横浜歴史さろん

コーヒー コーヒー

お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。

お三の宮日枝神社

お知らせ

★New「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」もご覧ください!

  •            
    仲間・施設ページに「磯子森地域に残る古文書を読み、郷土の歴史を学び伝える『火曜古文書会』」および新設の人物紹介コーナー「磯子地域で活躍するこの人 ―市内の古文書会の連携を提唱― 」の紹介記事を掲載しました。
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  • トップ特集「日枝神社とお三さま “おさん”はどこから?」掲載しました。
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  • ビデオ「開国日本と横浜 Part 6」YouTubeにアップしました。
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  • 有料会員ページ「会員の論稿」に正会員執筆の論稿の掲載を開始しました。今後、索引をつくり検索しやすくする予定です。
  • トップ特集「カリュー氏毒殺事件~山手外国人居留地版2時間ミステリー~」掲載しました。
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  • 歴史すぽっとページに「熊谷伊助① 曽祖父がペリーにもらった本人の写真」および「熊谷伊助② 下岡蓮杖師と清水東谷師の写真」を掲載しました。
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  • トップ特集「ペリーの記念碑 ―幻と消えた横浜でのペリー像建立、すでに原型はできていた―」掲載しました。
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  • ビデオ「開国日本と横浜 Part 5 」YouTubeにアップしました。
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  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「上を向いて歩こう! 電柱考古学のすすめ」掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「古文書習得は『石の上にも三年、習うより慣れろ』―神奈川宿古文書の会」の紹介記事を掲載しました。
  • ビデオ「開国日本と横浜 Part 4 」YouTubeにアップしました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
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  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「富貴楼お倉―横浜の名物女、待合政治の元祖」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「横浜郷土研究会 60年のあゆみ その2 多極化・多様化した横浜の郷土研究(後半の30年間を見る)」の紹介記事を掲載しました。
  • 「当サイト」ページにある「横浜歴史さろん」の“めざすこと”に新たな文言が加わりました。それにともない、会員制に賛助会員(有料)が創設され、その説明など関連事項の変更をしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 横浜歴史さろん会員の名称を有料会員→正会員、無料会員→一般会員へと変更しました。
  • 5/12コバテル先生歴史講演会「開国日本と横浜 Part 3」の録画ビデオをアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「キリスト教諜者・安藤劉太郎のち関信三の半生 ―キリスト教信奉者・中村正直との数奇な出会い―」掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「ホテル・ニューグランド(中区山下町・1927年竣工・震災後の横浜繁栄のシンボル)」を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「横浜郷土研究会 60年のあゆみ その1 横浜の郷土研究の中核をなした専門家集団(前半の30年間を見る)」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページ 「歴史仲間の予定」更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「中華街の歴史(横浜中華街、幕末~、かつては職人の街)」を掲載しました。
  • 1月20日の講演会をYoutubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その2」掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「アカデミックでチャレンジングな『横浜黒船研究会』」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「ウィリアム・ウィリス―幕末・明治に多くの日本人を治療した英国人医師」のPart1とPart 2を掲載しました。
  • コバテル先生講演会「開国日本と横浜 Part 2」(1月20日開催)のチラシを掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その1」掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • 9月9日の講演会をYoutubeにアップしました。
  • 仲間・施設ページに「港南に残る『古きもの』を蘇らせ、地域に貢献する港南歴史協議会」の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「『生麦事件で夷人を斬殺した私』久木村治休述」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 4) パーマーと横浜港の改修築事業 ~パーマー計画案採用の背後に外相大隈重信の決断が~」を掲載しました。
  • トップ特集「大江卓(おおえ・たく)人権擁護・人道主義に生きた人 ―明治初期の神奈川県権令時代・マリア・ルス号事件を中心に―」 掲載しました。
  • 9月9日(日)10:00よりの「コバテル先生の歴史講演会 Part1」のチラシを掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「和・話・倭・輪・わっ」-金沢区生涯学習“わ”の会の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「オランダ商人、デ・コーニングが見た幕末の横浜」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページ「オードリーと横浜」に【訂正】を追加しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報 八聖殿歴史講座追加しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「明治時代に活躍した“元祖 外タレ”快楽亭ブラックの人生」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 3) 明治期の横浜港の歴史を物語る「象の鼻」 ~長期間議論に終始した横浜港の改修築事業~」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「“郷土とつか”を、見て、知って、楽しむ、『戸塚見知楽会』」の紹介記事を掲載しました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「ハマのヘンテコ建築ビッグ3」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「泥亀新田」および「大熊弁玉」を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 2) ~横浜開港:横浜村の変貌にオールコックが驚愕、 とは言え、お粗末な港湾機能の下の荷役作業~」を掲載しました。
  • 「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」https://sampo.yokohamasalon.link/に「レトロな鶴見線 京浜工業地帯繁栄の面影」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「緑区生涯学級『横浜線ものがたり』」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川の由来は金川」を掲載しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part3-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part1)~開港前夜に米国人がみた横浜の風景~」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川でのヘボンの施療」と「江戸時代の刑罰」を 掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 有料会員の期間のうち、半年会員を廃止し、年会員のみに変更しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part2-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「生麦事件参考館」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページ「コバ・テル先生のハマ歴ワンポイント」
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART II) ―多才な彼は発展途上国日本には打ってつけの人材、その資質の源泉は―掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「吉田新田一つ目沼地の難事業‐吉田南家の没落」追加しました。
  • 仲間・施設ページに「ドラマチックな郷土史探究 鶴見歴史の会」の紹介記事を掲載しました。
  • トップ特集「横浜nbsp;英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part1-」掲載しました。
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  • 八聖殿郷土資料館の2017年度歴史講座を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 「テル先生のハマ歴ワンポイント」始まりました!
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART Ⅰ) ―彼が夢見たのは鉄道技師、しかし来日時は灯台技師―
  • 「歴史すぽっと」に6件追加しました。
    ・おもしろプレート(ワシン坂、飯田道、ラインマン)
    ・神奈川落語① 大山詣り
    ・神奈川落語② 三人旅より神奈川宿
    ・神奈川落語③ 新作落語「横浜(はま)の雪
    ・神奈川落語④ 抜け雀
      ・神奈川落語⑤ ミルラー事件関係
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  • 「昔の生活ツール」の年号対照表を見易く作り直しました。お役立てください。
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  • トップ特集「横浜と水の今昔物語」掲載しました。
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  • 仲間・施設ページに「謎の八聖殿と歴史講座」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
    スマホ画面でも見やすいように調整しました。
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  • トップ特集「横浜歴史のブラタモリ的地形考察」掲載しました。
    仲間・施設ページに「NPO法人  神奈川区いまむかしガイドの会」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の特集と紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
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  • 歴史すぽっとページに「ホテルの歴史 in Yokohama」追加しました。
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  • 仲間・施設ページに「神奈川歴遊クラブ」の紹介記事を掲載しました。
  • 横浜歴史さろんホームページ開始しました!

特集  日枝神社とお三さま 

~“おさん”はどこから?~

日枝神社
お三の宮日枝神社 2020/5/25撮影
 
横浜市南区にある日枝神社はなぜ「お三の宮」と呼ばれるのだろう? いつ頃からそう呼ばれるようになったのだろう? それを追求していくと、横浜の歴史の中に埋め込まれた意外な真実が浮かび上がってくる。しかし、あくまでも、ひとつの見方であることをお断りしておく。
狛犬にマスクが
狛犬にマスクが

ニシ・ハルキ

おさん伝説チラシ
おさん伝説公演チラシ

はじめに

2017(平成29)年は、吉田新田完成(1667年)から350年が経ったということで、横浜市内のあちこちで関連のお祝いがあった。1月24日には関内ホールにて「おさん伝説~遥かなる時をこえて~」の公演もあり、市民団員(子供も大勢)参加で大変盛況だった。
 吉田新田の先端部に位置する日枝(ひえ)神社は、1673(寛文13)年に吉田新田を開発した吉田勘兵衛が、江戸の「山王社」を勧進してできた神社である。この日枝神社はその公式ホームページでは「お三の宮日枝神社」と称している。だが、お三という女性が祀られているわけではない

なお、本稿における注および参考文献は、右欄(スマホなどの狭小画面では、一番下のほう)に掲載している。

1.おさん伝説

新田開発が大変な難工事だったことから、氏子中はもとより横浜に広く語り伝わる“おさんの人柱伝説”が生まれたようだ。お三(おさん)について一番詳しく丁寧に説明しているのが、早川茂男著の『横浜郷土資料 お三の宮とおさんの伝説』(注1)である。 早川は、お三の宮の語源として、山王社が転訛してお三の宮となったという説が一番支持されているとしている。<つまり、山王社の「さん」がお三(さん)になったのか?>

文化文政時代(1804~1829年)に調査、編纂された『新編武蔵風土記稿(巻之七十八 久良岐郡之六)には「本牧領の吉田新田 山王社 除地 西の方にあり 村の鎮守なり 常清寺持」と書かれている。〔除地(じょち)は年貢の対象外。常清寺は別当(管理をする)寺のこと〕
 ここには、お三については何もふれていない。

「人柱のお三」の話については女性の犠牲という人道上の問題から否定をするのではなく、お三について吉田家に資料がないこと、上記の風土記にも記されていないことから、事実ではなく伝説であって、できたのは比較的新しいとされている。その伝説の出所は、「埋納大乗経説*」「下女お三説」「芝居説」「新聞小説」等色々ある。*埋納大乗経説=吉田勘兵衛が社の創建にあたり、大乗経を社の下に埋納して地鎮祭を行ったことから、この大乗経埋納が民間訛伝しておさんの人柱となり、お三の霊をまつったという異説。

一番支持されているのは芝居説で、共通しているのは主役のお三が吉田勘兵衛の家の女中(召使い)であることである。
 私の憶測であるが、明治初期の大変な難工事となった吉田新田域内の当時まだ遊水地だった「南一つ目沼地」の埋立工事(詳細はこの記事の最後の項目「6.日枝神社「お三さま」の継承を2つの石碑からみる」に記載)が行われ、そのことが改めて江戸時代始めの厳しい新田開発工事を思い起こさせ、「人柱となったお三さま」の芝居となり、そのまま伝説となったのではないだろうか。幕末以降明治にかけて、横浜では小さな芝居小屋が林立し、下女であるお三の人柱の芝居も人気が高かったのであろう。

2.「さんのうさん」ではなく「お三さま」

そもそも全国の山王神社あるいは日枝神社は、比叡山の山麗にある「日吉大社(ひえたいしゃ)」が総本社で、主祭神は大山咋命(おおやまくひのみこと)である。全国に山王神社は数千あるが「さんのうさん」と呼ばれるのが普通で「お三さま」と呼ばれる神社はないようである。しかし呼び方だけであれば、私の住む横浜市中区本牧原には「おあずまさま」と呼ばれる日枝神社の唯一の兼務社である吾妻神社があり、明治の末に当時の十二天(現在の本牧神社)に合祀された本牧元町の八王子神社は「おはちおうじさま」と今でも呼ばれている。(注2) 八王子の神様は子供が大好きという言い伝えもあり、何れも氏子たちの生活に密接に繋がっていた神社であることがわかる。「お三の宮」は「お産の宮」とも書かれ、お産(安産)の神・子供の成長の神ともされている。

堰神社
日枝神社のすぐ近くにある堰神社

神社境内の隅に今は「咳の神様」とされる「堰神社」がある。もともとお三の宮の横には大きな用水池があり、ここの用水堰の脇にあった祠が現在地に移された。厚木市長谷にも「堰神社(注3)」がある。 『新編相模国風土記稿』には「天正(室町時代)の頃、修験者が来て自分を祀ればこの地を守るというので神社を建てた。」と書かれ、境内に「桂坊」という山伏が堰の難工事に人柱となった縁起の石碑がある。<ここにも別の形の人柱伝説がある。>

3.「お三/おさん」とは誰か?

「ここで吾輩はかの書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。第一に逢ったのがおさんである。(中略)下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿なしの子猫がいくら出しても出しても御台所へ上がって来て困りますと云う。」これは夏目漱石の『吾輩は猫である』、明治38年に朝日新聞に連載された第1話の一節である。この埼玉県出身の下女は奥さんからは(きよ)と呼ばれている。(注4)つまり、ここでは「おさん」という呼称は個人名ではなく、お手伝いさんの総称である。(編集者注:「この作品中では、おさん、御三、お三と表記されている。」と朝日新聞の「吾輩は猫である」のサイトに説明がある)
 吉田家のお三は、名前をお三という下女であったのか、あるいは名前が不明の下女のお三であったのだろうか。吾輩のいる珍野苦沙彌(ちんの・くしゃみ)先生宅のようなごく一般的な家庭に「おさん」がいることが普通になったのは明治時代に入ってからだろうか。現在では「女中」はともかく、「下女」どころか「おさん」などという言葉は使わない。「女中」は家庭や旅館・料理屋に雇われて炊事・掃除その他の仕事をする今でいう「お手伝いさん」であるが、江戸時代には女性に呼びかける敬称として「お女中」と言っていた。今日では、「おさん」を人の呼称には使わないものの、食事づくりを中心に家事などすることを「おさんどんをする」という「おさんどん」の使い方が残っている。

4.「お三/おさん」についての解釈 「御三之間説」と「炊爨の“さん”説」

ところで昔はなぜ下女のことを「お三」と呼んだのであろうか。
 吉田勘兵衛が活躍したのは四代将軍徳川家綱の時代で、安定した文民政治が始まり江戸城を中心に全国の大名や旗本の屋敷あるいは商家等が整備され、多くの働く女性が必要になった。江戸時代初期は武家屋敷も下級武士の娘たちを使ったが、次第に江戸の町民や相州・房州等の農家の娘たちも進出し始め、女性の職場が大きく広がり始めた。

三田村鳶魚(みたむら・えんぎょ)は「おさん」について二通りの解釈を書いている。(注5)

大奥の序列
大奥の序列

①江戸城の大奥には「御三之間」というものがある。ここで働く女性を「おさん」といった。(大奥の序列を示したが、文献によって表記に多少の違いがあり、必ずしも本文と一致していない)

江戸城の構造や組織も初期は単純であったろうが、次第に複雑で難しいものになった。本丸は表(おもて=政治の場所)と中奥(将軍の生活の場所)と大奥(御台所と奥女中の場所)に分かれている。
 幕府の組織は将軍の下に老中から若年寄り大目付、三奉行から与力、最下級の徒士に至る表の役人の組織があったように、大奥も幕府が直接採用する奥女中が御年寄、中年寄、御中臈(御年寄りから数えて5番目。将軍の側室はこの身分である)、表使、御祐筆、御次、呉服之間。御三之間(15番目)、御仲居、御火の蕃、お使蕃、御末の最下級まで全部で20程の階級に分かれて千人ほど暮らしていた。御三之間以下は将軍や御台所から見られないよう身を隠さねばならない身分で、上級の奥女中の雑用も含めた掃除、煮炊き等を担当した。大奥の制度は春日局が創ったといわれ、老中もなかなか「御年寄」には口を出せなかった。上級の奥女中は生涯大奥で過ごすが、下級の者は辞めることも自由である。今でも江戸城の大奥は人気があって、本や映画・テレビ化されている。(注6)

②「炊爨(すいさん)」という言葉から来ている。炊は「炊ぐ(カシグ)」で煙が上がって飯が炊ける意味。爨はたきつける意味である。「おさん」は炊爨(飯炊き)の女という意味である。では、お三と言われるのが女に限るかというと竈の前で仕事をするという意味では、風呂屋の「さんすけ」(三助)などもこの言葉に入る。江戸初期の武家屋敷や御店、寺院等の水汲みや飯炊きは量が多く腕力のある男性が担当していて、女の飯炊きが出現したのは随分後からである。(編集者注:Wikipediaによると、三助が銭湯の浴室で浴客の垢すりや身体を洗う接客をするようになったのは享保(1716年 - 1736年)、または化政期以降である。)

5.『関口日記』に登場する千恵の話

「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。(中略)何でも天璋院様の御祐筆(ごゆうひつ)の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって。(注7)」これは前出の『吾輩は猫である』で、雌猫の三毛子が彼女の飼い主の二弦琴の師匠を吾輩(猫)に自慢する言葉である。馬鹿馬鹿しい話であるが、漱石は実際に東京であったことを皮肉を込めて書いたと思う。
   郷土研究の対象として有名な『関口日記』(注8)には、大奥のお三の間で働いた「おさん」ではないが、関口家(生麦村の名主。現・横浜市鶴見区生麦町)の二代目当主の藤右衛門(この代から名主を務め、寺子屋の師匠をした)には、大奥に勤めた「千恵」という名前の娘がいた。(注9)
以下、関口日記からみる千恵の年譜である。当時の時代背景を理解する好資料である。

1797(寛政9) 年 千恵誕生。
1806(文化3) 年 10歳 江戸に出て、12歳から2カ所の大名の江戸屋敷に奉公。
1815(文化12)年 19歳 江戸の商人と結婚する。
1819(文政2) 年  23歳 男子出産。
1827(文政10)年 31歳 離縁する。駿河台旗本中野石翁屋敷に奉公。
1828(文化11)年 32歳 江戸城大奥の中臈・お美代の方の部屋子になりお延と呼ばれる。
1839(天保10)年 43歳 大奥「長の御暇」退職。生麦に戻る。
1840(天保11)年 44歳 二百俵取りの旗本との縁談があるが断る。
1862(文久 2) 年 66歳 生麦事件がある。
1865(慶応元) 年 69歳 千恵亡くなる。

千恵が仕えたお美代の方は将軍家斉の数多い側室の中でも最も有名で権勢を振るった女性である。娘の溶姫が加賀前田家に嫁ぐに際して、大奥から大勢の女中が前田家移ったので、石翁の屋敷から千恵は採用された。千恵の部屋子という身分は幕府直属ではなく、側室お美代の方の使用人である。つまり大名や旗本の家来と同じ陪臣(臣下の臣。家来の家来)で、奥女中の予備軍でもあった。関口家の千恵に対する食料品や衣類の差し入れ、世話になっている中野石翁の家来等に対する贈答は相当な額である。千恵がお美代の部屋でどのような役割をしていたかは日記には記載がなく不明であるが、商人の妻の経験もある中年の女性であり、退職後も二十数回に亘って江戸へ往復し、その殆どを大奥で過ごしている。千恵の給金高も不明であるが、老後は一人で裕福に暮らした。
 千恵の姉の「しげ」の武家奉公はもっと一般的で、1807(文化4)年13歳の時に江戸に上がり、5年間に4ヵ所の大名、旗本御屋敷に奉公し、19歳で鶴見村の名主の家に縁付いた。当時の村の娘達の奉公は下女で給金は安かったであろうが、格の高い良縁に恵まれるための投資のようなものであったろう。(注10)

6.日枝神社「お三さま」の継承を2つの石碑からみる

昔の日枝神社
明治時代頃の日枝神社(横濱絵葉書)

お三の宮には「敷地寄付記念碑(しきちきふきねんひ)」と「伏島君記念碑(ふせしまくんきねんひ)」という二基の大きな石碑がある。
 明治政府の「廃仏毀釈」の政策によって、全ての神社は「神仏分離」により僧侶と仏像は排除された。(注11)「廃仏毀釈」は、本来祀られるべき神々以外の者を排除するのが目的であったという。明治4年に東京・横浜・小田原等の山王社は日枝神社と社名が変更され別当寺(お三の宮は常清寺)とも切り離された。
 ところが横浜では、「お三さま」という名称が何故か400メートルリレーのバトンのように見事に引き継がれて来たのである。一体どうしてであろうか。私はその理由をこの二基の石碑から考えることとしたい。

敷地寄付記念碑
敷地寄付記念碑(2019年1月15日の産経新聞より)
敷地寄付記念碑
碑は塀囲いの向こう側にある

敷地寄付記念碑」は1931(昭和6)年に建立された。本殿横の塀の中にあって、内容を読むことができないが、表面に10代角井為蔵社掌(旧制の神職の称)の碑文、裏面に10代吉田勘兵衛以下旧住民100名の名前が刻されている。

吉田新田の遊水地として残されていた「南一つ目沼地」は、人口増加による土地不足解消のため、幕末から横浜の外国人たちが注目していた。当時、吉田新田は吉田勘兵衛本家と共に吉田南家(常次郎)が名主をしていた。この工事については諸事情から吉田本家が手を引き、常次郎等が1873(明治6) 年に中村川から根岸海岸までの掘割川(運河)を掘削し、一つ目沼地の埋立を完成させたが、難工事に加えて横浜貿易の不振時で、資金返済が当初の目論みに届かず常次郎は没落した。(この話は、当サイト歴史すぽっと「吉田新田一つ目沼地の難事業‐吉田南家の没落」に詳しく書かれている)一つ目沼地は最終的に官有地となり、その後、元々いた農家19軒が自費で買い取った。
 この時、お三の宮も常次郎が社地を抵当としていたため、債権者側が神社の樹木を伐採しようとした事件が起こり、住民との争いとなった。これは、1877(明治10)年に横浜裁判所の調停によって、ここでも住民が常次郎の借財を代わって返済した。
 「敷地寄付記念碑」は、お三の宮を守った歴代地づき氏子がこの義挙と誇りを顕彰し、後世に残そうと建てられたものである。それを早川は「お宮に対しても少数の旧住民は影が薄くなり、新住民の有力者の発言が目立つようになってきた。」からと書いている。(注12)

編集者より:2019年1月15日の産経新聞「書のある散歩道~かながわ~」に、この碑に関する掲載があるとニシ氏に教えてもらった。正確には碑名は「日枝神社・稲荷神社敷地寄附記念碑」と書かれており、「草創以来の由緒と、社地を提供した百家の功績を顕彰し、碑陰にその名を刻む。」とある。碑の全体図の写真は新聞より転載した。

伏島君記念碑
伏島君記念碑

伏島君記念碑
鳥居の左側に建っているこの碑は、もともと伏島近蔵(ふせしま・きんぞう「ちかぞう」の表記もある)没後40年にあたる1940(昭和15)年に駿河橋(横浜市南区吉野町1丁目)の近くに建てられたが、その後運河は埋められ1978(昭和53)年にお三の宮に移された。碑には伏島の肖像と経歴が刻まれている。

伏島は1837(天保8)年、群馬に生まれ、1901(明治34)年に北海道で亡くなった明治の横浜商人の代表的な人物である。「開港のひろば 第95・96号」(横浜開港資料館発行)によれば、横浜生糸貿易商として財を築き、成功はしなかったがイタリアに売り込みに行き、港湾と背後の都市の関係を学び、銀行家であり横浜市議会では地主派の高島嘉右衛門や吉田健三らと組み、商人派の原善三郎等と争った。今に残る功績は明治30年前後に、吉田新田に新吉田川、新富士見川等の運河を掘り、河川運輸の効率を高め、吉田新田地区の発展の基礎を造ったことである。

例大祭1
盛大な日枝神社の例大祭

中村川と大岡川に囲まれた旧吉田新田地区(お三の宮の氏子地域である)の人口は、わずか20年の間に7.5倍に膨らみ(明治34年時に約9.5万人)、生活必需品を扱う店舗、地所家屋貸付業者、建築・土木関係業者、遊興施設などが集住し、港都横浜を支える後背地として急速に発展していった。(注13)

私は「敷地寄付記念碑」は、旧幕時代(山王社時代)からの「吉田新田地づき氏子」の象徴と思う。とすると、「伏島君記念碑」はどうしでも明治以後(日枝神社となった)発展した吉田新田の新しい氏子の象徴に見えでしまう。山王社から日枝神社に社名が変わった頃、そして新生吉田新田地域ができた頃から、お三の宮を取り巻く町は大きく膨れ上がっていった。新旧の住人の融合を図るために、「お三さま」の存在は今以上に重要であったろう。

例大祭2
『神奈川の祭り五〇選』にも選ばれている

現在でも、お三の宮の例大祭がどこよりも盛大であることは、吉田新田の鎮守社が多くの軋轢を乗り越えて来た証明である。新旧の氏子達が一体化を目指して、昔からの「お三さま」をごく自然に、彼らの共通の合言葉として使ったのではないかと思っている。 改めて日枝神社にて、この大きな2つの石碑眺めると、塀に遮られているものの、境内を挟んで真向かいに向かい合っていて、互いを見守っているかのようである。

(例大祭の写真はお三の宮日枝神社の公式ホームページから)

編集者より:3年前にこの発表を聞いたとき、頭に浮かんだのは、子どもの時(60年前)銭湯で見た三助(さんすけ)だった。褌一丁(ふんどしいっちょう)のオジサンが湯船の横の細い扉からやって来て、オバサンの背中を洗い流し、それから肩に手拭いを横長にかけて肩もみをする。最後にその肩を平手でパン、パァーンと何回か叩く、その音が風呂場中に響き渡っていた。それが三助という職業だと思っていた。しかし、「おさん」にも同様の意味があるとは思わなかった。でも、それも「おさんどん」を聞くと、なるほどと思った。そのもとを辿ると窯の前で煮炊きなどをする仕事に繋がっていく。 下女→おさん→吉田家のおさん→新田開発工事の人柱の芝居→伝説→吉田新田の鎮守社である日枝神社の別称「お三さま」→「お三さま」を合言葉に新旧の氏子たちが結束→今も続く盛大な例大祭。特に、お三さまの継承を二つの石碑から探る歴史眼には感心させられた。 そのほか、大奥の「御三之間」のこと、大奥で働いた生麦村名主の娘、千恵の話など、ニシ氏の知の探究は多岐に亘って、私たちの歴史を見つめる眼を開かせてくれる。

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