横浜歴史さろん

コーヒー コーヒー
絵図「御貿易場」

お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。

絵図「御貿易場」(開国開港期:1854-1867) (表示スペースに合わせるためやや横広に修正) 横浜市中央図書館所蔵
左上方の白い建物「異人屋鋪」とあるのが、英一番館らしい

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    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART Ⅰ) ―彼が夢見たのは鉄道技師、しかし来日時は灯台技師―
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    ・神奈川落語② 三人旅より神奈川宿
    ・神奈川落語③ 新作落語「横浜(はま)の雪
    ・神奈川落語④ 抜け雀
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特集  横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社

―ジャーディン・マセソン・ヒストリー, Part2―

前回のPart1では、主に、ジャーディン・マセソン商会の成立ちと、開港時の日本の生糸取引についてのお話でした。今回は、引き続き開港直後に起った金貨流出騒動におけるジャーディン・マセソン商会と、長崎でジャーディン・マセソン商会の代理店となり、大々的に茶輸出や武器取引を行ったグラバーについて述べたいと思います。

コハクチョウ

6.金貨輸出の狂乱(前回の1~5の項目番号の引継ぎ)

幕末の金貨輸出は狂乱的様相を呈していたそうです。とにかく金貨を日本から持出して、金塊(地金)として海外で売れば、確実にものすごく儲かるからだったのですが、専門家の研究によると、その期間はたったの半年間(1859年9月から半年間)ほどだったようです。流出したのは、以前は100万両とも言われましたが、現在の研究では、10万両台といわれています。いずれにしろ、金の大量流出は幕府を非常に悲憤慷慨させ、この影響はのちのちまで物価の高騰を招き、明治政府をも悩ませることになりました。(ここでは、通商条約での通貨問題の中身ついては難しくなるので言及しません)

こんな事態になった原因として、「ヤング・ジャパン」(J. R. ブラック著、1880年刊)には、「日本人は数百年間、あらゆる物において、他国とは違った独自の、時には反対の標準を採用していた。・・・日本以外の国では、金と銀の比率は、約1対15であるのに、日本では、その通貨標準によると、1対6となり…このことは一見しただけで、・・・確かに混乱が起こることを示している。・・・外国人がこんな割合で手に入れることができる金は、おそらく1年に12回資金を運転し、その度に少なくとも150パーセントの利益が上がるという見込みで、争われることは、どんなに頭の悪い人間にも、はっきりしているはずだ。」とあります。つまり、外国貿易について初心者の日本は、国外でのルールに疎く、それが自国にどのような影響を与えるかという事がよくわかっていなかったのかもしれません。

開港当初、取引に必要な貨幣については幕府なりに知恵を絞って、貿易用の貨幣を作り対策を講じたのですが、これは外国人に損失が生じるため失敗し、通商条約通りに進めたため、結果的にこの金銀比価の違いで、日本を大損に追い込むことになったのでした。「(ヤング・ジャパンより)待ち望んだ取引にあたっては、殺到し、互いにつかみ合いまでしながら、厚かましくも、本人の名前で要求できる額を最大限に要求してしまっても、そのうえに架空な名前で追加要求した。このこと自体、争奪戦という性質を示した。・・・商人たちは全く逆上してしまって、ドルを一分銀に換え、これを金の小判に換えること以外は、ほとんど注意を払わないかに見えた。」

金貨の大量流出のカラクリ
金貨の大量流出のカラクリ(日本銀行 金融研究所 貨幣博物館ホームページより)
当時の金銀の価格は、日本が金1g≒銀5g、外国では金1g≒銀15gで、日本では金が割安であったため、日本から海外へ金貨が大量に流出した。
1860年、万延の改鋳で純金量を1/3に減らし金銀比価を国際水準としたことで、海外への金貨の大量流出は収束した。

メキシコドルを一分銀に両替し、さらに小判に両替し、それを国外に持ち出して売却すれば、多額の利益となるのだから、外国商人たちは熱狂し、ジャーディン・マセソン商会(以降、JM商会と略記)、デント商会などの有力商社は上海から横浜へ多額の資金を送って、金貨買付をしました。同時にこれには、小判を持ち込む多くの日本商人たちも存在していたということなのです。

浜田彦蔵(ジョセフ彦として有名)は、その自叙伝のなかで、「この九月という月は、中国の各港や他の土地から商人や貿易業者がどっと神奈川に殺到して、その結果、横浜の居留地は次第にその大きさを増しはじめ、商売は日一日と活況を呈して来た。・・・今月の間に小判と日本刀剣のあきないが異常に盛んになった。・・・地元の商人がたくさんの小判を羽織の折目に隠し、夜陰に乗じて外人地区にやって来るのだった。・・・」と、1859年の9月中に金貨ブームが到来したことを述べています。JM商会も手持ちの資金がなくなると、高利の借金をしてまで、金貨買付をしました。

ラザフォード・オールコック
ラザフォード・オールコック
初代駐日総領事、同公使を務めた
W. ケズウィック
ウィリアム・ケズウィック
JM商会の初代横浜店責任者

金貨の大量流出に頭を悩ました幕府は金貨取引に必要な一分銀の引替を制限しました、英国公使オールコックも黄金投機に奔走する商人たちの姿に、金貨あさりは通常の貿易を著しく阻害すると、やむなく幕府の制限策を支持しました。ヤング・ジャパンに、「貿易といえるようなものは、ほとんどなかった。なぜなら小判の奪い合いは、取引といえるようなものではなかったからだ。」とあるように、通常の一般貿易を行うよりも、外国商人たちは黄金熱に浮かれて金貨集めに狂奔していたのでした。

JM商会も出し抜かれまいと、金貨集めに参戦していたものの、この間、JM商会のケズウィックはオールコックから相談を受けたと思われる書簡があり、その中で、ケズウィックは、この問題をめくってオールコックが、外国公使達が要求する、条約規程の遵守〔つまり一分銀の供給を増加して、今まで通りに行う〕よりも、むしろ日本政府の〔金貨流出阻止への〕努力を支持する方針であることについて、賛同の意を表しています。それ故か、英国公使の発議で行われた公聴会で、これまで通りの通貨制度を望むデント商会の提案に対して、ケズウィックは断固反対した、とヤング・ジャパンにも述べられています。JM商会は、一般貿易の第一人者として、目先の金貨あさりよりも、通常の貿易で利益をあげるべきだとの考えに至ったようで、投機目的の多くの中小商人たちとは違っていました。そのうち金貨の価格が高騰していくうちにつれ、利益が出にくくなったことや、1860年、万延の改鋳で純金量を1/3に減らし金銀比価を国際水準としたことで、海外への金貨の流出は収束しました。この間、幕府の小判密売の取締規制により、高島嘉右衛門が投獄されたようです。

7.グラバーとジャーディン・マセソン商会

T.グラバー
トマス・グラバー

a. 長崎の茶再製工場と茶の輸出

生糸につづく輸出品といえば、茶ですが、これに関してはJM商会はデント商会(イギリス向け)やウォルシュ・ホール商会(アメリカ向け)に後れを取って出発しました。それはJM商会には当初茶の専門家がいなかったからだとのこと。横浜店では始めはあまり振るわなかった茶の輸出でしたが、長崎店では、当初からグラバーにより、大変な活況を呈したようです。

一介の小商人にすぎなかったトマス・グラバーは1859年9月19日にはじめて長崎にやってきました。1861年6月から前任者に代ってJM商会の長崎店を担当するようになり、特に情熱を傾けたのは茶の再製場を作ることでした。長崎店の運営のしかたは横浜店とは違い、グラバー個人の自立性によるところが大きかったのです。途中から、JM商会上海店宛書簡の署名が、グラバーからグラバー商会に変り、それがいっそう明確になりました。グラバーは茶の再製場設備を次々に拡張し、1864年ごろには600個の釜が稼働していたようですし、1864、65年の長崎港全体の輸出茶の約30%を占めるほどでした。グラバー商会は、しだいに諸藩との武器取引に進出しつつも、他面では茶取引・再製を大々的に営んでいたのです。長崎での茶取引に関しては、JM商会はグラバー商会との乗合取引という形で進められました。
  ところで、なぜ茶を外国人居留地で再製するのかという理由は、長期間の船旅に耐えるように再乾燥するためですが、実は、この再製・荷造を中心とする仕上工程は、重要な利益源泉にもなっていたからだったのです。呼び寄せた中国人を監督者として、外商からすれば、低賃金で女工を雇入れることで、再製場は運営されていたのです。

b. 船舶・兵器輸入と幕藩取引  

幕末のJM商会の対日輸入貿易には、第1位は繊維品(綿織物、毛織物、綿糸)、第2位・船舶、第3位・金(幕府への納入)、第4位・砂糖、のなかで、第2位の船舶輸入は売上額のほぼ4分の1を占めただけでなく、利益額の点では圧倒的な比重を占めていました。

JM商会持船売却表

船舶取引の実態を上の表によってみると、6隻の持船売却を通じてJM商会は実に原価(香港本店帳簿価格)をはるかに上廻る27万5000ドルの利益(A-B=C)をあげており、売却年度内の船舶収支全体としての純益額(E)も、原価を上廻るという好成績をあげ他の輸入品による利益とは比べ物にならない巨利を同商会にもたらしました。これらの船舶はいずれも同商会が所有し、数年間にわたって使用し、大幅に減価償却を進めてきた使い古しの船だったのです。 このような価格で売却しえたのは、買手が幕府や諸藩であり、彼等が競って船舶を軍事上・輸送上の要請から買い入れたためでした。

取引は最初長崎と横浜の双方で行われていたのですが、1863年に入る頃から横浜では幕府の取締が厳しくなったので、船舶取引は長崎へと集中していきました。藩財政が苦しくなると、即金で支払うことは難しくなり、グラバーが締結した条件は、即金で支払う横浜のやり方と異なり、1年間の分割支払でした。さらに、グラバー商会は、JM商会から借金して船を自ら購入して諸藩へ年賦で売り込むという危ない方式を採用していったのです。

● 悲惨な結果となった幕府への兵器納入
幕府との間では船舶取引はなかったようですが、長崎奉行を介する兵器売込が行われました。JM商会長崎代理店の資格においてグラバー商会が長崎奉行から大量の大砲弾薬の注文を受けたのは、1865年4月のことでした。グラバー商会は同年6月28日にイギリスのアームストロング商会へ手紙で注文を発しているのですが、その内容は70ポンド先込砲15門、12ポンド後装砲10門、8ポンド後装砲5門、6ポンド後装砲5門の合計35門およびそれに見合う弾丸各種700トンという厖大なものであり、これらのアームストロング砲が幕府軍に装備され十分に活用されるだけの訓練がなされた暁には、のちの薩長両軍といえども到底抗しがたかったのではないか、と思われる程の恐るべき内容でした。しかしながら、この注文品の到着は遅れに遅れ、ロンドンから最初の荷物が積み出されたのが発注後1年以上たっていて、長崎への到着(合計21門)は1867年に入ってからという有様。しかも、せっかく到着した荷物の支払代金が江戸から届いていなかったことで引渡しがさらに遅れたばかりか、海水をかぶって痛んだ大砲もあって、その整備に手間取り、このアームストロング砲は、第2次征長戦(1866年7~9月)に間に合わなかったばかりか、鳥羽伏見の戦(1868年1月)にも間に合わず、逆に官軍側の手に渡ったのではないかとすら思われているのです。

この頃JM商会香港本店では、グラバー商会のあまりに急速な膨張振りを危険視する向きがでてきました。(次回Part 3へ続く)

参考文献:
 「横浜山手 日本にあった外国」 鳥居民/著 草思社 1977.6
 「近代日本とイギリス資本 ジャーディン=マセソン商会を中心に」 石井寛治/著 東京大学出版会 1984.6
 「ホームズ船長の冒険 開港前後のイギリス商社」 杉山伸也/訳 H.ボールハチェット/訳 有隣堂 1993.11
 「近代中国とイギリス資本 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に」 石井摩耶子/著 東京大学出版会 1998.2
 「ヤング・ジャパン1 横浜と江戸」 J.R. ブラック/著、ねず・まさし&小池晴子/訳、平凡社 1970.2

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