横浜歴史さろん

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お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。

ペリー横浜上陸図

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ペリー提督
 ペリー提督

特集  開国日本と横浜 ―黒船に乗ってペリーがやって来た!― その2

コハクチョウ

安政元年(1854年2月13日)ペリーの2度目の訪問に際し、当初、幕府は交渉場所を浦賀にするつもりで応接所を建てたのだが、ペリーは、より江戸に近い場所を主張、そうでなければ江戸に乗り込み将軍に謁見すると威嚇したため、急遽、横浜が交渉の地と決まった。 (年号は日本の年号を優先しカッコ内に西暦を記した)

1.2度目のペリー来航を迎える幕府

アメリカの国書を受理した幕府は、これを契機として、挙国一致の必要を認め旧習を破ってその対策を全諸侯および諸有司の衆議にはかり、また朝廷に奏聞して朝威をかり諸侯の統制・国論の統一を計ろうとした。この時期ともなると祖法たる鎖国制度を維持するにはあまりにも幕藩体制は内部的に変化し、かつ幕府自らも独自にその政策を推進する力を欠いていた。
 第1回アメリカ艦隊の退去ののち幕府は、対外強硬論者たる徳川斉昭を起用して国政にあたらせ、その建議に基づいて外国軍艦に対抗しようと、国防上、嘉永6(1853)年9月15日大船建造禁止令を解除した。また諸藩に海防の厳修を令し、品川沖に台場を築くなど国防の充実を図った。しかしながら、確たる方針の決まらないままに、幕府はペリーを迎えなければならなかった。

● 交渉開始前の幕府内の協議

阿部正弘
老中 阿部正弘
徳川斉昭
徳川斉昭

安政元年2月1日(1854.2.27)横浜が応接所ときまり、勘定奉行松平近直(河内守)・海防掛江川英竜(太郎左衛門)が神奈川にて、米使応接掛林復斎などと協議:松平・江川は遭難海員の救助と石炭薪水の補給は承諾するも、通商開港の件は調査の必要もあり、3、4年ほど延期するように交渉すべきを提議。
2月2日 神奈川より帰府した松平・江川は直ちに登城して幕議に参じ、ペリーの態度はきわめて強硬と報告
2月3日 幕府がさらに応接掛中の二名を召喚、よって林・井戸両応接掛はただちに帰府し、
2月4日 老中阿部正弘・同松平忠優らの老中に会見し、ペリーのこの度の強硬態度から見て通商を認めるのもやむを得ず、かつその利のある旨を報告した。ここにおいて大勢は次第に交易路に傾いた
 しかし前水戸藩主徳川斉昭は、なお漂民救助・炭水補給の二条件は是認するも、交易は絶対反対の立場を取り
2月6日 幕閣は斉昭の主張に従い、通商は絶対に拒絶すべきに決し、この旨を両応接掛に訓示し、かつ応接委任状を手交した。このさい、幕閣は万一を考慮して秘密訓令として、最後の譲歩案を応接掛に付与したといわれる。それは(1)交易開始の時期は5年後それが不承知の場合は3年後とする、(2)開港場は国法に基づき長崎とし、不承知の場合は下田辺りとする、(3)石炭の給与は5ヵ年間は長崎で行う、(4)食料薪水は供給する、という内容であった。

応接掛

● 日米交渉開始

2月7日 黒川嘉兵衛は新たに長崎より着任した和蘭大通詞森山栄之助(米国捕鯨船員マクドナルドに英語を学ぶ)を従えてポーハタン号を訪ね、横浜を応接所の落成間近なので、交渉を開始すべき旨を伝えた。参謀長アダムスは、もし交渉がうまくいかなければ戦争をも覚悟していると黒川らを脅した。また応接掛の全権委任状の提示を要求した。
2月8日 応接所落成2月9日 黒川はポーハタン号に行き、応接委任状写をペリーに示し,明日より談判を開始することを通告した。

2.第1回日米会談

安政元年2月10日(1854.3.8) 早朝より応接掛林韑・井戸覚弘・伊沢正義・鵜殿長鋭・松崎満太郎は横浜応接所におもむいた。小倉・松代両藩は陸上を警備し、因州藩は海上の警備を固めた。午後ペリーはアダムス以下の随員を従え、約500名の兵に護衛され、殷々たる礼砲のうちに上陸し、迎えられてペリー以下約30名が応接所に入り、これより第1回日米会談が開始された。(トップの画像をご覧ください)

応接所建絵図
「随聞積草(金駅日記)横濱村応接所建絵図」を参考に作成した。

ペリーの主唱により会談はもっぱら文書を用いて行われた。従って当日応接掛が読み上げたのち一時ペリーに手交した文書は、あらためて応接掛の署名の上で翌2月11日黒川嘉兵衛と通訳森山栄之助とがポーハタン号に届けている。応接掛がペリーに手交した書面は、大統領親書にたいする回答となるもので、その内容は「昨年夏、卿が渡来されたとき先君主(将軍家慶)は病で、ついに死去した、のち新君主(将軍家定)が即位したが、その大礼がいまだ完了しないので他事を顧みる暇もない。新君主の初政において祖宗の法を急には改め難い。このことを貴国に告知するため去秋オランダ商館長に託したこともある(前回「その1」掲載)、またロシア使節(「その1」におけるプチャーチンの話)が長崎に来航したが、この事情によってついに退去した、それゆえに、現在何国から提議されても応答できない、しかしながら石炭薪水食料およびその遭難民を救助するのはやむを得ない、なおロシア使節の申し立てもあるから、貴国の要望に応じよう、しかし、どこの港に決めるかは貴政府の申し出を聞いて決定するのであるから約5年間猶予されたい、その間、来春正月より長崎に渡来してもよい、石炭については我が国に先例がないから、卿の申立を熟考して我が国の法律に反しないものは同意しよう、そのほか船舶の欠乏品にはわが国産物は供給する」というような最大限の譲歩案を提示した。
―ペリー、水兵の埋葬を願い出る―
 ペリーはこれに答えることなく、突然、乗組員1名が病死したのでウェブスター・アイランド(金沢の夏島)に埋葬したいと述べた。対して応接掛は浦賀燈明台下を指定したが、遠隔な点に難色を示したので、首席応接掛林は横浜埋葬とした。ペリーはその好意に深く感謝の意を表した。
―ペリー、日本の非人道的行為を批判―
 ペリーは本問題に戻って発言、「アメリカは従来人命を重んずるを第一としており、自国人は勿論のこと外国人といえども漂流者はこれを救助して手厚く撫育している、しかるに日本政府は外国船が日本近海で遭難しても救助せず、接岸すれば発砲し、漂流民は罪人と同様の取り扱いで厳重に禁獄され、かつまた自国遭難海員を米国船が救助して送還しようとしても受け付けず、自国人をすら見捨てようとするのは、甚だ人道に反する、アメリカは開国草創ではあるが漸次強大国となり、カリフォルニアは太平洋を挟んで隣接している、今後日本近海を往来する米国船舶は増大の一途をたどるが、もし日本国にして従来の政策を変更しなければ、多数の人命にもかかわり看過することはできず、仇敵の国とみなし戦うこともあり得る・・・」と言い、隣国のメキシコと戦って首都までも攻め取ったと述べて、威嚇的態度を持って臨んだ。
―林の反論―
  林は直ちに反駁して、日本がここ300年来太平の代が永続しているのも人命を尊び善政が行われているからである所以を述べ、薪水食料を求める外国船には十分供与するようにしてきたし、また外国遭難海員にたいしても厚く手当を施してオランダ商館長を介してそれぞれ本国に送還するようにしてきた、もっとも漂民中に国法を犯す者があったので止むを得ず暫時長崎に拘留したことはある、これらの者が帰国して、すべて罪人同様に取り扱われると喧伝した結果、いろいろと誤って伝えられたものと思う、いずれにしても非道の政治ということは一切ないのだから、強いて戦争するほどの理由もない」、と述べてペリーの極論に答えた。
―通商問題に及ぶ―
 ペリーは、つぎに通商問題に及んで、貴国も国家の利益のために是非とも通商を開拓すべきと思う、と述べて、他の往復書簡に加えて、日米条約草案などの書類を応接掛に手交した
 林は、元来日本は自国の産物だけで足りるので外国品がなくとも少しも不自由しない、それゆえ交易はしないというように国法が決まっているので、たやすく交易を開くことはできない、しかもこの度の特使の渡来の主意が人命尊重の建前から遭難船員救助を求める点にあるならばそれは一応承諾したことであり、通商の件は利益の論であって人命に関わる問題ではないであろう、と反論した。ここにおいてペリーはしばし黙考したのち、林の言を了承してこれ以上通商の件は要求しない旨を言明し、ただ今後通商問題が起った場合の用意として米清修好通商条約の写本を持参したからといって、その漢文体の写本を林全権に手交した。全権団もこのむねを了承して受領した。

応接所饗応之図
「武州横浜於応接所饗応之図」(大日本古文書)

かくして第1回会談を終わり引き続き日本側から饗宴がはられ。林を除いた各応接掛はペリー以下米国側を接待した。エピソード1、以降エピソードは右欄に、狭小画面のスマホなどではページ最後に掲載)
 宴終わってペリーは、再び幕僚と士官の行列を従えて応接所を出て、軍楽隊の奏楽裡に両側に整列した陸戦隊の間を海岸へ行進し、端艇(ボート)に乗り込んで本艦に引き上げた
―ペリー条約の必要性を説く―
 ペリーが手交した覚書の一つには、世界は抗争と戦争を回避するためにも条約の締結を必要とし、かくすることによって国家間の平和と繁栄がもたらされ友好関係が保持される点を力説し、また、食料薪水の供給を代価支払いを条件として求め乗組員の健康のため上陸散歩の許可を懇請し、さらに江戸湾内測量図完成の上は日本政府にも進呈するべきこと、最後に、本談判は書面をもって行うこと、を提唱している。
 もう一通の覚書には、シナが米国と条約を結んで多大な利益をあげていることを、茶や生糸・絹織物の米国の購入額を具体的に示して説明している。
  日米条約草案は1844年の清米修好通商条約に若干の修正を加えたものであって、「日米修好通商条約草案」として提示され、開港場の記名こそ欠いているが居住貿易権をはじめ領事裁判権・協定税率・最恵国待遇などを提案した全条25か条よりなる純然たる不平等の通商条約案である。ペリーが第1回会談においてこのような通商条約案を日本側に提示したのはあくまでも日米が通商を開始する場合の参考として提出されたものと考えられる。
―アメリカ水兵の埋葬、人々黒船見物に押しかける―
 第1回会談の翌2月11日(3.9)、昨日約したとおり、病没水兵の葬儀が増徳院行われ、埋葬された。(エピソード2)
 アメリカ艦隊が横浜前面に碇泊以来、外国人の葬式などについても風説が流布され、群集はこれを見物しようと押しかけので、横浜近辺における無用の者の往来を差し止めた。のちには次第に神奈川宿・生麦村・江戸は勿論のこと、十里二十里の遠路もいとわず見物人が参集する有様なので触れをまわし、見物を禁じた。このような触書は艦隊が小柴沖に到着以来しばしば発せられたが、人々の好奇心を止めることはできなかった

● 再び通商を持ち出すペリーと幕府側の動向

2月13日(3.11) ペリーの指示によりアダムス参謀長は横浜応接所に行き、日本全権宛の公文を黒川および大通詞森山栄之助に手交した。先の全権団の返書によって承認された難民救助・欠乏品供給および蒸気船への石炭の供給などは条約のうちに挿入すべきことを述べ、それとともに、これのみでは十分ではなく米清条約の如き開港と自由貿易を認める通商条約の締結が緊要であることを、例によって本国から多数の軍艦を増遣するという威嚇的言辞をもって強調した。ここにおいてペリーが第1回会談のさいの前言を翻してこのように通商条約を迫った真意としては、一応日本側の意向を打診したものであり、日本側に、もし乗ずる隙があれば、ペリーは恐らくそれを突破口として通商条約を強要したと思われる。だが日本側の通商拒否の決意は固く、2月17日書簡ではっきりと拒絶の態度を示したのだった。
 この時点においてややもすればペリーの砲艦政策のために動揺した幕府に対して、通商拒絶の方針を堅持させるための有力な支柱を与えたのは福井藩主松平慶永(越前守)であった。彼は2月1日に老中阿部正弘に一書を呈し、国法を無視して勝手に品川辺りまで行って、海底浅深測量などしている、今にして海岸防備・米艦への厳重な警告など適切な対策を講じなければいつ大患が突発するかも測り難い、と警告した。さらに他の諸侯の同意を求めてから、2月12日老中阿部正弘を訪ね、通商拒絶の幕議を確立せんことを説いたりし、積極的に幕閣に働きかけた。
―贈物の運搬と異人上陸騒動―
ビッチンガー
ビッチンガー 吉川盛廣画
 2月15日(3・13)アメリカ政府より贈呈品を日本側が受領する日である。ペリーはマセドニアン艦長アボット、艦隊参謀長アダムスなどに行わせた。この日天候は悪く海波高かったが、アボット艦長の指揮下に贈物は27艘の端艇に分乗した士官・陸戦隊員・楽隊に護られて無事に陸揚げされ、応接所において首席委員林にたいして贈品目録を添えて手交された。贈物のうちには機関車(炭水車・客車・レールなど一式一組)・電信機・銀板写真機・柱時計などの機械類から兵器・弾薬・農器具・蔬菜種子・酒類などにいたるまでアメリカの富強を誇示するに足る品々であり、特に機械類などの文明の利器は遅れた日本人の目をみはらせるものであった。この日予定された各機械の組み立ては、風雨が激しくなったために明日に持ち越された。
 2月16日(3.14)黒川嘉兵衛は通訳森山栄之助を伴い、この頃ほとんど連日米艦を訪れ、応接掛との連絡あるいは、艦隊に水・食料を供与する便宜をはかりなどしていたが、この日もその連絡打ち合わせを終えてまさに退艦しようとしたとき、上陸したアメリカ士官一名(ビッチンガー)が神奈川宿を通過して江戸方面に向かったとの急報に接し、すわや大事件突発と一瞬に色めきたった。 ペリーはこの報に接するや即刻号砲発して上陸中の全員に帰艦を命じ、筆記命令をちょうど来艦中の黒川らに手交し、ビッチンガー召喚に万全の策を講じた。(エピソード3)

3.第2回日米会談

―日本からの条約案―
 第2回日米会談(2月19日)に先立ち、2月17日(3.15)にペリーより2月13日に送達された公文にたいする応接掛の回答と2月10日第1回会談の再提示された米国側条約案に対する日本側条約案とがペリーに伝達された。回答文には、わが国は唐国と同様の通商は容認できず、欠乏品供給および難民救助のほかは要求に応じ難い、ただこの目的のために来春正月より長崎一港の開放を認め、実験の結果によって5年後にほかの港を開こう、と先のペリーの通商の要求を拒絶した

この日伝達された日本側の日米修好条約草案は、全部で7か条より成る、
(1)来春正月より長崎を欠乏品の供給港として開き、5年後には別に1港を追加する、ただし支払いは金銀に限る、
(2)遭難海員は長崎に回航する、(3)漂民の漂着場所に徘徊するのを禁ずる、
(4)長崎港内にみだりに上陸するのを禁ずる、(5)開港後に条約の細則を商議する、
(6)・(7)琉球および松前の開港を拒絶する、
というようなペリーの要求からは程遠い条約案であった。

第2回日米会談は2月19日に行われ、ペリーは約200名を率いて上陸した。協議はまず前日伝達された日本側の条約案をめぐって展開される。
―対するペリーの指摘・反論―
 (1)については、ペリーは、長崎はアメリカ通商航路外にあるから、その代港の開放を要求し、しかも開港期日も60日以内とし、支払い方法は条約で取決めることを主張した。したがって(2)については、遭難海員の運ばれるべき港に難色を示し、(3)では日本の諸港に来るべき漂民その他の米国人は、日本人に供与されているのと同様なあらゆる自由を享有し、従来の監禁などの虐待はもはや容赦できないことが強調された。(4)では、蘭・清両国人に課せられていること如き拘束は侮辱として容認できないとし、(5)は長崎以外の港に適用される限りペリーは同意し、(6)では、米国人が琉球と自由に交通してはならないとする理由が不十分であり、(7)松前の港についても、アメリカ捕鯨船・汽船その他の船舶にとって同様である、という諸点がペリーによって指摘された。
―日本側は長崎を堅持―
 応接掛もまた頑強にその提案を固持して譲らず、日本においては長崎が外国人にあてがわれている場所であり、それゆえに同港の住民および役人に関する法律の施行に慣れており、もし代港を開く場合には長崎と同様の準備をするのに五ヵ年を必要とする、と断言した。ペリーが長崎に反対するのは、同地の日本官民が長年オランダ人の卑屈になれていて、同一行為をアメリカ人にも強制する恐れがあるという理由によるものだった。それはちょうど中国においてアメリカ人が旧慣に捉われる広東を避けて、新規自由な上海に殺到したことと同じである
―開放港指定を協議―
 これより協議はもっぱら欠乏品の供給港に集中される。ペリーはまず、応接地である「此の地」(横浜)を提唱し、そのほか日本東南に5、6ヵ所、北海に2、3ヵ所の港の指定を要求した。しかし林は数ヵ所の港の開放を拒否し、ただ長崎の代港一港の開放を承認した。ここにおいてペリーは、一港のみでは不十分であり少なくとも3、4ヵ所を必要とし、そのうちに「神奈川」を含めることを提案した。日本側は神奈川を直ちに却下した。ペリーは、自分は全権を委任されてきているのでいかようにも取決めができるが、貴下らもまた全権の命を受けて出張されているのだから、これくらいのことは即答できるだろうと詰めよれば、林もまた、昨年提出された国書に港名の指定のないことをなじって、「左程急速にも取定めたき懇望の事に候へば、何故右書簡中へ地名を指し相認め申さず候や」と応酬した。
 両国全権の論争のうちに協議は正午より夕刻まで続行され、結局ペリーは、将来五港の開放を期待するが当分三港で満足するとし、第一に日本島内の浦賀か鹿児島、第二に蝦夷松前、第三に琉球那覇を提案した。日本側は浦賀には絶対に反対だったので、ついに折れて下田を正式に提案するにいたった。松前については、代々同地を支配する松前侯の同意を必要とすることを理由として、一ヵ年間延期の妥協案が日本側から提議されたが、ペリーは松前侯が独立の主権者ならば松前に直接赴いて直談判すると言った。そこで日本側は、この件については、なお政府の請訓を必要とするので、2月25日に回答すると約し、ペリーもこれに同意した。那覇については、遠隔地という理由で拒絶され、ペリーもまたすでに同港の開放に成功し、ただ日本政府の承認を求める程度であったので、この要求を撤回した。なお、下田については、同港が必要な目的に適合するか、否かを調査した上で決定するという了解事項が附され、日米双方から下田港見分のための人員が派遣された

● 第2回会談後の幕府内協議

第2回会談において、ペリーの強硬談判は効を奏し,応接掛は譲歩案を超えて後退するという苦境に立たされた。よってこの日直ちに連署して勘定奉行石河政平(土佐守)、同松平近直(河内守)に報告して、下田港を見分の上開港することを約し、さらに松前・浦賀両港の開放が強要され、書面では意を尽くせないから明後21日林・井戸両使は帰府して老中の訓令を仰ぎたい、と伝えた。
 さらに翌20日には応接掛井戸覚弘は、再び両勘定奉行に談判の詳細を密書にて報じ、琉球・松前ほか二港などの開港が強要され、やむを得ず下田を提議した事情を訴え、この度は通商条約は回避することができようが、薪水・食料・石炭の供与は速決を要する、と述べ、事の重大なことを重ねて急告した。
 対外強硬論者徳川斉昭は下田開港の議論が行われているのを憂慮して、2月20日その拒絶を幕閣に建言して、現状のままでは内外にたいして幕府の信義を失墜する、下田見分は即刻中止すべく、外交は決戦の覚悟をもってあたるべきであり、上下協力して外夷を追い返そう、と強硬意見を進言した。
 応接所警衛にあたっていた松代藩士佐久間象山もまた下田開港の議をきき、その不可を論じ、横浜を開港すべきことを説いた。象山のこの論拠は戦略上からでているという。日本において下田は、世界における喜望峰のごとき要地であり、もし下田が彼らのものとなれば海陸ともに攻撃しがたい、それよりは海陸ともに攻撃容易にして不断に監視のできる横浜の方が我が国にとりいっそう有利である、と横浜開港を強調した。
 急遽帰府した林・井戸両委員は、2月21日遅く幕閣に第2回会談の内容を詳細に報告し、その内容は同夜直ちに老中より溜間詰諸侯らに伝達された。翌22日両応接掛は登城して、老中・徳川斉昭および溜間詰諸侯などと会談して、斉昭の強硬な反対論にもかかわらず大勢に抗し難く、ここに幕府は下田・箱館両港をもって薪水・食料の供給港とすることに一決した
 2月25日(3.23) 応接掛の命を受けて森山栄之助はポーハタン号を訪ね、安政2年7月(1855年9月17日)より箱館を開いて欠乏品の供給港とする旨の公文を手交し、ペリーもこれを受け入れたが、ただその期日を早めるべき希望を伝達させた。ここに至り、ペリーは、下田・箱館の開港によって今次遠征隊の大目的は成功裡に達せられるとし、いままでの労苦が満足な条約の締結になって成就できると確信するにいたった

4. 第3回日米会談

第3回会談は予定のとおり2月26日(3.24)に行われた。ペリーは例のようにアダムス参謀長以下乗組員約300人(一説に200人あるいは400人)を従え、意気揚々として上陸し応接所に入った。もっとも、この日の会談は、既に日本側によって下田・箱館両港の開港を正式に承認されたので、ペリーはただこれを再確認したにとどまり、簡単に終わった。
―日本からの贈物―
 この日の主要事項は、先にアメリカ側より贈呈された贈物にたいする返礼として、日本側より大統領をはじめペリー以下に答礼品の授与が行われたことであった。応接所の広間のうちには答礼品が所狭しと積まれ、しかも贈呈する各人の地位に応じて整然と分類されている。贈答品は漆塗りの家具・調度品および羽二重・縮緬などの絹織物を主とし、日本の工芸美術の粋を集めたものであった。まず林が贈物の目録と贈呈する相手の名前とを大声で読上げれば、森山栄之助がこれをオランダ語に訳し、さらにそれをポートマンが英語に訳すというようにして、目録書が一枚ずつ相手に授与された。この儀式が終わるとペリーはさらに別室に招かれ、ここで剣二振・日置流の火縄銃三挺および日本鋳貨二組(古金小判・慶長判・元字保字の二分一分判など)を贈られた。特に貨幣の国外移出を厳禁にしていた日本の国法に違背して、鋳貨が贈られたということには、もっとも親愛の情を表すものであるとして、ペリーの甚だ感激するところであった。(贈物に関する調達方法や裏話はいろいろあるが省く)
―日米貨幣の比率を協議―
 ペリーはのちに下田・箱館開港に関する細則を下田において取決めるさいに、貨幣問題について部下の海軍主計官スペイデン・同エルドリッジに日本側と協議させ、両名は日本貨幣を分析して、日本側が米国1ドル銀貨=一分銀一個の交換比率を固持して譲らなかったのにたいして、重量によって1ドル銀貨が一分銀三個にあたることを強調し、またペリーに両国貨幣の比率を詳細に報告しているという注目すべき事実があった。

力士力自慢
 力士が力自慢している様子が描かれている
―力士パフォーマンスでおもてなし―
 艦隊乗組員全員への贈物として、将軍より贈られた米五斗入り二百俵と鶏三百羽は海岸に並べられた。日本側ではこの日一段と興をそえるものとして、常にその巨体に威圧を感じるのを見返す意図も含んで、特に力の優れた巨漢の力士を選りすぐってこの米俵を力士に運搬させるという趣向で、日本人の力を誇示するために、このような計画がなされていた。
 日米間が相互に打ち解けるようになったいま、それは時宜にふさわしい余興となった。力士たちは米俵を二俵ずつ運んだり、一俵を抱えて何度もとんぼ返りしたりしたのち、東西に分かれて相撲をとってみせた。アダムスも米俵を持ってみたが持ち上げることができず、「無敵の評判の高い」大関小柳が艦隊きっての大力の大兵三人を一度に負かしたときには、アメリカ人一同喝采して感嘆し、力士たちの親善の使命は見事にはたされたと思われたものの、アメリカ人には残忍で半開国民と映ったむきもある。
telegraph-railway
蒸気車軌道と電信の位置 『随聞積草』内の絵図の一部を参考に作成
―アメリカからの文明の利器と軍隊演習に驚く日本人たち―
 今度は、アメリカ側から15日に贈られた電信機と小型の汽車そのほかが、正式に引渡された。15日すでに電信は開始され(応接所とそれから約1マイル離れた特設建物との間)、また汽車の試運転も行われたが、この日再びアメリカ人は汽車を操縦してみせて、並みいる日本人を歓喜と驚愕のるつぼに巻き込んだ。それからさらに、艦隊から派遣された陸戦隊員によって、軍楽隊の奏楽のうちに様々な演習や操練が繰り広げられ、これまた日本人の驚嘆を誘った。かくしてペリー以下一行は、誇らかに科学と文明の成果になる贈物を展示し、明後29日に旗艦上での饗宴に招待することを約束して、艦隊に引き上げた。
―双方、緊張緩和へ―
 日米間に友好的関係が支配し始め、その交渉に憂えるもののないことを察知したペリーは、この26日朝には気送管汽走艦サスケハナ号(艦長ビュカナン)を本牧横浜沖錨地よりマカオに向けて出航させ、清国駐在米公使マクレーンの乗用に供せよという海軍長官ドッピンのかねてからの訓令の約に従った。
 幕閣側でも、この夜は応接掛井戸覚弘より石河政平・松平近直両勘定奉行宛に事態が好転して米艦の帰帆もまもない、という密書を受け取り、翌27日には江戸湾内海の警備を緩和した。
―下田・箱館開港の期日と領事官駐在問題を協議―
 2月27日(3.25)には徒目付平山謙二郎は森山栄之助とともに応接掛の命を受けてポーハタン号にペリーを訪ね、昨日の礼を述べたのち、提案された条約中の諸点につき評議したいと述べた。非公式会談としてペリーが許可した。討議の内容はもっぱら下田・箱館開港の期日と領事官駐在の問題に集中された。箱館開港の期日については、先に日本側より公文によって安政2年7月よりと通告してあったが、森山はこれを安政2年3月に繰り上げることに同意し、下田もまた同時日までには開港の準備ができよう、と伝え、さらにアメリカ艦隊の箱館訪問は当方の通訳官任命の都合によっていまから百日後にしてもらいたい、と主張した。これにたいしてペリーは、箱館開港を3月に繰り上げたことに同意を示したが、下田は即刻に開放することを要求し、また箱館訪問は1ヶ月以内に行うつもりである旨を述べた。ついで領事官駐在の問題に入り、森山は、入港船舶にたいする石炭食料そのほかの必要品を供給するためのあらゆる事務は、その地の奉行が行うから領事官駐在の必要はないと主張すれば、ペリーは領事官の性質および任務を説明し、むしろ日本人自身の利益のために領事官を居留させることの必要を強調し、応接掛に伝えるよう言った。
―ポーハタン艦上で饗宴―
 2月29日(3.27)ペリーは、旗艦ポーハタン艦上に応接掛以下数十名を招待して饗宴を催し、大いに款待した。ここにおいて両国人の感情はいっそう緩和するにいたったといわれる。ペリーはずっと前から、この日のために、食料(生きた牛、羊、、猟鳥、鶏)や酒(シャンぺン、マディラ酒など)などを十分に用意していた。(エピソード4)

5. 第4回日米会談

第4回日米会談は2月30日(3.28)に行われ、ペリーはもはや護衛および威嚇の必要はなくなったので、いままでは腰に下げてきた短銃も持たずに、アダムス以下上官約30名のみを率いて平穏裡に横浜応接所に入り、日本側応接掛と最後の談判を開始した
 林はまず、下田から陸路伝達されたヴァンダリア艦長ホープ中佐よりペリー宛の書面をペリーに手交した。それは下田が開港場として適当であるという報告書であった。よってペリーは、下田開港に同意する旨を言明し、つぎに、同所へ上陸した場合に「下田港より四方へ十里」の区域を自由に遊歩しうることを要求した。林は「下田町内」の歩行は認めるが「十里杯」などは認められない、薪水・食料を供給し、船員を救うのだからそれでよいはず、そんな遠くまで出歩くなど必要ない」と、反論した。ここにおいてペリーは、今後アメリカ船は年々下田に入港するようになるだろうが、上陸のさいにあまり境界が狭いと自然に越境するものもでてきて、わずかのことから事件が発生しうる、それゆえいま遊歩区域を広くしておけば永久に平穏を保つことができるだろう、それなのに、そのように拒絶するならば、下田は止めて横浜辺にしたい、これもダメなら江戸へ行くことになるぞ」とまたまた江戸をもちだし、ここに再び横浜の地名に言及した。林は即答避けて明日返答するとを約した。
 つぎに駐在の問題に入って、まずペリーは、交易というのではないが、アメリカの船舶がしばしば当国に来航するようになるからには、下田にアメリカの役人を1名駐在させなければならない。その理由は、もし米国人が日本人と争論を起した場合に、その取扱いに困難をきたすこともあり、何かと不都合であると考える。そこで役人を一名駐在させてすべて相談するようにすれば迅速に無事に済ませられると思う、交通している外国においてはすべて一名ずつ駐在していることでもあり、是非そうしたい、と要望した。これにたいして林は、交易の場合にはその必要もあろうが、「只一通り薪水等供給するのみなのだから、そんな必要はない。唐・蘭の外の異国人を置くことは禁じられているからできない」と拒絶した。ペリーは重ねて承諾を迫ったが、林は、これは政府が絶対に許可すべきことではないから承認できない、と再び拒絶した。そこでペリーは、領事官駐在の問題は懸案とし、18ヶ月後に使節が来着するからその上で改めて談判すべきことを提唱し。林もこれを受け入れた。また林は、下田の即時開放をのぞむペリーの要求を拒否し、安政2年3月を固持した。ペリーも即刻開放の自説を譲らなかったが、ついに譲歩して「来3月までの間は薪水のみ」供与されることをもって満足する、と妥協案を提示した。林も譲歩して来年3月までは薪水だけは供与するが、それ以外は供給しないとすることに同意を示し、このことを明記した公文の交換を要求した。ペリーは、この公文の交換を多少躊躇したが、林が、「廟堂の諸有司も多く、かれこれ議論が起るので、何とか書面を出してほしい」、というので、ようやく「請書」を提出することを了承した。こうして懸案の諸点もほぼ妥協点が見出され、あとはただ遊歩区域の交渉を余すのみとなった。
 3月1日(3.29)応接掛の命により平山謙二郎・森山栄之助・山本文之助・合原猪三郎はポーハタン号にペリーを訪ね、未決の下田遊歩区域について協議したが、ペリーはついにその主張を通して、下田港内犬走島を中心として四方へ七里の区域内の自由歩行が取決められた。なお、昨日の第4回会談の決に従い、下田開港の期日については、「来たる三月までは薪水の外一切相渡し申すまじく」という「覚書」が森山より手交された。

森山栄之助
森山栄之助
ウィリアムズ
ウィリアムズ
 翌2日、平山・森山らはまたぺリーを訪ね、昨日と同じようにアメリカの通訳たちと協同して蘭文・漢文・日本文の各条約案を対照校合し、あるいは条約記名調印などの手続きについて協議した。このとき、昨日日本側より手交された、下田においては来年三月までは「薪水のみ」を供給するという「覚書」にたいして、ペリーの「請書」が提出されるべきときにいたるや、ペリーは突如として条約文中には下田港の「即時開放」の文言を挿入してもらいたいと提唱するにいたった。一昨日の第4回会談で正式に決められ、これを確認するため日本側より「覚書」が手交され、いまや「請書」を提出しようとする寸前に、ペリーがこのような重要事項の変更を迫ったのはなぜであろうか。ペリーはその理由として、「即時解放の文面が無いと、米国政府へ申訳ないので、書面には是非そのように願いたい」と林に申送ったといわれ、これに対して林は、「それなら約定書面には即時に相開き候と入れるが、実は来年三月より開くという書面を提出してもらえばよい」と案外簡単に承認してしまった。ここにおいてペリーは、はじめて「請書」に署名して日本側に提出したのである。ペリーのあざやかな外交的術策の一例といえよう。
 こうして安政元年3月3日(1854年3月31日)横浜応接所において、日本最初の近代的条約である日米和親条約Treaty of Peace and Amity between the United State of America and the Empire of Japan 12ヶ条は締結調印された。(神奈川条約ともいう)すなわち米使応接掛林韑(あきら)・井戸覚弘・伊沢政義・鵜殿長鋭は日本文に、アメリカ全権ペリーは英文にそれぞれ署名調印し、漢訳文・蘭訳文も同時に交換された。しかし、この条約文は6通(エピソード6)もあり、内容的にも違いがみられ、どれが基準となるのかは決められていなかったため、その理解にも違いが生じたのである。(日米和親条約の条文と解説和英対照条約文は「アーカイブ」に掲載、リンクします)
 ペリーは親好の最上の印であるとして、米国国旗を林に送り、また井戸ら日本の各応接掛には米国地図を贈った。また、この日に、ペリーは、本条約の細則を来る5月下田において取り決める件(下田条約ともいう)と、その間箱館を視察すべきことを、応接掛に了承させ、さらに艦隊が江戸湾を退去するに際して江戸を望見したいと伝えた。こうしてペリーは横浜応接所における必要な談判を一切終えることになった。

6. 交渉を終えて

―いよいよペリー艦隊退去―
 3月7日(4.4)アダムズ参謀長は、条約書および報告を政府に進達するためサラトガ号に乗り、横浜沖を出航し本国へと先発した。
 3月9日(4.6)ペリーは横浜村に上陸し、近傍一里ばかりを徘徊して民情を視察した。
 3月13日(4.10)いよいよ神奈川錨地出航の日。平山謙二郎・合原猪三郎・森山栄之助は命を受けて旗艦ポーハタン号を訪ね、訣別の意を表するとともにかさねて江戸接近の中止を懇請したが、かえってペリーは平山らを乗せたまま抜錨し、川崎大師河原を越え羽田灯明台沖に達し江戸の大市街を遠望した。その目的を達して艦首をめぐらし横浜で平山たちをおろして江戸湾を下航し、一旦「アメリカ碇泊所」(小柴沖=金沢沖)に投錨した。
―計9艦が横浜前面にならんでいた―
 第二回訪日ははじめ汽走艦三艦を含めた7艦をもって行われたが、そののちサラトガ(2月6日到着)・サプライ(2月21日到着)二艦を加えて9艦となり、それをもってペリーは横浜応接所における日米談判の期間を通じて全艦隊を横浜前面沖に横列して停泊させて、その要求を貫徹するために絶えずわが方を牽制威圧していた。しかしいまやその目的を達成したペリーは、大艦隊を保有する必要がなくなり、逐次小柴沖より諸艦を分遣してつぎの任務につかせた。さきに汽走艦サスケハナ、帆走艦サラトガは江戸湾を退去したが、マセドニアン号はピール(父)島に派遣され同島占領に関する施設を中止し、サザンプトン・サプライ両特務艦、帆走艦ヴァンダリア・特務艦レキシントンは2月19日に下田に向かった
 19日・20日両日にペリーはアメリカン・アンカレッジと命名されて全艦隊将兵に親しみ深かった小柴沖、その対岸ウェブスター島(夏島)および付近の海岸を逍遥調査した。新緑の候はいまやあらゆる風景を美しい豊かな緑一色につつみ、ペリーは長い碇泊と同地の美観とによりこの想い出の濃い江戸湾にしばし訣別の情をさそわれたという。
 翌21日(4.18)未明、旗艦ポーハタン号はペリーを乗せて、ミシシッピ号をともない、小柴沖を出航して江戸湾をはなれ、同日午後下田に着した。なお、嘉永7年3月27日(1854.4.24)、下田にて、吉田松陰から密航依頼書が届けられ、翌日ペリーに接触している。松陰はペリーに乗船を拒絶され、下田奉行所に自首している。(エピソード5)
 こののちペリーは箱館を視察して再び下田に入港し、嘉永7年5月22日(1854.6.17)日米和親条約附録13ヵ条の調印を終えたのち同港を去り帰国の途についた。
 晩年のペリーは日本遠征記などの出版に注力をした。また、アルコール障害、痛風、リウマチを患っていたという。1858年3月4日ニューヨークで死去、63才だった。墓所はロードアイランド州アイランド墓地にある。日本を去ってわずか4年後のことである。生涯をかけた日本遠征は相当な激務だったと思われる。
―アメリカにとっての和親条約の意義―
 ペリーは日米和親条約の締結によって、当初彼が本国より課せられた遣日特派大使としての重責をほぼ完全に果たしたこととなった。米国政府がペリーに託した日本への使命の内容は、北太平洋捕鯨業に従事する莫大な数の捕鯨船の避泊港・補給港ならびに遭難海員救助の要求と、中国貿易のいっそうの発展をめざして太平洋横断汽船航路設定のための寄航地・貯炭所の設置とに重点がおかれた。日本との通商は第二義的におかれている。箱館の開港は、北太平洋捕鯨業に従事する捕鯨船の避泊港・補給港としての要求からであり、条約附録第6条において「箱館では石炭を用意するには及ばない」というのは、当時の捕鯨船はすべて帆船であって燃料としての石炭を必要としなかったからにほかならない。これに対して、ペリーが最初から日本南部の島々に着目し、実際に那覇およびロイド港を手中におさめて貯炭所の設置を計画したのは、中国貿易に通じる太平洋横断汽船航路の設定のためだった。当時の汽船にとっては、しばしば寄航する貯炭所がいかに重要なものであるかは、ペリーの本国出航から日本に到達するまでの西回り航路をみることによって明らかである。しかも西回り航路においては、アメリカが石炭を自由に獲得しうる寄航地は一ヵ所も、持たなかったということもみられるとおりである。こうした事情のもとにあって、いまもしそのカリフォルニア領有の結果太平洋岸に進出したアメリカが、汽船による太平洋航路を設定しうるならば、アジア特に中国貿易におけるアメリカの距離は一段とせばめられ、そこにおけるイギリスと覇を争うこともできる。しかも旧慣が支配する広東貿易にかわって、自由の気風のみなぎる、そしていっそう米国に接近する上海貿易が急速に発展してきたことは、米国の立場をいっそう有利にした。
 ペリーは、「日米和親条約が日米両国間に両国民の友好および相互保護の義務を設け、およびアメリカ人にかつて異国人に供与されたことのない権利を認める契約以上の何ものでもない。…それは初歩的ではあったが他日日本政府との間に成立することもあるべき通商協定への前進におけるもっとも重要な一歩をなす」ものであることを認めていた。それゆえ各条項のうちには注意深く「通商への前進」のための礎石がおかれ、最恵国条款の挿入はもっとも端的にこのことを示している
 通商のために礎石を置いたペリーから、日米和親条約第11条に基づき、その実行のためにバトンを受け取ってやって来たのは駐日総領事タウンゼント・ハリスであり、ペリーの和親条約より一歩進めた通商条約の締結が彼の第一の使命だった
―日本側の日米和親条約は焼失―
 まことに残念なことに、日本側の日米和親条約調印書原本は、幕末期の江戸城における火災によって焼失してしまい、残っていない。アメリカ側の原本は、アメリカの国立公文書館に所蔵されている。2004年に、アメリカが保存している条約批准書のレプリカ(複製)が日本側に寄贈されたとのことである。(エピソード7)

 19世紀半ばの当時の状況、日本側からではなく、アメリカ政府やペリー側からみた状況がどうだったのかを知る機会がこれまでにありませんでした。経過を追ってみると、ヨーロッパの列強(英、仏、露など)の力関係が渦巻く中で、大国となりつつあったアメリカの覇権を狙う様子が良く分かってきます。無理やり開国させられた日本でしたが、その抗えない流れの中で現実に立ち向かい、その後追いつき追い越せで国づくりに励んだのです。最初に開国を迫ったのが、人道主義を掲げていたアメリカであったのが、他国に比べれば、まだ良かったのではないかと、私の狭い見識の限りで思う次第です。

―了―

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