横浜歴史さろん

コーヒー コーヒー

お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。

M3_外国人居留地図

お知らせ

★New「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」もご覧ください!

  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 横浜歴史さろん会員の名称を有料会員→正会員、無料会員→一般会員へと変更しました。
  • 5/12コバテル先生歴史講演会「開国日本と横浜 Part 3」の録画ビデオをアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「キリスト教諜者・安藤劉太郎のち関信三の半生 ―キリスト教信奉者・中村正直との数奇な出会い―」掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「ホテル・ニューグランド(中区山下町・1927年竣工・震災後の横浜繁栄のシンボル)」を掲載しました。
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  • 仲間・施設ページに「横浜郷土研究会 60年のあゆみ その1 横浜の郷土研究の中核をなした専門家集団(前半の30年間を見る)」の紹介記事を掲載しました。
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  • 歴史すぽっとページに「中華街の歴史(横浜中華街、幕末~、かつては職人の街)」を掲載しました。
  • 1月20日の講演会をYoutubeにアップしました。
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  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その2」掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「アカデミックでチャレンジングな『横浜黒船研究会』」の紹介記事を掲載しました。
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  • 歴史すぽっとページに「ウィリアム・ウィリス―幕末・明治に多くの日本人を治療した英国人医師」のPart1とPart 2を掲載しました。
  • コバテル先生講演会「開国日本と横浜 Part 2」(1月20日開催)のチラシを掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その1」掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • 9月9日の講演会をYoutubeにアップしました。
  • 仲間・施設ページに「港南に残る『古きもの』を蘇らせ、地域に貢献する港南歴史協議会」の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「『生麦事件で夷人を斬殺した私』久木村治休述」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 4) パーマーと横浜港の改修築事業 ~パーマー計画案採用の背後に外相大隈重信の決断が~」を掲載しました。
  • トップ特集「大江卓(おおえ・たく)人権擁護・人道主義に生きた人 ―明治初期の神奈川県権令時代・マリア・ルス号事件を中心に―」 掲載しました。
  • 9月9日(日)10:00よりの「コバテル先生の歴史講演会 Part1」のチラシを掲載しました。
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  • 仲間・施設ページに「和・話・倭・輪・わっ」-金沢区生涯学習“わ”の会の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「オランダ商人、デ・コーニングが見た幕末の横浜」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページ「オードリーと横浜」に【訂正】を追加しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報 八聖殿歴史講座追加しました。
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  • トップ特集「明治時代に活躍した“元祖 外タレ”快楽亭ブラックの人生」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 3) 明治期の横浜港の歴史を物語る「象の鼻」 ~長期間議論に終始した横浜港の改修築事業~」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「“郷土とつか”を、見て、知って、楽しむ、『戸塚見知楽会』」の紹介記事を掲載しました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
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  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「ハマのヘンテコ建築ビッグ3」 掲載しました。
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    前回掲載の特集と紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
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特集  キリスト教諜者・安藤劉太郎のち関信三の半生

―キリスト教信奉者・中村正直との数奇な出会い―
海岸教会
 明治初期バラの学校があった場所
現在の横浜海岸教会

KG ミウラ

キリスト教諜者(キリシタン諜者)とは、キリスト教の動きをスパイする者である。主に、自らの宗門を守るため仏教の破邪僧がなり、明治維新後は政府機関の弾正台という組織で雇われた。日本は欧米列強との関係性のなかで、明治6年キリスト教を解禁した。キリスト教諜者として強い使命感を持って諜報活動を行い、時代に翻弄されながらも、その後、近代幼児教育の功労者となった関信三の足跡をたどってみたい。

はじめに

開国と共にキリスト教宣教師が来日した。日本はキリシタン禁教下であり、宣教師の活動範囲は外国人居留地に限られていたが、彼らは英学塾や医療・福祉活動を通して日本人と接触していた。
 維新直後の明治政府は、キリスト教が国家の根幹を揺るがすことを危惧し、宣教師や教会の動向を監視するためにキリスト教の諜報活動をする諜者の組織を弾正台* (*は右欄または下方に説明がありますので参照ください)に置いた。
 東・西本願寺もキリスト教にたいして強い警戒感を抱き、対抗するため「破邪僧」(=邪義・邪道を破る仏教の僧)を育成し、居留地に派遣して、幕府や明治政府のキリシタン取締まりに協力した。

東本願寺の破邪僧だったこの人物は生涯三度も名前を変えている。長崎浦上のキリシタン探索に派遣された時の名は猶龍、横浜居留地において弾正台のキリスト教諜者としての名は安藤劉太郎。東本願寺の法嗣現如(ほうし げんにょ)のヨーロッパ視察団随員となり、名前を関信三と変えた。その後、僧侶を辞め還俗してからも関信三と名乗った。  還俗後の関信三は、歴史の皮肉か、横浜居留地では諜報活動の対象であった後述する中村正直とともに、近代女子教育と幼児教育のパイオニアとなった人である

幕末から明治初期におけるキリシタン探索

明治政府は、キリスト教の脅威に対抗するため、キリスト教宣教師や教会の動向をスパイする諜者を組織した。その組織は、明治2年4月に行政監察を任務とした弾正台に設けられた。諜者の役割は秘密性が高く、諜者であることを察知された場合は罰を与えるとした「諜者賞罰ノ事」までもが定められていた。彼らは「異宗探索諜者」と呼ばれ、明治4年にはキリスト教諜者は12名おり、各地の居留地に派遣された。キリスト教諜者の構成と待遇は上等諜者(月給二十両), 中等諜者(月給十五両)、下等諜者 (月給十両)、等外諜者(月給七両)であった。派遣先は函館、東京、横浜、大阪、長崎の各居留地であり、東・西本願寺の破邪僧たちほぼ全員が、弾正台の異宗諜者となっている。

横浜居留地に派遣されたのは安藤劉太郎(上等諜者)と伊沢道一(下等諜者)の2名であった。横浜居留地は日本プロテスタント教会発祥の地でもあり、宣教師は教育機関の教師をしたり、私塾の英語塾を通して多くの青年たちに英学を教えることで活動が盛んであった。東京の築地居留地は明治元(1868)年より開地したのに比べ、横浜は安政6(1859)年から宣教師ヘボンたちが来浜しており、居留地としての歴史も古く宣教師の活動も多岐にわたり、弾正台は東京担当の豊田道二と正木護らの派遣先を横浜に変更したので、横浜での諜報活動は4名で行われた。

猶龍 本願寺「耶蘇教防御掛」から弾正台諜者に

本願寺は幕末になると、キリスト教対抗措置として「破邪僧」を育成した。東本願寺は文久2(1862)年「耶蘇教防御掛」を設置し、「破邪僧」を居留地に派遣してキリスト教の動きを探った。同年冬、破邪僧たちは横浜居留地におけるキリスト教の動向を調査している。この一員に、後に弾正台諜者となった安藤劉太郎の長兄晃耀がいた。晃耀は横浜では既にカトリックの天主堂が建設されたのを見て強い危機感を持ち、明治元年にキリスト教を論駁する著作『護法総論』を著した。
 東本願寺は慶応4(1868)年に高倉学寮(後の大谷大学)にキリスト教研究の目的で「護法場」を設け、中国で出版されていたキリスト教書を取り寄せて対策を講じていた。教学的なキリスト教対策と共に、明治元年8月に長崎に耶蘇教防御掛の破邪僧を派遣した。この中に猶龍(後の安藤劉太郎)もいた
 長崎浦上の隠れキリシタンに対する弾圧は慶応3(1867)年から明6(1873)年に行われ、信徒4千数百人が捕縛された。このキリシタン弾圧は浦上四番崩れといわれ、キリシタン弾圧では最も激しいものであった。*
 鎖国体制下、浦上の隠れキリシタンは秘密裏に組織を作って信仰を守り続けてきたが、江戸幕府および明治政府は合計4度にわたって検挙・弾圧を行った。

この時指揮を執った弾正台大忠(大忠だいちゅうは官職)渡辺昇であった。この探索に協力したのは本願寺の防御掛の破邪僧だったことから、渡辺は彼ら破邪僧の働きを特に称賛した。渡辺は旧大村藩士で、大村藩(現・長崎県大村市)は江戸時代にキリシタン禁制後も領内にキリシタンが潜伏していたことが幕府に知られ、藩が取り潰されそうになる存亡の危機があったことから、以来徹底してキリシタンを弾圧し続けた歴史がある。
 欧米諸国は、キリシタン弾圧を非難し、捕縛者を釈放するよう日本政府に働きかけた。政府は御前会議まで開いてキリシタン禁教政策を協議、その結果、禁教は継続するが、外交問題を避けるため弾圧を止める方向へと転換した。しかし、キリシタン禁教の責任者である弾正台大忠渡辺昇は弾圧を続行した。
 渡辺は長崎での本願寺の破邪僧の実績を評価していたこともあり、彼らを弾正台のキリスト教諜者として採用することになった。その一人が安藤劉太郎である。

宣教師バラ
 安藤劉太郎に洗礼を
授けた宣教師バラ

弾正台キリスト教諜者 安藤劉太郎

東本願寺の僧、猶龍は明治3年10月に東本願寺から横浜留学を命じられた。その目的は破邪研究の名目でキリスト教の動向を探ることであった。この時、猶龍には東本願寺家従四等侍という地位と「安藤劉太郎」という名前が与えられた。また弾正台附属諜者(上等諜者)にも任命されている。弾正台諜者となった安藤は明治3年秋から渡辺昇の指揮のもと、諜者活動に従事することになった。
 横浜に入り宣教師に接近するため、安藤は宣教師バラ(James Hamilton Ballagh)の英語学校の塾生になった。学校は居留地167番地で、バラが建てた小さな石の会堂で授業が行われた。この石の会堂は、後に日本で最初のプロテスタント教会の横浜公会(現在の日本基督教会 横浜海岸教会)である。

バラの会堂
 バラの学校 横浜公会
バラは授業の前に「神よこの日本を救いたまえ、この塾生等を導きたまえ」と熱烈な祈りをもって始めた。英学を学ぶために入塾した塾生たちもバラの強烈な祈りに次第にキリスト教に興味を持つようになった。居留地の外国人がやっている祈祷会に刺激を受け塾生の中から、「われわれも日本のためにも祈るべきだ」と云う声があがり、篠崎桂之助が発起人にとなり、バラに祈祷会の開催を依頼した。バラはこれに応え、明治5年1月2日から祈祷会が開始された。
 参加者およそ30名で、ほとんどが初めて祈る人であったにもかかわらず、次から次へと熱心に祈祷が続けられた。祈祷会はそれから日曜以外にも連日午後4時から開始し、聖書を読み、バラが説教し祈りがなされた。祈りの場所も夜はアメリカン・ミッション・ホーム(後の共立女学校)で行われた
この祈祷会の様子を諜者正木護は弾正台に「彼洋教之盛んなるは言語に絶し驚愕之次第に御座候」と参加者の熱心な祈りの様子を報告している

祈祷会の参加者の中から洗礼を受けたいと熱心に願うものが出てきた。安藤もキリスト教の動向を探るには、キリスト教徒になることが最も有効であるとして受洗する決意をした。明治5年2月2日に宣教師バラによって安藤ら9人の日本人にキリスト教の洗礼が授けられた。彼らにより、日本初のプロテスタント教会である横浜公会(教会)が設立された

記念碑
 日本基督公会(横浜公会) 発祥地記念碑
 この洗礼式にはS・R・ブラウンが説教し、アメリカン・ミッション・ホームの3人の宣教師メアリー・ブライアン夫人、ルイゼ・H・ピアソン夫人、ジュリア・クロスビーも参加している。

強い使命感で活動していたキリスト教諜者たち

洗礼式の後に、横浜公会の最初の役員の選出が行われ、選挙の結果、長老に次ぐ役職である執事に仁村守三が選ばれた。仁村守三は偽称で、彼はキリスト教諜者(上等諜者)で肥後の本願寺の僧で本名は豊田道二といい、長崎のキリスト教の動向を知るため、明治3年5月に聖公会の宣教師エンサウより洗礼を受けていた。仁村は東京担当であったが、横浜居留地に派遣され教会の指導者として選ばれながらも諜報活動した。その後、明治7年東京基督公会(後の新栄教会)に転籍し、教会の指導者である長老になった。しかし、後には広島の本願寺派専徳寺の住職になった

安藤は洗礼を受けたことを弾正台に報告している。「既に先達て乍不本意蒙 御内許、教師バラより受洗いたし爾来晩餐祈祷等惣して彼か宗式に任せ、一身正に死地に入り日夜彼輩に親灸 (しんしゃ)罷在ることに御座候」 (句点は編集者が加筆。意訳「不本意ながら、内々にお許しを頂いた通り、バラより受洗し、それ以来晩餐祈祷などすべて彼らのやり方に任せ、身は死地に入って、日夜彼らと親密にしています」)とキリスト教の洗礼を受けることには弾正台から許可を得ていた。安藤は祈祷会やその他キリスト教行事にも積極的に参加して、宣教師の動向を探索していたが、報告書の中に「死地に入り」と書いているように本願寺の僧侶でありながら、キリスト教の洗礼をうけることの苦悩を表しているが、それ以上に諜者としての使命感の強さに驚かされる。安藤はさらに宣教師から信頼を受けるため明治5年4月にはバラ、ピアソンに従い居留地外の房州木更津へ伝道旅行をしている。

第二回洗礼式では6名が受洗したが、その中に桃江正吉がいた。桃江正吉は偽称で、本名は正木護(下等諜者)といい本願寺派光永寺の僧で、長崎でキリシタンの探索にかかわり、近隣の島々も探索しキリシタン捕縛に活躍した人物である。明治4年の冬に弾正台のキリスト教諜者に任ぜられ、東京居留地担当であったが横浜居留地での探索に派遣され、諜報活動を行った。婦人宣教師でアメリカン・ミッション・ホーム(亜米利加婦人教授所、後の横浜共立学園)の創立者ピアソンやヘボンの聖書翻訳の助手をしていた奥野昌綱について報告している
 桃江正吉は明治6年3月から、宣教師カラゾルスが東京築地に設けたキリスト教関係書店の店員になり、東京基督公会の発起人の一人として活動したが、明治12年、居所不明により公会から除名されている。

巧妙に進められた破邪への企み

キリスト教諜者の活動は巧妙で、明治5年4月22日に行われた横浜公会での教会規則を作成する会議での報告では、キリスト教の信仰は「キリストにのみ従うことであり」と信仰の絶対性を強調するように下記の3項目を規則に追加するような提案がなされた。
  1. 皇祖土神の廟前にひざまずいて拝むべからざること。
  2. 王命といえども道のためには屈従すべからざること。
  3. 父母肉の恩に愛着すべからざること。
 この提案に、仁村守三、安藤劉太郎が賛成した。つまり、キリスト教信仰の絶対性を主張し、神道や仏教の施設に礼拝しないことやキリスト教信仰に反する習慣、風俗等に従わないことを規則に入れることにより、政府にキリスト教を弾圧する口実を与えようとする意図があった。安藤と仁村は公会規則にこれらを盛り込ませようと試みたが、教会員から「教会外からの攻めを恐れる者あり」と、この提案は承認されなかった。この話は横浜公会の公式記録である「基督公会日誌」にはないが、早稲田大学図書館「大隈文書」の「耶蘇諜者各地探索報告書」に記載されている

安藤のキリスト教探索は教会だけでなく宣教師にもおよんでいる。報告書の中に「渡辺大忠の内命によりて、一昨年明治3年秋 当港(横浜港)へ来たり 以後元弾正台 渡辺大忠殿の内命によりて、米国の教師ブラウン、ゴーブル、ヘボン、バラ、英国の教師ベヤリン、此の他女教師キダ-、ブライン等へ出没し、捜索の事情一々言上」とある。ここに挙げられたのは幕末から明治初期に来日し横浜居留地で多方面にわたり活動している宣教師たち*である。
 安藤はバラの英語学校を拠点に、数々の情報を弾正台に送り続けた。宣教師たちのもとに出入りする日本人の名前や人物評、宣教師たちがキリスト教禁止政策を破棄させようとしているさま、聖書和訳の状況、協力している版木師の名前、説教の内容、教義、塾の運営状況、塾生たちの様子等多岐にわたっている。

中村正直とアメリカン・ミッション・ホーム(共立女学校)

ミッション・ホーム
 創設期のアメリカン・ミッション・ホーム

宣教師バラは横浜居留地で無学な日本の女性の状況や、日本女性と外国人との間に生まれた混血児たちが見捨てられて、物乞いや放浪している姿をみて心を痛めていた。バラは休暇でアメリカに帰国したときにキリスト教外国宣教団体に混血児救済と日本女性の自立のために女子教育の必要性を訴え、そのために女性宣教師を日本に派遣するよう熱心に要請した。このバラの熱望に応えて、女性の外国伝道団体「米国婦人一致外国伝道協会」が3名の婦人を日本に派遣することを決定した。
 明治4年6月25日にプライン、ピアソン、クロスビーの3名の婦人宣教師が来日した。同年8月28日にアメリカン・ミッション・ホームを山手48番に創立した。(トップの画像を参照)
 学校は開校してもはじめは志願者が集まらなく、3人は道行く人に声をかけ生徒募集をした。同年末には18名の入学者あった。内訳はイギリス軍将校の娘2名、男女の混血児14名、日本人2名である。

ミッション・ホーム
 中村正直

中村正直は明治4年10月に静岡学問所の教師の時に学問所教授として招聘したE・W・クラークを迎えに横浜港にやって来た。この時、アメリカン・ミッション・ホームに滞在した
 中村は若くして幕府の聖堂の儒者になった漢学者で、蘭学、英学にも通じる大学者であった。慶応2(1866)年幕府が派遣した英国留学生の取締役としてイギリスに赴き、一年余の海外生活を通してキリスト教がイギリスの政治、経済、社会の中心に位置づいていることを知った。幕府崩壊後は徳川家達 (いえさと)に従って静岡学問所の教授になった。S. スマイルズの「自序論(Self-Help)」を邦訳し、明治3年に『西国立志編』として出版した。西欧の歴史上の人物の成功談で、成功の原動力は個人主義であり、冒頭の「天は自ら祐るものを助く」と訳した中村の言葉は当時の青年に希望を与えた。この本は福沢諭吉の『学問のすすめ』と共に明治初期の大ベストセラーである。

中村は創立間もない学校(アメリカン・ミッション・ホーム)での3人の婦人宣教師の献身的な奉仕と厳しいしつけの中にも真に子供を愛する愛情の深さに心打たれ感動した。彼は日本で最初の「生徒募集・入学案内」と言われている「亜米利加婦人教授所 横浜山ノ手四十八番告示」を作成して生徒募集に協力した。この告知に「中村正直識」と自分の名前を載せた。
 ホームの推薦文ともいうべき入学案内を書いただけではなく、中村は明治5年2月下旬に、妻、娘のほか一族の娘3名を入学させている。さらに自分の友人の娘を入学させるなどホームを積極的に援助した。静岡学問所の教授として招聘されたE・W・クラークもアメリカン・ミッション・ホームに滞在したが、クラークは滞在の感想として、「クリスチャンホームの安らぎと上品さのすべてを見る」と教育の内容を称賛している。また、東京開成学校(後の東京大学)で化学を教授していたM・グリフィスも授業風景を見て「16人の子供が楽しそうにしていた。校舎の中で祈りや歌を英語と日本語で行っていた。」と女性宣教師たちの活動を評価した。授業はキリスト教禁教下であったが英語の教科書として聖書、讃美歌、そして祈祷もおこなった。中村の「生徒募集告示」もあり、徐々に志願者も増えていった。
 明治5年10月には山手212番地に校舎と日本で最初の女子寄宿学校を新築して移転した。校名も明治5年には日本婦女英学校、明治8年には共立女学校と改称した。なお、混血の男児たちはそれぞれ外国人家庭に引き取られて行ったという。

諜者・安藤劉太郎と中村正直

諜者である安藤にとってミッション・ホームは設立当初より諜報活動の対象の一つであった。ミッション・ホームでは、横浜公会(教会)の聖書研究と祈祷会が毎週日曜日と水曜日の夜に行われた。安藤はバラの英学校の生徒としても、横浜公会の教会員としてもミッション・ホームに自由に出入りできる立場にあった。そうしたなか、中村正直はミッション・ホームの生徒募集の広報活動を行い、さらに自分の妻や娘、そして親戚の娘をも入学させていた。
 明治4年末に外臣某之建白と題する「擬泰西人上書」という匿名文書が出版された。日本は西洋文明を盛んに輸入しているが、その根本であるキリスト教を採用していない。この根本であるキリスト教を採用し、天皇自身が受洗して模範を示すべきであるとの内容である。神道による国家体制を目指していた政府にとって驚くべき文書である。安藤は受洗後、宣教師からその著者が中村正直であると聞かされた。これを弾正台に報告し、中村に処罰が下されることを期待していたが、処罰はなかった

諜者活動の限界

ブラウンは宣教団体のフェリス総主事宛の書簡(明治5年9月4日付)に、キリスト教諜者について、「キリスト信者の調査のため、大教院から派遣されて横浜に来た密偵に前の神奈川県令が話したといわれていることですが、その管轄内では、もはやキリスト信者に干渉を加えることはできない、だから政府の迫害計画を未然におさえてしまった、と。」横浜居留地でキリシタン禁教下であるが、神奈川県庁もキリスト教の活動を取締まることを放置していたようである。この当時の神奈川県庁には、マリア・ルス号事件で知られた人道主義者の大江卓がいたことも関係していたかもしれない。(当サイト“アーカイブ”ページにある「特集 大江卓(おおえ・たく)人権擁護・人道主義に生きた! ―明治初期の神奈川県権令時代・マリア・ルス号事件を中心に―」を参照ください)

欧州視察随行、諜者「安藤劉太郎」から「関信三」へ

明治5年夏、海外事情視察のため東本願寺法嗣現如がヨーロッパへ行くことになった。(法嗣〈ほうし〉:師から仏法の奥義を受け継いだ者〉随行者として安藤が選ばれた。英語ができ宣教師との交流もあることから、随行者としては最適であった。洋行に際して名前を安藤劉太郎から関信三に変えた。随行者は松本白華、石川倫弘、成島柳北、関信三の4人であった。成島の他は、本願寺護法運動の関係者でキリスト教に敵対する役割をしてきた者たちである。当時の仏教関係者は邪教国であるヨーロッパに視察に行くことに抵抗があったことも、護法運動関係者が選ばれた要因であった。
 視察団は明治5年9月1日に横浜を出港した。途中香港に寄港した。“関”は香港で当地の宣教師を訪ねて、イギリスの神学校に入学するための推薦状を書いてもらった。神学校で本格的にキリスト教の教義を学び、その知識を帰国後には諜者活動に役立てたいとの強い思いがあった。
 11月1日に船はパリに着いた。そのころ岩倉使節団もアメリカの視察を終えパリに到着した。現如、松本らは岩倉使節団一行とフランス国内を視察した。岩倉使節団はアメリカでの視察と条約改定交渉を通してキリスト教の禁教を継続することは不可能であることを実感していた。一方、関は諜者活動に役立てようと神学校入学の準備をしていた。
 明治6年1月8日イギリスに渡り、留学先として選んだのは古都レディングにあるイギリス聖公会宣教協会に属する神学校だった。入学のためには予備課程である予備門で一年間学ぶ必要があった。異教国日本からはるばる牧師になるために留学してきた若者を神学校関係者は大歓迎し生活面を含めて援助を惜しまなかった。関は神学を学びながら、教会のさまざまな活動や行事を通してキリスト教を深く体験できた。
 ところが、神学校で学んでいた明治6年2月24日にキリシタン禁制の高札が降ろされ、キリスト教の宣教が自由に行われるようになった。関には3月中にこの情報が届いたと思われる。神学校に入学してまでキリスト教禁止政策の維持に寄与しようとの大前提が崩れてしまった。神学校で学ぶ必要がなくなり退学した。この空虚感を埋めるためか、しばらくイギリスに滞在していた。

現如と随行者との不和、そして帰国、還俗へ

関が本願寺洋行団から離れて神学校で学んでいる時期に、東本願寺法嗣現如と随行者たちは岩倉使節団と一緒にフランス国内などを視察していた。現如はときたま道理に合わないことをするので松本白華は随行責任者として注意したが、かえって現如の怒りを買い不和が生じてきた。石川舜台らも現如を諫めたが聞き入れられなかった。その後、現如の行動がエスカレートし、洋行団の内輪だけでなく、西本願寺の島地黙雷や在仏日本人からも松本に忠告が寄せられた。現如は松本等から諫められることに激怒し、松本に「放逐書」を与え、勝手に帰国するよう申し渡した。随行員たちは帰りの旅費は自己負担で借金をして帰国した

関は東本願寺派の名刹安休寺に生まれ、宗門を守るため破邪僧となり、さらに弾正台諜者として政府に協力することにより宗門に尽くしてきたとの強い思いがあった。しかし現如のヨーロッパ滞在中の随行者に対しての行動に失望した現如は宗祖親鸞の法灯の「血脈」を受け継いでいる絶対的に敬うべきお方であった。そのお方が自分勝手な行動を諫めた随行者全員をヨーロッパで解雇したのである。さらに落胆したのはキリシタン禁制の高札が降ろされ、キリスト教の伝道が自由になったことであった。キリスト教から「宗門を守る」という諜者としての目標が消えてしまい、これまで人生を捧げて来た使命が打ち砕かれてしまった。明治7年1月に帰国、4月には弾正台諜者を辞任、東本願寺の僧侶もやめて還俗した

関信三と中村正直

関は帰国後、高い英語力により明治8年に東京英語学校(第一高等学校の前身)が開設されると教員として正式に採用された。さらに、ヨーロッパでの見聞や英語力を買われ文部省から女子教育や幼稚園関係に関する外国文献の翻訳を委嘱された。明治9年7月に翻訳した『幼稚園記』全三巻が東京女子師範学校から出版された。関は幼児教育の祖と言われるフレーベル*を日本に初めて紹介し、幼稚園黎明期の近代保育学を開拓した
 東京女子師範学校は明治8年11月29日に開校し、中村正直が摂理(校長)に就任した関は明治9年2月から東京女子師範学校で英語の課外授業を始めた。明治10年からは訓導となり、附属幼稚園監事(園長)を兼ねている。  

前述のように関はキリスト教諜者・安藤劉太郎として横浜居留地で中村正直と出会ったが、奇縁なことに、今度は日本の近代女子教育と幼児教育の場でもある東京女子師範学校で同僚として出会っている。その後、関が明治11年に『古今万国英婦人列伝』を出版したが、その序文を中村が書いている

終わりに

生涯三つの名前が与えられた人物がいた。東本願寺の僧侶で破邪僧として活動した猶龍、弾正台キリスト教諜者安藤劉太郎、そして、東京女子師範学校附属幼稚園監事(園長)の関信三である。 初めはキリスト教から宗門を守るため破邪僧となり、そののち諜者となって、キリスト教の洗礼を受け教会員となり、宣教師と房州に伝道旅行までして熱心なキリスト教徒を演じながら、情報を弾正台に送り続けた。受洗時の報告書に「一身正に死地に入り」と書いたように、決死の覚悟で洗礼まで受けたのである。しかし、キリシタン禁令は廃止された。さらに、親鸞の血脈をつぐ法嗣現如からヨーロッパで「放逐」されてしまった。人生をかけて宗門を守るため意に沿わない諜者という役目に耐えて行ってきたことがすべて意味のないものとなってしまったのである。
 しかし運命とは不思議なもので、彼なりに邪教を排斥するため諜報過程で必死にやってきたことが、その後の日本の幼児教育に大いに貢献することになった。それは宣教師から学んで英語を習得したこと、欧州視察、イギリスの神学校での交流や当地の教育状況等を見聞したことから得られたものだった。
 関信三は幼稚園教育の創始者であるフレーベルの紹介者であり、日本で最初の幼稚園の監事(園長)として幼稚園教育の実践者となった。中村正直と共に女子教育と幼児教育の近代化に果たした功績は大きいものがある。関は歴史の裏方「猶龍」・「安藤劉太郎」から「関信三」に名前が変わるとともに日本の幼児教育のパイオニアとして高く評価されている

幕末・明治初期の政治的な激動・動乱・混沌のなかで、宗教も当然巻き込まれていた。仏教偏重の徳川幕府から天皇を中心に据えた明治政府は「神道」へと舵を切った。廃仏毀釈が起こり、混乱の中、キリスト教は欧米列強の圧力により解禁された。そうした時代の大きな変化のなかで、関信三のような人物が生きていた。

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