがヨーロッパの政府とは何ら関係のない点を説明し、いまやアメリカは太平洋岸にも大都市を有し、蒸気船を利用すればそこから日本まで20日間で到達でき、その商業は世界のあらゆる方面へと急激に増大している。日米間は日毎にますます接近しており大統領は皇帝(将軍)と平和的友好的共栄を望んでいる
 しかし、あらゆる言語と勧誘の手段を尽くしてなおかつ日本政府より鎖国政策の緩和およびわが遭難海員にたいする人道的待遇の保証すら獲得できないときは、その態度一変してもっとも明白な言葉で、今後も米国遭難海員にたいするそのような非人道的な待遇が行われるばあいには、断固として膺懲(ようちょう)すべき旨を通告する。もしもこの点について何らかの譲歩を獲得したばあいには、条約の形式で取決めておくことが望ましいのである。
 また条約を起草するさいの参考に資するためにシナ・シャム・マスカット(オマーンの首都)との条約の写本を携行しそれを日本国に翻訳しておく方がよい。それはシナにおいてできよう。
 長官は日本人にその国力と偉大さとを印象づけ、いままでのわれらの忍耐が臆病のためからではなく、有効的条約国たらんとの希望に基づくものなることを知らしめるべきである。しかし、いかに細部にわたり訓令しようともこの如く特殊新規なる使命を遂行するにあたっては、不慮の事態全般について訓練することは不可能である。この理由のため、と同時に艦隊の行動地域がはなはだ遠隔地であるという理由によって、長官に広汎なる自由裁量権を付与している。オランダ政府は出島商館長にたいして、権限の及ぶ限り手段を尽して遠征隊の成功を促進させるよう訓令を与えたよしである。・・・」

上記の訓令が用意周到にして微細をつくし、その情勢判断の正確なことには驚かされる。本国を出航してから日本と条約を締結するにいたるまでのぺリーの行動は、すべてこの訓令のうちにもられているといえるだろう。そしてペリーは、これを忠実に遵守し、遂行したのである。

1852年11月13日付の海軍長官ケネディからペリーへの訓令は、より具体的な内容となっている。「・・・確固たる決意と十分な分別に基づき、自由裁量権を行使して全艦隊を指揮し、その目的達成に邁進する。日本沿岸とその周辺の大陸、諸島を探検し、海図の作成に資する水路測量の諸情報を収集する。艦隊の諸状況を一切印刷物・新聞に投稿することを禁じる。私文書に書いてもいけない(列強の干渉妨害を排除し、艦隊の機密事項を外部漏洩させないため)・・・」

ペリー自身は、自分の意図するところは、中国貿易におけるイギリスの優位に対抗できるようアメリカと中国とを結ぶ商業通路にあたる日本港湾の獲得であると海軍長官宛の書信(12.14付)で表明している。

ミシシッピ号
ミシシッピ号

2.ペリーいよいよ日本に向けて出航

1852年11年24日旗艦ミシシッピ号はノーフォークより出航してアメリカ本土を離れ、石炭と飲食料の供給上、西回り航路をとって、マディラ・喜望峰・モーリシャス・シンガポールを経由する意図を抱きつつ日本へと向かった。(ペリーの来航経路はトップ画像を参照)12月12日最初の補給港たるマディラに碇泊。ここに碇泊中石炭4、500トン・水1万ガロンそのほか多量の物資が船積みされ、15日に出航した。当時、汽船を動かすには石炭が必要であり、それを保管する貯炭所がいかに重要かを、このペリーの航路をみていくとよく理解できる。

12月22日と23日に艦隊海員へ命令書をだした。前者は海軍長官の訓令に基づき、艦隊の行動に関する一切の通信を禁じ、その私記および日記も海軍省の許可を得るまでは政府に属すべきものであることを命じた。後者は艦隊乗組士官は勤務の余暇を割いて航海中観察する科学および芸術についての諸問題のうち、自己に適当と思うものを選択し資料を収集して調査研究に従事すべきことを命じた

1853年1月10日セント・ヘレナに到着。石炭・水・食料品を補給して、翌日喜望峰に向い、1月24日ケープタウン到着、再び石炭・水・食料の供給をうけ、2月3日ケープタウンを出航する。本国を出向する前に契約した本国の商社の石炭を積んだ二運送船を、それぞれ喜望峰とモーリシャスで待機させた。2月18日英領モーリシャスに着し、前記の石炭約500トンそのほかを積込み、28日セント・ルイ(モーリシャス)を出航する。インド洋を航行し、3月25日英領シンガポール港に着した。自由港となった同港には世界各国からの船舶が集合しており、また定期航路の主要港であった。イギリスにとっては商業上・軍事上・地理上もっとも重要な拠点であり、揚場・石炭置場・倉庫作業場そのほかの建物を含む壮大な貯炭所が設置されていた。だが、購入しうる石炭は1ポンドもなかった。ペリーは、香港で返却するのを条件として、230トンを貸与してもらうことができた。3月29日シンガポールを出航した。

●大統領交代、政府の外交政策が一変していたが・・・

ピアス大統領
ピアス大統領

そのころ本国では大統領選が行われ、共和党のフィルモアから民主党のピアスへ大統領が交代(1853.3.4)した。国務長官にマーシイ、海軍長官にドッピンが新たに任命された。新政府は前政府のごとき積極的外交政策を認めず、遣日艦隊についても、はじめ同艦隊に編入を予定されていた戦列艦や汽走船の派遣は中止されることとなった。だが、この間の事情を訓令した新海軍長官ドッピンの書簡を受け取ることなくペリーは日本に向かった。琉球・小笠原を訪ねたのち、第1回の訪日によって浦賀で日本側に国書を手交し、帰途ふたたび琉球訪れ、8月7日に香港に到着するまで、ペリーは本国政府の方針が一変した事情を知ることなく、当初の予定に従って行動したのである。

サスケハナ号
サスケハナ号

1853年4月7日香港に投錨した。同港には既に帆走艦プリマス号・同サラトガ号および運送艦サプライ号が先着していた。しかし政府よりペリーの旗艦に指定されていた汽走艦サスケハナ号が、中国駐在米国公使マーシャルの請求によりその随員とともに2週間上海に向かい不在であったことは、ペリーをひどく失望させた。当時中国は江南一帯太平天国軍の手中にあり、上海もまた危機にあったので、アメリカの利権を保護するために派遣されたのである。しかしペリーの到着寸前のことでもあり、ペリーは政府の訓令に基づきマーシャルと共に中国問題について協力しようとしたときに、このような専断が行われたので、いたく憤慨した。この事件以降ペリーとマーシャルとは中国問題そのほかの情勢判断において著しい意見の相違をきたし、その後も衝突は続いた。

ペリーは、遠征隊の通訳として任用した宣教師ウィリアムズを迎えるために、ミシシッピ号にてマカオ・広東を歴訪し、5月4日上海に到着した。5月23日旗艦サスケハナ号に坐乗し、ミシシッピ・サプライ・カプライスの三艦を率いて上海を出航し琉球に進路をとった。航海中、乗組員は定期的に戦闘準備として必要な演習全部を行った。5月26日那覇に到着

6月6日ペリーは琉球国王を首里に訪問した。琉球滞在中、石炭補給のためカプライス号が上海に派遣された。6月9日ペリーはミシシッピ・サプライ両艦を那覇に留め、サスケハナ号に坐乗しサラトガ号を従えて出港し、6月14日小笠原諸島の一つであるピール島(父島)内のロイド港(二見港)に到着した。再び探検隊が選抜され踏査が開始された。当時同島にはアメリカ人サヴォリー以下31名の居住者がいた。彼らは野菜・果物の収穫をあげ、また豚・家禽を飼育していて、これらは水そのほかを求めて頻繁にこの港に寄航する捕鯨船に売却された。これらは普通船積みの品物と物々交換されていた。ペリーは居住者の代表者サヴォリーよりロイド港内の土地約165エーカーを買収し海軍貯炭場設置の用地とした
 小笠原偵察を終えて一旦那覇に帰航すると、琉球ではペリーの不在中に政変があった。そこで新任の大臣を旗艦に招き交渉の結果、ついに薪水・食料の給与・貯炭所の設置などの目的を達した。サプライ号一艦を那覇に留めて琉球政庁を厳重に監視させておいて、日本訪問の準備が整ったペリーはいよいよ江戸湾に向かうことになった。
 7月2日ペリーの旗艦汽走船サスケハナ号以下汽走船ミシシッピ・帆走船プリマス・帆走船サラトガの4隻は那覇港を出発した。最初12隻の大艦隊が予定されていたが、本国政府の方針一変したため後発諸艦の来着するものなく、劣勢の艦隊となったが、それでも全力を挙げて江戸湾に向かったのである。日本に到着後いかなる事態にも対処できるように、航海中の規則的かつ厳格に全乗組員を部署につけて調練し、大砲や小銃の操練を行った。

3.黒船あらわる、そして国書の授受

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)艦隊4隻は伊豆沖を通過し、浦賀鴨居沖に投錨した。風に抗して進む快速の汽船に乗じたペリーの来訪は、黒船来航の報となって日本全国に伝わり、人心に大きな波紋を投じた。このとき浦賀奉行は戸田氏栄(うじよし)(伊豆守)と井戸弘道(石見守)で、その命により支配組与力香山栄左衛門、中村三郎助、和蘭小通詞堀達之助がもっぱら交渉にあたった

ペリー上陸記念碑
横須賀市久里浜にある「ペリー上陸記念碑」
1901年(明治34年)7月14日に除幕。碑文の揮毫は伊藤博文

浦賀鴨居沖に投錨したペリー艦隊の回りを日本の監視艇が取り囲み、艦隊を長崎に廻航するように申入れた。しかし、ペリーの断固たる強硬な態度により、包囲していた日本船は即時撤収された。日本の最高官位であるもの以外とはみずから折衝せずとの方針を堅持して、海軍中佐ビュカナン・同アダムズ・海軍大尉コンティらを指揮して交渉させた。外国側通訳は和蘭語はポートマン、中国語ウィリアムズである。アメリカ艦隊来航の理由を説明し、日本国皇帝(将軍)宛の大統領親書を、浦賀付近の地点において、日本国政府がその受領を信任した高官に手交することを主張した。艦隊はたえず完全に戦争の準備がなされ、戦時中と全く同様に乗組員は徹底的に訓練された。江戸湾内の測量は連日行われ、ペリーの要求は漸進的に貫徹されていき、幕府当局もついにアメリカ国書受理を決定するのやむなきにいたった。

嘉永6年6月9日(1853.7.13)久里浜応接所において、国書の授受は平穏のうちにも厳粛に行われた。ペリーは大統領より日本皇帝宛親書、ペリー全権委任状およびペリーより日本皇帝宛信書2通をそれぞれ、蘭訳分および漢訳文を添えて一括して、幕府より全権を委任された浦賀奉行戸田氏栄・井戸弘道に手交した。日本側より受領書が手交され、久里浜応接所における国書受理の式は終わった。大統領の親書はペリーが本国を出発するさいに国務長官から受けた訓令とその内容はほぼ同じである。大統領がペリーに与えた信任状には、日本政府の代表と会見し、日・米両国の友好・通商・航海に関する協定または条約を締結する全権を委任する、と記され、ペリーの書簡には、「今回の来航は友好的意図なることを証明するために、比較的小なる船艦わずか4艘を率いてきたが、必要とあれば来春いっそう大なる艦隊を増遣して江戸へ帰航すると計画している」と記してあり、もう一通は、来春までその回答を延期するとのものであった。
 ペリーは帰艦するとともに即刻抜錨したが、進路を変じて江戸湾深く進航した。幕府は大いに驚き、香山栄左衛門をして、その退去を要求せしめた。艦隊は江戸の町を望見しうる地点に進み、来るべき談判にはいっそう有利にその要求を貫徹させるため幕府を威嚇した。ペリーはその目的も十分に達したとして、一たん金沢沖(小柴沖・アメリカ錨地 American anchorageとペリーに名付けられた)に退泊し、その間も江戸湾内の西側の測量を継続した。7月17日4隻の軍艦は江戸湾を退去し、琉球に向かった。この8日間の江戸湾での滞在中に、ペリーはいまだかつて外国人がなしえなかった重要な成功をおさめることができたと満足したのだった。

立ち姿のペリー
立ち姿のペリー

4.次の訪日までのペリーは

7月25日ペリーは那覇港に着した。翌日ただちに琉球政府と折衝をはじめ、第1回訪問のさいに要求してあった条項の審議で、(1)貯炭所として適当な建築物の借入れもしくは新築、(2)米艦隊乗組将兵の上陸時の密偵吏の監視・尾行を廃止すること、(3)市場における交易の自由と艦隊必需品購入の特権を付与すること、の3条件を要求した。琉球政府は、同島が生産物に乏しく弱体であるとの理由により要求を拒絶しようとしたが、ペリーはその拒絶をはねのけ、強硬政策をとり、首都首里を占領すると威嚇した。琉球当局はついに屈して、その要求すべてを承認するにいたった。貯炭所の建設は直ちに着手され、石炭500トンを収容できるもので、賃貸料は一か月10ドルと取決められた。

本国政府はペリーの行っているような占領的政策を絶対をに認めず、その都度中止の命令を発したが、いまだペリーの手許に届かず(当時は手紙が届くのに3か月くらいかかった)、したがって琉球および小笠原諸島にたいするその方針を改める必要を知らずに第2回訪日を決行した。ペリーが政府より両島占領中止の命令を受領したときは、既に日米和親条約の締結をみたのちであったので、もはやそれを占領する必要もなくなったのである。
 プリマス号を那覇港に止めて、貯炭所の建設、港湾の測量にあたらしめ、さらに機をみて小笠原諸島父島の二見港に航してその後の状況を偵察し、また新たに母島を探検すべきことをも命じて、8月1日香港に向かって出発した。本国での事情をいまだ知らぬペリーは、香港へ航行する洋上より海軍長官に報告して、避泊港設置のために、琉球政府とあらゆる手段を尽くして交渉し既に相当の成果をあげたことを伝え、また二見・那覇両港の測量図も既に完成し、さらに艦隊を江戸湾の奥深く進出せしめるに必要な水路図作成に関する諸資料も蒐集した旨を報じた

航行中本国からの増遣艦隊のうちの蒸汽鑑ヴァンダリア号と遭遇し、艦長ホープ中佐よりポーハタン号もまた増遣され香港に到着したことを伝えられた。8月7日艦隊は香港に着し、ここにはじめて新任海軍長官ドッピンの命令を受領して本国における政局の一変した事情も明らかになった。
 8月18日広東在住のアメリカ商人は連署して太平天国の乱の容易ならざるむねをペリーに訴え、生命財産の保護のため軍艦ミシシッピ号の広東派遣を懇請した。ペリーもこれにたいして、つぎの行動に移るまで当地において米国民の生命財産を保護することは本官の義務である、といってミシシッピ号の派遣を快諾した。9月2日付で海軍長官に宛て、艦隊は次期作戦までそれぞれ配置につかせてあり、生涯をかけての大目的で完遂するために、本国政府もその方針を変更することのないよう望む、と要請した。

5.関係列強への大いなる懸念

ペリーが第2回の訪日を来春と声明したにも関わらず、予定を早めて1月という厳冬に決行するにいたった理由は、ペリーの渡航をめぐる列強の動向に関わっている。先にペリーは第1回日本訪問を終えて中国に帰艦すると、広東駐在米国領事より、プチャーチンの率いるロシア艦隊がペリーの不在中1853年6月広東に到着し、領事と会見して、ロシア政府の訓令に基づき、ペリーと協同動作をとるべき旨を提案したとの報告を受けた。しかしそののちプチャーチンは広東を出港してその消息を絶っていたが、なんとこの間、プチャーチンは3ヶ月以上も長崎港に滞留していた(ペリーの江戸湾退去の約一か月後の8月11日より11月23日まで)、同様に条約の締結を幕府に迫っていたのだった。しかしこの頃、露土戦役が勃発したため、幕府からの回答を一応保留にして、ヨーロッパの情報を探索する一方、日本の開国を促進するためペリーに協同動作を提議しようと再び上海に来た。しかしペリーはこの申し入れを断然拒絶した
 ロシア艦隊についで、同じ頃のフランス艦隊の不可解な行動もペリーを著しく刺激した。ペリーは仏露両国艦隊が協同して江戸湾に進入し、アメリカ艦隊の行動を牽制するのではないかと疑った。あるいはまた、両国のいずれかがいっそう有利な地歩を獲得するかもしれないと懸念した。さらに、イギリスが小笠原は自分たちの領土であると主張しだし、貯炭所建設は問題があると言ってきたので、その協議にもあたらなければならなかった。
 このような危い状況下において、期待していた日本政府への贈答品を積み込んできた運送船レキシントン号も12月にいたって到着したので、春に予定していた時期を早めて日本沿岸においてもっとも危険と称せられていた厳冬の季節にもかかわらず、第2回日本遠征を決行することとなったのである。
 1854年1月14日香港出航、1月20日那覇に入港した。この那覇滞在中に、上海からサラトガ号が来航し一通の公文をもたらした。オランダ東インド総督トウィストよりベリーに宛て、日本政府が将軍家慶死去のために回答の延期を希望する旨を記した(1853.12.23付)ものだった。それに対して、ペリーは1月23日付で拒絶の回答をして、いよいよその決行の覚悟を新たにした。ちなみに、家慶が死去したのは、ペリーが江戸湾を去った10日後の1853年7月27日(嘉永6年6月22日)であった。

6.第二回来航 応接所決定まで

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安政元年1月16日(1854.2.13)ペリーは旗艦汽走艦サスケハナ号に乗じ、汽走艦ポーハタン号、同ミシシッピ号・帆走艦ヴァンダリア号、同マセドニアン号、特務艦レキシントン号の6艦を率いて江戸湾内に進み、前回国書授受の地であった久里浜を通過して直航を続け、午後3時小柴沖(American anchorage・アメリカ碇泊所)に到着して、先着の帆走艦サザンプトン号と合した。
 米国艦隊が投錨するや、浦賀奉行の命により支配組与力2名は通詞を従え、ポーハタン号上にペリーの指示を受けた艦隊参謀長アダムス以下と会見し、浦賀に廻航するよう促したが、同地は海波荒く碇泊に適せずとの理由をもって即時拒絶せられ、明日の協議を約して退艦した。米国艦隊江戸湾進入の警報に接した幕府は、直ちに諸藩に令して江戸内海の警備につかせた。また、アメリカ特使応接掛として、儒者林韑(あきら)(大学頭)、大目付井戸弘道(石見守)、浦賀奉行伊沢正義(美作守)、町奉行井戸覚弘(さとひろ)(対馬守)、目付鵜殿長鋭(民部少輔)、儒者松崎満太郎を任じ、浦賀においてペリーと応接すべき命を下した。
 黒船あらわるとの警報に接した浦賀奉行は、相州浦賀より武州神奈川間に令して、異国船碇泊の場所へみだりに接近することを禁じ、かつ浦賀に出入りする旅人を厳重に取り締まらせ、このたび渡来の米艦は平穏であるから心配なく平常通り家業に従事すべき旨を一般に告知した。

◎日米のやり取りはややこしいので表にしました。
日本・幕府 アメリカ・ペリー
安政元1.17
1854.2.14
浦賀奉行支配組頭黒川嘉兵衛・徒目付平山謙二郎は、支配組与力中島三郎助佐々倉桐太郎・和蘭小通詞堀達之助・同小通詞並立石得十郎を従えてポーハタン号を訪れたが、ペリーは病と称して会わず、アダムスと会見し、早速応接地点について正式に交渉を開始した。
 黒川はまず応接地として鎌倉あるいは浦賀を提議した。

鎌倉はこのたびマセドニアン号が座礁した事実もあり、浦賀も海波荒く安全ではなく、いずれも艦隊錨地に甚だ不適当であるとして同意せず、アダムスはペリーの指示に従い浦賀・江戸間における適当な地点、しかも江戸に接近した地点を要求した。国家間の交渉は首都で行うのが慣習であると主張した。 なお当日海軍大尉モーリー指揮下に測量隊が組織され、江戸湾の測量を開始した。
安政元1.18
1854.2.15


安政元1.19
1854.2.16
黒川嘉兵衛が再びアダムスを訪問し艦隊を浦賀へ移動すべきと交渉したが無効に終わったが、そのさい薪水食料などの供給を申し出た
米使応接掛一行は19日浦賀に到着し、両浦賀奉行と協議した。


アダムスこれを辞退し、合衆国海軍は供給物にたいしてはすべて対価を支払うべき旨を回答した。
翌日も会談は不調に終わった。
安政元1.21
1854.2.18
黒川嘉兵衛らを遣わして、米使応接掛の浦賀到着をペリー側に通告し、浦賀を交渉地とすることを全権の名をもって提議した。 たいしてペリーは、アダムスを介して交渉地問題に関する文書を手交し、「各国の慣例に従って江戸において会見することを期待し…江戸に向かってさらに遡航しいっそう安全なる碇泊地を求めんと期する」と。
旗艦がサスケハナ号からポーハタン号に移された。


幕府は人心に与える動揺をもっとも恐れたが、品川より海辺通り・神奈川・本牧・金沢・浦賀辺り一帯はすべて平常と異なることなく、物価の高騰も見られなかった。
アメリカ艦隊は端艇によって連日江戸湾を測量し、示威行動をとり1月21日(2.18)にはサザンプトン号1艦を増援に繰り出し湾内深く進入させ、測量艇の本艦隊へ帰還する労を省いた。ついにその端艇は本牧辺りまでも進入した。一方で、乗組員が夏島に上陸するなどのことがあった。
安政元1.22
1854.2.19
黒川嘉兵衛は応接掛の命を受け、交渉地として浦賀以外の地点は絶対に応じられないと通告した。 アダムスは、昨日のペリーの要求にたいして明白な返答が得られぬ場合はペリーに覚悟のあるむねを断言した。
安政元1.23
1854.2.20
黒川は首席委員林よりペリー宛公文を手交し、「将軍は貴官に最高の栄養を与えるべき本職を浦賀に派遣したのであるから、外国の慣例に捉われることなく浦賀にて協議することを望む」と自説を曲げることがなかった。
ペリーも、やや妥協的態度を示し、アダムスを浦賀に派遣して日本全権と協議させる
こととなった。また来たる25日(2月22日)はワシントン記念日であり礼砲を発射すると通告した。
安政元1.24
1854.2.21
安政元1.25
1854.2.22


米使応接掛伊沢正義(美作守・浦賀奉行)、鵜殿長鋭、松崎満太郎らはアダムスと浦賀屋形仮館において会見した。かさねてペリーの書簡を受領し、さらに艦隊の内海退去および応接地のことを協議した。

日本側が、応接所は鎌倉久里浜を固持し、 かつ外人の江戸の参府が国禁であることを主張した。

ここにおいて交渉は全く停頓するにいたった。
アダムス参謀長はヴァンダリア号にて浦賀に下航したが風浪激しく上陸できず、翌25日上陸した。ペリーからの書簡は前書と同様に浦賀が碇泊地として適当でないことを強調し、また本国政府の訓令によって江戸に参上すべきことを命ぜられているから、同市にできるだけ接近することを希望するものであり、さらに大統領から将軍への贈進品の展覧にも便にして、顕官たちにより汽船・機械などを見聞する光栄を得るためにも江戸に近接することの便利なことを述べた。 アダムスは、日本にも参府の古例があることをいい、浦賀応接よりさらに進んで江戸応接を固持しはじめた。

小柴沖碇泊のアメリカ軍艦7隻よりワシントン記念日の祝砲各艦16、7発ずつ計100発以上も発射され、その轟音はいんいんと江戸湾を圧した。応接掛は交渉の打開を図るために、第1回渡来のとき活躍した浦賀奉行支配与力香山栄左衛門を再起用し、交渉の任にあたらせた。

安政元1.26
1854.2.23
黒川嘉兵衛はまた浦賀沖碇泊のヴァンダリア号にアダムス訪ね、浦賀応接を切り出した
 香山もまた来て旧交をあたためて交渉するも決まらない。
アダムスは屋形浦は貢献物陳列には狭小すぎるとして、江戸表が都合悪ければ、品川・川崎を望むといい、金沢・神奈川辺りにも適地あると主張した。
安政元1.27
1854.2.24
またペリー長官の公文にたいする応接掛の回答を提出した。これまた浦賀仮館にて応接せんことを求めるものであった。
 米使応接掛林らは、27日小柴沖の全艦隊北上の警報に接して周章その極に達し、ここにいたりペリーの要求を入れ、ただちに与力香山栄左衛門に命じて、応接地は神奈川付近をもって適宜選択すべき権限を授け、艦隊を追跡せしめた。香山は即刻押送船を漕ぎ出したが波荒く、その夜は富岡村に上陸一泊。
アダムス参謀長は、これを最後通告とみなし、浦賀を出航して小柴沖に向かった。

ペリーもアダムス浦賀派遣により好結果を期待せず、ついに幕府にたいして威嚇的行動をとるに決した。
すなわちこの日アダムスの帰還を待たずして6艦に抜錨を命じ、江戸湾を北上してその艦隊を生麦・大師河原沖間に進め、ここに碇泊し、翌28日には羽田沖に進んで測量行った。
安政元1.28
1854.2.25
早朝陸地より本牧いたり、本牧沖に仮泊中のポーハタン号にアダムスと会見した。香山は「御府内へ乗り入れの義は決して相ならず、万一遮って乗り入れたく候えば、この方においても遮って相と止め申すべし。異存あらば我を切って後に入るべし。…是より西神奈川在にて横浜という所あり、ここに陣屋を取り建て応接致すべし、是非是非地所一覧致すべき旨」と掛け合った。
たいしてペリーも、この地(横浜)があらゆる点すなわち江戸に近く、海岸から接近して安全かつ便宜な碇泊地があり、贈呈品の陸揚げ、陳列に十分な余地のあるなどの好適地であるとして、直ちに了承。その地の視察を命じた。
同じく
安政元1.28
1854.2.25
後日違約のないように双方立会いの上で村方に命じて杭を取り寄せ、横浜村北の端の字駒形の地に杭を打ち込んで応接地の目印とし、薄暮にいたってようやく決着を見た。香山は同夜浦賀に着し、応接掛に逐一報告し、応接掛一同は直ちに神奈川宿に移転となり、翌29日暁浦賀を発して夕方神奈川に到着した アダムス・ビュカナンは小舟一隻を仕立て、部下約30名を乗せ、香山は押走船に乗りこれに先導し、ついに横浜村に上陸した。これ外国人の横浜上陸のはじめである。畑地ならびに海浜の様子を見分し、その地の間数を見積もって、この地を応接地とすることを承諾した

安政元1月28日(1854.2.25)応接所を横浜と決定したとき、全艦隊を大師河原沖より横浜前面に移動させるべき旨申し入れたが、ペリー側から大船につき海底12尋(ひろ)以上を必要とすると返答があった。そこで1月29日、2月1日両日にわたり村方漁船に命じて測量させ17尋以上の水深のあることを確認した
 安政元2月1日(1854.2.27)香山栄左衛門は応接掛林らの意を受けて再び大師河原沖のポーハタンにアダムスを訪ね、応接所は所望通り横浜に決したからには即刻羽田沖に乗り入れている船もすべて神奈川沖まで返航するよう申し入れた。ペリーもこれを了承し、ここに米艦7艦すべて即日横浜沖に後退した。

ポーハタン号
ポーハタン号

7.黒船来航の多大な影響

1月28日の見分のため、横浜村中には種々噂が流布され、「日本と異国の合戦の手初めはこの横浜なるべし」とし、ことに外国人が「剣付きの鉄砲持参の事ゆえ」本船に引き上げたのちもまだ村内に潜伏するかもしれぬとし、いまにも戦争が始まるかと引っ越し騒ぎまでして戦々恐々とした
 このたびの米艦羽田沖進入の報に接した幕閣も大いに驚愕し、急使を浦賀米使応接掛に派遣して、「黒船自儘に品川辺りまでも乗り入れ、バッテイラ(端艇)にて所々乗り回し、測量等いたし候様」、このたびの再渡来の米艦は次第に江戸近海に乗り入れてくる、なんとか引き戻させるようにと命じている。また、江戸の防備の嚴修を命じた

この応接地決定まで約10日間を費やし、両者それぞれ自説を主張したが、ついにペリーの勝利に帰した。横浜応接所の建設は、このたび新築したばかりの浦賀の屋形浦仮館を取り外してその資材を用いることとなったが、2、3日は江戸湾を遡行するのにひどい逆風にあい、建築用材がなかなか到着しなかった。2月3日頃にはようやくそろったようだ。安政元年2月7日、応接所が完成した。応接掛は幕閣に向け、「応接の義は私どもえ御任せ置き下さるべく、万万一此の上横合いより掛合に及び候ては、如何様にあい崩れ候やも計り難く、此の段深く心配仕り候」と述べて、応接委任の件を再確認し、いよいよ談判にあたる覚悟を固めた。

米艦渡来による影響は随所にあらわれてきた。ことに江戸湾沿岸やそのほかに警備の任を託せられた諸藩はその莫大な費用に苦しんだ。また幕府は、米艦の碇泊によって助郷などのため宿駅・郷村の疲弊がはなはだしいことを憂慮して、2月8日道中奉行および勘定奉行に令して、その救助方法を講ぜしめている。
 しかしなんといっても地元横浜周辺の蒙った打撃は大きかった。応接地の警備にあたっていた松代藩士小林重介の上申書の一節に、「下官ども(アメリカ水兵のこと)・・・荷物の持ち運び等致し候閑暇にて、頻りに遠方までも歩行致し候間、農家へ入り、婦女を追ひ廻しなど、婦女逃げ申さず候へば抱きつき候よし、此の日も村中皆戸を閉め、隠れ居り候義に之有り候、雨天にて泥足のまま座敷まで上り候事にて、何も迷惑いたし、かつ此の節は追々潮干にも罷り越し、婦女は常に貝を拾ひ渡世に仕り候処、婦女は子供にても一切浜辺へ出で候事は相成らず、殊の外難渋仕り候旨申聞け候、是は不便の事、村々の凶荒と存じられ候義に御座候。」このため沿岸の漁民は生業を失い窮状に陥ったが、その影響は遠く相模の浦々の漁家までおよんだといわれる。

「その2」につづく

この特集記事は、「『横浜市史 第二巻』昭和34年(1959年)横浜市発行」の第一篇、第一章、第二節から第三節一までを中心に、その内容を整理して、抜粋・要約・加筆したものです。画像や補足部分はWikipediaなどから。東京湾の地図は「日本史 第59回 ペリー来航と日本の開国」http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp59.html にあったものに加筆させていただきました。

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