横浜歴史さろん

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お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。

明治初期の改革・出来事

お知らせ

★New「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」もご覧ください!

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  • 歴史すぽっとページに「『生麦事件で夷人を斬殺した私』久木村治休述」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 4) パーマーと横浜港の改修築事業 ~パーマー計画案採用の背後に外相大隈重信の決断が~」を掲載しました。
  • トップ特集「大江卓(おおえ・たく)人権擁護・人道主義に生きた人 ―明治初期の神奈川県権令時代・マリア・ルス号事件を中心に―」 掲載しました。
  • 9月9日(日)10:00よりの「コバテル先生の歴史講演会 Part1」のチラシを掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「和・話・倭・輪・わっ」-金沢区生涯学習“わ”の会の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「オランダ商人、デ・コーニングが見た幕末の横浜」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページ「オードリーと横浜」に【訂正】を追加しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報 八聖殿歴史講座追加しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「明治時代に活躍した“元祖 外タレ”快楽亭ブラックの人生」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 3) 明治期の横浜港の歴史を物語る「象の鼻」 ~長期間議論に終始した横浜港の改修築事業~」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「“郷土とつか”を、見て、知って、楽しむ、『戸塚見知楽会』」の紹介記事を掲載しました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「ハマのヘンテコ建築ビッグ3」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「泥亀新田」および「大熊弁玉」を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 2) ~横浜開港:横浜村の変貌にオールコックが驚愕、 とは言え、お粗末な港湾機能の下の荷役作業~」を掲載しました。
  • 「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」http://sampo.yokohamasalon.link/に「レトロな鶴見線 京浜工業地帯繁栄の面影」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「緑区生涯学級『横浜線ものがたり』」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川の由来は金川」を掲載しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part3-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part1)~開港前夜に米国人がみた横浜の風景~」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川でのヘボンの施療」と「江戸時代の刑罰」を 掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 有料会員の期間のうち、半年会員を廃止し、年会員のみに変更しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part2-」掲載しました。
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  • 仲間・施設ページに「生麦事件参考館」の紹介記事を掲載しました。
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    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART II) ―多才な彼は発展途上国日本には打ってつけの人材、その資質の源泉は―掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「吉田新田一つ目沼地の難事業‐吉田南家の没落」追加しました。
  • 仲間・施設ページに「ドラマチックな郷土史探究 鶴見歴史の会」の紹介記事を掲載しました。
  • トップ特集「横浜nbsp;英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part1-」掲載しました。
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  • 八聖殿郷土資料館の2017年度歴史講座を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 「テル先生のハマ歴ワンポイント」始まりました!
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART Ⅰ) ―彼が夢見たのは鉄道技師、しかし来日時は灯台技師―
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    ・神奈川落語② 三人旅より神奈川宿
    ・神奈川落語③ 新作落語「横浜(はま)の雪
    ・神奈川落語④ 抜け雀
      ・神奈川落語⑤ ミルラー事件関係
  • イベント情報更新しました。
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    前回掲載の特集と紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
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  • 歴史すぽっとページに「ホテルの歴史 in Yokohama」追加しました。
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  • 歴史すぽっとページに「パンの歴史 in Yokohama」追加しました。
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特集  大江卓(おおえ・たく)人権擁護・人道主義に生きた! ―明治初期の神奈川県権令時代・マリア・ルス号事件を中心に―

KG ミウラ

若き日の大江卓
   若き日の大江卓
大江卓は幕末に土佐陸援隊員として倒幕運動に加わっていた。明治維新後、「穢多・非人の称の廃止」を達成し、神奈川県権令時代には中国人労働者が奴隷としてペルーに輸送されるところを救ったマリア・ルス号事件があった。その後、西南戦争に呼応して挙兵を企てたが逮捕され、7年間の獄中生活、刑期を終えると第一回衆議院議員選挙に出馬し当選。第2回の選挙で落選すると、実業界に転じ、さらに海外での鉄道事業など実業家として活動した。晩年は僧籍に入り、被差別部落の解放のため帝国公道会を設立して全国行脚した。波乱万丈な生涯だったが、大江卓の生き方を貫いているのは人権擁護・人道主義であった。

神奈川県における大江の活動

『神奈川県史』で大江卓の記事を見るとマリア・ルス号事件遊女解放令が記述されている。

 陸奥宗光
陸奥宗光
明治4(1871)年10月28日、大江は、神奈川県令陸奥宗光により神奈川県七等出仕外国事務係として採用された。陸奥は紀州藩の出身であるが坂本龍馬の海援隊に入り倒幕に参加した同志であり、また、大江が兵庫県判事補として外国事務に関する訴訟を取り扱った経験を重視しての登用である。大江は11 月には参事となり、翌年7月には神奈川県権令(けんごんれい。最上位の県令に次ぐ官位)となった。神奈川県に勤務したのは2年4か月と短い期間であったが、明治政府が成立して間もない時期にあたり、外国との窓口である開港場横浜を持つ神奈川県の官吏として多方面にわたり基盤づくりに貢献した。また、在任中に、フェリス女学院創始者のアンナ・キダ―を援助している。

1.マリア・ルス号事件

なかでも有名なのが、国際問題にまで発展したマリア・ルス号(他の表記、マリア・ルーズ号、マリア・ルズ号などがある)事件である。この事件は、明治4年10月(1871年11月)には、条約改正を念頭に、岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文等の政府トップがこぞって岩倉使節団として長期間(1年10か月)、米欧に旅立っていた間に起り、対応する留守政府には荷が重いものであった

● 事件の発端

明治5(1872)年6月5日、南米ペルー船籍のマリア・ルス号という船が、中国のマカオからペルーに向かううちに、海上で台風に遭遇し船体の一部が破損し、修理のために横浜に入港してきた。船員はペルー人であるが、乗客はすべて清国人であった。ペルーはスペインから独立して間もなく、鉱物資源が豊富であるが、それに携わる労働者が不足しており、南北戦争が収束し黒人奴隷が解放され、労働力をアフリカから得ることができず、アジアに労働者を求め、特に中国からの労働者を受け入れていた

マリア・ルス号が横浜港に投錨後3日目の6月7日の深夜、一人の広東省出身のモクヒンという清国人が船から飛び降り、イギリスの軍艦アイアン・デューク号に泳ぎついて救助を求めた。
 モクヒンによると、マリア・ルス号には自分と同じような清国人が230余人乗っている。清国人がマカオで渡航の条件の説明を受けたときは労働移民として乗船したのであるが、船中におけるペルー人船員は、清国人に虐待に虐待を加えるようになった。幸い横浜に入港していることを知り、脱出してきたので、船中に残されている同胞の救助を懇願した(この清国人の人数は出典により違う)
 アイアン・デューク号の船長は、ここでの主権は日本にあるので、モクヒンに日本の援助を得るようにと、日本側に引き渡した。ところが、日本の役人はモクヒンをマリア・ルス号に帰してしまった

その後さらに、脱出者が出たので、アイアン・デューク号の船長はマリア・ルス号に将兵を送り船内の清国人の様子を視察させた。清国人は船底に押し込められており、折からの暑さで船内は悲惨な状態になっていた。これを見て表面上マカオからペルーのカレオへ渡航する契約労働者とされていたが、事実上は奴隷として扱われており、非人道的な虐待もここからでていると判断して、この事実をイギリス代理公使ワトソンに報告した。
 ワトソンは外務卿副島種臣に清国人の人道的救済を要望、ワトソンはアメリカ代理公使も巻き込んで、ここから英米両代理公使による日本政府に対しての救済の申し入れとなった。日本は当時新政府が成立した時期であり、また最重要メンバーが岩倉使節団として海外に行って留守だったことでもあり、政府にとっては思いがけない重い外交問題となった。

副島種臣
 副島種臣
江藤新平
 江藤新平

● 政府内で意見が対立

この問題について明治政府のなかで意見が分かれた。日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかったため、開国間もない時期でもあり国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見も強かった。

不介入: 司法卿江藤新平は、今の日本の法ではこれに対処するには法的に不備であり海上の船舶内は治外法権であり日本の法律は及ばないと主張。

介入: 外務卿副島種臣は、人道主義と日本の主権は独立との立場から、海上の船舶内は治外法権であるとしても、虐待が行われており日本国内で生じた人権上の問題であるとし、特に、人道的見地から積極的に介入すべきだと主張。

当時の県令陸奥宗光は財政的手腕を買われ、大蔵省租税寮において明治6(1873)年実施予定の地租改正の準備のため神奈川県に殆ど姿を見せることができず、東京中心に活動していた。参事の大江卓が県の行政の事実上の責任者であった。陸奥自身はこの問題に対しては、まだ政権が安定していない状況でもあり内政を優先すべきと、この裁判に対しては介入に否定的であった。直後、地租改正の責任者として大蔵省地租改正局長に転出することとなり、7月14日、大江は陸奥の移動に伴い参事から権令に昇格した。陸奥は大江にこの件に深く係るなと「ペルーの件、小生は固辞せり」との書簡を送った。
 結局 副島が太政大臣三条実美の許しを得て裁判を神奈川県で行うことになった。当時はまだ司法の独立はなく、行政の長が裁判を取り仕切っていたので、大江が裁判長を務めた

● 裁判経過

7月4日 大江は県庁に、マリア・ルス号船長リカルド・ヘレイラモクヒン出頭させる。県雇用のアメリカ人法律顧問G.Sヒルイギリス領事ラッセル・ロバートソン立ち合いで、大江は清国人の弁髪が切られたことを問題にした
7月11日 フランス、ポルトガル、ドイツ、アメリカ等8か国の各国領事より大江に抗議文が来る。「居留地取締規則」には「条約未決済国人民の聴訟断獄一切貴下のご裁判相なるべし儀に一決仕リ候得ども、右は外国領事とも御相談の上、其議論御採用の儀にこれあり候」と、判決にあたっては各国領事の意見を聞くとの規則があるためである。
7月19日 マリア・ルス号は横浜港からの出航停止を命じられ、清国人に対して船内で虐待があったか否かを証言させるためとの理由で清国人全員を下船させた。清国人には、県が啓学堂という学校に宿舎を用意し食事等を提供した。 裁判では清国人から船内で非人道的で虐待が行われ、船内の環境が最悪であるとの証言を得る。
7月27日 この裁判で、清国人労働者を虐待することは不法行為であり解放すべし、との判決が下された。一方で、船長ヘレイラは情状酌量で無罪になった。
この判決を不服として船長は清国人の「移民契約」履行請求の訴訟を起こし清国人をマリア・ルス号に戻すよう主張した。これに対し2度目の裁判では移民契約の内容は奴隷契約であり、人道に反する行為もすでに行われているとの証言が清国人からされた。
8月23日 マカオでの契約は無効との判決を下した。
大江の判決はマカオでの契約書は人身売買契約であり、「善良の道に反したもの也や」、「詐称の約」、また契約書は清国人に与えられていなかった。判決文で、特に、「人に非ずして家具に等し」「不法なる取り扱いに因りて」と清国人の人権がふみにじられたことを問題とした。
9月13日 清国から清国人労働者を迎えに来た特使陳福勲により、アメリカ郵船で229人のマリア・ルス号の乗員が帰国した

ちなみに、この事件当時の明治5年9月12日には、横浜―新橋間に、日本初の鉄道が開業している。

モクヒンがマリア・ルス号から脱出して事件が発生してから最終判決まで76日間であった。この事件が解決したのちに横浜在留清国人は副島と大江に感謝の大旆(たいはい)を贈った

大江のこの裁判での態度について、司馬遼太郎は『竜馬がゆく』8巻に、「外交問題にふなれなため怯えた中央政府の干渉に屈せず、『自らが裁く』という毅然とした態度と先駆的な人道主義を貫いて、全員を解放した。」と記し、評価している。

● この裁判を通して遊女解放令が

この裁判の審議で大江は清国人に契約書も渡しておらず、奴隷の扱いであり人権無視であり違法であると主張した。これに対して、船長側弁護人イギリス人フレデリックター・ディキンズが「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出した。日本国内でも娼妓という「人身売買」が公然と行われており、奴隷売買を非難する資格がないと批判したのである。
 日本側はこの指摘に対して、公娼制度を廃止せざるを得なくなり、9月17日マリア・ルス号事件を機に権令大江卓県下の遊女解放令(人身売買営業禁止)を発布。政府でも10月2日、太政官布告295号「人身売買禁止」の布告。10月9日、司法省達、いわゆる「牛馬解放」といわれる「芸娼妓解放令」が発せられた。   この法令は明治末期に廃止。後に廃娼運動の一つのきっかけになったともいわれる。

● マリア・ルス号裁判後の国際問題化

しかし問題はこれで終わらなかった。
 明治6(1873)年2月にペルー政府は海軍大臣を訪日させ、日本政府に対してマリア・ルス問題に対して謝罪と損害賠償を要求した。この両国間の紛争解決のために仲裁契約が結ばれ第三国のロシアによる国際仲裁裁判が開催されることになった。ロシア皇帝アレクサンドル2世によりサンクトペテルブルクで開かれた。この国際裁判には日本側代表として全権公使の榎本武揚が出席。明治8(1875)年6月に法廷は「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする判決を出し、ペルー側の要求を退けこの問題はようやく落着した。

● 事件の影響

大江は裁判長を務めたマリア・ルス号事件の1年3か月後の明治7(1874)年1月 神奈川県庁から大蔵省五等出任に転出した。官職の地位としては低かった。それは、マリア・ルス号事件の処理について中央政府では反対の立場をとる高官も多かったからの結果のようだ。それは次の話からもわかる。

英公使パークス
 英公使パークス

イギリス公使ハリー・パークスが夜間馬から落ちた。当時都市整備事業が横浜のいたるところで行われていたが、パークスは水道工事の穴に馬もろとも落ちた。パークスはこれを問題とし、権令の大江に謝罪を求めた。大江は謝らなかったので、パークスは大江の態度に怒り、明治政府に抗議すると、政府の役人から「大江は辞めさせるから」との返事が来た。それがパークスから横浜の英国領事に伝達され、横浜のイギリス領事が大江に挨拶しに来たことがあり、この事は大江には知らされていなかった。(『大江天也伝記』p323)しかし、大江の転出に対して、横浜の財界人も大江を惜しみ原善三郎はじめ高額な選別の申し出があったが、大江はすべて辞退した。のちに、明治17年恩赦により岩手の監獄から出たときは、原善三郎等10数名の人々が3千数百円の醵金(=拠金、きょきん。ある事をするために複数の者が金を出しあうこと)して大江に渡した。このとき大江は喜んで申し出を受けたという。

2.神奈川の都市整備のための種々の方策を制定

港湾都市横浜は開港とともに海外との交易が活発になり多くの外国人の入国、日本人も幕末から爆発的に人口が増大した。都市基盤が整備されていないままに明治5(1872)年には5万余の人びとが住む都市となった。特に医療面、公衆衛生の面で多くの課題が生じ、大江はこの面でも業績を上げた。

● 「家作建方条目」  明治6年制定 神奈川県布達

この条目は日本の近代的建築制令の萌芽ともいうべきものといわれる。幕末には中国でペストが大発生し、日本でも元治元(1864)年に流行し、大江はこれらの対策として都市衛生に力を入れた。横浜は明治6(1873)年3月22日に大火災がおこり、1600戸が被災した。大江はこれを機にアメリカ人医師シモンズの勧告を受け、都市基盤整備の改善のため具体的な対策をおこなった。
 この条目は11ヵ条からなり、そのうち長屋・衛生関係に係るものが6ヵ条と半数を占めている。「便所と井戸の分離」「床高二尺」「排水管埋設と道路の下水との分離」などの都市衛生の原点ともいうべきものが制定された。

● 病院の建設 明治5(1872)年7月

大江は緊急な課題として、病院の建設の重要性を感じそれを訴えていた。明治5年7月太田町に仮病院として横浜市中病院或いは共立病院を建設したが、大江は仮病院では満足しておらず、本格的な病院施設のため、横浜在住の資産家に寄付の依頼をした。三井八郎右衛門、小野善三郎、原善三郎、高島嘉右衛門等で6千数百円の寄付が集まり、それをもとに本院を建設した。明治6年12月、場所は野毛山の修文館の跡に建設して、十全病院と名付けた。医師シモンズも勤務した。

アンナ・キダー
 アンナ・キダー

3.フェリス女学院創設者のアンナ・キダーを援助

アンナ・キダーは明治2(1869)年8月、ブラウン夫妻とともに来日。ブラウンが教師としての赴任先である新潟英学校に一緒に赴いた。翌年ブラウン夫妻とともに横浜に戻り、9月にヘボンの診療所で行われていたヘボン夫人の塾を引き継ぎ、授業を開始した。明治4年7月ヘボン夫妻は『和英語林集成』第2版印刷のため前年より上海に行っていたが、7月2版が刊行されたので7月に帰国して医療活動を再開すると、キダーの教育活動は制約されることになり、それだけでなく、ヘボンの個人的好意に頼るには、キダーの学校は大きくなりすぎたようだ。キダーは県の参事の大江卓に施設の斡旋を相談したことから、大江はキダーの活動を理解し、支援するようになった。

大江の支援に対して キダーはアメリカの宣教師団体にあてた手紙に「私は彼(大江卓)をよく知っており、校舎がないからという理由で学校を中止してはならない、自分が責任をもって校舎探しを引き受けよう、と答えてくれました。」「横浜の権令が親切にも、政府役人の官舎近くの、こじんまりしたすてきな日本家屋を提供してくれました。」大江はさらに、「私が歩いて通うには遠すぎるから、馬車でも人力車でも好きな方を差し上げようとの申し出もありました。・・・私は人力車を選びました。」(『キダー書簡集』p55)

大江はキダーに対する援助について大江自身のことばとして大正9(1920)年10月28日に行われた フェリス和英女学校 開校五十年記念式典の祝辞で具体的に述べている。

「…ブラウン博士(Dr.S.R.Brown)の家に寄宿して居られた一人の婦人宣教師はキダー女史(Miss Kidder)と申して立派な人格の人でありました。女史も、また、女子の青年を集めて教育を施しておられました。女史は、自分の室にて女子教育することの不便を感じて、何れか、適好の家を求めたいと相談せられましたから、私は、伊勢町の官舎を一軒借り受けまして、之を女史に提供いたしました。女史の山手から、毎日、伊勢町へ通ふのを私は気の毒に思いまして、人力車を寄贈しましたが、今日の人力車とは、形が、余程異がつております。之に車夫一人付けました。多分、車夫の給料は、全部で、金十円位であったと思います。私は、女史の日本女子教育に熱心なるに関心致しまして、当時の私の俸給、月、金百五十円(現300万円)でありました内より、毎月、金三十円(現50万円)位を、この学校の為に補助いたしました。私は、この様なことを公に話しするのは、唯今が、始めてであります。今日、此盛典に列して嘗て若干のお世話をした学校が、今日の隆盛を見るに至った事を見て、真に愉快に堪へぬ。また、誠に壊旧の情に堪へないのであります。…(原文より抜粋)

大江はこの祝辞の中で、1909(明治42)年に「開港五十年記念式典」が催されたが、横浜市の担当者は既に大江が亡くなったものとして家族に遺影を借りに来た、と皮肉を言っている。対してフェリスからは、「開校五十年記念式典」に招待され祝辞を依頼されたので、今日あった他の用事を差し置いて出席したと述べている。この大江の祝辞は『フェリス女学校六十年史』に全文掲載され、他のフェリスの学院史や学院紹介にも記載されている。
  大江は法衣(僧籍に入り大江天也と名を改めた)をまとって、この式典に出席した。キリスト教のフェリス校は、この大江の姿を受け入れたのだから、ともに仏教、キリスト教の垣根を越えて、互いに感謝する人としての道が優先されたのだろう。

差別のない社会を目指して

法衣姿の大江卓
 法衣姿の大江卓

大江の生涯の活動で一貫していることは人権擁護であり、マリア・ルス号事件では奴隷状態にあった清国人232人の救助を副島と連携し解放した。もし、裁判長が大江でなかったなら、清国人たちはペルーで奴隷として働かされ悲惨な人生を送ったに違いない。後に、この事件は小説や劇、また、県では紙芝居を作成して、子供たちに人権の大切さを教える教材となった。県史にも「明治初年には珍しい国権の維持、国威発揚の事例としてその後史上に記録されることになったのである。」と記述されている。
 また、明治5(1872)年はまだキリシタン禁止令の高札が撤去されていない時期で、キリシタン諜者が活動していた時期でもあり、大江のキダーに対する援助は、間違えば大江の行政官としての地位を危くするものだった。それにもかかわらず、女子宣教師アンナ・キダ―に県の施設を使用させたことは、自己の保身より、女子が教育を受ける必要性とその権利を認めていたからであった。
 大江のこうした姿は、後の、第2次世界大戦中にナチスからユダヤ人を救うために外務省の訓令に反して、大量のビザを発給した杉原千畝と重なるものがある。両人とも国からは冷遇された後半生となった。 

フェリス50周年記念式典での祝辞の最後に、大江は言った、「この機会を利用しても、余り不都合でないならば、私は、皆様のご同情に訴えたいことがあるのです。それは他でもない。私が心から同情をもっている全国百二十万人(特殊部落民)の為にであります。彼等を発展せしめ向上せしめたいのであります。」
 大江卓は、法衣をまとって人権擁護のためひたすら全国を行脚し、部落解放に全力で打ち込み、差別のない社会を目指し、この一年後、75歳で人生を全うした。

大江卓の経歴

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