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横浜で保土ヶ谷の歴史散歩といえば、「英連邦墓地でしょう、ダイアナ妃も来たんですよね。」と横浜の歴史好きは言う。イギリス及びその植民地だった国の人たちは、外国で亡くなるとその国に葬られる決まりだから、と知っている。そして一度は訪れて、その広々とした空間に整然と並ぶ墓石を眺め、「きれいな所ですね」と思うのである。けれども、その先のことは何故か深くは考えない。ここに眠る多くの兵士たちが、捕虜として連れて来られ、どんな運命をたどったのかを。尊敬していた兄がニューギニアで戦死し、その慰霊を現地で行ってきた酒井氏は、日本で、横浜で、あったことの事実を受け止め、この英連邦戦死者墓地から平和を学び、不戦の誓いを伝えている。
編集:わたなべとしこ
目 次 下記目次項目をクリックすると該当箇所へ移動します。
はじめに
1. 近くに住んでいた二人の女性、笹本妙子さんと田村佳子さん ―名誉大英勲章MBEを授与される―
2. 国内に100か所以上あった捕虜収容所
3. 横浜市にあった主な捕虜収容所及び派遣所(POW研究会ホームページから)
4. 各所の特色・逸話など
(1)東京第1派遣所(横浜三菱ドック) 暴力が蔓延、赤十字小包は職員が私物化
(2)東京第3分所(横浜球場) 所長は僧侶出身、日本一居心地がよかった
(3)東京第18派遣所(横浜耐火煉瓦) 楽器が購入され自由時間に演奏して楽しむことも
(4)東京第19派遣所(横浜船舶荷役) 日本人と同じ弁当を支給、ミナトのおやじもいた
(5)東京第14分所(東芝鶴見工場) 虐待死が横行も、女学生の弾くピアノに癒された
5. 堀割川のほとりに捕虜収容所があった ―所長は戦後 軍事裁判で有罪―
6.私の新聞投稿掲載記事から
(1)稲木所長の孫娘に感銘 岩手日報 【日報論壇】 2021.8.18
(2)伝え続けたい不戦の思い 岩手日報【日報論壇】2022.2.4
(3)戦争での死者を忘れない 神奈川新聞 2022.2.10
おわりに
横浜市保土ヶ谷にある英連邦戦死者墓地(注1、注2、注3)には何度か足を運んでいる。広い敷地に、整然と並ぶたくさんの墓石、綺麗に管理されたこの墓地を歩くと、あの太平洋戦争で日本軍の捕虜となり、強制労働をさせられたあと亡くなられた英連邦戦死者に思いを馳せる。特に私は、あの戦争で、ニューギニアでオーストラリア軍と戦って戦死した兄を持つことから、不戦への思いが殊更に強い。戦争が終わり、今は敵も味方もない。国のために若い命を犠牲にした人たちの霊を、只々慰めたいと思うのである。
しかし、一般的にはここに眠る英連邦兵士のほとんどが、1941年から45年にかけて日本で捕虜として亡くなった若者たちであること、戦時下で悲惨で過酷な生活を過ごしたことはあまり知られていない。戦争のない平和を祈念し、彼らの霊を慰めるためにも、私は一人でも多くの市民が保土ヶ谷区狩場にあるこの英連邦戦死者墓地に埋葬されている戦争犠牲者たちに心を留めてほしいと願っている。
(注1)英連邦Commonwealth of Nations(現在はThe Commonwealthと表記することが多い):イギリスと旧イギリス領植民地から独立した合計53か国で構成される国家グループ。この英連邦戦死者墓地には、イギリスとその植民地であったカナダ・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ共和国・インド・パキスタン各国の戦没者たちが埋葬されている。英連邦軍の規則で、戦死者はその地に葬るという決まりになっている。
(注2)約8ヘクタールという広々とした敷地に眠る御霊は1853柱。それぞれ、国家ごとに分けられた区域に葬られている。英連邦戦死者墓地は世界に2,500ヶ所、墓碑が一つや二つといった所を含めれば約21,000ヶ所あるという。世界各国にある中でも、横浜の墓地はとりわけ広いもののようである。
(注3)この地は戦前は児童遊園地だった。戦後、日本は進駐軍に統治され、横浜はイギリスの管轄下に入る。1951年のサンフランシスコ講和条約により、ここを英連邦の戦死者墓地にすることが決定された。土地は永久貸与。埋葬されている者の殆ど、1700人余が日本国内の捕虜収容所で亡くなった将兵である。
上記注の参考資料:「連合軍捕虜の墓碑銘」笹本妙子、草の根出版会、2004年。「英連邦横浜戦死者墓地はどうして横浜につくられた?」はまれぽ.com、 2011年07月21日。
そのように思うようになったきっかけは、ある時、NHKのラジオ深夜便(2021年10月16日)で、墓地の近くに住む田村佳子さんが墓地に花を供えるなど英連邦戦死者の霊を慰めている放送を聴いて感動を覚えた。そして、改めて英連邦戦死者墓地の歴史などを見直してみることにしたのである。
(編集者注)1990年代後半、笹本妙子さんと田村佳子さんは、それぞれ英連邦墓地の近くに住んでいた。この墓地を訪れて、ここに大勢の若い兵士が埋葬されていることに衝撃を受けた。二人とも、この墓地のことをもっと知りたいと思い、当時管理人だったレン・ハロップ氏に会い、彼の仲介により二人は知り合い、意気投合した。笹本さんはジャーナリストの立場から活動、田村さんは優れた英語力で笹本さんを支え、英連邦墓地について調査、取材するようになった。2002年、各地にいた有志の人たちとともに、POW研究会を結成した。 POW=Prisoners of War、戦時捕虜。http://www.powresearch.jp/jp/index.html
古くなるが、1999年に朝日新聞に掲載された笹本さんの記事などから、活動の足跡を辿って見たい。
笹本さんは横浜市民でさえほとんど知らないこの墓地の歴史を調べ、多くの日本人に伝えていくことを決意した。捕虜収容所の資料については、終戦時に殆ど焼却されていて、調査は難航したが、元捕虜の書いた手記や、米国の公文書、横浜の軍事裁判などの資料を丹念に調べ、収容所の元軍曹などにも取材した。そして京浜地区にあった19か所の捕虜収容所の中間報告書を自費出版した。(「京浜地区の捕虜収容所・中間報告書」1999年)
その後、テレビ朝日系列で2002年春に1時間にわたり全国放映されたドキュメンタリー「212枚の認識票~英軍捕虜の傷痕と戦後補償~」(ABC、ドキュメンタリー工房制作)が放送されたが、その取材の調査に田村さんと一緒に協力した。この過程で思わぬ副産物を得られた。英連邦戦死者墓地に眠る1700人余のうち半数の人々の死亡地と死因が判明した。
外地での過酷な労働に耐え、地獄船で日本に運ばれ、港に着いた途端に息絶えた人々、何とか収容所に辿り着いたものの、飢えと病と虐待で、終戦まで生き抜くことが出来なかった人々、中には友軍の空襲や原爆で惨い死を遂げた人々もいた。笹本さんは全国に100か所以上あった捕虜収容所の実態を明らかにすべく、心を同じくする人々とともに2002年に「POW研究会」(Prisoners of War)を立ち上げて活動を続けている。墓地の追悼礼拝とも連携して、捕虜収容所問題を広く世に問うていきたいと言っている。
この二人の功績に対し、イギリスの女王の勲章授与を伝えるニューズウィーク日本版(2006年10月18日号掲載)の概要を報告して、二人を讃えたいと思う。
祖国日本では殆ど知られていない女性に、イギリスの女王が勲章を贈るのは稀有なこと。だが、勲章を贈られた田村佳子と笹本妙子は、まさに稀有の存在だった。神奈川県に住む二人はこの30年、第二次世界大戦中に日本に収容されていた戦争捕虜に関する情報を集めてきた。記録を隠し、過去の罪を忘れようとする風潮の中、事実の究明は困難を極めた。
元捕虜たちの苦悩を癒すため情報収集に「うむことなく献身」して来た二人に、駐日英大使館は2006年5月、女王に代わって名誉大英勲章MBEを授与した。
…長年の調査が実り、昨年ようやく英語のデータベースを公開できた。収容所で死亡した捕虜の記録など、貴重な情報が提供されている。
イギリスのワーウイックに住むリチャード・ブルッカー氏もその恩恵を受けた一人である。ブルッカー氏は日本で亡くなった母方の祖父の足跡をずっと探ってきた。「公表された情報はどこにもなかった。データベースで初めて詳細が分かったとき涙が出た。幼くして父親を失った母や祖父を知らない私にとって、(彼女たちは)英雄だ」 …中略…
二人は日本を訪れた元捕虜や遺族のガイド役も務めてきた。ブルッカー氏も母親とともに、二人の案内で祖父のいた収容所跡地や、保土ヶ谷の墓地を訪ねた。
田村佳子さん:英国女王様からの勲章授与の知らせは即日イギリスの大手新聞に載り、知り合いの元捕虜の人達から、また、数日後には英連邦の国々の新聞にも配信され、イギリスのみならず各国から賞賛のメール、手紙、電話まで頂き、却ってこちらが驚きました。
その中で、上記のプラントンさんからは「大使館での授与式に出席し、その後、自分のいた収容所巡りをしたいが案内してくれるだろうか?」との連絡があり、ご家族と共に来日されました。授与式、墓地訪問、そして彼のいた函館収容所と釜石の内陸の大橋分所を一緒に訪ねました。彼は釜石の艦砲射撃で負傷した捕虜たちの世話を軍医と共にしました。各地で市民の皆様との対話の会も開き、これも双方に取り、とても良い機会だったようです。多くの人達が「我が町にそのような歴史があったとは!」等、多くの感想を頂きました。この再訪の旅には笹本妙子さん、そして小暮聡子さんも一緒にお付き合いしました。
元捕虜の方達が来日されると、時間の許す限り、一緒に収容所跡地を巡るようにしています。
戦後墓地区域にひときわ新しい墓石があった。それは、田村佳子さんと笹本妙子さんを引き合わせたレン・ハロップ氏の墓石だった。2011年に95歳で亡くなられていた。
田村さん:彼には偶然お会いして以来、多岐に渡って実に沢山のことを教えて頂きました。私の人生の師だと考えております。
墓石の碑文“IF YOU SEEK HIS MONUMENT. LOOK AROUND YOU.”は、セント・ポール寺院を建てた建築家クリストファー・レンに因んで甥御さんが考えたもの。「どう思うか?」と聞かれ、「とても素敵。ハロップさんにぴったりですね」と答えたのを思い出します。お身内が遺灰をイギリスよりお持ちになり、日本側はイギリス大使初め親交のあった大勢のもの達がお墓の前に集まり、経歴や思い出を話し、遺灰が墓石下に埋葬されるのを皆で見届けました。心のこもった、とても良いお式でした。その後皆さんでお食事に繰り出し、ひとしきりハロップさんのお話をして皆で懐かしんだことを思い出しました。
私は以前チェリー・イングラム(日本の桜の世界的権威英国人イングラム氏が戦前、絶滅していた日本品種の桜を英国で育てていた)について調べた時に、北海道にあった捕虜収容所で過酷な強制労働に駆り出されたイギリス兵の捕虜に償いをするために、松前桜をイギリスに贈った浅利政俊(桜研究家)に感銘したのであるが、恥ずかしながら、その時まで、北海道にも捕虜収容所があったとは知らなかった。
また、岩手県の釜石捕虜収容所所長が捕虜に人道的な扱いをしていたのに戦犯にされ、巣鴨プリズンに収監されたことをラジオで聴いて知り、もう一つの捕虜収容所問題に出会った。(この所長の名誉を回復すべく奮闘された孫娘・小暮聡子氏については私の投稿記事にて後述する)
そして、英連邦戦死者墓地を調べているうちに、更に九州まで、全国に100か所以上(約130ヶ所)もの捕虜収容所があったことを知った。終戦時に国内外で約13万人の捕虜がおり、そのうち国内に約3万数千人の捕虜が連れて来られ、過酷な労働を強いられ、死んでいったものも数多い。そのことを思うと、戦争は絶対にあってはならないと強く感じる。
編集者注:彼らは主にアジア太平洋などで日本軍との戦いで敗れ、捕虜となったものたち。戦争が激しくなると日本国内では、若者たちが戦地に行ってしまい、炭鉱、鉄工所、造船所等での男の働き手がいなくなってしまった。この労働力不足を補うために船に乗せられ連行されて来たのである。
「ジョージ・ビール兵卒について」(入口案内板の説明より) 彼は第二次世界大戦中オーストラリア軍に所属しました。ジョージと彼の兄弟のフレデリックは、1942年2月にシンガポールで捕虜となりました。彼は日本に収容され、製鉄所で強制労働させられました。ジョージは、24時間シフトの工場での事故で重傷を負った後、1943年5月28日に死亡しました。彼はオーストラリア区のE区画、A列、墓石3番に埋葬されています。彼の兄弟は戦争を生きぬき、1945年9月に解放されました。©オーストラリア戦争記念P01649.003
編集者注:POW研究会ホームページから、横浜市域にあった主な捕虜収容所・派遣所の報告書(笹本妙子氏作成)を抜粋・編集して掲載させていただきます。
名称(通称)・存続期間・所在地 | 捕虜の数 | 職員(所長、管理者等) | 死亡者数 | 概 要 |
---|---|---|---|---|
東京第1派遣所(三菱横浜ドック) 1942.11.18~1945.5.13 跡地はみなとみらい地区、日本丸が繋留される1号ドックやランドマークタワービル下のドックヤードガーデン(2号ドック)に名残が |
当初493名(米 291、英 171、豪 19、蘭 12)数字は他の資料とは食い違いがある。閉鎖後、仙台捕虜収容所へ移動 | 初代所長は西沢正夫中尉、2代目は千須和武一中尉、3代目は本田中尉。職員全体の人数や詳細は不明 | 54名(米33,英16,豪3,蘭1,ノルウエー1)が死亡しているが、開設時の人数と閉鎖時の人数が合わず、国籍別の人数も合わない。 | 大半はシンガポールから輸送船「大日丸」で移送され、42年11月25日に門司に到着したが、このうちアメリカ兵は台湾から乗船した。彼らはもともと42年9月にフィリピンから「りま丸」で台湾に送られた者たち。橋本町の収容所から徒歩で通った。捕虜側の証言によれば「東京地区では最悪の収容所」と言われ、戦犯裁判では初代所長が絞首刑、2代目所長と軍属が終身刑、その他の職員もかなりの重罪に処せられた。 |
東京第3分所(横浜球場) 1942.9.12~1944.5.1 横浜スタジアムのある横浜公園内 |
最大時299名で、その内訳は英216,米76, 加2,民間人5 | 林純勝中尉、その他の職員についての詳細は不明 | 7名(英5,米2)。死因のほとんどが赤痢 | 所長は長野の善光寺の僧侶だったが、大らかで人情味ある人物で、他の収容所の捕虜たちもみな彼のいる収容所に行きたがったという。 労働場所は、横浜港内外、日清製油、東高島駅、国光練炭、神奈川造船、日本製粉、安田倉庫、浅野ドック、芝浦電気、横浜耐火煉瓦など |
東京第18派遣所(横浜耐火煉瓦) 1944.5.1~1945.6 磯子区西根岸馬場町8番地の(株)横浜耐火煉瓦の敷地内に開設 |
横浜球場内の収容所からこの工場に通っていたが同所の閉鎖に伴ってこの派遣所が開設され、約80人(主に米兵と英兵)が収容 | 初代の派遣所長は林純勝中尉、2代目が金綱竜吾中尉、両者とも他の分所、派遣所の所長を兼任。実質的な管理は副所長の飯田ヒロシ曹長と牛島甲彦軍曹。他、軍属2人、会社差出しの監視員5人と通訳1人) | 死者は出ていない。 | 概して過酷な虐待は少なかったようである。下記「やぶにらみ磯子郷土誌」よりの詳細を参照。 |
東京第19派遣所(横浜船舶荷役) 1944.5.1~1945.5.29 中区山下町32番地に開設された。ホテルニューグランドの斜め裏、現在、県税事務所がある辺り |
横浜球場内の収容所から新しく設置されたこの収容所に48名が移ってきた。 | 派遣所長は、初代が林純勝中尉、2代目が田中中尉、3代目が金綱竜吾中尉。その他、軍曹1人、兵卒1人、軍属の警備員4人、会計や炊事担当の民間人5人 | 死亡者は出ていない。 | 横浜港近くの倉庫街に開設され、捕虜たちは港の荷役作業に従事した。 45年5月29日の横浜大空襲で焼失し、他の収容所に移送された。 報告書には「最後の2ヶ月間は、捕虜の半分は収容所から5キロほど離れたニットウカガクで働き、トラックかボートで通っていた」と記されている。 |
東京第14分所(東芝鶴見工場) 1943年末に開設されたが、たびたびの空襲により鶴見区内で4カ所も移動した。 ここは非常に過酷な収容所だったが、近くに住んでいた女学生が弾くピアノ演奏に多くの兵士が癒されたという(下記参照) |
最大時には 191人(蘭107,豪50,英22,米12)いたと記されている。終戦の時点は121人(蘭72,豪17,英20,米12) | 初代所長は上森正雄少尉、2代目は田中良平中尉。普段の管理は井野雅治軍曹。当初、会社が収容所を運営していたが、終戦近くになると空襲が激しくなってきたため、陸軍が管理するようになった。 | 終戦までに44人(英2,豪 10,蘭 32)が病気や事故、空襲などで死亡とあるが、正確な数字かは不明。1945年4月15日と7月13日の空襲では宿舎が直撃を受けて計31人が死亡した。 食糧は十分ではなく、住環境は劣悪、衣料が粗末、靴下なくボロをまとった状態だったため、多くの者が肺炎で死亡した。 |
捕虜の多くは泰緬鉄道での過酷な労働を経て日本に送られたオランダ人やオーストラリア人だが、日本に向かう途中、乗っていた船が友軍に撃沈されて多数の仲間が海没するなどの憂き目にも遭っている。
この工場で使役され、水銀灯の整流器を組み立てる部門で働いた。 44年12月16日に死亡したオランダ人捕虜に関しては、死亡者リストには「心臓脚気」と記されているものの、実際には日本人監視員の殴打が直接の死因であった。45年4月15日に死亡したオランダ人捕虜は「空襲により死亡」と記されているが、日本人軍曹によって斬殺された疑いが強い。 |
(1)東京第1派遣所(横浜三菱ドック) 暴力が蔓延、赤十字小包は職員が私物化
倉庫を改造した建物が収容所に使われた。捕虜用宿舎は2棟で、他に事務所棟や病室棟などがあった。宿舎は2段の寝棚になっており、畳が敷かれていた。建物は貧弱で、冬は凍り付くように寒かったが、ストーブは2個だけで、氷点下でも1日2時間しか使えなかった。
この収容所では暴力が蔓延し、捕虜たちは些細なことで厳しい懲罰を加えられた。靴が擦り切れているだけで殴られ、枕カバーが汚れているだけで両手にバケツを持って数時間立たされた捕虜もいる。靴も枕カバーも天皇の下賜品だからという理由だった。
初代所長の西沢中尉は、病人点呼(その日仕事に出られるかどうかを判定する)の時に、病人を強く押す「検査」をし、その捕虜がぐらつかなければ仕事に出し、ぐらつけば無礼だと言って殴った。所長や職員の虐待が原因で死亡した捕虜もいる。
赤十字小包はほとんど日本人職員が私物化して捕虜には行き渡らず、クリスマスと天皇誕生日に1人半個ずつ支給されただけだったが、それも捕虜が仕事に出ている間に軍属たちがみな持っていってしまったという。同じ横浜の次に述べる横浜球場収容所の捕虜たちが、計3回1人1個ずつ支給されたのとは大きな違いである。
この写真にあるテーブルの上に並べられたご馳走はプロパガンダ用で、撮影が済むと片づけられてしまったという。
残虐で無慈悲な職員が多い中で、捕虜たちを陰で支えてくれた日本人もいる。
尋問官だったエール大学卒の若い将校は、暗号解読部長だった米軍のグレイディ中尉が口を割らなくても決して手荒なことはしなかった。グレイディ中尉は、戦後、検察側証人として出廷し、多数の日本人を有罪(死刑を含む)に導いた人だが、この“エール将校”については、「彼は私にとって、道理をわきまえた日本の代表であり、戦争への道を望まぬ、そして自らの残虐性に衝撃を受けた日本の代表であった」と書いている。
また、オキモトという50歳前後の通訳で、彼はニューヨークで36年間暮らし、日米開戦後、日系人の収容所に入れられたが、42年夏に交換船で帰国した。彼は他の職員の目を盗んでは捕虜たちにタバコや食べ物や新聞を持ってきてくれ、収容所の改善にも努めてくれたという。
田村さん:横浜の人には馴染みの多い桜木町のランドマークにあるドックヤードガーデン。今はコンサートなどが開かれる屋外イベントスペースですが、往時のドライドック、唯一保存されたもの。周辺には当時いくつかのドックがあり、それぞれで船を建造・修理しており、捕虜を使役しました。
再訪したアメリカ人元捕虜は当時の過酷な環境下での労働を思い出し、感慨に耽っていました。
(2)東京第3分所(横浜球場) 所長は僧侶出身、日本一居心地がよかった
横浜球場の観客スタンド下の部屋が宿舎や事務室として使われた。居住環境は割に良かったという。労働時間は1日8時間(捕虜の証言では10時間)で、休日は月に2回。仕事は楽ではなかったし、食糧や医薬品も乏しく、日本人による殴打もいくつかあったが、他の収容所に比べれば捕虜の扱いは良く、赤十字救恤品は公平に分配され、楽器や本などの娯楽品も与えられた。
戦後この収容所の調査では、「相対的に言うと、この収容所は公正であった」と記している。フィリピンから来たアメリカ兵、シリトも「横浜球場収容所は多分日本一だっただろう」と語っている。シリトはのちに第18派遣所(横浜耐火煉瓦)を経て、新潟の第5分所に移送されたが、「横浜と新潟を比べると、さながら天国と地獄だった」とも述べている。
戦犯:「天国」「日本一」と言われたこの収容所でも、通訳上等兵が捕虜虐待の罪を問われて重労働1年の刑を受けている。また、所長の林純勝中尉は、第1分所埠頭支所(のちに第2分所)時代の罪で、重労働3年の判決を受けたが、その後1年に減刑された。彼の裁判の日本側弁護人は、のちに横浜市長、社会党委員長を務めた飛鳥田一男氏であった。
酒井:近隣の者が、トラックに捕虜たちが乗せられて、どこかへ行くのを見たことがあると最近聞いた。
田村さん:横浜球場については、捕虜と関わったという男性に昔お会いし、捕虜たちはスタジアム下で寝起きし、死者が出ると大八車に乗せて山の上に捕虜と一緒に連れて行ったものだ、と聞きました。また当時の女学生からは、横浜の学校に通っているとき、市電から捕虜が隊列を組んで歩かされているのを見たことがある、と、お聞きました。
(3)東京第18派遣所(横浜耐火煉瓦) 楽器が購入され自由時間に演奏して楽しむことも
捕虜たちは煉瓦の製造作業に従事した。煉瓦は主に船のボイラー用であった。根岸の山に木を伐採に行くこともあり、その姿が近隣の人々に目撃されている。労働時間は朝8時から夕方5時まで。賃金は1日20銭で、会社が軍にお金を渡し、軍が捕虜に支払った。
日々の生活:収容所が会社に依頼して、ギターやバイオリンなどの楽器を購入して貰い、捕虜たちは自由時間に演奏して楽しんだ。44年のクリスマスには演芸会を催し、仮装行列も登場して大いに盛り上がった。
戦後:戦後まもなく、何人かの捕虜が煉瓦工場を訪れ、世話になったお礼としてタバコやチョコレートなどを置いていったという。
(下記「やぶにらみ磯子郷土誌」を参照。)
(4)東京第19派遣所(横浜船舶荷役) 日本人と同じ弁当を支給、ミナトのおやじもいた
2棟の捕虜宿舎と附属棟で構成され、周囲は上部に2重のバラ線を張った2.4㍍の塀に囲まれていた。敷地内に7つの防空壕があった。
横浜船舶荷役の取締役だった松本健太郎氏によれば、捕虜には日本人労働者と全く同じ弁当を出したので、捕虜たちは港で働くことを歓迎し、横浜に来てから体重が増えたと喜んでいたという。捕虜には甘味品やタバコの特配が禁じられていたが、同社の作業本部長として横浜港の全船荷役を指揮していた「ミナトのおやじ」こと藤木幸太郎氏は、看守や軍人の隙をみて、彼らのポケットに飴玉やタバコをねじり込んでやると、彼らは顔中をくしゃくしゃにして喜びの表情をみせ、なかにはうっすら涙さえ浮かべ、何度も頭を下げる者もいたという。
(5)東京第14分所(東芝鶴見工場) 虐待死が横行も、女学生の弾くピアノに癒された
捕虜とピアノ:2010年7月、筆者(笹本妙子氏)は総持寺の近くに住む越田容子さん(1929年生)と知り合った。
越田家はかつて東京の池上に住んでいたが、1945年3月10日の東京大空襲の後、強制疎開のため鶴見に引っ越してきた。この辺りも空襲が激しかったが、16歳の女学生だった容子さんは音楽学校進学を目ざして、毎日ピアノの練習に励んでいた。越田家は高台にあり、周辺に人家が少なかったためか、咎める人もいなかった。
ある日、隣の空き地に捕虜収容所ができるという噂が立ち、近所の人が「お宅は若いお嬢さんがいるのだし、どこかに引っ越さなくて大丈夫?」と心配してくれたが、他に行くあてもなかった。やがて建物が2棟建ち、7月末に捕虜たちがやってきた。窓から収容所の様子がよく見えた。みな痩せてみすぼらしい身なりをし、もう働く所もないのか、外に出て行く様子もなかったが、時々所内からピシピシとムチで叩く音や怒鳴り声が聞こえてきた。越田家では小さな畑にナスやトマト、キュウリ、南瓜などを作っていたが、朝になるとそれらの実がきれいにもぎ取られていた。収容所の塀に穴が空いており、捕虜たちの仕業と思われたが、母は「お腹が空いているのだろうから」と見て見ぬふりをした。総持寺の裏山からヘビを捕ってくる捕虜もいたし、畑仕事をしている越田家の使用人にタバコをねだってくる捕虜もいたが、概しておとなしく、穏やかな人が多かった。
容子さんはいつも午後2時頃にピアノを弾いていた。夏なので窓を開け放していると、ある日1人の捕虜が屋根の上で彼女のピアノに耳を傾けているのに気がついた。翌日は2人になり、次に3人になり、日ごとにその数が増えていった。
8月15日に終戦を迎え、しばらくすると米軍機から救援物資がパラシュートで投下されるようになった。収容所の敷地内だけでなく、周辺にも飛び散り、近隣の人々が越田家の庭先まで拾いに来たこともあった。
ある夜、玄関のベルが鳴り、父が門まで出ていくと、1人の捕虜が「これをお嬢さんに」と両手一杯のプレゼントを差し出した。チョコレートや缶詰や石鹸など、当時の日本では手に入らぬ品々ばかりであった。8月30日、今度は20人ばかりの捕虜が砂糖袋やパラシュートの布に包んだ物資を肩に担いでぞろぞろと越田家にやってきた。今日、お国に帰るのだという。驚いた両親は彼らを応接間に迎え入れ、あふれた人たちはベランダに腰を下ろした。お茶を出す容子さんに彼らは言った――「ピアノをありがとう。あの音に慰められました」。容子さんと母は家にありったけの人形を集めて、彼ら1人1人にプレゼントした。やがて、彼らは収容所の前に横付けされたバスに乗り、窓から大きく手を振りながら去っていった。(以下省略)
「やぶにらみ磯子郷土誌」葛城峻、磯子区郷土研究ネットワーク、2015年、より抜粋・転載。
旧地番の「西根岸馬場町八」ですから掘割川の坂下橋と根岸橋の間の山側、今はホンダや日産の乗用車ディーラーが並ぶあたりに、明治初年キリンビールのびん工場ができ、34年に跡地に地元の森卓三氏が「横浜耐火煉瓦」の工場を創設しました。船舶ディーゼル機関やガス工場の発生炉、製鉄所の溶鉱炉用の特殊な煉瓦がつくられました。 昭和19年5月1日から20年6月4日までの1年間、この地に捕虜収容所(戦時中の公用語で「俘虜収容所」)が置かれ、連合軍の捕虜86名がここから市内各地の軍需工場・施設に運ばれ作業をさせられていました。近くの人の話では空襲のときなど捕虜たちが袋をかついで裏山に避難して行くのをよく見かけたそうです。
東京都旧大森区入新井の、今は平和島競艇場入口付近にあった東京俘虜収容所本所の管轄下に、終戦時点で、神奈川、茨城、栃木、長野、新潟の諸県に16の「分所」と3つの「派遣所」が置かれていました。労働力不足を補うため京浜工業地帯の中心神奈川県には16もの分所・派遣所がありました。
昭和17年9月に現在の横浜スタジアムに「東京俘虜収容所第三分所」が置かれ、その管轄下に日清精油、横浜沖仲士会社、大阪造船所、東芝鶴見工場、三菱ドック、日本鋼管鶴見造船所、同川崎工場、同扇町工場、同浅野ドック、味の素川崎工場、日清製粉鶴見航空機工場などに「派遣所」がありました。根岸の耐火煉瓦工場はその1つ「第十八派遣所」で、朝晩いかめしい剣付小銃を構えた兵士に監視されてトラックで出入りしていました。捕虜のおかげで仕事がはかどったとか「捕虜に負けてなるものか!」と頑張ったとか、「戦争に負けるとこうなる、どうしても勝たねば!」とか捕虜の効果はいろいろでした。ただ当時の日本人は「戦陣訓」で「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」と教育され、捕虜になる前には自決するのが当然とされていましたから、彼らが一様に陽気なのは奇妙な感じでした。日本人女性を見るとトラックの上から口笛を吹いたりして自分の置かれた立場を一向に苦にしていません。軍国少年たちは「なんちゅうアメ公野郎らだ!」と軽蔑していました。東京では時代の風を読めない上流家庭の奥サマが労働の捕虜を見て「お可哀いそうに・・・」とつぶやいたとかで憲兵に大分油をしぼられた話も聞きました。戦後にアメリカ映画の「第十七捕虜収容所」や「大脱走」などで捕虜というものの考えが日本と全くちがうことを知り、彼らが恥ずかし気もなく口笛を吹いていたのを「なるほど」と思ったものです。
20年6月4日に86名中81名は新潟の第五分所に、5名は本所に移動しますが、戦犯裁判が始まるや所長のK少尉は空襲時に捕虜を避難させずに働かせ死者を出したことや、赤十字品の横流し、部下の兵士の暴力行為の黙認などの理由で逮捕され、横浜の軍事法廷で重労働9年の判決を受けました。初期の裁判は勝者側の報復意識が濃厚で判決も死刑・無期などが多く過酷なものでした。横浜で死刑判決を受け処刑された人数は51名にのぼりますが、そのうち31名が各地の捕虜収容所関係者でした。 (後半省略)
(1)「稲木所長の孫娘に感銘」 岩手日報 【日報論壇】 2021.8.18
2021年8月5日のNHK「ラジオ深夜便」明日へのことばで、釜石捕虜収容所の所長をされた稲木誠さんの孫でジャーナリストの小暮聡子さんの「戦犯となった祖父の思い出」と題する話を聞いて感銘を受けた。
稲木所長はジュネーブ条約に基づく博愛精神で捕虜に接していたのに、横浜裁判でBC級戦犯宣告を受け、5年半も巣鴨プリズンで煩悶の日々を送り、体も壊したと言う。ところが、戦後30年たった時に、捕虜収容所に収容されていたオランダ人の元捕虜だったフックさんから釜石市長に、捕虜に対する取り扱いも良く、市民にも親切にしていただいたという感謝の手紙が届いたという。
稲木所長は理不尽な戦犯とされた巣鴨プリズンでの獄中生活に耐えた後で、時事通信社に入社し、ホノルルでの特派員などを経験された。それ以来、稲木所長とフックさんとの間で12年間にわたって手紙の交換がされたと言う。
私が感銘を受けたのが、米国による一方的な裁判で祖父が戦犯の汚名をきせられたという戦争のむごさを訴え、祖父の名誉を挽回させてあげたいという孫娘小暮さんの強い心意気だった。そのために国会図書館で裁判記録を全部調べて確かめ、それでも一方的ではいけないと思い、捕虜だった側の情報も直接確かめたということだった。祖父と手紙の交換をしたフックさんの息子らとの交流を持ったという。暴力は一度もなく、親切な扱いだったと言われ、わだかまりがなくなり、今も交流が続いていると聞いて感動し、安堵した。
3年前、私は兄が飢えと戦いながら戦死したニューギニアのジャングルをたどって現地慰霊し、むごい戦争を二度と繰り返さないことを孫子に伝えていくことを兄と約束してきた。小暮さんの、祖父の体験を通して戦争のむごさを次世代に伝えていきたいという信念を聞いて、私も不戦の思いを新たにし、平和祈念の思いを強くした次第である。
(2)「伝え続けたい不戦の思い」 岩手日報【日報論壇】2022.2.4
私は昨年、元釜石捕虜収容所長だった稲城誠氏が博愛精神で捕虜を処遇したのに戦犯の汚名をきせられた不条理を究明し、祖父の名誉を回復させた孫娘の小暮聡子氏に感銘したことを報告した。
その後で、さらにその思いを強くした奇縁があった。私の住む横浜市の保土ヶ谷に英連邦戦死者墓地がある。ここには太平洋戦争で捕虜になり、日本に送られて炭鉱などで過酷な強制労働を強いられた約1700人の戦死者が眠っている。その墓地の近くに住む田村佳子氏が英国などに住む元捕虜の遺族にこの墓地を案内していることをNHKのラジオで聞いた。私はその放送を聞いて日本に130ヵ所もの捕虜収容所があることを初めて知った。釜石の収容所もその一つだった。
田村氏は、毎年11月に英国大使も出席してこの墓地で行われる英連邦の慰霊祭に参加されているが、その功績が評価され、エリザベス女王から叙勲を受けている。
ちなみに私の兄はニューギニアで戦死しているが、田村氏の父親がニューギニアからの生還者であったことなどから、奇縁をいただいていろいろなことを教えていただいている。その一つが昨年のNewsweek誌12月14日と21日号に掲載された「櫻井翔と戦争 戦没した家族の記憶」の記事だった。
それは「嵐」の櫻井氏が、祖父の兄(大伯父)が東大の学生から海軍経理学校に入学して海軍主計少佐として南シナ海で戦死した経緯を探る貴重な記録だった。彼が友達からなぜそんなに戦争にこだわるのかと聞かれた時に、「私は遺族だから」と言った言葉が、25歳の兄を戦死させた私にも理解できた。
さらにこの記事を読んで感銘を受けたことがあった。それはこの記事の最後に「遺族として寄稿した筆者・櫻井翔に聞く」としてインタビュー記事が載っていたが、そのインタビュアは何と稲木所長の孫娘の小暮氏だった。私はそれを知って奇縁を感じるとともに、櫻井氏が最後に言われた「たゆまずに調べ、書き残すことが祖父や大伯父の鎮魂になる」と言われた言葉に、小暮氏も全く同じ思いをされたのではないかと想像し、私も不戦の思いを新たにしたことであった。
私は近くの大学の生涯学習教室のゼミで遅ればせながら英国史を勉強しているが、今回学んだ、英連邦捕虜のことを忘れずに、平和活動を続ける人たちの事を報告し、不戦の思いを伝えていきたいと思っている。
(3)「戦争での死者を忘れない」 神奈川新聞 2022.2.10
横浜市保土ヶ谷区にある英連邦戦死者墓地に花を供え、旧敵国の戦死者を悼む田村佳子さんのこと昨年秋のラジオ番組で知り、感銘を受けた。田村さんは横浜に住む英語塾講師で、「POW(戦争捕虜)研究会」の活動をしている。会では太平洋戦争で捕虜になり日本の炭鉱などで働かされて亡くなった連合軍兵士の実態を調べ、その記録の収集に努めている。遺族はその資料を基に亡くなった地を訪ね、英連邦戦死者墓地に参拝するのだという。
私の兄は、先の大戦でニューギニアで戦死。3年前にその現地慰霊に行ってきた。暑さの中で、飢えとも戦いながら死んでいっただろう兄を思った。その状況は、日本で過酷な強制労働を強いられて死んでいった各国の捕虜の姿と重なる。
私も英連邦墓地を何度か訪ねたが、戦争で亡くなった人たちの霊を慰めるのは敵も味方もない。戦争で若者たちを犠牲にすることは繰り返してはならない。
平和をつなぐために、戦争での死者を忘れない活動を大切にしたい。
ラジオ深夜便で偶々英連邦戦死者墓地の話を聞いてしまったために、捕虜や墓地の暗い話になってしまって申し訳ありません。
ただニューギニアのジャングルの中で、飢えと戦いながら死んでいった兄を現地で慰霊して来た私は何故か他人事ではないように感じたもので、お許しをいただきたいと思います。
最初はあまり知識もなく何となく訪れた英連邦戦死者墓地に、実はこれほど多くの、捕虜となり死んでいった若い兵士たちが葬られている場であることを、知り得ることになりました。人として生きていくうえで広く深い示唆に富むこの真実を、一人でも多くの方に知っていただき、共有することができるならと横浜歴史さろんの記事にしていただくことになりました。
兄の現地慰霊に行って、不戦の思いを伝えることを誓いました。これにて少しは約束を果たせるのではないかと思います。
英連邦戦死者墓地から平和を学び、固く不戦の誓いを立て、広く伝えていきたいと思います。