
お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。
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武藤利雄(横浜歴史さろん正会員)
編集:わたなべとしこ
2018年7月、横浜市歴史博物館と横浜開港資料館の共同開催で、企画展「戊辰と横浜」が行われた。武藤利雄氏はその展示と説明で、戊辰戦争の勃発、進行、終結、そして、その当時の横浜の様子に大変興味を持ち、自分で調べてみることした。すると次々と横浜との面白い関わりが分かって来たので、それを発表してくれました。当時の世相をよく表す、歌いながら踊りながら、お札を降らす行列「ええじゃないか」、新政府軍・東征大総督を唄う「宮さん、宮さん・・」のトンヤレ節、村人で編成された農兵隊を唄うノーエ節もまさにこの頃につくられたのです。(今回は音声も聴けるようにしました。)
大政奉還から戊辰戦争終結までのわずか1年半ほど、日々刻々と変わっていった当時の世の中、そして横浜の様子は非常に興味深いものがあります。右欄の年表もご参照ください。(スマホなどの狭小画面では一番下の方)
目 次 下記目次項目をクリックすると該当項目へ移動します。
はじめに 戊辰戦争と横浜の意外な関係
1.戊辰戦争の勃発
1-1大政奉還
1-2お札降リ(ええじゃないか)
1-3江戸薩摩藩邸焼討事件・品川沖戦争
1-4鳥羽・伏見の戦い
「宮さん宮さん」の宮さんはどなた?
2.新政府軍東征と横浜接収
2-1 新政府軍の東征と横浜市域の通行
2-2 進軍の担い手・武州金沢藩米倉氏と伊豆韮山代官江川氏
コラム①/武州金沢藩主 米倉昌言
コラム②/伊豆韮山代官江川氏
2-3 薩摩の兵士、開港場
へ
2-4 新政府軍の村々への徴発
2-5 生麦村が迎えた「王政一新」
2-6 幕府代官編成の農兵 ―綱島農兵隊と川崎農兵隊―
コラム③/野毛節(横浜のノーエ節)
3.横浜を巡る諸外国の動向
3-1 欧米の動向
3-2 外国軍の横浜警備
4.新政府による治安と支配
4-1 新政府の支配がはじまる
4-2 新政府軍による鉄砲回収
4-3 佐賀藩の横浜進駐
4-4 幕府諸勢力と村々
4-5 幕府と新政府の風聞・諷刺
4-6 神奈川奉行所から神奈川県へ
4-7 新政府による幕府施設の接収
コラム④ 神奈川台場
奥羽の戦争と横浜
5-1 東北の戦況と蚕種輸出
5-2 横浜は武器・艦船輸入の拠点
5-3 横浜病院(横浜軍陣病院)
コラム⑤ ウィリアム・ウィリス
5-4 奥羽出張病院
横浜の外交と戊辰戦争の終結
6-1 外交の現場・横浜
6-2 アメリカの軍艦ストーンウォール
6-3 戊辰戦争の終結
6-4 天皇の東京行幸
慶応4(1868)年1月、京都「鳥羽・伏見の戦い」に始まる戊辰戦争において、横浜は戦地にこそならなかったが、開港場として戦争を支える重要な役割を果たしていた。その役割とは、
① 武器や物資の供給基地、
② 野毛に設置された横浜病院による負傷兵の治療、
③ 居住外国人の情報網を通した情報収集の拠点、
④ 横浜港を通して貿易の継続による新政府の財政の支え、などである。
外国軍が駐屯していた横浜開港場は、国際法上の治外法権地であり、いかなる勢力も武力行使を控えざるを得なかった。そのため、横浜は戦雲に覆われている他の地域とは異なり、別天地をなし、外国軍隊の威力のもとに平静が保持されていた。
横浜は、旧幕府勢力が撤退したあとへ新政府権力が進駐してきた兵庫や長崎の場合と違って、新旧両政権の間で平和的な権力の交代が行われたことが特徴的である。
江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、慶応3年10月14日、政権の返上を朝廷に奏上し、翌日受け入れられた。いわゆる大政奉還である。その後、慶喜は将軍辞職も申し出、その進退の決定を委ねられた諸大名が去就を明らかにしない状况下、倒幕派の働きかけにより、12月9日に天皇から王政復古の号令が発せられた。将軍職は廃止され、ここに260余年続いた江戸幕府は終焉を迎えた。
大政奉還の情報が横浜やその周辺に伝わったのは意外に早い。長尾村(川崎市多摩区・宮前区)で醤油醸造業などを営んだ鈴木藤助という人物の日記には、10月末の部分に「大将軍之御職掌は天子(天皇)へ差上」と記されており、人々がこの出来事に大きな関心を持っていたことがわかる。
東海地方に端を発した「お札降り」は、慶応3年の秋ごろ各地にひろまっていく。お札降りとは、伊勢神宮など神社のお札が家々に降り、そのお札を祀って踊り騒ぐこの時期特有の社会現象(地域によっては「ええじゃないか」とも呼ばれる)のことで、慶応3(1867)年11月半ばには横浜の開港場でも発生した。
横浜に出店していた売込商によると、横浜の港付近では天から「諸神霊札」が降ってきた家が多くあり、一同は祝い喜んで日々「祭礼」のような状況であるという。大政奉還のあとの先行きが見えない社会状況のなか、横浜の人々も漠然とした不安を募らせていた。
江戸では薩摩藩が中心となり、浪士を集め、撹乱工作が行われた。それに対し幕府は、12月25日、江戸市中の警備を指揮していた庄内藩などに命じ、薩摩藩邸を包囲、攻撃させた。
この事件は横浜市域*にも影響を及ぼした。鶴見神社宮司などをつとめた黒川荘三の記録によれば、当時、鶴見村(鶴見区)からも黒煙が見え、脱走浪人たちが横浜に乱入するかもしれないという情報を受け、取締のため「仲町ノ七郎右衛門宅」に集合したという。さらに川井村(旭区)から厚木へ向かったり、駕籠で戸塚宿から平塚方面へ向かったりした浪士がいたことが記され、脱走浪士たちが市域を通行したことがわかる。
焼討後薩摩藩の浪士達は、品川宿に放火しながら(これにより品川宿は大火災となった)品川沖に碇泊していた薩摩藩の軍艦翔鳳丸に逃走し、品川沖にいた幕府の軍艦回天丸と海戦となった。
この事件は幕府と薩摩藩の戦争であり、近年、戊辰戦争の始まりは薩摩藩邸焼討事件であるとの学説が提唱されている。
(註:本文で述べる横浜市域とは、主に現在の横浜市域内の東海道沿い地域を指す。また綱島、近隣の川崎辺りも含める)
慶応4(1868)年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発。幕府軍は薩摩・長州藩を主力とする新政府軍に敗北した。
戦争の情報は大坂の商人から神奈川宿にも、「関東方惣崩れにて大敗軍」と伝えられた。大坂城を脱出した将軍徳川慶喜は12日、幕府の軍艦開陽丸で海路江戸に戻った。
1月14日、戦いに敗れた旧幕府軍の兵士が横浜に上陸する。開港場の商人篠原忠右衛門は「怪我人は舟にて横浜に送り来り、14日には大怪我人36人、当浜御役所へ上り薬用中にこれあり」と、戦争の負傷者が横浜に帰還して手当を受けていることを故郷に知らせている。横浜の人々は傷ついた兵士の姿から、戦争をリアルに感じ取ったことと思われる。
その一方、忠右衛門は「横浜は当節にては日本一安全な場所に候、安心致さるべく候」とも書き送っている。その背景には開港都市横浜ならではの事情があった。
この頃に作られた軍歌・行進曲が「宮さん宮さん」である。 トンヤレ節ともいう。
日本最初の軍歌であるとされる。「宮さん」とは、東征大総督 有栖川宮熾仁(たるひと)親王を指す。
作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎とされているが確証はない。 (動画はYouTubeより引用)
有栖川宮熾仁親王は、和宮親子内親王と婚約していたことで知られている。徳川幕府の権力失墜により、公武合体政策(和宮の徳川家茂への降嫁)が推し進められたことにより、婚約解消を余儀なくされた。明治維新後、有栖川宮は旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を最初の妃として迎えた。貞子は2年後病没、その後再婚したが、政治情勢のせいで、無理やり和宮と引き裂かれた若き日の親王はどのような気持ちだったのか、そして倒幕の東征大総督となり、錦の御旗を翻しながら江戸へ向かったときは、どんな気持ちだったのだろうか…。
2月12日、徳川慶喜は上野寛永寺に移り、恭順の意向を示す。
2月15日、東征大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王は明治天皇から錦旗を授けられ、京都御所を出発して進撃の途についた。江戸を目指す新政府軍は東海道・東山道・北陸道の3ルートを進撃した。
東海道が通る横浜市域は、公家の橋本実梁(さねやな)を先鋒総督とする東海道軍と、東征大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王の一行が通行することとなった。横浜市域に最初に新政府軍が入ってきたのは、慶応4(1868)年3月である。3月1日に箱根の関を越えた東海道軍の先遣諸隊は、3月15日に定められた江戸総攻撃を控え、市域の宿場や多摩川の渡船場を固めた。
江戸総攻撃は3月14日に中止となったが、今度は江戸開城に向け、3月末には橋本実梁、4月12日には有栖川宮熾仁親王率いる新政府軍が市域の東海道を通行した。戸塚宿の定助郷をつとめる鍛冶ケ谷村(栄区)小岩井家の記録によれば、3月晦日に橋本一行が通過した同宿では、計12藩、5500人余が3日間にわたって通行し、計2000人余の人足が継立(つぎたて)に従事した。
4月12日に有栖川宮が宿泊した藤沢宿には、当時数え15才の少年が一行を描いた図が残っている。(残念ながら、藤沢市文書館寄託の作品のため掲載できなかった)
大規模な軍事通行には、武器・弾薬の輸送や兵粮の確保が重要であり、そのため多くの人馬や米、金子を必要とした。新政府軍は、江戸時代以来の宿駅制度を踏襲し、宿駅や助郷の村々から人馬・物資を徴発した。新政府軍は、それらを滞りなく調達するため、新たな手段も用いた。恭順した沿道の大名や幕府代官に、領地近くの宿場での人馬・物資の徴発を差配させた。
横浜市域とその周辺では、戸塚~神奈川宿を武州金沢藩米倉氏(2月18日恭順)、神奈川~品川宿を伊豆韮山代官江川氏(2月21日恭順)が担当した。
2月18日、新政府軍は金沢藩に対し、東海道藤沢、戸塚、保土ヶ谷、神奈川宿の継立人馬と兵糧、賄い金の徴発や、新政府軍通行の際の宿駅警衛を命じた。藩は宿駅に藩士を派遣し、これらの役に従事させることとなった。このほか、金沢藩は横浜開港場の取締(3月~4月)、浦賀の警衛(閏4月)、中里(磯子区)・野島(金沢区)の警衛を担い、一方では領内の治安維持にもつとめた。
江川氏も3月はじめに藩士や手代を宿駅に派遣し、新政府軍と宿役人や村々の間に入って、人馬や物資の調達に従事した。
武州金沢藩米倉氏と伊豆韮山代官江川氏については、右欄(狭小画面では下方)「コラム②」「コラム③」に詳しく記載した。
3月7日、東海道を進んできた薩摩藩の兵士200人が神奈川宿に、600人が保土ヶ谷宿に到着した。横浜の開港場は東海道から外れているが、「浜見物」のため一部の薩摩藩士が開港場を訪れ、外国商館などを見物した。兵士の横浜入りを阻む力は幕府側にはなかった。
3月10日、開港場の商人伊勢屋は東征軍の役人にあてて、横浜の役所の「御賄御用」「小買物御用品御用」(食料や必需品の供給)を担当したいとする願書を出した。開港場の商人のなかにはいち早く新政府に接近しようとする者もいた。
新政府軍の通行にあたり、江川・米倉両氏を通じ、村々に人馬や米、金子が賦課された。村々への具体的な賦課内容を記した資料によれば、米・金は高100石につきそれぞれ3俵(4斗入)・3両ずつであり、不足なく人足を確保するため、15~50歳の男性の他出が禁じられている。
この賦課は、従来助郷に指定されていなかった村や免除されていた村、遠方の村にも及んだ。川崎宿の場合、現在の奥多摩や埼玉県の村々などにも人馬などが課されている。
その他宿場や街道近くの村々は、夜具や布団などの物資も差し出した。
さらに新政府軍は、渡船場や交通の要衝を押さえるために軍勢を派遣した。綱島村(港北区)では3月後半に、岡山藩や尾張藩、長州藩の軍勢が休泊、滞在した。
東征軍が京都を出発し、先陣がすでに東海道筋を進んでいるとの報がきたのは、「生麦村御用留」によれば、慶応4(1868)年3月1日であった。6日には戸塚宿まで進み、東征軍の命を受けた江川英武や米倉昌言から指令がきて、兵糧米など軍資金として村高百石につき金1両が各村に当てられた。4月、生麦村では白米6石7斗余、金16両余を負担した。3月12日には、長州軍の入用として各村でタイマツ15本(長さ2m余、回り32cm余)をこしらえて神奈川宿へ運んだ。
「王政一新」という言葉に生麦村が接したのは4月20日であった。この日、神奈川裁判所から、王政一新につき神奈川奉行から引き継ぎを終えたとの覚書がきた。
5月15日には江戸・上野での彰義隊との戦争による火事が生麦村から見えた。
7月、生麦村の三五郎の娘つる(18歳)が親孝行を表彰され、新政府から銭30貫(およそ金10円)をほうびにもらった。
10月、天皇の東行があり、戸塚宿を経て11日、神奈川宿で1泊のあと生麦村の平兵衛の土地で小休し、江戸へ向かった。
横浜市域入った新政府軍は、人馬などの徴発だけではなく、さまざまな変化をもたらした。中でも注目すべきは、幕府代官が編成した農兵隊の影響である。
代官の農兵隊といえば江川太郎左衛門のものが有名であるが、横浜市域にも二つの農兵隊が存在した。綱島村寄場組合・川崎宿寄場組合という寄場組合単位で編成されていたため、「綱島農兵隊」、「川崎農兵隊」と称することとする。
「綱島農兵隊」の構成員は、名主からなる世話役10人と村役人の子弟中心の約60人、「川崎農兵隊」は村役人からなる世話役・取締役各10人と村役人子弟中心の40人であった。農兵隊の鉄砲は基本的に代官からの貸与、弾薬等は自弁であった。「綱島農兵隊」は慶応3 (1867)年2月、「川崎農兵隊」は同年8月に代官から鉄砲が下げ渡されている。両農兵隊とも、八王子千人同心の村松譲三郎を教授役に迎え、稽古を行った。同年10月には、代官による両農兵隊の調練見分も行われた。
一般に自衛的な性格が濃いとされる農兵隊の例に漏れず、両農兵隊も基本的には、寄場組合内の治安維持が主たる活動だった。「綱島農兵隊」では、月に2,3度ずつ組合内を見廻っていたという。ただし、開港場横浜に近く、遊歩区域内の村々からなる両農兵隊は、有事の際に横浜開港場に繰り出すようにとの指示を神奈川奉行所からも受けていた。
さらに慶応3(1867)年12月に起きた薩摩藩邸焼討事件の際 には、「綱島農兵隊」が逃亡者2名を生け捕るという活躍も見せた。戊辰戦争開戦後も、非常時の出動人数の取り決めや稽古の見分が行われた。両農兵隊は、属する寄場組合のみならず、幕末の市域とその周辺の治安を担った存在であった。
慶応4(1868)年1月25日、イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・オランダ・プロイセンの外国代表は、それぞれの居留民に向けて局外中立を布告。諸外国は新政府(天皇政府)・旧幕府(大君政府)を交戦団体と位置付け、そのいずれも支持しない中立的な立場を表明した。
横浜の山手には、生麦事件の翌年の文久3(1863)年以降、イギリス・フランスの軍隊が駐屯していた。横浜の開港場は外国軍隊の存在を背景に平和が保たれ、外国との貿易が活発に行なわれていた。
横浜の外国人は、幕府勢力が新政府に軍事的抵抗を行なうか否かという点に大きな関心を寄せていた。外国のメディアには、混乱する江戸の情勢を観察しつつ「ミカドの役人が江戸の施政を引き継がないかぎり、戦争の危険が去ったとみなすわけにはいかない」と、新政府による江戸・横浜の治安維持を望む意見もみられた。
外国側は戦争に巻き込まれることを避けて、開港都市において貿易を継続することを望んでいた。
新政府の兵士が横浜に入ってきたことをうけて、3月10日、諸外国の代表は対応を協議した。その結果、翌11日から英仏軍を中心とする各国の兵士を開港場(日本人町と外国人居留地)の要所に配置し、旧神奈川奉行所の役人と協力して横浜を警備することが取り決められた。
ロンドンの週刊新聞は、横浜がミカドの軍隊に引き渡されるまで、ヨーロッパの兵士によって関門と橋を守ることが「賢明な判断」とされた、と絵入りで報じた。(画像は所有館の規制で掲載できない)
一方、磯子村(磯子区)の堤磯右衛門の覚書には、外国側が「往来鑑札」を発給し、薩長の兵士はそれを持参して開港場を見物したことが記されている。この頃、横浜の開港場は外国側に管理されていたのである。
横浜の海上にはイギリス・フランス・アメリカ・オランダ・プロイセンの軍艦が集結し、不測の事態に備えていた。
横浜市域は幕府領(代官支配)や旗本知行所、武州金沢藩領、寺社領などの支配が入り交じる地域であった。そのこともあってか、3月に市域に入った新政府軍の諸藩は、交通の要衝や渡船場の固めだけではなく、村々からの訴願を受けつけることもあった。
明治政府が3月に民衆に最初の法令である5枚の高札(「五傍の掲示」)を示した。
第1札で儒教道徳の五倫の推奨、
第2札で徒党、強訴(ごうそ)、逃散(ちょうさん)の禁止、
第3札で切支丹、邪宗門の禁止、
第4札で外国人の殺害、暴行の禁止、
第5札で脱籍、浮浪を禁止している。
慶応4(1868)年4月2日に、この地域の幕府領を管轄する旧幕府代官松村忠四郎が新政府軍に恭順すると、新政府軍は松村に引き続き代官業務を命じ、6月20日に武蔵知県事に任じた。その後8月8日には、松村に代わって佐賀藩出身の古賀一平が知県事となった。そして8月25日には神奈川(横浜)10里四方が神奈川府(神奈川裁判所の後身)の管轄となり、市域の村々のほとんどは神奈川府に属することとなった。
一方旗本には、①新政府への帰順、②徳川家とともに静岡へ移住、③帰農という選択肢が与えられ、知行所は知県事(のち神奈川府)支配となった。
綱島・川崎両農兵隊の活動に変化をもたらしたのは新政府軍であった。東海道先鋒総督軍の一員であった備前岡山藩が、市域やその周辺の村々から、広く鉄砲を回収したのである。
岡山藩遊奇隊の野上勝治という人物の日記から、鉄砲回収の動きを見てみよう。
慶応4(1868)年3月12日に横浜市域に入った同藩は、翌13日に上丸子村(川崎市中原区)に止宿。 14日に綱島村の「農兵頭」助太夫宅の「武具」を回収、他農兵隊の「武具」も上丸子村へ差し出させた。そして市場村の七郎右衛門や町屋村(大田区)の嘉右衛門宅でも同様に回収、15日には上丸子村に鉄砲200挺、弾薬は馬で15駄が差し出されたという。
なおこの回収は農兵隊に参加しない村々も対象となり、銃の種類も、ゲべール銃はもちろん、獣害対策用の火縄銃にまで及んだ。この鉄砲回収をもって、「綱島農兵隊」や「川崎農兵隊」は、実質武装解除された。
横浜は対外交渉を行う重要地域であるため、新政府は最新鋭の武器を備えた精鋭部隊である佐賀藩を進駐させた。4月16日に横浜に到着。新政府は居留地の外国人とのトラブルを避けるため佐賀藩士に対し、「異人館へ猥に罷り出で申すまじきこと」と通達した。
しかし、江戸・北関東の情勢が悪化したため、佐賀藩は戦地への出撃を命じられ、5月9日に横浜を離れることになった。5月15日の上野戦争に参加した佐賀藩はアームストロング砲で彰義隊を攻撃し、勝利の立役者となった。
幕府代官松村が支配の継続を命じられた数日後の4月11日、江戸城が開城し、21日には東征大総督有栖川宮熾仁親王が城に入った。しかし、それを不満とする幕府勢力は、閏4月15日にかけ、江戸やその周辺で反撃の力を蓄えていた。
5月15日、新政府軍が上野の彰義隊を攻撃(上野戦争)。
この時期、彰義隊などに属する人物が江戸近郊の村々を頻繁に訪れ、献金などを要求していたことが、長尾村(川崎市多摩区・宮前区)の鈴木藤助の日記に記されている。長尾村では閏4月末から上野戦争が起こる5月15日頃にかけて、彰義隊や、「報恩隊」と称する隊の人物が来訪し、村内の有力者に対して金子や米を要求した。また日記の作者である藤助はさらに、中野(栄区)の宝仙寺に屯集する仁義隊の呼び出しを受け、金子を要求された。村々の対応をみると、基本的には出金しているが、要求金額には必ずしも従っておらず、中には出金しない者もいた。
また、彰義隊を騙って金子を要求した者に対しては容教なく攻撃を加えており、村々がある程度自主的に判断し、要求に応じていたと考えられる。
慶応4年閏4月、5月は、市域の村々において、幕府軍や新政府軍、戦争の状況に関わるさまざまな風聞や諷刺作品か記録された時期でもあった。磯子村(磯子区)の堤磯右衛門の書留では、閏4月に起きた市川・船橋戦争では、新政府軍が勝利した戦いだったが、ここでは「関東方」=幕府軍が勝利したとされている。こうした視点は、その他の書き写された諷刺作品にも共通している。会津の名産である蝋燭の引札(広告)に見立てて会津藩を賞賛する諷刺や「錦旗勅命丸」という架空の薬の引札に見立てて新政府軍を諷刺する作品などがある。
新政府軍批判、幕府贔屓の諷刺作品が多く出された背景に、自分たちが生活する村や江戸の町に戦争をもたらす存在だった新政府軍を好まない幕府贔屓の意識を持つ人々が、横浜市域やその周辺に少なからず存在したことが窺える。
横浜における新旧政権の交代は「事務引継」といってよいほど平和裡に行われた。
慶応4(1868)年3月19日、神奈川奉行所を廃止して横浜裁判所を置いた。
4月20日、横浜裁判所は神奈川裁判所に改称され、総督には東久世通禧(みちとみ)が任命された。
(「裁判所」は現在の裁判所とは異なり、一般の行政機関であった)もとの横浜役所(外交事務を担当)と戸部役所(地方行政事務を担当)はそれぞれ横浜裁判所と戸部裁判所と名称を変えただけで執務状態は旧神奈川奉行所と変わらなかった。神奈川裁判所は税関業務など外国貿易にかかわる特殊な業務も旧幕府から引き継いだ。そのため裁判所には旧神奈川奉行所の役人の多くが継続雇用された。
6月17日、神奈川裁判所は神奈川府と改称されたが、横浜裁判所と戸部裁判所は依然変わらなかった。4月24日、新政府軍は神奈川台場に進駐。閏4月1日、横須賀製鉄所も接収。11日には東京湾に出入する船舶の検閲をおこなう浦賀奉行所も幕府から引継いだ。横浜・横須賀・浦賀という外交・海軍・流通の重要拠点が新政府の管轄下に入った。
慶応4(1868)年4月、戦火は奥羽に広がる気配を見せる。4月10日、新政府の討伐対象となった会津藩と庄内藩の同盟が成立。閏4月をはさみ5月3日には仙台・盛岡・米沢・秋田藩など東北地方の諸藩が加わり、さらに5月6日には長岡藩など新潟県北部の諸藩とも連携がなされ、奥羽越列藩同盟の締結により奥羽と越後は戦乱の煙に包まれていった。
この頃、イタリア・フランスでは蚕の微粒子病が大流行し、養蚕業が壊滅的打撃を受けていた。両国の絹織物の生産には日本産の蚕種(蚕の卵)が不可欠で、横浜港には蚕種を求めて多くの外国商人が来航する。奥羽は生糸・蚕種の有力な産地だったが、戦争の影響により東北地方の蚕種の入手が難しくなっていた。
戊辰戦争期の武器の輸入といえば、長崎を拠点とするグラバーが九州・中国の諸藩に供給したことが知られている。しかし、横浜でも武器や艦船の購入がおこなわれていた。実際、1867年の横浜港の小銃輸入量は10万挺で、6.5万挺の長崎を上回った。
横浜は武器・艦船輸入港として仙台藩を始め東北諸藩と外国商人の取引の現場となり、戊辰戦争と関わりをもっていた。その背景にはアメリカの南北戦争 (1861~1865年)が終結し、余剰となった大量の武器が横浜港を経由して旧幕府・新政府双方に利用された。
戊辰戦争の時期、横浜には戦争の負傷兵を治療する病院が設置された。閏4月17日、野毛の修文館(幕臣に漢学を教える施設)に横浜病院が開設され、イキリス人医官ウィリアム・ウィリスが招かれて、主に新政府側の負傷者の手当にあたった。
ウィリスは6月2日の報告で、「運ばれて来る患者の数は増え続けている」ことを報じ、その総数176名のうち126名が「江戸の北で会津討伐のために派遣されて傷を負った人々」であると記している。
一方、6月9日、前日に東北地方への出張を命じられた医師の関寛斎は、使いに命じて外科の治療道具を横浜で求めさせた。しかし、横浜は「市中ならびに病院とも外科大道具払底」という状態だった。
戊辰戦争で負傷して横浜病院に入院し、そこで他界した官軍兵士(56人のうち14人)が横浜市営久保山墓地の一角にある官修墓地に埋葬されている。
ウィリアム・ウィリスについては、右欄(狭小画面では下方)「コラム⑤」に詳しく記載した。
新政府は横浜病院のほか、戦争の各前線に「出張病院」(野戦病院)を設置し、諸藩の医師を動員して負傷者の処置をおこなった。6月16日、薩摩藩兵を主力とする新政府軍は平潟(茨城県北茨城市)に上陸作戦を敢行した。
この部隊に同行した奥羽出張病院頭取・関寛斎は平潟の寺院に出張病院を開き、負傷兵の治療を行った。病院の日誌である「奥羽出張病院日記」には、「急卒(すぐに)全快覚束なき」「日間取(時間のかかる)」負傷兵は「横浜病院」へ後送することにして、平潟の病院では「軽便(簡易)に」処置するようにとの参謀の指示が記されている。
出張病院では負傷者に応急的な処置をおこない、治療に日数や手間がかかり、全快の見込みのない重傷者は船で横浜病院に送っていたのである。前線の病院と横浜病院の役割分担がなされていた。
明治元(1868)年9月21日、神奈川県が神奈川府から改称されて誕生した。神奈川県知事には寺島宗則が就任した。
幕末に薩摩藩の外交使節として渡欧した経験をもつ寺島は、4月の横浜着任以来、地方行政のみならず、外国公使との外交交渉においても中心的な役割を果たした。
9月27日、寺島は東久世通禧らともにスウェーデン=ノルウェー国(同一の国王のもとの連合国)の全権と、横浜裁判所において新政府初の修好通商航海条約を締結した。翌28日にはスペインとの条約を裁判所で調印した。
条約交渉のほか新政府草創期の難しい外交交渉も横浜でおこなわれ、「一新(維新)成功ノ業ハ過半横浜ヲ以テ中央トセルガ如シ」と寺島が回顧するほどであった。横浜はこの時期、貿易のみならず外交の現場としても重要な位置にあった。
慶応4(1868)年4月1日、幕府が注文したアメリカの軍艦ストーンウォールが横浜に到着した。「当時世界第一の堅艦にして南北戦争のころ、南部のためにフランスにて製作したるものなり」と評された強力な装甲艦である。
しかし、アメリカの弁理公使ヴァルケンバーグは、局外中立を理由に同艦をアメリカの管理下に置き、旧幕府・新政府双方からの引き渡し要求を拒否した。
8月19日、旧幕府の海軍 副総裁榎本武揚は開陽丸他7隻の艦船を率いて品川沖を脱出、東北へ向かった。この報を聞いた大久保利通は、新政府側の海軍力をさらに強化する必要を感じ「是非ストーンウォール入手いたしたく」横浜へ赴く。しかし、戊辰戦争が継続しているために局外中立が解除できず、交渉は不調に終わった。
ストーンウォールの帰属は戊辰戦争の行末を大きく左右するため、新政府は開港都市横浜においてその入手を試みていた。10月、榎本武揚ら旧幕府海軍が蝦夷地へ渡って所謂「蝦夷共和国」を樹立させた頃には、アメリカは明治政府が新たなる政府であることを認めて局外中立を撤廃した。
新政府はまだまだ財政が厳しかったが、明治2(1869)年2月ストーンウォールの購入に踏み切った。
3月、ストーンウォールは軍艦「甲鉄」と名を変えて箱館に向かった。この頃、榎本武揚の乗る開陽丸は嵐のため、既に沈没していた。4月、箱館湾に到着した甲鉄から五稜郭への艦砲射撃により、5月18日に五稜郭は開城し、榎本軍が降伏した。
明治元(1868)年9月15日に仙台藩が降伏、22日には会津の若松城が開城。10月9日には盛岡藩の降伏が受理され、戦争は終息に近づいた。10月20日頃、東北が戦争状態にないとの情報は横浜の庶民にも伝わっていた。
10月3日、神奈川県知事 寺島宗則は横浜の外国代表全員に会津藩の降伏を通知した。「何人かの表情が曇った」と同席したアーネスト・サトウが日記に書いているように、旧幕府に同情的な外国代表もいたようである。
すでに新政府を承認していたイギリス以外の各国も、11月下旬から公使信任状を天皇に宛てて提出し、「ミカドの政府」を承認していった。
明治2(1869)年5月18日、函館の榎本軍が降伏し、戊辰戦争は終結した。
9月8日、慶応は明治と改元された。9月20日、明治天皇は京都御所を出発し、東京に向かう。東海道を進んできた天皇の一行は10月11日に藤沢宿を出発、保土ヶ谷宿で小休をとり、神奈川宿に宿泊した。
横浜市域には天皇の鳳輦(ほうれん)を拝することを「勝手次第」とする触れが出ており、多くの庶民、そして横浜の外国人も天皇の行列を見物した。
9月12日、天皇は舟橋がかけられた六郷川(多摩川)を越えた。江戸時代の六郷川には橋がかけられていなかったが、天皇の行列通行に当たって船橋がかけられた。品川宿に宿泊し、9月13日に江戸城に到着した。
この日、神奈川台場と横浜の外国艦船からも天皇への「御馳走」として祝砲が放たれた。
戊辰戦争をへて、新しい時代が始まろうとしていた。
参考文献
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