横浜歴史さろん

コーヒー コーヒー

お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。

根岸外国人墓地トップ画像

お知らせ

「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」もご覧ください!

  • 仲間・施設ページに「元祖『まち歩きガイド』、NPO法人横浜シティガイド協会」及び、人物紹介「発想力と実行力で愛する横浜のまちづくり 嶋田昌子さん」を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 横浜歴史さろん2021歴史講座「海から見る横浜の幕末史 第3回」YouTubeにアップしました。
  • 横浜歴史さろん2021歴史講座「海から見る横浜の幕末史 第2回」YouTubeにアップしました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
  • 9月11日開催予定の「海から見る横浜の幕末史」第4回中止のお知らせ。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「横浜の戦後史を考える ―もう一つの外国人墓地―」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「会員による古代から近代までの通史の研究発表が主軸活動の『横浜歴史研究会』」の紹介記事を掲載しました。
  • (変更のうえ)横浜歴史さろん2021歴史講座「海から見る横浜の幕末史 第1回」YouTubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 横浜歴史さろん2021歴史講座「海から見る横浜の幕末史 第1回」YouTubeにアップしました。
  • コバテル先生講演会ビデオ「変遷する港湾社会を介して港都横浜の現代史を語る②」YouTubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「生麦事件 ―徳川幕府崩壊、日本歴史大転換の起爆剤、生麦事件はこうだった!― 」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「たゆまぬ地道な研究で郷土の歴史に光を当てる『横浜西区郷土史研究会』―久保山墓地の全体像を明かすこの度の調査研究冊子もご紹介―」および人物紹介コーナー「真摯に横浜の歴史を追求する郷土史研究者 田村泰治氏 ―根岸外国人墓地解明にも大きな功績―」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「『天下の糸平』と言われた相場師田中平八の生涯」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
    歴史すぽっと記事「ザ・ゴールデンカップス」に情報を追加して更新しました。
  • 1. 歴史すぽっとページに「横浜天主堂と横浜天主堂事件」を掲載しました。
    2. 歴史すぽっと記事「ライジングサン石油横浜本社」に写真を追加して更新しました。
  • お詫びと訂正:特集記事(2018年6月18日掲載)「大江卓(おおえ・たく)人権擁護・人道主義に生きた! ―明治初期の神奈川県権令時代・マリア・ルス号事件を中心に―」(現在はアーカイブページに収納されている)内のフェリス女学院創設者のお名前がアンナ・キダーとなっていましたが、正しくは、メアリー・E.キダーでした。訂正し、謹んでお詫びいたします。
  • コバテル先生講演会ビデオ「変遷する港湾社会を介して港都横浜の現代史を語る① 」YouTubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「磯子森地域に残る古文書を読み、郷土の歴史を学び伝える『火曜古文書会』」および新設の人物紹介コーナー「磯子地域で活躍するこの人 ―市内の古文書会の連携を提唱― 」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「日枝神社とお三さま “おさん”はどこから?」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • コバテル先生講演会ビデオ「開国日本と横浜 Part 6」YouTubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 有料会員ページ「会員の論稿」に正会員執筆の論稿の掲載を開始しました。今後、索引をつくり検索しやすくする予定です。
  • トップ特集「カリュー氏毒殺事件~山手外国人居留地版2時間ミステリー~」掲載しました。
  •              
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「熊谷伊助① 曽祖父がペリーにもらった本人の写真」および「熊谷伊助② 下岡蓮杖師と清水東谷師の写真」を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「ペリーの記念碑 ―幻と消えた横浜でのペリー像建立、すでに原型はできていた―」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • ビデオ「開国日本と横浜 Part 5 」YouTubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「上を向いて歩こう! 電柱考古学のすすめ」掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「古文書習得は『石の上にも三年、習うより慣れろ』―神奈川宿古文書の会」の紹介記事を掲載しました。
  • ビデオ「開国日本と横浜 Part 4 」YouTubeにアップしました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「富貴楼お倉―横浜の名物女、待合政治の元祖」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「横浜郷土研究会 60年のあゆみ その2 多極化・多様化した横浜の郷土研究(後半の30年間を見る)」の紹介記事を掲載しました。
  • 「当サイト」ページにある「横浜歴史さろん」の“めざすこと”に新たな文言が加わりました。それにともない、会員制に賛助会員(有料)が創設され、その説明など関連事項の変更をしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 横浜歴史さろん会員の名称を有料会員→正会員、無料会員→一般会員へと変更しました。
  • 5/12コバテル先生歴史講演会「開国日本と横浜 Part 3」の録画ビデオをアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「キリスト教諜者・安藤劉太郎のち関信三の半生 ―キリスト教信奉者・中村正直との数奇な出会い―」掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「ホテル・ニューグランド(中区山下町・1927年竣工・震災後の横浜繁栄のシンボル)」を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「横浜郷土研究会 60年のあゆみ その1 横浜の郷土研究の中核をなした専門家集団(前半の30年間を見る)」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページ 「歴史仲間の予定」更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「中華街の歴史(横浜中華街、幕末~、かつては職人の街)」を掲載しました。
  • 1月20日の講演会をYoutubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その2」掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「アカデミックでチャレンジングな『横浜黒船研究会』」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「ウィリアム・ウィリス―幕末・明治に多くの日本人を治療した英国人医師」のPart1とPart 2を掲載しました。
  • コバテル先生講演会「開国日本と横浜 Part 2」(1月20日開催)のチラシを掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その1」掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • 9月9日の講演会をYoutubeにアップしました。
  • 仲間・施設ページに「港南に残る『古きもの』を蘇らせ、地域に貢献する港南歴史協議会」の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「『生麦事件で夷人を斬殺した私』久木村治休述」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 4) パーマーと横浜港の改修築事業 ~パーマー計画案採用の背後に外相大隈重信の決断が~」を掲載しました。
  • トップ特集「大江卓(おおえ・たく)人権擁護・人道主義に生きた人 ―明治初期の神奈川県権令時代・マリア・ルス号事件を中心に―」 掲載しました。
  • 9月9日(日)10:00よりの「コバテル先生の歴史講演会 Part1」のチラシを掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「和・話・倭・輪・わっ」-金沢区生涯学習“わ”の会の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「オランダ商人、デ・コーニングが見た幕末の横浜」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページ「オードリーと横浜」に【訂正】を追加しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報 八聖殿歴史講座追加しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「明治時代に活躍した“元祖 外タレ”快楽亭ブラックの人生」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 3) 明治期の横浜港の歴史を物語る「象の鼻」 ~長期間議論に終始した横浜港の改修築事業~」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「“郷土とつか”を、見て、知って、楽しむ、『戸塚見知楽会』」の紹介記事を掲載しました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「ハマのヘンテコ建築ビッグ3」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「泥亀新田」および「大熊弁玉」を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 2) ~横浜開港:横浜村の変貌にオールコックが驚愕、 とは言え、お粗末な港湾機能の下の荷役作業~」を掲載しました。
  • 「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」https://sampo.yokohamasalon.link/に「レトロな鶴見線 京浜工業地帯繁栄の面影」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「緑区生涯学級『横浜線ものがたり』」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川の由来は金川」を掲載しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part3-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part1)~開港前夜に米国人がみた横浜の風景~」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川でのヘボンの施療」と「江戸時代の刑罰」を 掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 有料会員の期間のうち、半年会員を廃止し、年会員のみに変更しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part2-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「生麦事件参考館」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページ「コバ・テル先生のハマ歴ワンポイント」
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART II) ―多才な彼は発展途上国日本には打ってつけの人材、その資質の源泉は―掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「吉田新田一つ目沼地の難事業‐吉田南家の没落」追加しました。
  • 仲間・施設ページに「ドラマチックな郷土史探究 鶴見歴史の会」の紹介記事を掲載しました。
  • トップ特集「横浜nbsp;英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part1-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 八聖殿郷土資料館の2017年度歴史講座を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 「テル先生のハマ歴ワンポイント」始まりました!
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART Ⅰ) ―彼が夢見たのは鉄道技師、しかし来日時は灯台技師―
  • 「歴史すぽっと」に6件追加しました。
    ・おもしろプレート(ワシン坂、飯田道、ラインマン)
    ・神奈川落語① 大山詣り
    ・神奈川落語② 三人旅より神奈川宿
    ・神奈川落語③ 新作落語「横浜(はま)の雪
    ・神奈川落語④ 抜け雀
      ・神奈川落語⑤ ミルラー事件関係
  • イベント情報更新しました。
  • 「昔の生活ツール」の年号対照表を見易く作り直しました。お役立てください。
  • イベント情報更新しました。
  • トップ特集「横浜と水の今昔物語」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「謎の八聖殿と歴史講座」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
    スマホ画面でも見やすいように調整しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 会員制スタートしました。
    有料会員による会員交流広場開始しました。
  • イベント情報更新しました。
  • トップ特集「横浜歴史のブラタモリ的地形考察」掲載しました。
    仲間・施設ページに「NPO法人  神奈川区いまむかしガイドの会」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の特集と紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「ホテルの歴史 in Yokohama」追加しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「パンの歴史 in Yokohama」追加しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「神奈川歴遊クラブ」の紹介記事を掲載しました。
  • 横浜歴史さろんホームページ開始しました!
正門への道
山手駅を出て、左へ進む。2又に分かれた道を
右方向へ。奥に案内板が見える。
 

「根岸外国人墓地」に光をあてる

この外国人墓地はJR京浜東北・根岸線山手駅のすぐ近くにあります。港の見える丘公園近くにある有名な外国人墓地は「横浜外国人墓地」(通称「山手外国人墓地」)ですが、こちらはJR山手駅が間近ながら「根岸外国人墓地」という名称です。横浜市中区仲尾台7丁目、面積約3000坪、段々畑のように東側丘陵面に広がるこの市営の外国人墓地は横浜市民にさえ、あまり知られていません。
 明治時代初期、山手の外国人墓地が手狭になり、それを解消するために造られた日本で亡くなった外国人用の墓地なのですが、特筆すべきは、戦後間もなく、ここに多くの嬰児が埋葬された事実があることです。このことで根岸外国人墓地が「闇の歴史」とか「負の遺産」と呼ばれたりします。
 約35年前、墓地のすぐ上にある仲尾台中学校の社会科教師であった田村泰冶氏と生徒の皆さんが、この墓地の調査研究をしたことから、初めてこの外国人墓地の存在とその歴史に光が当てられるようになりました。
 今回の特集記事は、田村先生執筆の原稿を元に、編集を多く加えました。 (横浜歴史さろん 渡辺登志子)

特集  横浜の戦後史を考える ―もう一つの外国人墓地―

田村泰冶
 

1.子供の発想から始まった墓地清掃と調査

 
正門
出入りは左の小さなくぐり戸から

JR 根岸線「山手駅」の斜面、仲尾台に造成されている外国人専用の墓地「根岸外国人墓地」は、私が14年間(1973~1987)勤務していた市立仲尾台中学校の歴史研究クラブや生徒会によって調査研究を始めて、市営墓地の一つとして認識されたと言っても過言ではない。中学のグラウンド脇が「墓地」であったことが事の始まりである。そして、この研究は単純で、子供の発想から始められたことが立脚点である。

管理事務所
墓地の管理事務所。右側に新たな看板が
建てられた。

仲尾台中学校のあるこの台地は戦中、高射砲陣地として構築された。戦後になり、親校の港中学校が生徒の急増で、急遽ここに分校として建てられたものが、その後「仲尾台中学校」として独立した。
 校庭はあまり広くなく、ボールがフェンスを越えて脇にある墓地内に落下してしまうことがしばしばあった。墓地の管理人さんの国富(正男)さんがバケツにボールを拾い集めて届けてくれるので、お礼にお茶を接待して話をする機会が重なり、この根岸外国人墓地の状況を知ることができるようになった。
 この墓地に参詣に来る人はほとんどなく、異国で亡くなり葬られた外国人であること、清掃も草刈も一人の管理人では手に負えない状況が分かった。それは校庭から見える墓地内の雑草が伸び放題の荒れようを生徒たちは身をもって知っていた。素直な気持ちで慰霊したいという思いが生徒会・奉仕委員会から自然発生的に起った。学校が 「JRC 青少年赤十字団」に全校加盟で、国際親善意識を持っていたことも、こうした活動への後押しになっていたと思う。

生徒たちは、墓地の清掃から立ち上がった。まず、雑草の除去から始めた。しかし、清掃、草刈りといっても、鎌など持ったことがないのだから本当に大変だった。生徒会が鎌を購入してくれ、ゴミ袋・軍手は各自が持参してとりかかった。
 一方、私が顧問の歴史研究クラブの生徒たちは埋葬されている人たちと横浜との関連に興味を持ち、それらを知りたいと言い出し、調べることになった。私自身はこの墓地の歴史的な調査研究をすることになった。清掃と調査、管理人さんと協力して実施していくことになった。

2.横浜市長も知らなかったもう一つの外国人墓地の存在

外から見る
現在、外側からみるとこんな感じで、
緑に覆われている。

墓地の調査を始めるにあたり、管理人の国富さんから意外なことを聞かされた、「資料がない」。資料は占領軍に没収されてしまい何も残っていないという。とにかく、頼るべき資料が何もなかったので、墓石・埋葬者の分布図を作成、墓石の刻銘の記録、写真撮影が大きな作業であった。しかし、ほとんどがガサ藪で生い茂った雑草で手が付けられず、ヤブ蚊との戦いであった。これを見かねた地元の老人会が手助けに入り、さらに自治会の方々も協力してくださり、用具も整い、蚊取り線香を腰にぶらさげ、土日・春休み・夏休みに活動を続けた。
 そうした中、横浜市会でこの問題が取り上げられ、その実情が明かされたが、当時の市長は根岸外国人墓地の存在すら知らなかったという。ともかく問題になったおかげで、急遽、横浜市が業者を派遣してくれ、瞬く間に、たった2日間で清掃は完了した。

階段1
plot1
plot4

(左)1段目から2段目へ上る階段。(右)2段目にあるplot 1。(下) 3段目のplot 4。このplot 1とplot 4は平面広がったかなり広いエリア。まばらに小さな墓石が残っているが、以前はここに小さな白い木製十字架がたくさん建てられていた。

歴史部員は墓石の記録をし、地図上にその位置を記し、写真を撮影して一つ一つの墓石を記録・確認していった。図面ができると埋葬者の経歴等に興味が移り、まず、国籍・没年月日を記録していった。外国の墓石には日本と違い、誕生年月日と没年月日が記されているのに気付いた。しかし、刻まれている外国語は読めないし、スペルが分からなかった。そこで、ロシア語は有隣堂編集部にいた詳しい方に、フランス語は学校の近くにお住いの大学教授に、英語は学校の先生にという具合で、専門家に尋ねて正確に記録することを心掛けていった。

3.開設年度の不思議 22年の差は?

plot2or3
plot 2かplot 3のあたり

私が行なった歴史調査の過程で、驚くべく事実が判明した。
 横浜市史・市史稿ではこの墓地の開設は明治35(1902)年として明示されていた。どの横浜の歴史書も同様であった。しかし、調べた結果、明治13(1880)年9月13日に完成していたことがわかったのである。
 明治に入り、山手の外国人墓地が手狭になり、日本政府は居留外国人から新しい墓地の開設を要求されていた。現在、山手駅から伸びる大和町商店街の辺りが、当時の候補地に上がったが、この商店街の直線道路は、かつては駐留外国軍隊の射撃場であったので、その付近に墓地を造成することは危険と反対された。が、候補地難もあって、その先にあるこの仲尾台に造成することに決まった。国が神奈川県に建設費用を支出して完成されている。 (当時はまだ横浜市〈市制施行は明治22年〉はなかった。)その決算報告書が大蔵省の記録に残されており、それが明治13年9月13日なのである。

plot2or3
一番上段のplot 7エリア。
そのフェンス向こうは仲尾台中学の通学路。

この22年間の差は何故なのか。それは日本が不平等条約の治外法権撤廃を獲得するまでのことと関連していたことが想像できる
 いま、横浜山手外国人墓地は5ヶ国領事の管轄地で、横浜市の管轄下に置かれていない。日本が当初結んだ条約が不平等で、治外法権を認めていることから、山手の外国人墓地は外国領事の管轄で、横浜の土地でありながら外国5か国が管理する体制であった。根岸外国人墓地も、その時開設していたら外国領事の管轄下に入ってしまう。そのため、「立野小学校敷地」とか「公園予定地」などと地図には記載して不平等条約が撤廃されるまで放置されていたことが史料から読み取れた(編集者注:治外法権は1894年(明治27)にイギリスとの間で一部撤廃されたのを始めとして、その後他の欧米諸国とも同内容の条約を結んでいった。1911(明治44)になり治外法権は完全に撤廃された。)

十字架
この木製十字架には
金属版に名前と生没
年月日がある。(約40年前)

4.嬰児の墓

ここに大きな問題に突き当たった。
 この墓地には小さな白い十字架が広範囲にびっしりと建てられていた。それは、たくさんの嬰児の墓であるという。700~900体、それも終戦直後の混乱時期、多くが米兵と日本人女性との間の子供であるとのこと。この問題を扱うのは子どもたちには酷であることから、生徒たちによる墓地の調査研究はこの問題を伏せて終了した。これに関しては、私が責任をもって調査を続け、対応していくことにした。

嬰児の墓石

5.日本は戦争に負けた

いま、私が敗戦直後の横浜を思い返すと、戦後、占領・接収で大部分の市内中心部を外国軍人関係施設で占められた。至る所で鉄条網で囲まれたかまぼこ兵舎が建てられ、多くのビルや形だけ残った高級住宅は駐留将校の住宅に転用され、3万人余りの軍人の街となった。
 経済は混乱し、配給制は遅配や欠配があり、生活が困窮、食糧不足は致命的で人々は作物獲得に走り、ヤミや買い出しで命を繋げる毎日であった。それに引き換え、占領軍の宿舎は豊富な物資や食料で満たされ、食べきれない大量の残飯を平気で棄てる姿に日本人は見とれるほかなかった。 子供たちは米兵士に群がって菓子をせびり、女性は生活費が得られる仕事-女性が外国軍人軍属と交渉を持ち資金や物資を得る方法を用いざるを得なかったことも多かった。街頭で客を拾う姿に敗戦の惨めさを感じないわけにはいかなかった。

6.嬰児の死、その埋葬、山手ではなく根岸へ

米兵と日本人女性との関係の結果、望まない妊娠、出産で、多くの混血児が誕生した。早産や血液異相等による死産も多かったという。当時の日本はまだ外国人や混血児に対する偏見や差別が当たり前に横行する時代、女性が混血児を育てるには負担が大きすぎる。そのため、無事に生まれても孤児院へ預けたり、捨て子にもなった。死産児や生まれて間もなく亡くなった嬰児は外国人墓地へ持って行った。山手の外国人墓地ではその埋葬を断られ、根岸に行くように指示されたという。当時も根岸外国人墓地は埋葬が禁止されており一般には開放されていなかった。しかし、そこに約700体または823体ともいう嬰児が埋葬されたといわれている(正確な数は不明)。それが事実であると裏付けるものとして、 横浜を管理していたアメリカ軍第8軍司令部の葬送事務所(平屋建ての小屋)がすぐ近くの、現在も立野の丘に建つYC&AC (横浜カントリー&アスレティッククラブ:外国人会員用のクラブ)の隣にあったことや、根岸外国人墓地が接収されていたという経緯、付近の住民が米軍のトラックやジープの出入りを何度も目撃したと証言していることなどが挙げられる。墓地の書類は第8軍に没収されてしまい、当時のことが記録されたものがないから、混血嬰児埋葬がどれほど行われていたとしても、その正確な数を知り得ることはできない。 その数を横浜市衛生局は100人余りと言っていたが、私が勤務していた14年間(約40年前)、毎日の登下校で墓地際の通学路から見ていた白い木製の小さな十字架は約30㎝間隔でびっしりと立てられ、それは数えきれないものすごい数であった。誰がこの十字架を立てたのか?と思っていた。管理人の国富さんが十字架を修理している様子を目撃したことがあった。(今は跡形もなく、当時の木製十字架は一つもない)

編集者注:後述する「天使はブルースを歌う」(山崎洋子著1999/10/1 毎日新聞社)より― 252p・・・ 「崖に沿ってね、八百何十基もの小さな白い木の十字架が立ってたんです。びっしりと……。厚木基地なんかで手に入れることができたみたいですね、そういう十字架を」 十字架には真鍮のプレートに埋葬者の死亡年月日と名前が記されているものもあった。それらが1946年から1948年頃に生まれて死んだ嬰児だったと国富さんが言う。・・・
 253p・・・山手外国人墓地の管理人だった、故安藤寅三さんが、YCACの依田成史さんや法医学者の西丸輿一博士などに語ったという、「毎夜、山手外国人墓地にこっそり置いていかれた混血の赤ん坊」の話がある。安藤さんは一時、根岸外国人墓地の管理もまかされていた。そうした遺体を、安藤さんは根岸外国人墓地に埋葬したと語っているのである。・・・

7.混血児の統計は存在しない?!

連合国軍占領下の日本で、GI(アメリカ軍やイギリス軍兵士)を中心とした連合国軍兵士と日本人女性との間に生まれた乳幼児や子供は“GIベビー”と言われていた。養育困難などの理由でしばしば孤児になり、「混血孤児」とも呼ばれた。エリザベス・サンダースホームの創立者沢田美喜らは孤児の米国移住を働きかけた。(以上Wikipedia「GIベビー」より)

あるアメリカ人旅行者が戦後の日本で生まれた混血児童の数は20万人と発言し、エリザベス・サンダースホームの沢田美喜氏がそれを追認した。そのなかでも黒人系混血児は4万人であり、差別や貧困に喘いでいると訴えたが、この数も正確ではなく、先のアメリカ人の20万人説は阪神地方での混血児8万人から推定したものと考えられている。つまり、混血児童の正確な統計はない。しかし、混血であることによる悲劇は至る所で起こっていた。
 ちなみに、昭和27(1952)年8月1日現在で、厚生省が医師・助産婦から調査した結果を、3日付新聞に発表している。

   混血児 5013人(男子2635人、女子2378人)
   内訳  白系 4205人、黒系 714人、不明 94人

となっているが、これも識者からは不正確であると指摘されている。(昭和27年の横浜の混血児数については山崎洋子氏の引用を右欄コラム〈スマホでは最後方〉に掲載したのでご参照ください。)

自ら混血児であり、その苦悩を知っていた横浜市出身の詩人・フランス文学者である平野威馬雄(料理愛好家で有名は平野レミは娘)は、「レミの会」を開き、混血児の救済に立ち上がっている。(詳細は右欄コラム〈スマホでは最後の方〉を参照のこと)

8.慰霊祭がはじまった

昭和60(1985)年、仲尾台中学校の秋の文化祭で歴史研究部が墓地の研究発表することになった。たまたま PTA役員の方が山手ライオンズクラブの関係者であったことから、根岸外国人墓地に眠る人々の慰霊祭を併せて行うことになった。11月、墓地で慰霊祭(=墓前祭)、丘の上では文化祭が行われ、ライオンズクラブのご厚意で外国人遺族と生徒との懇談会が開かれた。埋葬されている先祖の思い出や当時の横浜についての話が聞け、生徒には墓地の調査清掃をした意味がより理解されたと思う。それから今日に至るまで、慰霊祭は地元の立野小学校、仲尾台中学校、山手ライオンズクラブの方々で毎年11月第1土曜日に催行されている

【参考】昭和63〈1988〉年、横浜山手ライオンズクラブは、墓地の入口手前に日本後・英語で書かれた大きな案内板を寄贈した。その説明文はそれまでの歴史や経緯をよくまとめられたものであった。
   2021年6月現在、案内板は全く読めなくなり、大きなステンレス版が虹色に輝いている。以前は以下のように読めた(左半分にあった日本語のみを記す。原文のまま)。

案内板
墓地の入口手前にある案内板。文字は消えてしまった。
上部にかすかに「根岸外国・・・」

根岸外国人墓地

横浜外人墓地は文久元年(1861)、山手地区に設置された。横浜外人墓地が手狭になって拡張する土地がないことから、居留外国人より新しい墓地の開設が要望されたため、明治13年9月30日政府により根岸村字中尾の地に新設することが認められた。しかし、墓地の管理問題や立地が不便だったこともあって、本格的に使用され始めたのは明治35年(1902)横浜市に管理が移管された以降と考えられる。

この墓地は第二次大戦後占領・接収されていたとも言われ記録類が消失したため、正確なことはわかっていないが、現在1200有余の外国人が埋葬され、墓碑は160基程が確認されている。また、外国人船員、関東大震災罹災者及び第二次大戦後に埋葬された嬰児(幼児)など、埋葬者名が不明なものも多い。

著名人では、関東大震災で亡くなられた、アメリカ領事キリヤソフ夫妻、世界一流の音楽家を日本に紹介したストローク氏(イタリア・1965年没)が埋葬されており、また記念碑としては「外国人震災慰霊碑」(横浜市)がある。

[昭和60年より2年の歳月をかけて、横浜市仲尾台中学校歴史研究部(顧問田村泰治氏)生徒により、当墓地の沿革・概況調査を実施した。]

異国の地に眠る故人の永遠の安息を祈る。

昭和63年2月 寄贈 横浜山手ライオンズクラブ

9.慰霊碑建立 何を誰を慰霊する?

また同じ頃、山手ライオンズクラブの記念事業として、「慰霊碑」建立の募金が始まり、多くの賛助者を得て、慰霊碑が建てられることとなった。
 横浜在住の作家・山崎洋子氏 は小説の取材中に、この嬰児埋葬の事実を知り、「生を受けていれば自分と同じ五十歳代(当時)」と、嬰児への深い思いをも含めた書籍「天使はブルースを歌う―横浜アウトサイド・ストーリー」 (1999/10/1 毎日新聞社)を発刊した。山崎氏は、「慰霊碑建立」に賛同し、「丘の上のエンジェル」を作詞し、作曲・歌はザ・ゴールデン・カップスのエディ・藩氏に依頼、その収益金を寄付している。外国人有志からも寄付があり、いよいよ慰霊碑作製にとりかかった。しかし、この「慰霊碑」建立は予想だにしなかった騒動と困難な交渉を経ることとなった。

慰霊碑
「片翼の天使」といわれる慰霊碑

それまで市当局からは全面的な協力があったのだが、いざ建立となった時、墓地内に慰霊碑を建てることに反対するようになった。長いこと話し合いがつかず混迷した。結局、碑文の一部をカット、そして設置場所の変更で決着した。
 1999年5月22日、慰霊碑の除幕式が行われた。建てられた場所は、入口すぐの階段脇、ここは嬰児の葬られたずっと上方段の場所とはかけ離れた場所だ。
 碑にはただ『rest in peace 慰霊』の文字のみ。この墓地の埋葬者全体への慰霊碑との体裁である。建てられた理由・経緯など何の説明も記されることはなかった。ただ、台座上に片翼だけを広げて飛ぼうとする姿を表すような水色の彫刻があり、そこに生きて飛べなかった嬰児の魂が刻まれているようで、多少なりとも“救い”に思えた

(編集者注:台座足元に、「根岸外国人墓地に眠るすべての御霊がやすらかなることを祈って」」という読みづらい平面の銘板があることから、墓地全体を慰霊している碑となっている。)

同様に入り口手前に建てられた案内板の説明が日本語と英語で書かれていたが、いつの間にか嬰児の説明箇所が消されていて、「近く取り替える」という説明があった。これもライオンズクラブが寄贈したものであった(前述の【参考】)。

編集者注:山崎洋子氏は、20年後に、続編ともいうべき『女たちのアンダーグラウンド 戦後横浜の光と闇』(2019/4/25 亜紀書房)を出版した。戦災孤児と混血児に焦点を当てている。 この中に、次のような記述がある。「1988年、横浜山手ライオンズクラブが創立20周年記念として、墓地入口に案内板を寄贈した。英語と日本語で書かれたもので、文面は山手ライオンズクラブと横浜市が協議して作成した。それから12年経った2000年、市は案内板を補修した。その際、文面の『第二次大戦後に外国人軍属と日本人女性との間に生まれた数多くの子どもたちが埋葬されている』という記述を『第二次大戦後に埋葬された嬰児(幼児)など、埋葬者名が不明なものも多い。』と勝手に書き換えた。」とある。

(ネット上の「タウンニュース2019年9月12日号掲載」、山崎氏へのインタビュー記事より抜粋)・・・横浜市役所には取材拒否された。「この開放的な街には隠さねばならないことが、少なくとも行政はそう信じているらしい歴史があることをあらためて思い知った」と、山崎さんは著書に書く。「犠牲になった沢山の人のことを、なかったこととして消すことがたまらなく嫌だった」と振り返る。本著では、横浜だけでなく札幌やタイに飛び、時代に翻弄され闇に葬られた女性やその子どもの生き様を追う。「進駐軍は当時、日本全国にいた。だからこれは横浜だけではなく、日本のどこにでもあった話なんです」・・・

10.「敗戦」から「終戦」が意味するもの

現在では、社会科の教科書で1945年は日本の「終戦」となっている。「敗戦」、「無条件降伏」したにもかかわらず、その文字には敗けた『むなしさ』がない。『終戦』とする心情は日本人の名誉をあくまでも尊ぶ表れであるという。しかし、それは欺瞞だと思う。「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」ということわざがあるが、この度の太平洋戦争の悲劇を忘れていいものであろうか。戦争を美化したり、英雄視する物語などが出回ると、ノスタルジアだけで、本来の苦難を忘れさせ、事実を一面的にしたものだけを歴史として捉え、過去の苦難の姿=実態を霧散させてしまう。ましてや我々のような経験者が老齢化し、その存在が消えてなくなってしまえば、未来はどうなってしまうのかと危惧している。

「消された戦争の歴史 後世にどう残す」NHK朝7時放送の「おはよう日本」けさのクローズアップ(2019年12月13日)で、根岸外国人墓地のことが放映された。再び、この嬰児埋葬のことを取り上げてもらえたことで、まだ、完全に忘れ去られてはいないと少し安堵している。(編集者注:その内容は下記サイトでみることができる)

道がない
この先、絶壁、道がない。 plot 6か。

11.負の歴史遺産であっても受け止める心の広さが・・・

歴史には正と負の面がある。為政者や権力者などにとっては、その行為の正当性を強調することによって自己の立場を優位にし、歴史的な存在価値を確かなものにする。とすれば、負の側面は自己の保身のためにも、削除・歪曲して、隠ぺいするのが得策となるのだろう。果たして、根岸外国人墓地の嬰児埋葬は行政にとって、負の歴史遺産であり、削除の対象なのだろうか。
 「正確な記録がない、資料がないから公にできない。」行政はこれ一点張りの答弁で今日まで来ている。しかし、歴史は記録に残されたものだけで綴られているわけではない。噂話も時には伝承にもなり、それがその後の歴史に大きく影響することもある。戦後まもなく根岸外国人墓地で起きていたことは、日本の敗戦がもたらした悲惨な事実である。事実は事実として冷静に客観的に受け止める器の大きさ、心の広さが必要なのではないか。起こった事をどのように評価するかは各人の自由であり、史実とは関係ない。

横浜にあるもう一つの外国人墓地、根岸外国人墓地にある慰霊碑とその慰霊祭は、明らかに、生きて飛べなかった子供たちを第一義に考え企図された「慰霊碑」であり、毎年恒例行事となった「慰霊祭」なのである。そのことを多くの市民には是非知っていただき、広い心で受け止めてもらいたい。

片翼の天使
~片翼の天使たち、安らかなれ~

ドイツ海軍慰霊碑
ドイツ海軍犠牲者の慰霊碑。
前面の銘板がはがされて
いたが、作り直された。

12.補足:慰霊祭にドイツ海軍犠牲者の慰霊が加わる

墓地内、管理事務所近くには三角柱型の立派なモニュメントが建っている。しかし、その金属板が戦時中、金属類回収令で供出、剥がされたままで、書類も没収されていることから何の碑なのか不明のままであった。
 根岸外国人墓地が世間に注目され始めた頃、同墓地の清掃・慰霊祭に協力してくださった山手ライオンズクラブの方々が調べたところ、それは横浜港新港埠頭内で、1942年(昭和17年)に起こったドイツ艦船の爆発事故の犠牲者の慰霊碑であることが判明した。
 1942(昭和17)年11月30日、横浜港で火薬や燃料を積んだドイツ海軍の軍艦3隻、日本船1隻が爆発炎上し、多数の死者(102人犠牲)を出す事故が起こった。多くの死者の埋葬は 山手外国人墓地(こちらは将校クラス)であったため、根岸にも存在することは気づかなかったのだ。
 同クラブでは1994(平成6)年、銘板を復刻し、毎年11月第1土曜日に行われる墓前祭(慰霊祭)に、この年からドイツ海軍犠牲者の慰霊も加えることになった。当日はドイツ大使館から大使や武官が出席、小中学校も献花して冥福を祈っている。幼い嬰児の慰霊が拡大され、国際的になり、本来の目的が薄れてしまうという危惧もあるのだが、駐在武官キーゼヴェッター大佐の「平和は自由があってこそ。国際交流が盛んになり戦争がない社会であってほしい」という言葉が単なる墓前祭ではない国際親善の実践であることが理解できよう。

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