お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
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これからたくさんの面白い情報を載せていきます。
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ジャン・ヨコハマ(佐野純一)
取材・編集:わたなべとしこ
横浜中華街の歴史は、横浜開港とともにやって来た清国人たちが、その後、外国人居留地の一画に集まって住み始めたことに始まり、160年以上を経た現在にまで続いています。横浜市民はもとより、多くの観光客で賑わう横浜中華街は今もっとも「街づくりで成功した街」と言えるのではないでしょうか。ここに至るまでの道のりはどのようなものだったのでしょうか。ジャン・ヨコハマ氏がその歴史を分かりやすくお話しいたします。
このたびのジャン・ヨコハマ氏による横浜中華街の歴史を掲載するにあたり、正しい情報を提供するために、取材、参考書籍・資料等の検証などをしました。それらに基づき補足情報を加えました。青字部分は編集者による補足です。
取材は次の方々にさせていただきました。(取材訪問順)各内容のご紹介は右欄下方(スマホ等の狭小画面では最後)に掲載しましたので、合わせてご覧ください。
- 石河陽一郎氏(横浜中華街発展会協同組合 副理事長、(株)ロウロウジャパン社長)
- 伊藤泉美氏(横浜ユーラシア文化館副館長)
- 林兼正(はやしけんせい)氏(横浜中華街「街づくり」団体連合協議会会長、(株)萬珍楼社長)
最初に本タイトルの年数を何年とするのが良いか、ちょっと迷いました。横浜開港(1859年7月1日)から今年で165年、中国人たちは開港と同時に横浜にやって来ました。ただ、いわゆるチャイナタウンが形成されるのは、そこからしばらくの時を要しました。一般的に街は徐々に人が住み始める、あるいは商業施設等を建てることから始まります。何年何月からが街の成立だと断定しにくい場合が多く、ここもそんなところだっただろうと想像されます。それで切りのいいところで160年としました。
日本には、大きなチャイナタウンはあと2つ、長崎の「長崎新地中華街」と神戸の「南京町」がありますが、横浜中華街は日本で最大のチャイナタウンです。
1858年、日本は、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアの5カ国と通商条約(安政の五か国条約)を結びます。翌年の1859年、横浜が開港されると、商人を中心とした大勢の外国人たちが横浜にやって来ます。その中で最も人数の多い外国人は中国人(当時は清国人)でした。当時日本と清国には国交がありませんでしたが、約1,000人の来浜外国人の3分の2以上が清国人だったそうです。彼らは欧米外国人の使用人や仕事仲間としてやって来ました。少し後には、商機を求めて勝手にやって来た清国人もいたようです。
当時の東アジアの状況に目をやりますと、欧米各国がアジアに進出し、中国は上海(シャンハイ)、寧波(ニンポー)、福州、廈門(アモイ)、広州が、アヘン戦争後の南京条約(1842年)の結果、日本より17年ほど早くから開港していました。上海の租界や香港の交易地には更にそれ以前から外国商館が置かれ、交易が行われていました。
すでに欧米の言葉や商習慣を身につけていた清国人は、欧米人にとって日本との貿易に欠かせない存在でした。買弁(ばいべん)と呼ばれた有能な清国人たちは日本人とは漢字で筆談することで交渉できたので、欧米貿易商と日本人商人とを繋ぐ通訳としてだけでなく、商館の支配人とか、中間商取引=エージェントとしての存在でもありました。
買弁(ばいべん)が来ると・・・:
買弁は輸出入に関する税関との交渉、沖仲士の手配、船荷のチェックから帳簿の記入をはじめ、商売に関することを西洋人の社長からすべて任されていた。このように特に、幕末に日本にやって来た初期の中国人たちはインテリ集団だった。
外国の商人が買弁を伴って横浜にやってくるということは、買弁の家族だけでなく、配下の中国人スタッフ(会計係、アシスタントなど)も連れて来た。さらに、コック、ペンキ職人、洋裁やアイスクリーム職人など欧米の技術を身に付けて来た人たちもいた。その後、清国との国交が開かれてからは、自ら商売をしようとやって来て、両替商とか印刷業をはじめた中国人実業家も現れた。(「聞き書き 横濱中華街物語」林兼正/小田豊二、集英社、2009年。より)
清国人との筆談、ペリー来航の応接場でも
「亜米利加乗船筆記」という水戸藩の大砲方の藩士が、藩主に命じられてペリーの戦艦に乗船し見聞した報告書が残っている。いよいよ日米和親条約締結(嘉永7年3月3日)の3日前に、以下のようなことがあった。
《清人:(現代語に意訳)・・・その席へ清人がやって来たので、扇子へ書かせた。朝、自作詩を書いて見せたら、書いたその裏へ、アメリカ人二人に書かせた。その筆をくれたので、貰った。筆談にて清朝人に国乱之事(当時の太平天国の乱)を聞いたところ、「軍あり」と答えた。外国より助けは有るかと問うたところ、「無」と答、何故アメリカの船にいるのか問うと、「援兵を請うため、また乱を避けるため」と答えた。何か月この船にいるのかと聞くと、「三月いる」と答えた。色々聞いたところ、「止」ヨと書いたので、おしまいになった。面街なことになるのだろう。アメリカ人と違って、筆談ならば何でも分かるので、格別面白い。・・・》
この清人は通訳のひとり羅森だった・・・
ペリーの2回目の日本遠征のとき、羅森は誰かに頼まれて香港から乗船してきたという。主席通訳(中国語)であったウィリアムズは、羅森について次のように述べている。
「博識な先生で、アヘン患者ではない羅Loがお供してくれることになった。お陰で、前回よりはもっと勉強ができそうだ。」(1854年1月11日) 「彼は優秀な男で、日本人の扇子に詩を書いてやっては彼らと友達になっています。日本人はよく彼と筆談します。誰一人中国語を話さないのに、それをたやすく読み書きできるものはたくさんいるのです。」(妻への書簡、1854年3月31日付)「彼が扇子に優美な詩を一、二行書いてでもやると、彼らはいっそう喜んで中国語の学識を彼に披瀝するのです。日本へ来てから五百本以上もの扇子に書いてやったのではないかと思います・・・」(妻への書簡、1854年5月21日付)(以上「ペリー日本遠征随行記」サミュエル・W・ウィリアムズ著、洞富雄・訳、雄松堂出版、1970 より)
羅森は当時日本人の間ではかなり有名だったようで、ペリー一行を横浜村の名主石川徳右衛門が接待した後、彼は扇子や紙を持ってポーハタン号を訪れて羅森の書を求めたという。また、下田で密航を企てた吉田松陰も羅森に会いたがったと記録されている。
羅森の絵の中の説明文
(上の記述)広東ハ産羅森ト云者、アメリカ舩ヘ同舩シテ来ル此者舩中ニアリテ文書通理スル役又唐通理役ヲモ勤ムト云 (下の記述)此圖ハ下田町ヲ徘徊シテ物ノ價ヲ問フ其高下を論シテ買調フルノ圖
開港後やって来た中国人たちがだんだん集まり町を形成していきます。その場所が旧横浜新田の埋立地でした。
吉田新田や太田屋新田が一人のリーダーによって開発されたのとは異なり、横浜新田は村請(むらうけ)新田(村の共同事業)として開発された新田でした。この土地は1862年に埋立が開始されました。1863年に山下町135番地を中国人が借地したという記録が残っています。
1866年の慶応の大火(豚屋火事)と居留地人口増の対策として、幕府は外国人居留地の拡張を実施します。山手地区と、ここ旧横浜新田がそれです。
三把刀(さんばとう)
開港当初、横浜にいた中国人は、買弁など欧米人と日本人との商売の仲立ちをした者や、印刷工、西洋家具、レンガ工など西洋の技術を持つ人たちが西洋人を相手に仕事をしました。
昔から中国人の出稼ぎの仕事といえば、裁縫のハサミ、理髪のカミソリ、料理の包丁といった刃物を使う3つの職業「三把刀」でした。その後の横浜にも外国人居留地に暮らす欧米人を商売相手に、三把刀が数多くやって来ました。中国の中でも、海外への出稼ぎは、南側の海に面した広東省、福建省の人々が中心でした。
長く中華街に住んでいる方の話によると、昭和30年代頃までは表通りに看板こそ出してはいなかったものの、裁縫業や理髪業はそれなりに存在していて、華僑の仲間内では、衣服を仕立ててもらったり、散髪をしてもらったりと普通にしていたそうです。
現在では、裁縫店と理髪店はほとんど姿を消しましたが、料理店は健在です。というより、そればかりになってしまいました。
中華街の道はなぜ斜めか?
中華街の街並みが周辺の道路と約45度傾いていて、歩行者が迷うという話をよく耳にします。その理由は横浜新田を埋め立てたからなのですが、なぜ街つくりの時に直さなかったのかとの疑問が残りますが、次の理由が原因ではと考えられています。
①元々あった用水路・あぜ道に沿って街造りを行った。
②村請新田のため地権者が複雑で、幕府は権利者の地形を残す必要があった。
中華街の街路は東西南北に沿っている
たまたまそうなったと思われます。ときどき、中国の人たちが意図的に街を造ったからだとする説に接しますが誤りで、この土地は江戸幕府が造成しました。
ただ、中国の人たちがここに多く住んだ理由が、風水思想によって気に入られたことはあるかもしれません。
横浜開港資料館での吉田新田の展示を見て、来日した中国の学者が「中華街は斜めではない。周りのほうが斜めなのだ」とおっしゃったとか。
以上の疑問に関しては、横浜中華街研究の第一人者であるユーラシア文化館副館長の伊藤泉美氏にお話を伺いました。当時、横浜開港資料館の調査研究員であった伊藤氏が、開港時期の横浜の地図の展示を行っていた際、それらを眺めている時に気づいたそうです。様々な検証のうえ、これについての論稿を発表、現在では、この伊藤氏の説が定説となっています。
詳しい内容は、開港資料館発行の「開港のひろば」第99号(2008.1.30)、第100号(2008.4.23)に掲載されています。
居留地となった旧横浜新田はどうも欧米人にはあまり好まれなかったようです。もともと水田ですし、旧来の山下居留地に比べて低地のため湿潤な場所だったようです。もっと過ごしやすい高台の山手が人気だったのでしょう。(現在でも南門シルクロードと開港道では標高差が1.6m程度あります。)
まだ日本と国交のなかった頃、清国人達は、欧米人が借用した土地を又借りするか使用人として居住する形でここに集まりました。チャイナタウンの誕生です。とはいえ欧米のチャイナタウンなどと異なり、欧米人や日本人も居住していて清国人の比率は半数程度だったようです。この比率は現在でも続いています。また、世界のチャイナタウンと同様、ここは清国人達の生活の場所でしたから、彼らの生活に必要な店舗などで構成された町でした。現在のように中華料理店を中心として観光地化するのはずっと後のこととなります。
なお、江戸幕府は国交のない清国人をそのままにするわけにもいかず、1867年に「籍牌規則(せきはいきそく)」を設けて、届け出をすれば居留を許すことにします。さらに、1871年には「日清修好条規」で正式に国交を樹立します。
中国人、主に広東・福建などの中国南部の人たちは積極的に活動の場を求めて海外に進出していき、外国の地にチャイナタウンを造ります。進出の動機や目的は時代や進出した国によって様々ですので簡単には述べられないのですが、大雑把を承知で下記します。
『WEBマガジンtabiyori選 世界各地に数多く広がるチャイナタウン10選』
実はこのサイトは今は見つけられませんが、昔確かに見たのです。もはや根拠がないですが、話題として面白いので掲載します。
①シンガポール ②バンコク ③ニューヨーク ④サンフランシスコ ⑤シカゴ ⑥バンクーバー ⑦トロント ⑧メルボルン ⑨ロンドン ⑩リマ
弁髪はいつ頃まで行われていたか
伊藤泉美氏によると、1911(明治44)年の写真には、弁髪の人と短髪の人の両方が写っていたそうですが、1920(大正9)年の写真には弁髪の人はいなかったので、多分、1920年までには弁髪はなくなったと考えられるそうです。
「郷幇(キョウバン)」と中華街
中国は広い。北京語、上海語、広東語、福建語・・・と、たくさんの言語があり、かつては同じ中国人同士でも、出身地が違うと言葉が通じなかった。言葉のみならず、しきたりや料理も違った。言語・慣習を同じくするもの同士は、同郷の絆で固く結ばれることになる。ここから、郷幇という同郷人の助け合い組織が生まれた。日本でいえば、県人会組織の大規模なものと考えると理解しやすい。
中国から多くの人々が日本にやって来たが、必ずと言っていいほど、出身地の郷幇の一員になった。来たばかりの者でも、その組織に入れば、住むところから仕事の世話までしてもらえるからだ。そうしたグループごとにひと固まりになって住むようになる。「同郷のよしみ。困った時はお互いさま」という相互扶助の精神だ。中華街の形成を理解するうえで、このような存在は見逃せない。特に横浜は、広東出身者が多くその郷幇が複数あった。(参考:「聞き書き 横濱中華街物語」林兼正/小田豊二、集英社、2009年。)
現在はこの街は中華街と呼ばれていますが、日本人が、開港後やって来た清国人を「南京人」「南京さん」とよび、彼らが住む町を「南京町」呼んでいました。それは戦前までの南京は世界で有数のモダンな都市で、中国の代表のように言われたからで、南京豆、南京錠という言葉があることからもわかります。南京虫は困りますけど。
明治初年には横浜の中国人人口は約1,000人になります。町には関帝廟や劇場などが建てられて、本格的にチャイナタウンが形成されていきます。中国人の人口は日清戦争や辛亥革命、関東大震災、日中戦争・太平洋戦争などのたびに激減しますが、明治中ごろから現代まではほぼ3,000人前後で推移します。その間、日本人やその他外国人もほぼ同程度の人数が居住していたと考えられています。(最後に中華街の略年表を掲載したのでご参照ください)
中華料理店は関東大震災前で5店舗。大戦後でも10店舗程度で、まだまだ観光地中華街は成立していません。
この店舗数は横浜市作成の「横浜市商工案内」という統計資料に掲載されており、いわゆる宴会ができるような立派な料理店の数のことです。大正10(1921)年発行の商工案内には、支那料理店として、聘珍楼、萬珍楼、他3軒、計5軒の名前が載っています。
南京町の中国人はその多くが広東系の人たちで、戦後に中華人民共和国が成立してもしばらくはその状態が続きます。したがって、戦後間もなくまでの彼らの言葉は広東語が主流でした。さすがに現在は中国標準語ですが、10数年ほど前までは老人達の中には広東語を使う人がいたようです。当時の華僑たちの家庭内での日常会話は中国語中心と日中チャンポンと日本語中心とに分かれていたようです。古くからの華僑で老人がいる家庭が中国語の傾向にあったようです。
なぜ中華街にこれほど中華料理店は少なかったのか
現在、横浜中華街にある中華料理店の数は、約200店舗と言われている。しかし、戦前までは非常に少なかった。その理由について、横浜中華街に詳しい菅原一孝氏は、「それまで日本人は中華料理を食べられなかったからではないか」と言っている。・・・江戸時代の1713年に貝原益軒は「養生訓」を書いているが、その中に中華料理について述べている。“(現代語訳)中華の料理はみな油っこくて味付けも濃く、全体的に甘い。その味もひどく重くてくどい。中国の人は胃腸が厚く生まれつき強いからこうした重みを食べてもよく消化する。しかし日本人がこういうものを食らうと胃腸に穴が空く。”・・・。(「横浜中華街の世界」横浜商科大編 2009。より)
4つ足のものは、机以外なんでも食べると言われた中国人の「食」に、日本人はついて行けなかった。今でも、そういう部分はあるので、日本の主な中華料理は日本人向けになっている。
戦後になり、米軍がやって来て、中華街で肉料理を食べるようになるが、1953年の朝鮮戦争の休戦で、中華街には閑古鳥が鳴いたとか。しかし、時代の流れとともに、日本人は肉を多く食べるようになり、また外食をするようになった。さらに、中華料理店のほうでも、そこは商売だから、日本人の口に合うように料理を工夫し提供するようになった。そのため、中華料理店の数は着実に増えていった。
戦後に中華人民共和国が成立するとチャイナタウン内でも、中国(本土)系と台湾系の対立が激化します。特に中華学校では激しい抗争(横浜中華学校事件 1952年8月)があり、最終的には元々あった「横濱中華學院」は台湾系に、本土系は新たに「横浜山手中華学校」(現在は山手から石川町駅前に移転)を開校します。なお、戦後は両学校ともに北京語(標準語)で授業をするようになりました。
現在の横浜中華街を外部から見ている分には、イデオロギーの対立はあまり感じられないように思います。大人の対応、商売中心、横浜中華街人としての独自性みたいなものが芽生えているからでしょうか、どうなんでしょうか。
もともと華僑たちには『落葉帰根』という考え方がありました。もし異国の地で命を落としたとしても、遺体は故郷に帰るというものです。外国に行くのは出稼ぎであって、稼いで故郷に錦を飾るのが前提だったのでしょう。遺体回収船が年何回か運航され、一旦埋葬された遺体を掘り起こし、サンフランシスコから横浜、神戸経由で香港や上海などに帰って行きました。(戦後すぐくらいまであったと聞いたことがあります。
その後、居留地に定住するようになると『落地生根』と言って、亡くなったところに根を張る(埋葬)ようになりました。
清国人たちの墓所は、当初欧米人と同じ山手外国人墓地(正式名は横浜外国人墓地)でした。しかし、葬儀の違いや落地帰根の風習(墓を掘り起こして、遺体を回収する)などが受け入れられにくいことから、いったん山手の別の地(山手トンネルの上辺り)に移された後、1873年からは根岸大芝台に『中華義荘』をつくり現在に至ります。
中華街にいる人々を華僑と一般的には呼びますが、華人という言い方もあります。華僑は「僑居華民」からきた言葉で、「僑」は仮住まいを意味するので、国籍を変えずに居住している中国民。対して華人は居住地の国籍を取得している中国人、と定義されるようです。また、華裔(かえい)という呼び方をする場合もあります。中華民族の子孫という意味です。そうした中には、ずっと日本で暮らしているため中国語を話せない人たちもいます。
さらに、移住した年代などで老華僑と新華僑といった区別をすることもありますが、時間が経てば、新華僑と言われた人々も、やがて老華僑になることでしょう。
伊藤泉美氏によると、「華人」という言い方は、海外に住む中国系の人を指す言葉で古くからあったそうです。中国人は昔から世界中に出稼ぎに行きましたが、中国政府は国外で活動する中国人に関心がありませんでした。つまり、国を出て行ったものに何かあっても国として責任を持たなかったのです。外交上の問題で自国民を保護する必要性からも、1980年、中華人民共和国国籍法が制定され、他国の国籍を持つ者は、もはや中国国籍を持たない=二重国籍を認めないことになり、「華僑」とは中国国籍を持っていて海外に居住する者に限定されるようになったそうです。
敗戦直後の横浜中華街には戦勝国民である中華民国人が多かったので、日本の町に比べて物資が豊富でヤミ市などで賑わいます。また、駐留米兵を相手にするバーやキャバレー等の歓楽街として繁盛します。しかし、そんな時代も永くは続かず、将来の中華街を模索する時代がやってきます。
1953年夏、サンフランシスコにあるチャイナタウンの繁栄ぶりを見て来た平沼亮三横浜市長と半井清横浜商工会議所会頭が、関内一帯の復興と観光地化の可能性を感じたことから、同年、横浜元町と横浜中華街を復興させようと官民一体からなる『中華街・元町振興会』が結成されます。こうしたなかから、「戦後の横浜になにか新しい横浜だけのものを創りたい」という念願が形となって出現したのが、1955年に完成された、牌楼(パイロウ)・善隣門 (初代)でした。この牌楼に『中華街』と掲げます。
それまで日本人たちは南京町、中国人たちは華僑街とか唐人街と呼んでいたこの街が、これ以降『中華街』と呼ばれるようになります。
1956年、「中華街発展共同組合」が結成されて、イデオロギーや出身地域の垣根を超えた活動が始まり、観光地中華街へと変貌していきます。現在でも華僑の団体は台湾系『横濱華僑總會』と中国系の『横浜華僑総会』に分かれていますが、商売は協力してやろうということです。
戦後しばらくは、とかく危険な街、汚れた街のイメージ(かつての日活映画によく出てきたような)だった南京町(主に中国人の生活する町)は、ここから観光の街へと大きく変貌していくことになります。日本の経済復興、高度成長の時代とともに発展していった様子は皆さまご存知の通りです。
関帝廟と媽祖廟
関帝廟: 横浜の関帝廟はその前身はすでに1862(文久2)年につくられている。それほど華僑にとっては重要な商売繁盛の神「関羽」を祀っている。関羽は「三国志演義」に登場する信義や義侠心に厚い武将として名高く、民衆によって様々な伝承や信仰が産まれ、また後の王朝によって神格化されていった。そのため世界中に華僑が散らばっていったときに、商売が繁盛するようにとその居住区に関帝廟を立てた。
戦後に建てられた3代目の関帝廟は1986年元旦火事で焼失、第4代目となる関帝廟の建設には、街ぐるみで協力しあうことが必要だったが、戦後に起こった台湾系、大陸系の政治的な対立が続いていた。発案から完成まで、この建設計画推進の過程で、同じ中華街で商売を営むものとして互いが歩み寄ることとなり、イデオロギー対立を乗り越える契機となった。関羽様のご利益と言えるかもしれない。
現在の横浜関帝廟の建物は、1990年8月14日に開廟式が行われた。建築資材はほとんど中国から取り寄せられ、台湾や本土出身の大工によって建てられた。
媽祖廟:「媽祖」は、北宋時代に実在した福建省にいた女性であり、小さいころから才知に長け、28歳で天に召されて神となり、海上を舞い難民を救助するという。その後、航海を守る海の神のみならず、自然災害や疫病・戦争・盗賊などから護る神として中国のほか華僑が住む世界各地で信仰されている。
横浜媽祖廟は開港から150周年を迎える横浜の新名所として2006年(平成18年)3月17日に開廟した。場所は明治時代の清国領事館の跡地である山下町公園に隣接している。この地に民間のマンションが建つ予定であったが、中華街という商業エリアのなかに、一般住民が居住することによって生じる問題を避けるため、街づくりの立場から中華街有志がその地を購入し、媽祖廟建設地としたという経緯がある。
以前は、両廟とも奥の拝殿まで無料で入れたが、現在は、お線香(500円)を購入してから入るようになっている。(これに関しては、右欄、スマホなどの狭小画面では下方の「林兼正氏」の項をご参照ください)
農家の次男だった私の祖父は明治中頃に、現在の戸塚区飯田から横浜に出て商売を始めます。南京町の「市場通り」で始めた商売は鶏肉と卵の販売でした。店名は祖父の名前“鎌次郎”から『鶏鎌商店』と名付けました。
私の父親はサラリーマンでしたので、戦後の物の無い時代に日曜日の度に南京町の『鶏鎌商店』に幼い私を連(ダシに)れて、高級品の鶏肉と卵をもらいに行きました。祖父は孫には甘かったのかも知れません。当時はブロイラーなんてありませんから、籠に入った生きた鶏が店の表と裏に積んであり、それをさばいて商品にする訳です。敗戦直後の南京町には戦勝国民である中華民国人が多かったので、生活物資が集まったようです。私が育ったのはここの肉と卵のお陰だったと思います。また、店の眼の前にあった同發本館の肉まんをよくご馳走してくれました。この時の肉まんの味は最高でした。
つい数年前までその場所で従弟たちが『鶏鎌商店』を引き継いで営業していましたが、今は別の場所で商売を続けています。
現在の横浜中華街については下記に詳しく掲載されています。
「横浜中華街発展会協同組合のサイト」
https://www.chinatown.or.jp/guide/
以上
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