横浜歴史さろん

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お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。

カリュー事件

お知らせ

★New「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」もご覧ください!

  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 有料会員ページ「会員の論稿」に正会員執筆の論稿の掲載を開始しました。今後、索引をつくり検索しやすくする予定です。
  • トップ特集「カリュー氏毒殺事件~山手外国人居留地版2時間ミステリー~」掲載しました。
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  • 歴史すぽっとページに「熊谷伊助① 曽祖父がペリーにもらった本人の写真」および「熊谷伊助② 下岡蓮杖師と清水東谷師の写真」を掲載しました。
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  • トップ特集「ペリーの記念碑 ―幻と消えた横浜でのペリー像建立、すでに原型はできていた―」掲載しました。
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  • ビデオ「開国日本と横浜 Part 5 」YouTubeにアップしました。
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  • トップ特集「上を向いて歩こう! 電柱考古学のすすめ」掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「古文書習得は『石の上にも三年、習うより慣れろ』―神奈川宿古文書の会」の紹介記事を掲載しました。
  • ビデオ「開国日本と横浜 Part 4 」YouTubeにアップしました。
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  • トップ特集「富貴楼お倉―横浜の名物女、待合政治の元祖」掲載しました。
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  • 仲間・施設ページに「横浜郷土研究会 60年のあゆみ その2 多極化・多様化した横浜の郷土研究(後半の30年間を見る)」の紹介記事を掲載しました。
  • 「当サイト」ページにある「横浜歴史さろん」の“めざすこと”に新たな文言が加わりました。それにともない、会員制に賛助会員(有料)が創設され、その説明など関連事項の変更をしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 横浜歴史さろん会員の名称を有料会員→正会員、無料会員→一般会員へと変更しました。
  • 5/12コバテル先生歴史講演会「開国日本と横浜 Part 3」の録画ビデオをアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「キリスト教諜者・安藤劉太郎のち関信三の半生 ―キリスト教信奉者・中村正直との数奇な出会い―」掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「ホテル・ニューグランド(中区山下町・1927年竣工・震災後の横浜繁栄のシンボル)」を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「横浜郷土研究会 60年のあゆみ その1 横浜の郷土研究の中核をなした専門家集団(前半の30年間を見る)」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページ 「歴史仲間の予定」更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「中華街の歴史(横浜中華街、幕末~、かつては職人の街)」を掲載しました。
  • 1月20日の講演会をYoutubeにアップしました。
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  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その2」掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「アカデミックでチャレンジングな『横浜黒船研究会』」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「ウィリアム・ウィリス―幕末・明治に多くの日本人を治療した英国人医師」のPart1とPart 2を掲載しました。
  • コバテル先生講演会「開国日本と横浜 Part 2」(1月20日開催)のチラシを掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その1」掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • 9月9日の講演会をYoutubeにアップしました。
  • 仲間・施設ページに「港南に残る『古きもの』を蘇らせ、地域に貢献する港南歴史協議会」の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「『生麦事件で夷人を斬殺した私』久木村治休述」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 4) パーマーと横浜港の改修築事業 ~パーマー計画案採用の背後に外相大隈重信の決断が~」を掲載しました。
  • トップ特集「大江卓(おおえ・たく)人権擁護・人道主義に生きた人 ―明治初期の神奈川県権令時代・マリア・ルス号事件を中心に―」 掲載しました。
  • 9月9日(日)10:00よりの「コバテル先生の歴史講演会 Part1」のチラシを掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「和・話・倭・輪・わっ」-金沢区生涯学習“わ”の会の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「オランダ商人、デ・コーニングが見た幕末の横浜」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページ「オードリーと横浜」に【訂正】を追加しました。
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  • イベント情報 八聖殿歴史講座追加しました。
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  • トップ特集「明治時代に活躍した“元祖 外タレ”快楽亭ブラックの人生」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 3) 明治期の横浜港の歴史を物語る「象の鼻」 ~長期間議論に終始した横浜港の改修築事業~」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「“郷土とつか”を、見て、知って、楽しむ、『戸塚見知楽会』」の紹介記事を掲載しました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「ハマのヘンテコ建築ビッグ3」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「泥亀新田」および「大熊弁玉」を掲載しました。
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  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 2) ~横浜開港:横浜村の変貌にオールコックが驚愕、 とは言え、お粗末な港湾機能の下の荷役作業~」を掲載しました。
  • 「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」http://sampo.yokohamasalon.link/に「レトロな鶴見線 京浜工業地帯繁栄の面影」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「緑区生涯学級『横浜線ものがたり』」の紹介記事を掲載しました。
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  • 歴史すぽっとページに「神奈川の由来は金川」を掲載しました。
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    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART II) ―多才な彼は発展途上国日本には打ってつけの人材、その資質の源泉は―掲載しました。
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  • 歴史すぽっとページに「吉田新田一つ目沼地の難事業‐吉田南家の没落」追加しました。
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  • トップ特集「横浜nbsp;英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part1-」掲載しました。
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  • 八聖殿郷土資料館の2017年度歴史講座を掲載しました。
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    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART Ⅰ) ―彼が夢見たのは鉄道技師、しかし来日時は灯台技師―
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    ・おもしろプレート(ワシン坂、飯田道、ラインマン)
    ・神奈川落語① 大山詣り
    ・神奈川落語② 三人旅より神奈川宿
    ・神奈川落語③ 新作落語「横浜(はま)の雪
    ・神奈川落語④ 抜け雀
      ・神奈川落語⑤ ミルラー事件関係
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  • 「昔の生活ツール」の年号対照表を見易く作り直しました。お役立てください。
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  • トップ特集「横浜と水の今昔物語」掲載しました。
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  • 仲間・施設ページに「謎の八聖殿と歴史講座」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
    スマホ画面でも見やすいように調整しました。
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    仲間・施設ページに「NPO法人  神奈川区いまむかしガイドの会」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の特集と紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
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  • 歴史すぽっとページに「ホテルの歴史 in Yokohama」追加しました。
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  • 横浜歴史さろんホームページ開始しました!

特集  カリュー氏毒殺事件

~山手外国人居留地版2時間ミステリー~

イーディス・カリュー
イーディス・カリュー

カセイジン

 
富も名誉もあるイギリス中産階級の家庭に育った20歳のイーディスは、15歳も年上で自分より階級の低い男、ウォルター・ハロウェル‐カリューと出会い結婚した。それはイギリスが多くの植民地を持ち世界の覇者であったヴィクトリア朝の時代、男は新天地を海外に求め、妻とともに日本にやって来た。横浜の山手外国人居留地での生活は、多くの使用人を従え、夫は仕事以外にはヨット(レガッタ)競技に興じ、妻は乗馬、テニス、旅行、ダンス、ティーパーティー、近間の移動は殆ど人力車で…という日々だった。後に、夫が病気持ちで、自分の財産を当てにしていることを知った。

事件の始まり

ユナイテッドクラブ
カリュー氏が支配人をしていた横浜ユナイテッドクラブ
(海岸通5)
ウォルター・カリュー
ウォルター・カリュー

1896(明治29)年10月22日、横浜ユナイテッド・クラブ(女人禁制の社交場、居留地5、現、県民ホール)の支配人で、モースキート・ヨットクラブの副会長でもあったハロウェル‐カリュー氏(43歳。姓は正式にはハロウェル‐カリューであるが、以降、単に「カリュー」と表記する)が、横浜海軍病院(現、港の見える丘公園)に入院して数時間後に亡くなった。検屍の結果、体内からヒ素が検出され、同氏の妻、イーディス(28歳)が、殺人の容疑者と目された。

なお、本稿における関連・補足資料、(註)、参考文献は、右欄(スマホなどの狭小画面では、一番下のほう)に掲載している。

カリュー夫妻の結婚と来日

ウォルター・R. ハロウェル‐カリュー(Walter Raymond Hallowell -Carew)とイーディス・M. ポーチ(Edith May Porch)は、1888年に、ダンスパーティーで知り合い、翌年5月2日にイングランド南西部のサマーセット(Somerset)州グラストンベリー(Glastonbury)のセントジョーンズ教会において、結婚式を挙げた。新郎36歳、新婦21歳であった。 新婦の父はジェントルマン(16世紀から20世紀初頭にかけての実質的なイギリスの支配階級)であり、グラストンベリー市長であった。ポーチ家は、後に首相となるウィンストン・チャーチルの親戚筋という由緒ある家系である。一方、新郎の父は陸軍少佐であり、新郎の階級はジェントルマンズジェントルマン(gentleman’s gentleman)*であるため、また、娘はイーディス一人だけだったこともあり、最初は反対されていたという。
*ジェントルマンズジェントルマンは、主人の個人的な従者を務める男性の使用人のことであった。しかし、カリュー氏は、横浜最高の社交場ユナイテッドクラブの支配人であったため、どんな紳士貴顕とも口がきけるような立場だった。

カリュー夫妻は1890年に来日した。

ワシン坂病院
ワシン坂病院(カリュー家跡)

住まいと家族・使用人たち

夫妻は横浜山手ブラフ169番(現ワシン坂病院の塲所)に居を構え、屋敷には、横浜で1891年に生まれた長女マージョリー、1892年に生まれた長男ベンジャミンという2人の子供、夫人の弟レジナルド・コルモア・ポーチ(Reginald Colmore Porch)(註1)、使用人として、別当(主に馬の世話係)の黒柳純也、料理人矢沢、家庭教師のメアリー・ジェイコブ、混血(日本人と西洋人の)のラシェル・グリア、中国人ボーイ阿群(Ah Kwong)、通いの日本人阿媽(=女中、乳母)ハナらがいた。(トップの画像には自宅前での家族の写真を掲載)

地図1
カリュー家と英国海軍病院の位置
英国海軍病院
英国海軍病院(現、港の見える丘公園)

裁判に至るまで

1896(明治29)年10月15日(木)、体調を崩したカリュー氏を主治医のホィーラー博士(ウィーラーという表記もある)が往診した。持病の肝臓だろうと言うことで、ヴィシー水(発泡性のミネラルウォーター)を摂って、仕事を2、3日休んで、静養するようにと指示が出された。17日(土)~19日(月)かけて、少し持ち直したものの、20日(火)より、容体が悪化したため、カリュー夫人が再びホィーラー博士を呼び、博士の判断で海軍病院長のトッド博士にも診てもらった。肝硬変が見られるという診断だった。しかし、翌日に急変し、ホイーラー博士が入院を指示し、10月22日(木)午後3時ちょっと前に、入院。脈は微弱、胸から背にかけて激痛があったものの、その時はまだ意識は明瞭だったという。しかし、4時35分頃には死亡した。海軍病院は女人禁制であるため、夫人は付き添うことは出来ず、亡くなったという連絡を自宅で受けた。 体調を崩してから亡くなるまでが早かったので、疑問に思っていたホィーラー博士は、家庭教師のメアリー・ジェィコブ(Mary Esther Jacob)から、カリュー氏がヒ素を飲んでいたという話を聞いたことによって、検屍裁判の必要性があると判断され、裁判がはじまった。

横浜英国領事裁判所
横浜英国領事裁判所(現、開港資料館)

当時の裁判事情

1858(安政5)年の日英修好通商条約により、英国は日本国内の領事裁判権を得ていた。横浜の英国領事裁判所は英国領事館(現、開港資料館)内に、1879(明治12)年に設立された。当該裁判所は、神奈川領事館の訴訟を担当する一方、国内の他領事館の控訴審としても機能した。また、横浜の裁判の控訴審は、上海の高等領事裁判所が担当した。しかし、1894(明治27)年に、22カ条からなる日英通商航海条約が締結され、その中で、領事裁判権の撤廃、関税自主権の部分的回復、最恵国待遇の相互化が約束され、不平等条約の解消とともに、日本側に裁判権が認められることになった。
 ところが、同法21条に「本条約は、調印の日よりも少なくとも五箇年の後迄は、実施せられざるものとす」とあり、実際に効力をもったのは、1899(明治32)年からで、事件が起きた1897(明治32)年は、その猶予期間中であったため、これまで通りの領事裁判により行われた。

カリュー氏事件の領事裁判の流れ

1896年10月24日~11月6日の期間中、5回にわたって、検屍裁判(毒殺の可能性があるかどうかを決める裁判)が行われ、その可能性が指摘されたので、11月11日~16日の5日間、予備審問(証拠調べ)が行われ、1897年1月5日から2月1日の21日間、陪審員立ち合いで、夫人を被告人とした公判が行われた。
 11月6日の検視裁判後から11月11日の予備審問までの期間に、謎の人物(A.L.のイニシャルから後述する“黒衣の女”らしきアニー・リューク?)からの手紙が何通も届き、事件は複雑化していった。また、家庭教師メアリー・ジェイコブが逮捕され、彼女を被告とした裁判も並行して行われたが、彼女は最後には無罪となった。(なお、カリュー氏殺害事件におけるメアリー・ジェイコブの役回りと彼女の裁判に関しては、紙面の都合上、今回は言及できませんでした。)

検屍裁判(1896年10月24日~11月6日)

検屍裁判では、検屍官(coroner)J.C.ホール(John Carey Hall)、陪審員として、T.ローズ(Rose)、J. K. トラッフォード(Trafford)、E. T. ニコラス(Nicholas)、G. ブランデル(Blundel)、E. パウィス(Pawys)の5人。訴追人として、H. C. リッチフィールド(Henry Charles Litcjfield)、イーディス・カリューの弁護人として、J. F. ラウダー(Lowder)及びA. B.ウォルフォード(Walford)らが立ち会った。主治医ホイーラー(Wheeler。註2)、被害者の解剖もした海軍病院の院長トッド(Todd)(註3)及び担当医メイ(May)(註4)の両医師、理化学検査を担当した東京帝大のダイヴァース(Divers)(註5)博士といった医師たちが証言している。
 ちなみに、英国には日本のような検事制度はなく、警察官も訴追できるが、訴追はあくまでも私人が行う。ただ、謀殺のような複雑で立証困難な事件になると法廷弁護士(barrister)が訴追をする。したがって本件の訴追人のリッチフィールドも法廷弁護士である。

予備審問(11月11日~16日)

予備審問には、判事J. トループ(James Troup)、訴追人リッチフィールド、弁護人ラウダー、ウォルフォード、容疑者イーディス・カリュー、保釈金拠出者J. D. ハッチソン(Hutchson)及びR. B. ロビンソン(Robinson)らの立ち合い。  

公判(1897年1月5日から2月1日)の出廷者

公判では、裁判長R. A. モワット(Reginald A. Mowat)、訴追人リッチフィールド、弁護人ラウダー、ウォルフォード、容疑者イーディス・カリュー、保釈金拠出者J. D. ハッチソン(Hutchson)及びR. B. ロビンソン(Robinson)らの立ち合い。  

事件の人間関係

ヒ素入り薬品の入手先である薬局

各薬局の位置
各薬局の位置
ブレット商会
ブレット商会(居留地60-C)
ノースレー商会
ノースレー商会(居留地79)
丸屋
丸善薬種店(丸屋)弁天通2-28

 当時、カリュー家では、処方箋により、ヒ素が含まれるホーレル水*、鉛を含む鉛糖**といった毒物を含む薬品を入手していた。1894(明治27)年10月12日にブレット商会(Brett & Co., Limited)で2オンス(イギリスでは、英1オンスは28.41ml)、1895(明治28)年10月に、ノースレー商会(North Rae, Limited)からは0.5オンス、1896年10月にも1.5オンス、他に、外国人経営の薬局では、ノーマル薬局(Normal Dispensary)でも購入していた。日本人経営の薬局でも1896(明治29)年10月に、丸善薬種店(丸屋)で計3オンスという具合に、複数の薬局から購入していた。特に、丸屋にはカリュー氏が亡くなる前の1週間のうち3回もカリュー家の者が買いに行っており、店主はその毒性を警告していた。

ホーレル水のラベルの例
ホーレル水のラベルの例
鉛糖のラベルの例
鉛糖のラベルの例

*ホーレル水:ファウラー溶液(英国の医師T. Fowlerが製した)ともいう。昭和37年4月まで『第六改正日本薬局方』にも載っており、亜砒酸10g、重炭酸カリウム7.6g、アルコール30ccを蒸留水に溶かし1000ccにしたもので、1パーセントの亜砒酸を含む。1オンス(約30㏄)のファウラー溶液には0.3gの亜ヒ酸が入っていることになる。これだけでも致死量に近いと考えられる。
**鉛糖:白い二価亜鉛化合物の結晶で、水に溶かして傷の無い打ち身などの湿布薬として用いる。普通は飲まない。

薬局の証言、日本人証言者は早矢仕七郎

本裁判で、ノーマル薬局の店主スケーデル(Joseph Schedel)の他、横浜弁天通りの丸善薬種店の店員で早矢仕七郎という日本人が証言に立ったことも注目される。同氏は、同社創業者、早矢止有的の四男である。彼は、外国人女性(黒衣の女?)に薬品を売ったが、夫人本人に直接売ってはいないこと、小林米珂(デベッカー)(註6)氏から、カリュー氏が、ヒ素を常用していたことを聞かされていた事を証言した。スケーデルはカリュー家にヒ素を含有する薬品を売ったが、カリュー氏のヒ素常用については、知らないと証言した。

公判の行方

動機・疑惑

公判では、夫人の動機面で、夫婦間の争いについて言及された。夫人の証言によると、唯一の言い争いは夫人には年500ポンドの個人資産があり、それが6月・12月の年2回に分けて実家から夫の口座に届くので、それを夫人に渡すことになっていたが、6月の分を受け取らなかったので、7月に言い争いになったことで、それも香港上海銀行(註7)のディキンソン(Harry Vansittart Dickinson、証人として、本裁判で証言台にも立った)氏に相談し、同行のジャクソン(Jackson)氏を紹介してもらい、同氏のすすめで、カリュー氏とかけあい、チャータード銀行(註8)に夫人の口座を開設してもらい、そちらに振り込まれるようになったので解決していたという。
 また、夫人の証言では、入手したヒ素入り薬品の中にはカリュー氏に処方されたものだけでなく、日本に来る途中に寄ったマラッカでマラリヤにかかり、その後の後遺症の治療のため、夫人自身に処方されたものも含まれていること、以前から、カリュー氏が自分の意思でヒ素を常用していたとのことである。しかし、薬局の証言で、夫人の使いにヒ素入りの薬品を販売しており、また、使用人たちの証言で、夫人が家庭内での薬品の保管場所を知っていて、いつでも使用できる立場にあったことが明らかになり、夫人にとっては不利となった。

その後、カリュー氏周辺に現われている謎の“黒衣の女”が、氏のイギリス時代からの愛人、アニー・リューク(Annie Luke)で、彼女が横浜に来ていて復讐するという内容の書簡をカリュー氏に送っていたとして、証拠として提出された。また、ラシェル・グリア、阿群、ハナら使用人たちも証言に立ち、薬品が戸棚にあったことを証言した。なお、ハナは謎の黒衣の女性に会ったとも証言した。別当の黒柳純也は、春に夫人用の馬が風邪をひいた時、白い薬(白色砒素?)を与えた。また、9月に馬の脚が熱を持った時、湿布(鉛糖?)をしたことを証言した。この証言は、毒物がカリュー氏に投与されること以外にも使われたという傍証だとした。
 しかし、夫人がディキンソンを通じて、ユナイテッドクラブの図書室より「女優(Play Actress)」という本を借りており、その最初の方の章に、「黒衣の女(Lass in Black)」があり、これを下敷きにして、夫人が不倫相手のディキンソン氏と仕組んで、メアリー・ジェイコブにやらせた狂言であるとされた。
 夫人は、アニー・リューク出現により、夫が自殺したのでは、と言ったが、夫の不倫の証拠として提出されていたアニーからの書簡の一部が紛失し、調査の結果、夫人の黒いドレスの袖とカフの間から発見されたことに及んで、その筆跡鑑定により、夫人が書いたものとみなされた。殺人容疑が濃厚になったことから、夫人の弁護人の一人ウォルフォードが開廷中に法廷から立ち去るという場面もあった。

死刑判決

イーディス・カリューの弁護側は、事故死を主張したが、陪審員の審議の結果、カリュー氏が、最近、ヒ素を常用していたという証拠がないのに対し、夫人は、わざわざ複数の薬局にわけて、ヒ素入りの薬を買わせたり、「夫は少量ずつ、数カ月前から服用していた」と言っていた証言を「大量のヒ素をサイドボードに入れて常時飲んでいた」と証言を変えたりしたこと、アニー・リューク本人が見つからないうえ、手紙の筆跡と文体がメアリー・ジェイコブに似ていること、ラウダー氏にあてた手紙は、夫人がジェイコブの筆跡をまねたねつ造であることなど不審な点が多くあったことで、やっていないなら、そんなことをする必要がないということで、目撃者もおらず確たる証拠はないが、全員一致で有罪(死刑)の評決に達した。

私、カセイジンの推理

私個人としては、夫人に、明確な殺意があったかというと、それは立証できていない気がする。しかし、金銭トラブルがあり、夫に不満が無かったわけではない、従って、2時間ミステリーの探偵風に言わせてもらえば、未必の故意、あるいは、プロバビリティー(可能性)の殺意があったのではないかと思う。つまり、死ぬとは限らないが、死んでも構わないと言う意味で、ヒ素を与えたり、夫が自らヒ素を飲むのを黙認していたのではないかと思う。心にやましいところがなければ、公判で指摘されたように、様々な策を弄する必要はなかったはずだと思うのである。

サトウ英国公使
サトウ英国公使

その後のカリュー夫人

1879年2月1日に、有罪判決が出て、イーディス・カリューは法廷から在横浜英国領事館拘禁所に身柄を移され、判決文および法廷記録が駐日公使アーネスト・サトウ(註9)の署名・指示があり次第、処刑場で絞首刑の上、処刑場内に埋葬されることになっていた。しかし2日後に、サトウ公使から「女王陛下の公使である私は、2月1日、イーデス・ハロウエル‐カリューに下された死刑判決を検討した。折から1月31日、天皇陛下は皇太后(孝明天皇妃)の死去により大赦令を公布され、服役中のすべての日本人に対し減刑を与えられた。大赦の時期においてはまだ刑の言い渡しを受けていなかった者も、天皇陛下の御領土において裁かれた事実を勘案するとき、等しく大赦の恩恵に浴せしめるべきであろうと考える。従って女王陛下の公使は、死刑判決を執行しないこととし、代わって終身重労働をカリュー夫人に科することとした。」という文書が、横浜領事法廷に届いたことにより、横浜に拘留されていた夫人は、終身刑に減刑され、1897年4月に、香港の殖民地刑務所に移送された。
 その後、7月には上訴が棄却され、翌年1898年1月には在ロンドンの弁護士による保釈請求もなされ、マラリアにかかることを心配した両親の陳情により、4月にはロンドン北部英国最大の未決女囚収容所であるハロウエイ(Holloway)刑務所に移送された。

ベディリントンテリア
ベディリントンテリア
ディナスクロス
夫人が晩年を過ごしたディナスクロス

1906年には、イングランド南部のワイト(Wight)島の陸軍幼年学校に入っていた長男のベンジャミンが、脳膜炎のために、13歳で死去するという不幸はあったものの、1910年10月26日に、ジョージ五世即位の大赦により出所した。
 1930~1932年頃には、娘のマージョリー、姪のパンジーをともないウェールズのディナスクロス(Dinas Cross)に移り住んだ。英国ケネルクラブ(The Kennel Club)主催のクラフツドッグショー(Crufts dog show)の品評会の審議員を務め、ベドリントンテリア(Bedlington Terrier)(註10)の犬種固定に参加したという。夫人は、かの地で、1958年6月27日に、90歳で亡くなった。

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