横浜歴史さろん

コーヒー コーヒー

お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。

三殿台遺跡トップ画像

お知らせ

「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」もご覧ください!

  • 2022年の講座情報「横浜と英国を合わせ鏡で読む日本近代史」を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「台地を一気に剥がして出現した縄文・弥生・古墳の3時代にわたる複合集落遺跡 ―三殿台遺跡―」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「元祖『まち歩きガイド』、NPO法人横浜シティガイド協会」及び、人物紹介「発想力と実行力で愛する横浜のまちづくり 嶋田昌子さん」を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 横浜歴史さろん2021歴史講座「海から見る横浜の幕末史 第3回」YouTubeにアップしました。
  • 横浜歴史さろん2021歴史講座「海から見る横浜の幕末史 第2回」YouTubeにアップしました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
  • 9月11日開催予定の「海から見る横浜の幕末史」第4回中止のお知らせ。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「横浜の戦後史を考える ―もう一つの外国人墓地―」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「会員による古代から近代までの通史の研究発表が主軸活動の『横浜歴史研究会』」の紹介記事を掲載しました。
  • (変更のうえ)横浜歴史さろん2021歴史講座「海から見る横浜の幕末史 第1回」YouTubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 横浜歴史さろん2021歴史講座「海から見る横浜の幕末史 第1回」YouTubeにアップしました。
  • コバテル先生講演会ビデオ「変遷する港湾社会を介して港都横浜の現代史を語る②」YouTubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「生麦事件 ―徳川幕府崩壊、日本歴史大転換の起爆剤、生麦事件はこうだった!― 」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「たゆまぬ地道な研究で郷土の歴史に光を当てる『横浜西区郷土史研究会』―久保山墓地の全体像を明かすこの度の調査研究冊子もご紹介―」および人物紹介コーナー「真摯に横浜の歴史を追求する郷土史研究者 田村泰治氏 ―根岸外国人墓地解明にも大きな功績―」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「『天下の糸平』と言われた相場師田中平八の生涯」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
    歴史すぽっと記事「ザ・ゴールデンカップス」に情報を追加して更新しました。
  • 1. 歴史すぽっとページに「横浜天主堂と横浜天主堂事件」を掲載しました。
    2. 歴史すぽっと記事「ライジングサン石油横浜本社」に写真を追加して更新しました。
  • お詫びと訂正:特集記事(2018年6月18日掲載)「大江卓(おおえ・たく)人権擁護・人道主義に生きた! ―明治初期の神奈川県権令時代・マリア・ルス号事件を中心に―」(現在はアーカイブページに収納されている)内のフェリス女学院創設者のお名前がアンナ・キダーとなっていましたが、正しくは、メアリー・E.キダーでした。訂正し、謹んでお詫びいたします。
  • コバテル先生講演会ビデオ「変遷する港湾社会を介して港都横浜の現代史を語る① 」YouTubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「磯子森地域に残る古文書を読み、郷土の歴史を学び伝える『火曜古文書会』」および新設の人物紹介コーナー「磯子地域で活躍するこの人 ―市内の古文書会の連携を提唱― 」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「日枝神社とお三さま “おさん”はどこから?」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • コバテル先生講演会ビデオ「開国日本と横浜 Part 6」YouTubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 有料会員ページ「会員の論稿」に正会員執筆の論稿の掲載を開始しました。今後、索引をつくり検索しやすくする予定です。
  • トップ特集「カリュー氏毒殺事件~山手外国人居留地版2時間ミステリー~」掲載しました。
  •              
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「熊谷伊助① 曽祖父がペリーにもらった本人の写真」および「熊谷伊助② 下岡蓮杖師と清水東谷師の写真」を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「ペリーの記念碑 ―幻と消えた横浜でのペリー像建立、すでに原型はできていた―」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • ビデオ「開国日本と横浜 Part 5 」YouTubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「上を向いて歩こう! 電柱考古学のすすめ」掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「古文書習得は『石の上にも三年、習うより慣れろ』―神奈川宿古文書の会」の紹介記事を掲載しました。
  • ビデオ「開国日本と横浜 Part 4 」YouTubeにアップしました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「富貴楼お倉―横浜の名物女、待合政治の元祖」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「横浜郷土研究会 60年のあゆみ その2 多極化・多様化した横浜の郷土研究(後半の30年間を見る)」の紹介記事を掲載しました。
  • 「当サイト」ページにある「横浜歴史さろん」の“めざすこと”に新たな文言が加わりました。それにともない、会員制に賛助会員(有料)が創設され、その説明など関連事項の変更をしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 横浜歴史さろん会員の名称を有料会員→正会員、無料会員→一般会員へと変更しました。
  • 5/12コバテル先生歴史講演会「開国日本と横浜 Part 3」の録画ビデオをアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「キリスト教諜者・安藤劉太郎のち関信三の半生 ―キリスト教信奉者・中村正直との数奇な出会い―」掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「ホテル・ニューグランド(中区山下町・1927年竣工・震災後の横浜繁栄のシンボル)」を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「横浜郷土研究会 60年のあゆみ その1 横浜の郷土研究の中核をなした専門家集団(前半の30年間を見る)」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページ 「歴史仲間の予定」更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「中華街の歴史(横浜中華街、幕末~、かつては職人の街)」を掲載しました。
  • 1月20日の講演会をYoutubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その2」掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「アカデミックでチャレンジングな『横浜黒船研究会』」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「ウィリアム・ウィリス―幕末・明治に多くの日本人を治療した英国人医師」のPart1とPart 2を掲載しました。
  • コバテル先生講演会「開国日本と横浜 Part 2」(1月20日開催)のチラシを掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その1」掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • 9月9日の講演会をYoutubeにアップしました。
  • 仲間・施設ページに「港南に残る『古きもの』を蘇らせ、地域に貢献する港南歴史協議会」の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「『生麦事件で夷人を斬殺した私』久木村治休述」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 4) パーマーと横浜港の改修築事業 ~パーマー計画案採用の背後に外相大隈重信の決断が~」を掲載しました。
  • トップ特集「大江卓(おおえ・たく)人権擁護・人道主義に生きた人 ―明治初期の神奈川県権令時代・マリア・ルス号事件を中心に―」 掲載しました。
  • 9月9日(日)10:00よりの「コバテル先生の歴史講演会 Part1」のチラシを掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「和・話・倭・輪・わっ」-金沢区生涯学習“わ”の会の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「オランダ商人、デ・コーニングが見た幕末の横浜」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページ「オードリーと横浜」に【訂正】を追加しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報 八聖殿歴史講座追加しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「明治時代に活躍した“元祖 外タレ”快楽亭ブラックの人生」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 3) 明治期の横浜港の歴史を物語る「象の鼻」 ~長期間議論に終始した横浜港の改修築事業~」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「“郷土とつか”を、見て、知って、楽しむ、『戸塚見知楽会』」の紹介記事を掲載しました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「ハマのヘンテコ建築ビッグ3」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「泥亀新田」および「大熊弁玉」を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 2) ~横浜開港:横浜村の変貌にオールコックが驚愕、 とは言え、お粗末な港湾機能の下の荷役作業~」を掲載しました。
  • 「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」https://sampo.yokohamasalon.link/に「レトロな鶴見線 京浜工業地帯繁栄の面影」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「緑区生涯学級『横浜線ものがたり』」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川の由来は金川」を掲載しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part3-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part1)~開港前夜に米国人がみた横浜の風景~」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川でのヘボンの施療」と「江戸時代の刑罰」を 掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 有料会員の期間のうち、半年会員を廃止し、年会員のみに変更しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part2-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「生麦事件参考館」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページ「コバ・テル先生のハマ歴ワンポイント」
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART II) ―多才な彼は発展途上国日本には打ってつけの人材、その資質の源泉は―掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「吉田新田一つ目沼地の難事業‐吉田南家の没落」追加しました。
  • 仲間・施設ページに「ドラマチックな郷土史探究 鶴見歴史の会」の紹介記事を掲載しました。
  • トップ特集「横浜nbsp;英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part1-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 八聖殿郷土資料館の2017年度歴史講座を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 「テル先生のハマ歴ワンポイント」始まりました!
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART Ⅰ) ―彼が夢見たのは鉄道技師、しかし来日時は灯台技師―
  • 「歴史すぽっと」に6件追加しました。
    ・おもしろプレート(ワシン坂、飯田道、ラインマン)
    ・神奈川落語① 大山詣り
    ・神奈川落語② 三人旅より神奈川宿
    ・神奈川落語③ 新作落語「横浜(はま)の雪
    ・神奈川落語④ 抜け雀
      ・神奈川落語⑤ ミルラー事件関係
  • イベント情報更新しました。
  • 「昔の生活ツール」の年号対照表を見易く作り直しました。お役立てください。
  • イベント情報更新しました。
  • トップ特集「横浜と水の今昔物語」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「謎の八聖殿と歴史講座」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
    スマホ画面でも見やすいように調整しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 会員制スタートしました。
    有料会員による会員交流広場開始しました。
  • イベント情報更新しました。
  • トップ特集「横浜歴史のブラタモリ的地形考察」掲載しました。
    仲間・施設ページに「NPO法人  神奈川区いまむかしガイドの会」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の特集と紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「ホテルの歴史 in Yokohama」追加しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「パンの歴史 in Yokohama」追加しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「神奈川歴遊クラブ」の紹介記事を掲載しました。
  • 横浜歴史さろんホームページ開始しました!

特集   台地を一気に剥がして出現した縄文・弥生・古墳の3時代にわたる複合集落遺跡 ― 三殿台遺跡 ―  

復元住居
三殿台遺跡のリーフレットより

三殿台(さんとのだい)遺跡は、何も知識がなく訪れると、広々とした台地の上に、遺跡らしい痕跡の枠線と、中央付近に発掘跡を保存している大きな建物、その後ろに弥生時代の復元住居、ずっと奥に縄文時代と古墳時代の復元住居が1棟ずつあるくらいで、さほど魅力がある所というわけではない。しかし、その空間全体から何か静かに訴えてくるものがあり、説明員の方からよどみなく出てくる言葉には熱い遺跡愛があふれていた。

鈴木重信
遺跡の説明をする
鈴木重信さん

この台地の上で、何千年もの時が流れ、人々(ご先祖様たち)が集まり、去って行った。そして、台地を一気に剥がして大昔の集落を解明しようという全面発掘調査が、昭和36年(1961)夏に行われた。それは感動的な人間ドラマだった。考古学に興味がなくても、この話は面白い。そこから考古学への興味が湧くかもしれない。
  (取材・まとめ:Himiko・YHS)

おことわり
◎「じゅうきょあと」という場合の「あと」という漢字は「跡」と「址」があり、その明確な違いがわからないため、出典通りで併用する。
◎発掘された住居跡の時代分け軒数は資料によって異なる。この点について、三殿台考古館に伺ったところ、「数え方の違い」との答えだった。住居跡が重なり合っていることも判断をむずかしくしているようだ。よって、引用資料のまま記載する。
◎カタカナの「ムラ」、「クニ」は、大和朝廷(組織的な国家体制)の行政単位となる以前のものとして使用されるようです。
◎文中の太字は編集者による。

1.三殿台遺跡がある台地

富士山
2021年11月11日撮影、三殿台から見える富士山

三殿台遺跡は、横浜市磯子区岡村町の標高約55ⅿ の台地上に位置する。台地は南北約100m、東西約80mの平坦面であり、この台地の上に立つと、ぐるりと周囲一周、360°の眺めが堪能できる。
 晴れた日には、西方に富士山の壮麗な姿がくっきりと浮かび上がり、西から北側にかけて大岡川対岸の丘陵群を眺め、北にみなとみらい地区の高層ビル街が見え、東側には海岸部を隔てて東京湾を臨むことができる。南側は住宅が密集しているが、本来は*禅馬川(ぜんまがわ)をはじめとする支流によって浸食され、複雑に入り組んだ形状をしている。ここは、あたかも完全に独立した台地のように見えるが、昭和3年(1928)頃に開通した“岡村の切通し” により、細い尾根続きだった東側の台地とは切り離された。台地一帯は縄文期の姿のままという。ここにいると、目の前に竪穴住居で生活していた大昔の人々の姿が浮かび上がるようだ。

*禅馬川(ぜんまがわ):磯子にはかつて、禅馬川を始めとして、芦名川・白旗川・聖天川・杉田川・陣屋川などの川が流れていた。根岸湾埋立工事に伴い、暗渠の部分もあるが、多くは埋め立てられて道路などになっているので、かつての川の姿を見ることはできない。

北方約0.75 km の台地上には昭和59年(1984)に発掘調査された成美学園遺跡(<コラム>15を参照)があり、この三殿台と多くの共通点があることが分かっている。つまり、この周辺にはその他にも多数の遺跡があったと推測されるが、開発の波にのまれて湮滅(いんめつ)し去ったとのことで、周辺遺跡に関する情報は、乏しくなっている。

『東京人類學雜誌』158号
明治32年、「屏風ヶ浦岡村貝塚」報告

2.明治時代、貝塚が発見される

明治31年(1898)の12月、現在の横浜市中区にいた藤田清玐(せいはち)という医者が、上大岡方面へ往診に行く途中に、岡村の畑の一角の崖で貝塚を発見した。土器片や骨、さらに歯牙製垂飾(たれかざり)を採集し、東京帝国大学人類学教室に連絡した。翌32(1899)年3月1日、藤田は当時人類学教室の助手であった鳥居龍蔵とともに遺跡を訪れて貝塚に間違いないことを確認し、同年5月発行の『東京人類學雜誌』158号(東京大学理学部生物学図書室蔵)に「屏風ヶ浦岡村貝塚」として報告した(画像は該当ページ。参考資料5「大昔のムラを掘る」12pから転載)。この「岡村貝塚」が現在の三殿台遺跡 にあたる。
 医者としての藤田の活動についてはほとんどわかっていないというが、明治23年(1890)に刊行された『開業医立志編』という横浜市内の医者を紹介した本に、藤田と思われる人物が紹介されており、これによると、住所は若竹町42番地(現中区末吉町:京急日ノ出町から黄金町にかけての辺り)で、紹介文は「君ガ壮健患者ヲ往診スルニ徒歩ヲ以テス近頃ノ新奇開業醫ノ為ニハ頂門ノ一針ナリ」と述べられている。岡村貝塚の発見も、このような藤田の健脚を活かした往診中の出来事だったらしい。

3.畑だった台地

この辺りは、竹ノ橋という小名もあり、三殿台(さんとのだい)という名称がいつからあったのか、その名の由来についてはわからないようだ。インターネット上では、近くにいた3人の殿様(平子氏、太田道灌、吉良氏)がいたから、この名がついたとの情報(参考資料6)もあるが、それが本当かどうかはわからない。この地名には非常に興味をそそられるが、本題とは関係ないので、ここでは追求しない。
 この辺りはいつのころからか畑となっていて、何人かの持主が耕していた。台地の縁をほぼ一周するように貝塚が点在していた。斜面にある畑では、この貝殻に妨げられて、場所によっては、掘っても掘っても貝殻だらけで、耕作者泣かせだったという。

≪挿話≫昭和十年代の三殿台遺跡 田邉貫太郎(岡村町)(参考資料5「大昔のムラを掘る」より)

小学校5・6年から中2頃まで(昭和4年生まれ)、この辺の子供たちを集めてあちこちの畑などに行って矢じりや石斧などを集めていた。三殿台にあった家の畑からよく遺物が出てきたのがきっかけであった。父からは、うちの畑はともかく、よその畑に行くと作物をつぶしたり迷惑だから、と言われていた。台地の北斜面には杉窪があり、畑で鍬などにあたった遺物が捨てられていた。ここで石皿や擦石(すりいし)などを拾った。東側の畑のすみっこに貝塚があり、蒔田や中村の方から来た人が一生懸命引っ掻いていた。また北側斜面の畑にも貝塚があった。表の大畑(現在の岡村小学校)では、台地上に比べてあまり遺物を拾えなかった。
 集めた資料は家の門の脇の豚小屋の2階に置いてあり、梅の木を伝って出入りしていた。中学1年の時、地歴部の今村先生に見せるためにこれらを学校(関東学院)に持って行き、そのまま地歴部の部室に置いておいた。翌年頃から学徒動員で川崎の工場に行くようになったが、横浜空襲のためにみな燃えてしまった。その後は勉強に忙しく、遺物採集もやめてしまった。1961年の夏には社会人になって岡村を離れていたが、発掘現場を見に行ったことはある。

4.三殿台が弥生時代の遺跡でもあると判明

台地斜面の数ヶ所の貝塚を中心に遺物採集を目的とした小発掘がいくたびが行われてきたが、昭和24年(1949)吉崎昌一(1931-2007、考古学者。専門分野は旧石器)らによる台地北側斜面の貝塚の調査では、弥生時代の*宮ノ台式土器や骨角器が出土し、三殿台が弥生時代の遺跡でもあることが明らかとなった。

*宮ノ台式土器:南関東地方における弥生時代中期後半の土器型式。千葉県茂原市南部の綱島地区の宮ノ台と称する三島神社背後の台地上に所在する宮ノ台遺跡から出土した土器の研究により設定された型式名であり、宮ノ台遺跡が「宮ノ台式土器」の標式遺跡となっている。宮ノ台遺跡は昭和10年(1935)、15年(1940)の2回、台地上の西側及び南側斜面部の一部が、明治大学の杉原荘介氏により発掘調査された。出土した遺物は、茂原市指定有形文化財(考古資料)となっている。(Wikipedia)

5.考古学者・和島誠一の全面発掘への情熱

和島誠一
発掘期間中の夕食後、
岡村分校の教室で説明する
和島誠一調査団長

昭和30年(1955)、横浜市史編纂のため踏査により、台地上から縄文・弥生時代のほかに古墳時代の土師器(はじき)を採集し、これら3時代にわたる集落跡であることが明らかとなった。

(以下、参考資料5「大昔のムラを掘る」62p「『三殿台遺跡、それは和島考古学の記念碑』田中義昭(一班・武蔵工業大学附属中・高等学校教諭)」から抜粋引用)

考古学者・和島誠一(1909-1971)が三殿台に関心を抱くようになったのは、1955(昭和30)年頃で、当時、『横浜市史 第I巻』の編纂に携わり三殿台を訪ねたが、その際にこの遺跡が集落跡研究にとってまたとない好条件を備えていることを知った。
 和島は早くから原始古代集落(共同体)の系統的解明に取り組み、1938年(昭和13)に古代集落跡の東京都板橋区の志村遺跡、1955年に原始集落跡の横浜市都筑(つづき)区南山田町にある南堀貝塚(編集者注:縄文時代の竪穴住居址48例が出土)を発掘して成果を積み上げていたが、なお、縄文時代の原始集落から古墳・奈良時代の古代集落に移り変わっていく中間期、つまり、弥生時代の集落研究が未解明課題として残されていた。折から踏査した三殿台遺跡は地形の特徴や採集された土器等から縄文・弥生・古墳各時代にわたる累積的な家族的集落跡であることを突き止め、全面発掘すれば年来の課題を解き明かすことができると考えた。

6.学校用地となる 盗掘者現る

岡村小学校の前身は、昭和29年(1954)滝頭小学校の分校として、三殿台に隣接する一段低い台地に建てられた木造一棟6教室の小さな学校だった。とはいえこの建設で、三殿台東側にあった大きな貝塚は、すでに削り取られてしまった。昭和30年代になると遺跡の周囲でも宅地開発と人口増加が進み、教室不足が深刻な問題となっていた。昭和32年・34年に増改築の工事が行われた。さらなる増加のため、横浜市教育委員会は隣接する台地を切り下げて校地を拡張する計画を立て、台地上の畑地を学校用地として買収した
 すると、土地の農家の人たちが耕作に精を出していた頃は、一度もなかったのに、学校用紙となってから、いたるところに心ない盗掘者が堀り荒した穴が開き始め、土器を盗み取っていく人たちが現れた。三殿台は受難の毎日だったと、「磯子の史話」(参考資料1)にあるが、実のところ、考古学者の調査なのか、盗掘なのかの見極めは難しい所だと思われる。

7.学校建設前の差し迫った発掘調査

学校の校地拡張前に、この辺りから遺物が多く出土していたことから、事前の学術的発掘調査が必要となった。昭和34・35年(1959・1960)に横浜市立大学文理学部史学研究室による予備調査が実施された。昭和34年の発掘調査は台地縁辺のうち北側と東側の一部を対象とし、弥生・古墳時代の竪穴住居跡5軒が調査された。 合わせて台地全域の詳細なボーリング探査により多数の竪穴住居跡群が分布していることが明らかにとなった。続く昭和35年は、台地上の南部を集中的に調査し、縄文・弥生・古墳時代の竪穴住居跡20軒が調査発掘され、各時期の竪穴が複雑に重なっていることが確認された。これは三殿台の台地上を全掘することによって、各時代の集落のあり方を明らかにすることができるという和島の見通しを裏付けるものだった。いよいよ、翌昭和36年(1961)には本格的な発掘調査へと向うことになった。

8.「一気に剥がす」全面発掘の意義

三殿台遺跡の発掘の最大の意義は、集落の全面発掘を企て、実行したという点にある。調査を指揮した和島誠一は、日本考古学における集落遺跡の研究をリードした学者であった。それまでの考古学の調査ではせいぜい竪穴数軒分の面積を掘るのが主流だったが、和島は過去のムラの成り立ちを明らかにするためには、「集落の全体を一気に剥がす」全面発掘を行うことが必要だと考えた。そのような調査を行うためのフィールドとして三殿台が注目された。全面発掘の対象として三殿台がふさわしいとされた理由は、大きく二つあった。
 一つは縄文・弥生・古墳の各時代の集落が重なり合っており、一ヵ所でそれぞれの時期の集落の姿をつかむことができると期待されたこと。
 もう一つは、台地の周囲の斜面に縄文時代の貝塚が点在しているために、縄文時代以降それほど地形が変わっていないと推測されたことである。

9.全面発掘はじまる

2カ年にわたる予備調査を経て、昭和36年(1961)夏には本格的な発掘調査が行われることになった。横浜市教育委員会は日本考古学協会に協力を要請した。
 協会は登呂遺跡発掘の時と同様な特別委員会を設置、和島を委員長とする三殿台遺跡調査特別委員会を設けた。調査費としては国と県・市から合わせて100万円の予算が計上された。こうして日本考古学史上に例を見ない三殿台遺跡 の全面発掘が始まった。この調査は、当時としては異例な大編成であったことが記録に残っている。

表土を取った台地
発掘開始時の三殿台。短期間での全面発掘を実現するために、
ます表土をブルドーザーではぎ取ってから作業を開始した。
参考資料5 22p・23pより。2ページにまたがっているため、
中央部分が欠けている

全面発掘は、昭和36年(1961)7月22日に開始された。調査期間は8月31日までの41日間で、主に東京近郊の大学から集められた大学生たちが、岡村分校の教室に寝泊まりして発掘に従事した。このほか先生に引率された県内及び都内の中高生も多数参加した。婦人団体は、磯子区全域にわたって動員され、宿泊学生のための世話や、毎日応援に来る中学生たちへの設営を当番制で引き受けた。夏休みが終わる頃には、こうして参加した人々は延べ3000人にものぼった

10.発掘は4班体制で

ベルトコンベア
調査中
ミーティング

遺跡は4つの発掘区に分けられ、主に大学ごとに編成された4つの班がそれぞれの区を分担した。この時、割り振られた3桁の番号が、その後もすべての住居跡や出土品に使用されている。
 1班 100番台 横浜市立大学、武蔵野地域史研究会
 2班 200番台 國學院大学
 3班 300番台 立正大学
 4班 400番台 日本大学

短期間で一気に実施するということもあり、日本で初めて発掘現場に、ブルドーザーやベルトコンベアなどの建設機械が使われた。しかしこのような機械力を利用しても 排土の処理は大変だった。各時代の竪穴が予想以上に複雑に切りあっていたことも、発掘を難しいものとした。
 調査団の解散後も、少人数での延長作業が9月6日まで、さらに日曜を利用して12月上旬まで行われた。40日余りの発掘と延長作業を経て、三殿台の台地全体の調査が完了した。縄文時代中期から古墳時代後期にかけての竪穴住居跡は複雑に重なり合っており、その数は予備調査の時のものを合わせると270軒にも達した。これは当時としては驚異的な数字だった
 こうして三殿台遺跡の全面発掘という目標はついに達成され、大昔のムラはついにその全容を現した。
(画像は、参考資料5より)

11.発掘、そして、その後

この三殿台遺跡の発掘は、和島誠一が調査団長となり、組織の垣根を越えた調査団の編成、市民の協力体制の確立、発掘への機械力の導入など、優れた行動力・組織力を発揮し、当時としては類を見ない規模で、発掘を成功に導いた。発掘調査への参加者は、宿泊したものが延べ2083名、中高生を含む日帰りの者が延べ917名に達した。大学の枠を越えて参加した学生たちの中からは、その後全国各地の第一線で活躍する考古学者も多く現れた

遺跡の発掘は掘っておしまいというわけではない。8月31日、調査団は解散し、遺物はトラックに積まれて運び出された。その後、発掘に参加した各機関において整理作業が進められ、翌年には発掘調査の概報が刊行される。昭和38年(1963)8月には遺物は神奈川小学校へと移され、夏休みや日曜日を利用して整理作業が続行された。このようにして、ようやく1965年(昭和40)、『三殿台 横浜市磯子区三殿台遺跡集落址調査報告』(本文278頁、図版72枚)が刊行された。
 その後も今日に至るまで地道な室内での整理作業は続いている。

12.50年後に発掘当時の思い出を語る

(参考資料5「大昔のムラを掘る」2011年刊、62p~より抜粋)「・・・」は略した部分。太字は編集者による)

三殿台の思い出 重松和男(一班・東京大学)

櫓を担ぐ
撮影用の櫓を皆で担いで移動させる

大学3年次の夏前、主任教授から「夏休みに和島誠一先生の発掘に行きなさい」と、半ば強制的に三殿台への参加が決定されました。遺跡では、混成部隊の武研班(武蔵野地域史研究会の班)に加えられました。・・・班内は喧々囂囂(けんけんごうごう)とか、和気藹藹と表現されるような雰囲気ではなく、皆、疲れ果てて、教室に並べた僅かな寝具に身を横たえていたように憶えています。蚊帳も網戸もなく、虫に刺されっぱなしだったかと思うのですが、疲れて爆睡していました。
 混成部隊には、写真の森昭氏もおられました。彼については忘れられないことがあります。住居址の全景等を撮影するための櫓(やぐら)のことです。丸太を組んだ、盆踊りで太鼓を載せる櫓のようなもので、最下段の横木が外に伸ばしてあり、移動の際には、男性は作業を中断して、横木に取りつき、お神輿を担ぐように動かすのです。全面発掘で住居址は密集しているのですから、掘った住居址を越えて行かざるを得ません。段差を越えるのは、難儀なものでした。ところが、森氏は櫓の上に立ち、右だ左だと声をかけ、位置を決めるまで降りることはありませんでした。ヘルメットも安全ロープもなしでの、危険を顧みない勇壮な姿でした。また、私は彼の「踏み台」を拝命していました。これは、私がカメラの後ろで四つんばいになり、彼が私の背中に載って、カメラのピント合わせなどの操作をするというものでした。今のような軽い踏み台もなく、助手もいない状態で、私は自走式の便利な踏み台だったのでしょう。森君は小柄で軽量だったこともあり、苦にはなりませんでしたが。
 もう一つの思い出は、ダンプカーが通行したためか、とてつもなく土が固い住居址を担当した時の事です。スコップが全く入らず、困り果て、試しにツルハシの尖端で叩いてみたところ、床面できれいに分離して割れることが判明したのです。そこで、ツルハシで衝撃を与え、ブロックに割っていき、それらの断面に遺物がないか確かめながら、取り除いて行ったのです。後から考えてみれば、誠に乱暴なことですが、限られた予算や時間の中で急いでいた調査の雰囲気は分かっていただけるのではないでしょうか。誰からも注意されたり、叱られたりすることはありませんでした。

学史を共有した仲間たちとともに 関雅之(二班・國學院大学)

教室で寝泊まり
教室で寝泊まり

・・・お盆過ぎに三殿台遺跡の発掘調査班に合流した。
 教室の床にゴザを敷いてのザコ寝の宿泊よりも、3食のめしが食べられることに魅力を感じた時代であった。・・・宿舎に帰っても調査日誌・図面の整理があり、日誌は書き直しの連続で苦労をした。持参のバスタオルを腹にかけ、リュックを枕にして寝る。真夏の夜の教室では、窓を開放すれば大量の蛾や虫・蚊の侵入に苦しめられた。でも、3日もすれば、イビキも何も苦にならない。学年・大学は異なっても、考古学を学ぶ仲間と寝食を共にできたことは、かけがえのない青春時代の体験であった。
 8月後半の最後の調査班は月末までに分担地区の完堀が至上命令で、元海軍中尉・寺村光晴班長に気合を入れられ、月光を背に山を下りることもしばしばであった。毎日、遺物台帳と出土品・ラベルの点検と書き直しは深夜に及び、裸電球の下で苦戦をしていたのを思い出す。・・・調査終了日のコンパでは焼酎・合成酒に酔いしれて歌った。
 三殿台発掘は台地の全面発掘の最初であり、各時代の竪穴住居跡の発掘・実測作業は貴重な体験として、私の考古学研究に生きてきた。また、発掘にベルトコンベア導入の初体験もあった。・・・

吾が原点の三殿台 澤田大多郎(四班 日本大学)

オート三輪を救出
たびたび落ちるオート三輪車を救出

・・・この合同調査、ほぼ全屈された激しく重複する200軒を超す住居址群、その見るモノ、聞くモノのすべてが鮮烈で学ぶことが多い遺跡であった。
 今でも思い出すのは、あの炎天下での手押しのネコ(一輪車)もなく、竹製と石油などの長方形のブリキ缶を斜めに切断し把手をつけた箕(ちりとり)で仮置場へ繰り返し運ぶ排土作業、そのまとまった土砂を、運転免許取得の経験を積むためとはいえ、三日に一度は転落する三輪車の引き上げ作業(画像)、撮影のため丸太を番線で組んだ重たい櫓の移動など、苦しくも懐かしい光景ばかりである 。また、調査員50余名の昼・夕食の準備や作業服などの洗濯は地元の婦人会の方々のご協力があり、夕食後の銭湯でも時間帯をずらし、我々汚れた調査員を入浴させてくれた地元の人々のご理解と温かいご声援があったことを忘れてはならない。・・・

三殿台発掘のお茶汲み 小柴キク(岡村町)

・・・お昼頃、岡村小学校でお茶を入れて、大きなやかんを台地の上に持って行きました。夏休みで、またすごく暑い年だったので、すごい土ぼこりの中でみなさん発掘しておられました。とにかく皆さんホコリと汗で真っ黒でひどい姿でしたね。一生懸命作業されていて、お茶を持って行っても振りむくということもなく、汗みどろで夢中で掘っておられました。掘っている所には近寄れませんでしたが、お茶碗とやかんを置いておくと、学生さんたちがお茶の所に飲みに来て、自分でお茶を注いで飲んで、また作業に戻っていきました。赤土でほこりがひどいので、お茶を注いで置いておくこともできなかったんです。
 掘り上がった後はどんなものが出たかと思ったけれど、トラックで運び出されてしまったので見ることができませんでした。その後磯子区役所で少し見ることができました。

13.三殿台遺跡が国指定史跡となる

発掘が進んで三殿台遺跡の重要性が明らかになるにつれ、この遺跡を何とかして保存したいという声が高まった。横浜市は「遺跡の保護か学校の建設か」という難しい選択を迫られた。最終的には世論の後押しもあり、発掘完了の約2年後、昭和38年(1963)春に横浜市は遺跡保存の方針を決定した。遺跡東側の一部を削って鉄筋3階建ての校舎を建設し、台地上の遺跡主要部分を現状保存して、学校教材・観光資源・研究拠点として利用できるように整理するという解決策となった。調査団長であった和島誠一は、この間の経緯について「われわれは発掘に専念し、その結果を正しく市民に返すことを心がけただけであるが、周囲のエネルギーが結集して初めには両立し難い矛盾であった遺跡の保存と校舎の建設がこのような形で解決しうるということを発展する事態が教えてくれた」と述べた。市は1963(昭和38)年に和島に横浜文化賞を授与した
 1966(昭和41)年、三殿台遺跡は国の指定史跡となり、翌1967(昭和42)年、三殿台考古館が開館して、遺跡とともに公開された

14.遺跡の範囲は4倍だった!?

推定範囲
参考資料5、75pにある「推定範囲」

三殿台遺跡の範囲について(参考資料3.「三殿台南東斜面遺跡 試掘調査報告」 横浜市埋蔵文化財センター 1992より、抜粋引用)

国指定史跡三殿台遺跡は昭和34~36(1959~1961)年にかけて3次の調査が実施され、約10000㎡に及ぶ台地平坦部ほぼ全面に展開する遺構群が明らかにされた。

この時の三殿台遺跡の範囲に関する認識は、台地平坦部と貝層が存在する斜面部までと考えられていたようだ。しかし、報告書に掲載されている航空写真が物語るように、調査当時すでに周辺部の地形の改変が進行していた。東側は、滝頭小学校岡村分校(現岡村小学校)の建設にともなって大きく削平されており、北側は宅地化されつつあった。また、西~南側にかけての一帯は造成工事が進行中であった。つまり、この時点で旧状をとどめていたと言えるのは台地平坦部とこれに続く北側斜面部、南東斜面部のみであったのである。北側斜面部の貝層が遺存する部分は、その後公有地化され、保存されている。これに対して南東斜面部については、昭和44(1969)年に岡村小学校のプール建設に伴って一部が削平されるなど、これまであまり注意が払われてこなかった。
 平成3年(1991)の市道磯子5号線整備事業に伴う南東斜面の試掘調査により、台地平坦部との比高約10ⅿ の斜面部にも遺構の存在が知られた。調査地点の西側に隣接する民有地にも遺物の散布が認められ、遺構の存在が予想される。そして、すでに削平されている校地部分にも関連する遺構群の存在が推定されたのである。特に弥生時代後期に関しては、住居の小単位群が展開していた可能性はかなり高く、国指定部分の住居跡群と一体をなすものと考えられる。住居跡の垂直部分(編集者注:等高線の広がり)と旧地形を手がかりとして、遺跡の範囲を推定するならば、三殿台遺跡の総面積はおよそ40000㎡に達するものとみられる。

発掘された遺跡から見えるもの

遺構分布図
三殿台遺跡の遺構分布図(参考資料5、08p)

(下記掲載画像は主に三殿台遺跡のリーフレットより)

I.縄文時代

縄文時代のムラ

三殿台遺跡で発掘された縄文時代のムラ

古くから縄文時代の遺跡として知られていた三殿台遺跡だったが、予想に反して発掘された縄文時代の住居跡は10軒にも満たない数であった。後の時代に破壊されたものもあったと推測されるが、縄文時代の遺物量そのものも多くはなかった。縄文時代中期(約5000年前)の*加曽利 E 式期の住居跡は、台地の東と西の縁辺部に計5軒が見つかった。円形で石囲炉を持つ竪穴住居である。
 縄文時代後期(約4000年前)の住居跡は4軒が見つかっているが、はっきりとした形を残しているものはなかった。三殿台では土偶は見つかっていない。

*加曾利E式(かそりいーしき):関東地方の縄文時代中期後半の縄文土器に対する型式(様式)名である。
標式遺跡は千葉県千葉市若葉区桜木8丁目に所在する加曾利貝塚であり、北貝塚のE地点の土器をもとに山内清男によって命名された。(Wikipedia)

縄文住居跡
縄文時代の復元住居のモデル
となった跡。平面形は五角形。
中央近くに石で囲った炉がある。
骨角器
装飾品・貝刃
装飾品・貝刃
縄文土器

縄文時代の人々
 物を食べる時、蓄える時、何か入れ物が必要になる。縄文時代の容器は主として水や食糧の貯蔵を目的として作られたものなので、表面に施されている模様は、土器を丈夫にする補強のためでもあったようだ。それはいくつかの文様単位が組み合わされており、時期ごとに一つの流れを持ち、また、地域的にも特徴を残している。狩に男たちが出て行った後、女たちの大事な仕事の一つが土器作りだったといわれている。
 三殿台遺跡で発見された縄文人の住居跡内に残されていた土器から、少なくとも3形式の異なったものがあることが突き止められ、さらに、その発見状況から、縄文時代のムラは4回以上存在してしたと推定されている。
  貝塚を残した人々のムラは、台地の縁辺部にあったようだ。南東側の斜面に接して2~3軒の仲間が住んでいたようで、その家は、いずれも平面が円形に近いものだった。底を欠いた大型のかめを火床に埋め込んだり、部屋の中央に大きな河原石で火床を囲んだ炉を造ったりした。床は地面を40~50 cm 掘り込んであって、よく踏み固め、その上にゴザのような編んだ敷物を敷いていたらしい。
 男たちは毎日のように山へ狩りに行き、女・子ども達は山を降りて飲料水を汲んだり、すぐ下の入江の浅瀬の貝や魚を獲ったりして、家のところへ運び上げた。秋になれば、木の実を集めた。男たちの獲物はムラへ帰ると応分に分け、夕食は炉を囲んでの楽しいひと時だっただろう。ちなみに、縄文時代は海面が現在より3~4m高く、近くの市営地下鉄蒔田駅や弘明寺駅の辺りは海の中だった
 獲った貝は全てその時に食べてしまうのではなく、計画的に集めた貝を、集団の力でむき身にし、日干しにした干し貝を生産したのではなかったかという説がある。干し貝は、木の実と同じように貯蔵ができるし、狩に必要な石鏃の材料となる黒曜石を手に入れるための、物々交換の商品ともなったであろうと考えられる。
 縄文時代の住居跡は、その後に移り住んだ弥生・古墳時代の人々のムラづくりの時に破壊されてしまったようで、残念ながら、この辺りの縄文人のムラ跡を確認することはできなかった。

II.縄文から弥生へ

縄文時代から弥生時代への移り変わりは、日本の歴史の中で最も大きな変動のあったときと言えるだろう。約1万年続いた縄文時代に比べると、600年という弥生時代はとても短いものだが、その短い期間に縄文時代には無かった大きな変化が生活の中に起こった。

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縄文式から弥生式へ(参考資料2d、10pより)

不安定な生活をしていた縄文時代と異なった点は、これまでなかった銅や錫などの材料とした金属器や、石を鋭く磨き、それぞれの使い道にあった形の磨製石斧などの新しい道具類を使用したということ。さらに、水の利用をコントロールすることによって、自分たちの食糧を自分たちの手によって作り出す、水田農耕の生活が開始されたことである。このような生活が始められた時代を弥生時代と呼んでいる。
 米作りの技術や金属器などは、日本列島の中にいた縄文人たちの手によって生まれたものではなく、中国を起点として、朝鮮半島南部の人々によって、もたらされた。それは、今から2200~2300年前のことと考えられている。
 このような新しい文化は、九州の北部地域に初めて上陸し、非常な速さで広がり、縄文時代の伝統的な道具類を少しは残しながらも、人々の生活を大きく変えた。その変化は、瀬戸内地方を通って、近畿地方から濃尾平野一帯まではスムーズに広がってきたが、東海・関東・東北・北陸地方などでは、縄文時代の伝統的な文化が根強く、また、文化の通り道にあたる今日の東海道には、大きな川があり、これらが妨げとなって容易には農耕文化へ転換できなかったらしい。

自然による食料にたよっていた縄文時代に比べ、農耕により、たくさんの食糧を一度に蓄えることができ、遥かに安定した生活が営まれるようになった。そして、農耕地を大きくしていくために、いくつかのムラが協力して作業を行うようになり、次第に各地に耕地を基にした大きなムラが生れる。すると、耕地を原因としたムラとムラとの争いが起こり、ムラの人々をまとめるために強力な指導者が生まれるようになり、縄文時代とは異なった結合の強いムラが、出来上がってきた。農耕を中心とした弥生時代の文化は、ムラからクニへと発展する大きな要因となった

III.弥生時代

弥生時代跡

三殿台遺跡で発掘された弥生時代のムラ

弥生時代中期
 弥生時代の住居跡は150軒以上が発見されており三殿台遺跡の主体を占めている。この地域で稲作が開始された時期にあたる弥生時代中期後半(約2000年前)の住居は、台地の全面から60軒以上が見つかった。
 住居からは壺や甕など大量の土器に加えて、青銅製品など豊富な遺物が出土している。北部に位置する大型住居は、日本最大とも言われて注目を集めた。また発掘当時は用途不明とされていた溝状の遺構について、その後、方形周溝墓である可能性が指摘されている。(「<コラム9> 方形周溝墓」を参照)

弥生住居跡
弥生時代中期の楕円形の住居。
後期になると隅丸方形へ移行する。
大型住居跡

弥生時代中期の竪穴住居は楕円形ないし胴張りの隅円方形で4本柱を持っている。炉は地面を掘りくぼめた地床炉と呼ばれるタイプである。壁溝が同心円状に重複している例が多く、同じ場所で継続的に建て替えが行われたことを示している。
 長径13ⅿ を超える大形住居が見つかっており、その性格について集会所や首長の家などの説が出されている。(「<コラム10> 大きな家の謎」を参照)
火災にあった住居が多いこともこの時期の特徴だと言える。(「<コラム11> 火事と争い」を参照)

(上記写真は、2021年10月14日東側から撮影。弥生時代の大形住居跡が2つ、古墳時代の方形の住居跡が一つ重なり合っている。同じ弥生時代でも、かなりの時間差があるようだ。実際はもっと複雑に重なりあっている)

弥生時代後期
 弥生時代後期の竪穴住居跡も60軒以上が調査されており、分布はやはり台地全体に広がっている。後期の竪穴は胴張りの隅円方形と漸移的に変化する。中期に見られたほどの大型住居はなかったが、大小のバリエーションがあり、小型のものが多くなる。一般的な傾向としてこの時期の関東地方の遺跡では遺物の出土量が少なくなるが、三殿台遺跡においてもそれは当てはまるという。

弥生土器
弥生土器
青銅製品
青銅製の装飾品
石製品
石製品

弥生人の住まいと道具
 三殿台に住み着いた弥生人たちは、縄文人たちがしたと同じように、地面を掘り込んで屋根をかけた竪穴住居を建て、全ての家財道具をこの中に納め、炉を囲んでの日々を送ったと考えられる。三殿台にある弥生時代の復元住居は、その一般的な大きさを示している。そのような家が数軒、台地の上の平坦部にゆったりと建ち並び、家々の破風からは夕もやをぬって炊事の煙が立ち上っていたと想像される。

稲作を行うようになったことで、縄文時代のムラより人数が多く、仕事の量も内容もより複雑になった。当時の住居跡から、焼けて炭のようになった米粒が出土している。しかし、収量の少ない当時の水田で、たとえ気象条件に恵まれたとしても、米だけでムラ全体の年間食料を確保できたわけではなかったらしい。三殿台の306c号住居跡の柱穴に、弥生人が残した貝塚があったことからも、当然、魚や貝も獲ったであろうし、野生の色々な動物も食料として獲得したはずである。
 土器作りはやはり女たちの仕事だったようで、炊事に適した形の甕を考案し、粘土の配合も高熱に耐えられるような薄い土器を工夫するようになった。特に米作りが普及した弥生時代の後半になると、甕の安定と熱の効果とを良くする工夫をし、甕の底に土器を固定する五徳(ごとく)の役割を果たす台をつけた。この時代の住居跡から出土する甕形土器の表面には、しばしば煤の付着したものがあるので、このことを証明している。
 稲作とともに日本列島に持ち込まれた金属器の影響で、石器もより精巧になり、縄文時代のものに比べると、その種類は飛躍的に増えた。硬い石を選んで整形し、軟らかい石を砥石にして、鋭利な刃を付けたものを木の柄にはめ込んで使った。他所の遺跡から、石器を装着したと思われる木器が発見されている。しかし、やはり金属器は何にもまして便利だし能率的だ。次第に金属器が普及し、弥生時代の後半になると、石器の出土量は目に見えて減少している。そしてこれらの利器は、ほとんど狩猟と生活だけに使われていた縄文時代と違って、やがて武器としての新しい分野が開かれ、加えて装身具としても金属の利用も始められるようになった。弥生時代後期には石製木工具(「大陸系磨製石器」)がその姿を消し、鉄製品の出土量が増えることから、鉄器の普及が推測されている。

鈴木学芸員の説明によると、この時期に東日本では、武器としての矢じりは見つかっていない。また、三殿台にいた人々は、一段低い向かいの台地(三殿台は標高約55m、向かいの成美学園遺跡は約35m)のムラと密接な関係を取り結び、稲作を行っていたのではないかと考えられるそうだ。

三殿台の人々はなぜこんな高いところにムラを作ったのだろうか
 三殿台は標高50余mで、海は台地の麓まで入り込んでいる。この高台での生活は、飲料水の確保、谷合いでの水田作りや管理などに不便があるとはいえ、まず風通しが良く、天候の変化を敏感に受け止め、季節に応じての活動や、他の部族との抗争に対する防御という点で利があると思われている。かつて、登呂遺跡の地で、登呂のムラを一夜のうちに押し流し、水田を地下へ埋没させてしまった恐ろしい洪水が、ここにはないからだったとも考えられている。
 横浜市の緑区や港北区には、三殿台と肩を並べる規模の弥生人のムラがあり、特に朝光寺原遺跡(ちょうこうじばら)や、大塚遺跡では、ムラの周囲にとてつもなく大きな溝を掘りめぐらせていて、外敵に対する防御策を講じていたらしい。三殿台では、このような施設は発見されていない。この地形ではその必要性を感じなかったのかもしれない。
 弥生人たちは、およそ数世紀の間続いた弥生時代の間に次々に入れ替わり。何回ものムラを作ったことがわかっている。台風や豪雨のために、耕したばかりの水田を失い、他へ移った人々もあっただろうし、この天災から水田をうまく守り通して、何年もここに定着していた人たちもいたことだろう。ある時は、他の集団との戦いで追い出されたり、滅ぼされた人々もいたかもしれない。一つの集団がこの台地を占用していた期間は、長短さまざまだったのである。

人口の増加と集団形成
 稲作が定着した弥生時代の中頃(約2000年前)には、いくつかの母集団が移動しながら、人口の増加でムラが大きくなると、さらに小集団に分かれて、新しい土地を求めて移っていったと考えられている。特に、水田の確保は死活問題なので、一つの水系にいくつかの小集団が散らばる中で、それを統括する母集団の拠点集落が存在したようだ。三殿台のムラは、おそらく、こうした小集団の中心的な存在であったのだろう。
 大岡川と禅馬川の、二つの水系を分ける稜線上を占居した三殿台のムラは水の分け合いに大きな影響力を持ち、大昔の岡村の谷谷に米を作っていた人々を従えた族長が三殿台のムラ長だったのかもしれない。やがてムラムラの人達は、繰り返されるムラ同士の争いの中で生き残った、最も強い族長に従えられ、次の古墳時代の基礎を作り上げていくと考えられる。

IV.古墳時代

古墳時代跡
古墳住居跡
ほぼ四角い平面形で、4本の主柱で屋根を支える。
奥側の壁の中央にカマドの跡が見える。

三殿台遺跡で発掘された古墳時代のムラ

弥生時代末~古墳時代初期の住居は20数軒が見つかっている。古墳時代中期前半の確実な住居は見つかっておらず、集落は断絶していたのかもしれない。古墳時代後期になると、住居は方形でカマドを持つようになる。30軒以上が発見されているが、重機によって表土を除去する際に破壊されたものが相当数あった可能性がある。

古墳遺物
土師器(はじき)
土師器(はじき)

古墳時代の暮らし
 古墳に葬られた豪族のかしらや有力者、そしてその者たちのために古墳作りに汗を流した人々はどのような生活をしていたのだろうか。
 緑区の稲荷前古墳群を見てみると、古墳はそこに葬られた者の力を人々に誇示するために土を高く広く盛り上げたものである。したがって、ムラを見下ろすような小高い丘の上などに築かれるのが普通だが、稲荷前古墳群の周辺には、この時代のムラはあまり発見されていない。前方後円墳・円墳・方墳など様々な形をした古墳が約300年もの長い間、断続的に築かれた古墳群を作った人々の住まいが、よくわからないのはなぜだろう。今のところ、はっきりしたことは分かっていない。

ところで、古墳作りのために費やした日数は、どのくらいだったのだろう。仁徳陵古墳は、1日に1000人もの人々が働いたとして、およそ4年間もかかったと言われている。横浜市内にはこれほど大きな古墳はないが、それでもたくさんの人々が、たった一人の権力者のために長い期間古墳作りに駆り出されたことだろう。
 古墳に死者とともに葬られた品々は、当時の最も進んだ技術によって作られたものがほとんどで、権力を持っていた人々の豊かな生活が偲ばれる。ところが、その人たちの住まいも謎に包まれている。おそらく、それまでの竪穴式の住まいから、平地式のものに変わったこと、さらに、床を地床より上に設ける高床式の住居が、権力者の住まいとして用いられるようになったためと考えられている。
 それに比べて、一般の人々の住まいから発見される道具は、大変質素なもので、住まいも竪穴式がほとんどだった。人々は日常の農作業のほかに、古墳作りに駆り出されることもあり、身分の差がはっきりしていたようである。

住まいの仕組み
 古墳時代の住まいは、縄文時代や弥生時代のものと同じように竪穴式の住居が一般的だった。
住居を平面の形で見ると、円形や楕円形のものはほとんど見られず、大部分は方形を示している。そして、床面には、4本の柱をいけた穴が対角線上に掘り込まれ、壁の内側には幅の狭い溝が巡っている。この溝は、竹や葦・茅などを編んで土の壁に化粧する際に、その根元を埋け込むために掘られたもので、人が住んでいた時には埋め戻されて、溝の状態ではなかったそうだ。復原されている竪穴住居は、維持管理上、いずれも土の壁が見える状態で、しかも溝が巡らされている状態で展示されている。出入り口の施設も見学者の安全上、一木づくりのハシゴではなく、土の階段にしている。〈鈴木学芸員弁:復原住居を見学する際、事実と異なる点があることを念頭に見学していただければ幸いです。〉 住居の隅には「貯蔵穴」と呼ばれる四角形や円形の穴があけられている。また、古墳の在り方に変化が見られるこの時代の中頃には、それまでの「炉」にかわって、「かまど」が北側や西側の壁に築かれるようになった。
 縄文・弥生時代では、時期や地域によって住まいのかたちや部分的な構造が多少異なることがあったが、古墳時代になると、全国的にほぼ定まった形や構造を示すようになる
 古墳時代では、こうした竪穴式の他に、「掘立柱建物」と呼ばれる平地式のものも発見されている。

三殿台にも、古墳時代以前の弥生時代に「掘立柱建物」があった可能性があるが、確証が得られていない。鈴木学芸員により、その痕跡とも考えられるピット(柱穴らしき)から掘立柱建物の可能性が推測されているが、実証されるには再調査が必要とのことである。

カマドの仕組み
カマドの仕組み

炉からかまどへ
古墳時代中期の中頃、5世紀中頃を境に住まいの仕組みの中で大きく変わるところが出てきた。それは、縄文時代から長い間受け継がれてきた「炉」に変わって、粘土や石でこしらえた「かまど」が住居の一角に作り付けられるようになったことだ。このかまどは、大きめの(かめ)で水を沸かし、その上に(こしき)と呼ばれる底の空いた容器を置いて、米などの穀類を蒸していた。かまどを使うことによって、それまで食物を煮る方法だけでなく蒸すことも加わったので、食生活に大きな変化をもたらした。こうしたかまどは、その後、千数百年にわたって日本の住まいの炊事場の中心的な施設として受け継がれていった

ムラの姿
 古墳つくりが始まった頃から、6世紀中頃にかけてのムラの様子は市内で発掘調査された遺跡が少ないことからあまりよくわかっていないが、いくつかの調査結果から考えてみると、一つのムラはせいぜい多くて4~5軒の竪穴式住居から成り立ち、大きな河川の流域に沿った小高い台地の上で、生活をしていたようだ。
 ところが、6世紀の終わり頃から7世紀初めごろになると、遺跡の数は増え、たくさんの竪穴式住居が作られるようになり、しかも、ムラの跡は、河川をのぞむ低い段丘の上や、谷奥の丘陵といった、それ以前には見られなかったところからも多く発見されるようになった。こうしたムラの増加と広がりはスキ・クワ・オノ・カマなどの鉄製の道具(農工具)の発達と普及によって、それまで困難であった沖積地の開発や谷奥の田畑の開墾ができるようになったからと考えられている。

三殿台考古館 ボランティア募集!

保管室
ボランティアの方による土器の修復作業

横浜市三殿台考古館には、発掘された遺物、発掘当時の写真、実際の貝塚など、遺跡に関する様々なものが展示されている。また、弓矢うち、火起し、勾玉づくり、土器づくりなどを体験できる。事前に予約が必要となる。

遺物の収蔵庫では、今も地道に土器などの修復作業が行われている。こうした作業をお手伝いしてくださるボランティアを募集しているそうだ。興味のある方は、連絡してみたらいかがでしょう。  

連絡先:045-761-4571
Email:santonodai@yokohama-history.org

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