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特集   森林太郎(森鴎外)と脚気(かっけ)惨害  

森鴎外
森鴎外(森林太郎)

現在、東京都文京区にある森鴎外記念館では、『生誕160年没後100年 鴎外100年の森へ』が行われ、見た人からは内容が充実していて見応えがあったという感想が聞かれた。

誇らしく歌える森鴎外作詞の横浜市歌
 果たして日本中で、自分の住む町(市町村)の歌を知っている・歌える住民がどのくらいいるのだろうか?そもそも自分の町に歌があるのかも怪しい。あるとしても、歌えるだろうか? それが―「横浜では普通に歌えます。」先日のテレビ番組(2022/3/3秘密のケンミンSHOW)でも、そのことが放映されると、他市・他県の人々からはびっくりされていた。横浜市歌 (Youtubeへリンク)
 横浜開港50周年(明治42、1909年)のさいに、横浜市が東京音楽学校(現・東京芸術大学)に仲介を委託し、南能衛が作った旋律の上に、森が歌詞を作り、完成させた。横浜の発展を躍動感あふれ、神々しくも歌い上げるその歌は、曲・詩とも素晴らしく、ずっと市民に愛され続けてきた。学校の式典では校歌とともによく歌われているので、自然に子供たちの頭に入ってしまう。と同時に「森鴎外」という明治の文豪の名前も憶えてしまうのだ。
 今回の特集は、この文豪としての森鴎外ではなく、本名森林太郎が陸軍軍医として深く関わった脚気の悲劇についてお伝えする。

 

Author: ムトウトシオ

1.森林太郎(森鴎外)という人物

森林太郎
ドイツ留学時代の若き森林太郎

森林太郎(1862-1922)は、文久2(1862)年、石見国津和野藩(現・鳥取県津和野市)の藩医家の嫡男として生まれた。幼いころから神童と言われるほどの秀才で、東京医学校(現・東京大学医学部)を飛び級により19歳で卒業し、陸軍の軍医になった。
 その後、陸軍のエリートとして明治17(1884)年、22歳の時、ドイツ衛生制度の調査のため、ドイツ留学を命ぜられた。当時ドイツ医学は学術・研究面で世界トップレベルにあった。中でも細菌学の巨人、ロベルト・コッホ(1905年ノーベル賞受賞)に師事したことが、その後の脚気病細菌説の主張に大きく影響したと思われる。
 明治21(1888)年、帰国後、海軍の高木兼寛の栄養学説への反論の急先鋒として舌鋒鋭く攻撃するようになった。
 ほぼ同時期から、作家 森鴎外として、本格的な文筆活動が始まる。外国文学などの翻訳も手掛け、また熱心に評論的啓蒙活動も行った。とりわけ、明治23年、自分の体験談をもとにした「舞姫」を発表。日本人と外国人が恋愛関係になるこの「舞姫」は、読者を驚かせたとされる。 (右コラムまたは下方「エリーゼと過ごした横浜・糸屋の一夜」を参照)
 明治40(1907)年、 陸軍軍医総監・陸軍省医務局長となる。
 明治42(1909)年(47歳頃)、横浜開港五十年記念で森林太郎(鴎外)作詞の横浜市歌が制定される。
 大正11(1922)年、死去。享年60。

2.その墓に氏名以外何も記されていないのは何故なのか?

森林太郎(鴎外)の墓。
墨田区向島の弘福寺にあった
が、関東大震災後昭和2年三鷹市
の禅林寺に改葬

森林太郎(森鴎外)の遺言のなぞ
 森は腎臓結核で大正11年7月9日死去。死の三日前、親友に次の遺言を託し、一切の栄典表記を辞した。
「・・・余は石見人森林太郎として死せんと欲す。宮内省陸軍 皆縁故あれども、生死別るる瞬間 あらゆる外形的取扱いを辞す。森林太郎として死せんとす。墓は森林太郎墓のほか一字も彫るべからず。宮内省陸軍の榮典は絶対に取りやめを請ふ・・・」
 墓は遺言どおりとなった。

森は最後まで医務官僚としての人生に拘っている。それにも関わらず、一切の栄典表記を辞したのはなぜか?これについては中野重治、松本清張など著名な作家を含め、様々な説が示されている。しかし、多くの人が納得のいく説明はなく、「森の遺言には重大な秘密がある」(大谷晃一著「鴎外、屈辱に死す」人文書院、1983年)が大方の認識であった。これらの説はいずれも森の脚気惨害への関りを指摘される以前のことである。その後の新解釈について、そして筆者の私見は、最後に示したい。

3.明治時代・軍隊で蔓延した脚気という深刻な病

明治時代初めのころ、軍における病死の最大原因は脚気だった。脚気は、心不全によって足のむくみ、神経障害によって足のしびれが起きることから脚気と呼ばれ、最悪の場合は死亡に至る。明治・大正時代には、結核と並ぶ二大国民亡国病と言われた。
 明治の陸海軍で蔓延した脚気の原因として伝染病説と栄養欠陥説があった。伝染病説は陸軍軍医 石黒忠悳(ただのり)、森林太郎らが主張したもので、明治17(1884)年頃から日本医学界の主流となっていた。栄養欠陥説は海軍軍医 高木兼寛(たかきかねひろ)の持論であり、海軍はこれによって兵食を改善し、明治18(1885)年頃から海軍の脚気を根絶した。
   しかし、伝染病説を主張した陸軍における脚気死亡者は数万人という数に上った。大正期に入るとビタミン(ビタミンB1)の不足が原因と判明し、治療や予防が可能となった。ちなみに、肉・パン食の欧米には脚気は起こっていない。
 そのいきさつを詳しく見ていきたい。

龍驤艦と筑波艦の航海図(文献⑤)

4.海軍における脚気改善への道

青壮年の集団である軍隊での脚気は深刻であった。明治14(1881)年度における東京及び横須賀の両海軍病院の入院患者の3/4はが脚気患者であった。

龍驤艦と筑波艦の航海結果

明治15(1882)年、朝鮮の漢城(ソウル)で起った壬午(じんご)事変を受け、海軍も派兵した。朝鮮に派遣された金剛、比叡などの戦艦4隻内で脚気患者が大量発生(乗組員の1/3)し、戦闘力を失った。
 明治14(1881)年、龍驤(りゅうじょう)艦が、少尉候補生を乗せて遠洋練習航海のため出航し、ニュージーランド→チリ→ハワイを回った(航海図)。ここで脚気が大流行した。数値は表の「龍驤」欄に示すとおり。

英国留学時代の高木兼寛

海軍における脚気の救世主・高木兼寛
高木兼寛(たかき かねひろ 1849-1920)は、嘉永2(1849)年、薩摩藩郷士の長男として日向国(現・宮崎市)に生まれた。明治3(1870)年、薩摩藩によって創設された鹿児島医学校に入学すると、校長のイギリス人W・ウィリスに認められて教授に抜擢される。(ウィリスについては、当サイト「歴史すぽっと」内「ウィリアム・ウィリスPart 1, Part 2」に詳細あり
 明治5(1872) 年、海軍軍医となり、英国聖トーマス病院医学校(現・キングス・カレッジ・ロンドン)に留学。明治13(1880)年帰国後、海軍医療の中枢を歩み、明治18(1885)年には海軍軍医総監(海軍軍医の最高階級)を歴任し、明治21(1888)年日本最初の医学博士となる
 この頃、脚気と栄養素との因果関係の実験観察を行い、海軍の兵食改革(白米から洋食+麦飯)を行い、海軍から脚気を根絶した。(この経緯の詳細は後に示す)
 一方、明治15(1882)年、芝に貧しい患者のための施療病院として有志共立東京病院を設立。愛宕山下に移転し、明治20(1887)年に総裁に迎えた昭憲皇太后から「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と改称して高木が院長に就任した。明治36(1903)年高木のつくったわが国最初の私立医学専門学校は大正10(1921)年に東京慈恵会医科大学に改称した。大正9(1920)年死去。享年70。

海軍における脚気発生率(文献⑥)

筑波艦による脚気予防実験
 高木兼寛は、脚気の原因は食物ではないかと考えていた。明治16(1883)年、練習艦筑波が航海演習に出る際に脚気予防試験を行った。航路も航海日数も龍驤と同じ。食事はパン、肉、コンデンスミルクとした。結果は先の表に示すとおり一目瞭然、洋食によって脚気が予防できることが明らかになった。 海軍では明治17(1884)年から洋食を導入した。兵士がパンを嫌がったので、翌年、パンから麦飯に変更した。チャートに示す通り、海軍では明治18(1885)年から殆ど脚気患者は発生しなくなった。

5.陸軍の脚気伝染病説

陸軍でも明治初期より脚気患者は多く発生していた。海軍より兵員数が多い(海軍の10倍以上)だけにより深刻であった。しかし、陸軍では高木の脚気食物原因説は殆ど顧みられることはなかった。陸軍軍医だけでなく医学界の権威ベルツ医師(ドイツから東京医学校(現・東京大学医学部)に招聘)も伝染病説を採っていたためである。海軍が兵食改革運動をしていた頃、陸軍軍医のトップにあった石黒忠悳が主導して兵舎内の換気をよくするなどの対策を取っていた。石黒は脚気伝染病説を信じ、食物原因説には強く反対していた

陸軍軍医総監 石黒忠悳

脚気伝染病説の石黒忠悳
 石黒忠悳(いしぐろただのり 1845-1941)は、弘化2(1845)年、奥州(福島県)に生まれ、16歳のとき、越後国(今の新潟県小千谷市)の石黒家の養子になった。幕府医学所(後の東京大学医学部) を卒業後、明治4(1871)年、兵部省に入り草創期の軍医となった。佐賀の乱、西南戦争に従軍。明治23(1890)年、陸軍軍医総監に昇進するとともに、陸軍省医務局長に就任した。日清戦争のとき、医務局長として大本営陸軍部の野戦衛生長官をつとめた。日清戦争での脚気惨害の責任が指摘されている。明治30(1897)年に医務局長を辞任した(陸軍の脚気惨害による事実上の引責辞任)。森林太郎の上司であった。
(参考)陸軍軍医総監と陸軍省医務局長:陸軍軍医総監は階級名で軍医官の最高階級。大正10(1921)年、軍医中将に改称された。陸軍省医務局長は陸軍軍医の人事権をにぎる役職のトップで、軍医総監が医務局長に任用されるのが原則であった。

秀才軍医・森林太郎の抜擢と活躍
 陸軍の脚気対応方針を決めるため、明治17(1884)年、石黒は陸軍きっての秀才・森林太郎をドイツに派遣した。森はドイツで脚気調査を行い、明治18(1884)年、論説「日本兵食論大意」を発表した。その要旨は:
 ①食制の変更は5千の海兵には行い易いが、5万の陸兵には行い難い。
 ②洋食を調理する機械(特にパンを焼く炉)は軍艦に備えやすく、輜重車には備え難い。
 ③日本と西洋の兵食を比較してみても大差は見られない。
 よって米食で十分の栄養を得ることができ、兵士への洋食の支給は行う必要はない。森の結論は陸軍で大歓迎された。しかし、この論説は森の留学先の師の一人ホフマンらの研究論文と明治15(1882)年頃の日本国内論文を種本として書かれた、「まったくの机上作」だった。
 一方、現地陸軍部隊(仙台、大阪、広島、熊本などの各鎮台など)では麦飯を採用し、明治20(1887)年ころには脚気が激減していた。しかし、陸軍医務局ではこの事実を認めず、あくまでも脚気は伝染病であり、麦飯とは関係ないとの考えを変えなかった。
 明治21(1888)年に森は帰国し、「陸軍兵食試験」を行い、「カロリー値、タンパク補給能、体内活性度」のすべてで米食が最優秀という結論を出している。この試験成績は後々まで引用され、陸軍兵食の正当性の根拠として利用された。

6.陸軍VS海軍 日清・日露戦役

海軍では脚気の発生を警戒して白米の支給に制限を加え、麦飯を支給したので軽症者は認められたが、重症例の多発はなかった。
 一方、陸軍では、1人1日「白米6合+副食」(白米至上主義で副食軽視、副食は沢庵、梅干しが主)と食糧に変更はなかった。このため、日清戦争(明治27-28年)の戦死者は977人に対し、傷病患者約28万人、患者死亡約2万人であり、脚気患者は約4万人、内死亡者4千人(死亡率10%)と、前代未聞の大流行が起こった。しかし、陸軍首脳はまだ懲りなかった。

旅順攻略戦(明治37年)では、海軍の陸戦隊1000名が陸軍の指揮下に入り一緒に陸戦を戦った。この時、白米主食の陸軍が膨大な脚気患者を出したのに対し、兵食改革を行った海軍からは殆ど患者は出なかった。この事実は、兵食以外は条件が全く同じであることから、偶然にも比較試験となり、高木学説の正しさを証明した。

臨時脚気病調査会(文献⑥)

日露戦争(明治37-38年)が起こると、森は第二軍軍医部長(陸軍軍医No.2の役職)として従軍。そこで前線の軍医から麦飯を支給すべきとの進言があったが、森はこれを黙殺した。陸軍全体としては、延出征数約100万人中戦死者4.6万人、傷病患者35.3万人、その内脚気患者25万人という驚くべき数字になった。しかも、戦病死者3.7万人中、脚気による死者が約2.8万人(死亡率11%)にのぼった。
 この未曽有の大流行に陸軍省は驚愕し、明治38(1905)年3月、麦飯給与に関する訓令「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」が下された。しかし、医務局は最後まで脚気対策に麦飯を認めなかった。そして、明治40(1907)年、森林太郎は陸軍軍医総監・医務局長に就任した

日露戦争後、陸軍の脚気対策は社会から大きな批判を浴びた。国会での議論を経て、明治41(1908)年に「臨時脚気病調査会」が発足した。メンバーは森を会長として、陸海軍医、帝国大学教授など。この調査会では森を始め、伝染病説を採るメンバーが牛耳っていため、麦飯効果は勿論、実験に基づく結果でさえ否定された。
 一方この頃、日清・日露戦役を通して、世論の大多数に麦飯の脚気防止効果が認められていた。当時オランダ領ジャカルタでもベルベリ(脚気)が多発していたため、明治41(1908)年、森は現地に調査員を派遣した。ところが現地ではベルベリは殆どなくなっていた。オランダ人医師エイクマンらは高木の調査研究から、明治28(1895)年にベルベリの病原は精白された米食が原因であることを明らかにしていた。この論文はオランダ語で書かれていたためか、日本では見過ごされていた。
 帰国した調査員は、臨時脚気病調査会に米糠が脚気に効果的だと報告する。しかし、調査会でこの報告を支持する者なく、会長の森は調査員を罷免した。

大正元(1912)年、高木説を参考にオランダのフンクが米糠の有効成分を抽出しビタミンと名付け、脚気はビタミン欠乏症であることを突き止めた。大正3(1914)年、森は新たな医学書「衛生審篇」を刊行。脚気の項目は疫種(伝染病)に分類されていた。大正5(1916)年、森は陸軍省医務局長を辞任し、予備役となった。同時に調査会の会長も辞任したが、同調査会の臨時委員として没年まで務めた。

7.終焉を迎えた論争と結論、しかし…

疫学は、個人ではなく集団を対象として疾病の発生原因や流行状態、予防などを研究する学問である。海軍軍医高木兼寛は英国で学んだ疫学的手法によって脚気は栄養の偏りが原因であることを明らかにした。高木は日本の疫学の祖と言われている。

明治の陸海軍で流行した脚気は、多分に人災であった。特に日清・日露戦争中、陸軍で流行した脚気は医務局トップの判断ミスによって起きた惨害であった。陸海軍の脚気患者数、死亡者数の差は両軍の脚気対策への考え方の差が明瞭に現れたものであった。
 日清戦争終結の頃から、海軍は白米に固執する陸軍を批判。陸軍VS海軍のメンツをかけた論争が始まった。脚気論争の背景には海軍軍医・高木兼寛の英国医学(臨床・現場主義)と陸軍・東京帝大医学部&森林太郎のドイツ医学(研究・理論重視〔因果関係を説明できないものはダメ〕)という医学教育方針の根本的な違いがあった。当時、日本の医学界の主流はドイツ医学であった。さらに、陸軍の背景にあるのは、長州閥。津和野出身の森は長州閥、ドイツの研究医学であった。
 森は医務局で脚気問題の中心となり兵食を研究してきた第一人者であり、陸軍脚気問題の実質的な責任者であった。麦飯に効果がある事を認めず、何度も現地陸軍部隊からの上申を握り潰してきた。森は死ぬまで麦飯の効用を認めなかった。森のスタンスは、上司の石黒忠悳が頑強な立場で一歩も引かなかったため、後年に至っても論を変えることができなかった。軍医トップの石黒、森は長州閥トップの山縣有朋と懇意であっためか、明確な形で責任を取ることもなかった

一方、海軍の背景にあるのは薩摩閥。宮崎出身の高木は薩摩閥、イギリス臨床医学であった。海軍でも始めは兵食改革に消極的ではあったが、筑波艦の脚気減少の結果を見てからは態度が変わり、積極的に兵食改革を行ったことにより患者数が激減した。ビタミンB1欠乏によって起こることが分からなくても疫学的調査により予防し、ほぼ撲滅まで追い込むことができた。

森林太郎の高木説への反論
高木の栄養学説には:
 ①学問的裏付けがないこと(病気のメカニズムが説明できないこと)、
 ②筑波艦の実験航海の結果は過去の龍驤艦データとの比較であり、単なる偶然の可能性がある。
 ③従って、筑波艦の実験では従来通りの兵食を摂らせる群(コントロール)も設定して比較すべきだった。

これに対して高木は、当時臨床試験の方法や疫学的な証明方法が確立されてなかったこともあり、反論できなかった。しかし、高木は原因不明でも疫学的手法によって脚気予防に成功したこと(英国医学の臨床実証主義)に自信を持っていた。食物中のある栄養素の欠損によって脚気が発症することを確信していた。
高木の学説がビタミン発見の道を開くことになる。明治41(1911)年、米糠成分(後に化学構造が解明されビタミンB1と命名)に脚気予防効果があることが発見され、白米摂取が脚気の原因であることが証明された(右コラムまたは下方「高木兼寛と鈴木梅太郎とビタミン」で詳述)。

陸軍VS海軍の対立は脚気論争終息後も長く尾を引き、太平洋戦争においても、米軍は殆どの作戦で陸海軍の共同作戦を行っていたのに対し、日本軍は陸海軍の連携が巧くいかず、戦況の悪化を招いていったことは周知のとおりである。

8.論争まとめ

これまでの各説を大まかにまとめてみた。項目(4)にて、根拠となる文献(〇中に数字)を表示している。

(1)事実関係

  1. 森林太郎は脚気の原因として細菌説を主張し続けた。(文献②、③、④、⑤、⑥)
  2. 海軍は軍医高木兼寛の提唱により糧食の改善(白米から麦飯・パンへ)。明治18(1885)年以降、海軍内での脚気はほぼ根絶した。(文献②、③、④、⑤、⑥)
  3. 日露戦争における陸軍での脚気の死者は2.8万人に上った。(文献②、③、④、⑤、⑥)

(2)森林太郎「悪玉説」

  1. 日清戦争が始まる頃には、陸軍内部からも白米から麦飯やパンに変えるよう要望・進言があったが、森は石黒忠悳(森の上司、細菌説を主張)と共に拒否した。(文献②、③、④、⑤、⑥)
  2. 森は高木兼寛を「イギリスかぶれの偏屈学者」と非難を浴びせていた。(文献②、④、⑥)
  3. 日露戦争後、森は陸軍内で最高位の要職に上り詰めていたので、森に反論する者はいなかった。(文献⑥)
  4. 森の知的誤り、傲慢さ、強いエリート意識が大勢の陸軍兵士の死を招いた。(文献①、③、⑥)
  5. 文献②は森を擁護しすぎ。(文献⑤)

(3)森林太郎「悪玉説」を否定または弁護

  1. 日露戦争の頃、海軍の20倍以上の兵員を擁する陸軍では、麦は白米に比して変質し易いため、広大な野戦で麦の保管・配食は困難であった。(文献④、⑥)
  2. 白米信仰(白米は尊く、麦飯は卑しい)の下、国家への崇高な任務を果たし、明日の命もしれない兵士に白米を食べさせたいと願う指揮官たちの思いがあった。(文献④、⑥)
  3. 森の医学業績についての記述は疎漏で錯誤が多いが、日清・日露戦争の頃、軍医部長にすぎなかった森は陸軍の衛生に関する権限を持っていなかった。責任は石黒、小池正直(日露戦争時衛生の総責任者)にあり。森の責任にするのは陸軍の組織を知らない方向違いの論である。(文献②、⑤)
  4. 脚気の原因物質も機序(=しくみ)も知られていなかった当時、森を非難するのは後出しジャンケンと同じ。(文献④) 

(4)上記諸説の元となる主な文献・資料

     
  •  山本俊一「人と業績10 森林太郎」 学会誌「公衆衛生」 45巻4号 (1981年)。著者=東京大学医学部教授。初めて森林太郎の誤りが深く関わっていた事実を指摘。
  •  
  •  山下政三「鴎外 森林太郎と脚気紛争」日本評論社、2008年。著者=東京大学医学部第一内科学教室に入局、1988年まで在局。森林太郎の脚気への関りを総合的にとらえた最初の大著。
  •  
  •  大井玄 「軍医森林太郎と脚気」、http://www.fuanclinic.com/ooi_h/ooi_q57.htm、2009。著者=東京大名誉教授(公衆衛生学)。森林太郎の過ちを厳しく指摘。
  •  
  •  荒木肇「脚気と軍隊 陸海軍団の対立」並木書房、2017年。著者=文筆家(軍隊・自衛隊関連著書が多し。
  •  岡村健「脚気論争の光と影―陸軍の脚気惨害はなぜ防げなかったのかー」梓書院、2020年。著者=九州がんセンター名誉医院長。陸軍&森林太郎が脚気惨害を防げなかった理由を考察。
  •  NHK「科学史 闇の事件簿“ビタミンX戦争X森鴎外”」、2017年6月放映。仲野轍(大阪大院医学系教授)、佐々木敏(東京大院医学系教授)、柴田克己(甲南女子大学教授、基礎栄養学)、岡本拓司(東京大准教授(科学史)が解説。森林太郎の過ちを厳しく指摘。

9.墓の謎に迫る

大正11(1922)年、森林太郎死去。生涯 脚気細菌説の誤り認めなかった。また、責任を問われることもなかった。 しかし、森が死んで2年後、大正13(1924)年に調査会は「脚気の原因はビタミンBの欠乏である」と認め、調査会を解散した。海軍の高木兼寛が脚気の原因が白米にあるという事を突き止めてから41年後、ビタミン発見から12年後のことであった。

遺言の新解釈(文献⑤、岡村書)
 石黒忠悳、小池正直(日露戦争時の医務局長)は日清・日露戦役勝利の功績から男爵を授かって、華族に列せられた。両者の授爵は脚気の原因が明確になる前のことである。しかし、「臨時脚気病調査会」活動の中で、彼らが主張した脚気伝染病説の誤りが明らかになってきて、日清・日露戦争における陸軍脚気惨害の責任は両戦役時の陸軍医務局長だった石黒、小池にあったことが露呈された。しかし、それは彼らが辞任した後のことで、森は不運にも陸軍脚気惨害責任の矢面に立つことになった。しかし、森は死ぬまで自己の主張の誤りを認めず、反省の弁もなかった。
 石黒、小池らと同様に、森も授爵を期待していたし、実現すると思っていた。だが、授爵は実現しなかった。石黒、小池と異なるのは自分が軍医トップの時に脚気白米説が確実になり、学問上の敗者になったことである。脚気惨害の責任は元上官・石黒、小池、東京帝大教授も一蓮托生であり、自分だけに責任を負わされるのは納得がいかない。森は最期に臨み、男爵になれなかった敗者の意地として、陸軍の栄典を誇示しないと意思表示したのではないだろうか。

森は何故袴をはいて死んだか?についても、「遺言のなぞ」と同様に諸説あるようだ。死の床にあっても、「授爵を待っていたから」と言う説が有力だが、岡村書では、森が亡くなる前日、宮中からお見舞いの勅使が来た時に、従二位に昇叙されることを知らされたという。森が袴をはいていたのは、宮中における叙位の礼儀に対応したためだ、とされている。

筆者の私見
 この遺言は明らかに森の脚気対応と関連があると思われる。森は「臨時脚気病調査会」が発足(明治41年)した頃には、自説の脚気伝染病説は誤りであることを認識していた。脚気論争に敗北したことにより、当時まだ珍しかった医学博士の学位を若くして授与され(後年文学博士も)、陸軍軍医総監(中将相当)にまで上り詰めて築き上げた輝かしい経歴が、木端微塵に砕け散ってしまった。更に、自説の誤りにより陸軍兵士3万余人もの脚気死亡者を出してしまったことに対し、公式に自身の誤りを認めることはなかったが、内心自責の念に駆られていたことは想像に難くない
 エリート意識が人一倍強かった森林太郎には、このような不名誉を後世に晒すことは耐えられなかったに違いない。このため栄誉ある肩書の記載を一切拒んだのではないだろうか。

(了)

編集者より:明治の文豪・森鴎外の生誕160年没後100年のこの機に、私たちは明治時代の歴史を振り返ることとなった。帝国陸軍においても、海軍の改善法にならっていたなら、何万人いや何十万人という脚気患者・死亡者を救えたのは確かだ、と100年経ったこの時代にようやく言えるようになった。

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