横浜歴史さろん

コーヒー コーヒー

お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。

富貴楼&要人たち

お知らせ

★New「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」もご覧ください!

  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「富貴楼お倉―横浜の名物女、待合政治の元祖」掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「横浜郷土研究会 60年のあゆみ その2 多極化・多様化した横浜の郷土研究(後半の30年間を見る)」の紹介記事を掲載しました。
  • 「当サイト」ページにある「横浜歴史さろん」の“めざすこと”に新たな文言が加わりました。それにともない、会員制に賛助会員(有料)が創設され、その説明など関連事項の変更をしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 横浜歴史さろん会員の名称を有料会員→正会員、無料会員→一般会員へと変更しました。
  • 5/12コバテル先生歴史講演会「開国日本と横浜 Part 3」の録画ビデオをアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「キリスト教諜者・安藤劉太郎のち関信三の半生 ―キリスト教信奉者・中村正直との数奇な出会い―」掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「ホテル・ニューグランド(中区山下町・1927年竣工・震災後の横浜繁栄のシンボル)」を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「横浜郷土研究会 60年のあゆみ その1 横浜の郷土研究の中核をなした専門家集団(前半の30年間を見る)」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページ 「歴史仲間の予定」更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「中華街の歴史(横浜中華街、幕末~、かつては職人の街)」を掲載しました。
  • 1月20日の講演会をYoutubeにアップしました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その2」掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「アカデミックでチャレンジングな『横浜黒船研究会』」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「ウィリアム・ウィリス―幕末・明治に多くの日本人を治療した英国人医師」のPart1とPart 2を掲載しました。
  • コバテル先生講演会「開国日本と横浜 Part 2」(1月20日開催)のチラシを掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • トップ特集「開国日本と横浜 黒船に乗ってペリーがやって来た! その1」掲載しました。
    イベント情報を更新しました。 
  • 9月9日の講演会をYoutubeにアップしました。
  • 仲間・施設ページに「港南に残る『古きもの』を蘇らせ、地域に貢献する港南歴史協議会」の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「『生麦事件で夷人を斬殺した私』久木村治休述」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 4) パーマーと横浜港の改修築事業 ~パーマー計画案採用の背後に外相大隈重信の決断が~」を掲載しました。
  • トップ特集「大江卓(おおえ・たく)人権擁護・人道主義に生きた人 ―明治初期の神奈川県権令時代・マリア・ルス号事件を中心に―」 掲載しました。
  • 9月9日(日)10:00よりの「コバテル先生の歴史講演会 Part1」のチラシを掲載しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • 仲間・施設ページに「和・話・倭・輪・わっ」-金沢区生涯学習“わ”の会の紹介記事を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「オランダ商人、デ・コーニングが見た幕末の横浜」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページ「オードリーと横浜」に【訂正】を追加しました。
  • イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報 八聖殿歴史講座追加しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「明治時代に活躍した“元祖 外タレ”快楽亭ブラックの人生」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 3) 明治期の横浜港の歴史を物語る「象の鼻」 ~長期間議論に終始した横浜港の改修築事業~」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「“郷土とつか”を、見て、知って、楽しむ、『戸塚見知楽会』」の紹介記事を掲載しました。
    イベント情報(Home)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • イベント情報(Home)および「歴史仲間の予定」(仲間・施設)を更新しました。
  • トップ特集「ハマのヘンテコ建築ビッグ3」 掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「泥亀新田」および「大熊弁玉」を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 2) ~横浜開港:横浜村の変貌にオールコックが驚愕、 とは言え、お粗末な港湾機能の下の荷役作業~」を掲載しました。
  • 「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」http://sampo.yokohamasalon.link/に「レトロな鶴見線 京浜工業地帯繁栄の面影」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「緑区生涯学級『横浜線ものがたり』」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川の由来は金川」を掲載しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part3-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part1)~開港前夜に米国人がみた横浜の風景~」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川でのヘボンの施療」と「江戸時代の刑罰」を 掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 有料会員の期間のうち、半年会員を廃止し、年会員のみに変更しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part2-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「生麦事件参考館」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページ「コバ・テル先生のハマ歴ワンポイント」
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART II) ―多才な彼は発展途上国日本には打ってつけの人材、その資質の源泉は―掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「吉田新田一つ目沼地の難事業‐吉田南家の没落」追加しました。
  • 仲間・施設ページに「ドラマチックな郷土史探究 鶴見歴史の会」の紹介記事を掲載しました。
  • トップ特集「横浜nbsp;英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part1-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 八聖殿郷土資料館の2017年度歴史講座を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 「テル先生のハマ歴ワンポイント」始まりました!
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART Ⅰ) ―彼が夢見たのは鉄道技師、しかし来日時は灯台技師―
  • 「歴史すぽっと」に6件追加しました。
    ・おもしろプレート(ワシン坂、飯田道、ラインマン)
    ・神奈川落語① 大山詣り
    ・神奈川落語② 三人旅より神奈川宿
    ・神奈川落語③ 新作落語「横浜(はま)の雪
    ・神奈川落語④ 抜け雀
      ・神奈川落語⑤ ミルラー事件関係
  • イベント情報更新しました。
  • 「昔の生活ツール」の年号対照表を見易く作り直しました。お役立てください。
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  • トップ特集「横浜と水の今昔物語」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「謎の八聖殿と歴史講座」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
    スマホ画面でも見やすいように調整しました。
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    有料会員による会員交流広場開始しました。
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  • トップ特集「横浜歴史のブラタモリ的地形考察」掲載しました。
    仲間・施設ページに「NPO法人  神奈川区いまむかしガイドの会」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の特集と紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「ホテルの歴史 in Yokohama」追加しました。
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特集  富貴楼お倉―横浜の名物女、待合政治の元祖

富貴楼の横浜浮世絵
 富貴楼を描いた横浜浮世絵

ニシハルキ

“待合政治”といっても、今の若い人たちは知らないかもしれない。バブル経済崩壊の1990年代頃まで、赤坂や新橋の料亭の前には黒塗りの高級車が並び、政治家・官僚・企業の大物などがそこで酒を飲み、芸者を呼んだ宴席で政治の話をする。日本全体を動かすような重大なことが昼間の会議ではなく、そうした料亭(以前は、“待合”といった)で決まることも多かった。待合政治は日本の古くからの慣習であったが、その元祖と目される所が横浜にあった「富貴楼」で、その女将が「お倉」である。  幕末期、最も卑しいとされた娼婦にまでなった女が、その後、明治時代前半の政治の裏側で、「フィクサー」、「無官の使節」とまで評され、また、花柳界では亡くなるまで絶大な権勢を振るったことは、衆目を集めることとなった。お倉はどんな人物で、どのように活躍したのか。

はじめに―富貴楼お倉との出会い

私は趣味として、清元を習っていたことがある。清元は義太夫、常磐津、新内などの三味線音楽の一つで、浄瑠璃の一種。清元は最も新しく、文化11(1814)年に創始された。河竹黙阿弥(文化13(1816)年~明治26(1893)年)という江戸から明治にかけて活躍した歌舞伎作者は、劇中に当時流行した清元を効果的に使い、四世清元延寿太夫が初演した。  この清元が縁で、五世清元延寿太夫が残した『延壽芸談』を読んだ。この本の中に横浜の三井物産や伯母の富貴楼お倉のことが書かれている。私は特に、富貴楼お倉に興味を持った。

横浜土産

1.元老の秘密の会議所 富貴楼

これは日本で最初の日本語の日刊新聞である『横浜毎日新聞』に、明治8年の3月4日から10回つづいた「横浜土産」というコラムに掲載されたものの一例である。(鳥居民著「横浜富貴楼お倉」には、土産は「みやげ」ではなく「トサン」読ませるのかもしれない、とある)横浜の歴史を少し学んだ人なら、これらの意味は大概分かると思う。原は生糸貿易の売込商亀善、糸屋平八は投機・相場の田中平八、郵船・三菱は岩崎弥太郎率いる海運業と、横浜の各業界の代表者として選ばれたようだが、最後の、「会席 富貴楼」はどうだろう。そう、富貴楼は今でいう“セレブ”、特に政財界の要人が集まる会席(料理屋・貸席・旅館)であった。その女将が、“横浜の名物女”と言われたお倉(本名 斉藤たけ)である。

富貴楼は伊藤博文等の政財界人の贔屓もあって、“元老の秘密の会議所”で、内閣の活動なども東京では面倒になるから富貴楼で行なったとか、元老に直接言いにくい話はお倉からして貰うとうまく運んでくれ、秘密も守られる等、と伝えられている。牧野伸顕(政治家。父は大久保利通、娘婿は吉田茂)の『回顧録』には、「富貴楼はそのころの横浜の有名な集まり場所で、役人などは横浜に寄ってまず富貴楼に行き、そこで東京の情報をいろいろと聞いて、それから東京に行くのがほとんどその当時の慣例のようになっていた」としている。
 しかし、本当のところはどうであったかと言えば、具体的なことは分からず、殆ど憶測の域を出ない。顧客達はお倉の虚像を自分の為に利用したし、お倉もそれを受け入れたのだろう。ただ、伊藤博文井上馨、大隈重信たちとの付き合いに嘘はなく、維新後の複雑な争いと外国との不平等条約を抱えた中で苛立つ日本には、横浜富貴楼のお倉がいなければ収まりが就かない事も多かったのだろう。

遺失物探し広告

2.新聞広告とお倉

東京から来る伊藤を初めとする政治家や官僚たちは富貴楼が定宿であった。したがって、横浜の新聞記者達は彼らの動向については県庁に聞くよりもお倉に聞いた方が確かであるとしていた。お倉も新聞や新聞広告についてはある程度信頼していたし、新聞記者たちを大事にしていたようである。
 『官許横濱毎日新聞』掲載の富貴楼関連の広告が2件ある。明治5(1872)年当時この新聞の読者数は2千人である。

①「お倉遺失の指輪捜し広告(明治6年1月10日)」 

この頃の1円(両と同じ)の相場は、米換算2斗9升5合位。遺失物の礼金は遺失物の価格の「2分の1」であったから、ダイヤモンドの指輪の価格は40円と思われる。お倉の豪華な暮らしぶりが分かる。(編集者注:当時の1円は現在の2万円以上の価値があったようだ)

再開店広告

②「富貴楼再開業の広告(明治6年9月20日)」 
     現在の住所表示では中区尾上町5丁目。この開業広告は「鉄道通港町」となっている。富貴楼の敷地は尾上町側と港町側の2筆で、江戸時代の茶屋の例に倣って舟(大岡川の)から入店出来るように作ったようであるので、港町側に正門があったと見られる。「鉄道通」は通称か。現在は、指路教会横の「神奈川中小企業センター」になっている。(トップ画像の絵地図を参照ください)

この遺失物と開業の広告は数日続けて出している。

3.お倉小伝

碑の裏側  
墨田区の木母寺にある「天下の糸平」碑、伊藤博文の筆。
大きさは都内最大級。この裏側に刻まれている
多くの要人(男性)名の最後に「富貴楼」がある 
(文末に関連年表を掲載)

①江戸のお倉
お倉は天保8(1837)年、江戸浅草に生まれた。本名は「たけ」と云う。弟(渡井八太郎)がいた。6歳の時に一家離散し、父親の同業の者(姓 星野)に育てられ茶屋で働いていた時に、一度所帯を持ったが別れ、その後、横浜に落ち着くまでは、新宿と品川で二度娼婦となり、あるいは芸者務めをしており、決して恵まれてはいなかった。一生連れ添った斎藤亀次郎とは新宿からの仲で、品川のお倉の処に亀次郎は金も無いのに友達を連れて遊びに行き、お倉が金の工面をしたという。亀次郎の散財で、お倉は借金まみれの生活だった。「女郎の間夫(まぶ)」とは、この亀次郎のような男をいうのであろう。

②横浜のお倉 
お倉と亀次郎は明治元(1868)年、東京から景気の良い大阪に逃げ出した。お倉31歳の時である。同年、二人は大阪で店を出す金の工面に東京に行ったものの帰らなかった。船で横浜に着いたとき、その繁栄ぶりに魅かれて、横浜に落ち着く事となり、関内で芸者屋を始めたが、その後明治4(1871)年お倉34歳の時、相生町3丁目に「天下の糸平」で知られる田中平八の出資で料理店「富貴楼」を始めた。その当時のことについて、横浜貿易新報(明治43年9月13日)に、「富貴楼の名付け親は糸平で、店は間口奥行きとも四間の一寸一膳飯屋の様な体裁で名前負けする」と評判されたとの記事がある。
 明治6(1873)年3月の火事で焼け出された後、同年9月28日尾上町5丁目の角地二百余坪の地に顧客たちの援助を受け再開業した。お倉36歳である。富貴楼の看板は伊藤博文に書いて貰っている。
 お倉が最初の店を出せた経緯として、その当時、外国商館への借金返済のため、井上馨が洋銀を大量に必要だったがまともに購入すると洋銀相場が高騰し支障が出ることから、お倉の仲介で、田中平八に頼んで秘密裡に洋銀を買い集めさせることになった。そのための密会場所として、田中がお倉に店を持たせたという説がある。
 花柳界の三業として待合茶屋、料理屋、芸者置屋とあるが、それはお倉自身が生きてきた世界であり、得意とする生業であった。

4.亀次郎とお倉―浮気な男と大焼餅の女

亀次郎は、大御所家斉(第11代将軍 徳川家斉 在任:1787年‐1837年)の時から江戸城の植木を扱う家の出である。父親は結構な身上持ちであったので、亀次郎は遊び歩き、早くに勘当されている。
 とにかくお倉は「うちの亀さんは」と枕詞のように言っているが、大の焼餅焼であったことは周知のことだった。富貴楼の主人である亀次郎は何度も浮気をして、お倉はその度に怒り狂い悶着を起こす。その代表格に「瓢家」(ひさごや)のおとりの一件がある。
 これは亀次郎が、お倉が可愛がっていたおとりに手を出した浮気の結果である。スッタモンダの挙句お倉は手切れに、おとりに清元の三味線弾きと世帯を持たせたうえ、待合の女将とした。繁盛しないと関係した亀次郎の恥になるといって「瓢家」のお客の世話までしたという。事実、瓢家は新橋を代表する待合になった。この件では、横浜正金銀行の初代頭取となった中村道太が仲裁に入ったと言われている。  

全体お倉は亀次郎のどこに惚れていたのだろうか。お倉は商売柄男を見る目は確かだったはずで、亀次郎以上の男は幾らもいたろうに、と考える。お倉の様な立場の女性には、亀次郎の間夫としての精神的な助けを必要としたのであろうか。亀次郎は元々何もせず女で暮らすような遊び人であったが、富貴楼の基礎が固まった後は帳場に座り細かく帳簿もつけ富貴楼の身代の半ばは亀次郎の力が…、と『都新聞』は亀次郎を持ち上げ、富貴楼繁盛の辻褄を合わせている。
 亀次郎は明治28(1895)年に病没した(年齢不明)、お倉は58歳である。延壽芸談にはその時の富貴楼の資産は2、30万と書かれている。亀次郎が死んで暫くは、お倉は泣き暮らし毎日墓参りをしていたという。

5.多くの有名人の名前が出たお倉の回顧談

『横浜貿易新報』(横貿)(現神奈川新聞)では1909年(明治42年)横浜開港五十年祭に合わせ大きく紙面を割いて、お倉の回顧談を7月1日から3日間連載した。『花柳社会で斯界の女王と崇められた富貴楼の女将お倉』で始まる記事は「お倉老後の大気焔に上れる明治諸豪傑の遊び振り 過去の横浜に栄し富貴楼のパノラマ」と言うインタビュー仕立てで、珍しく「仲の家生」という署名入りの記事である。
 引退後東京・高輪に住んでいた74歳のお倉の話しは面白い。富貴楼での豪傑達の遊びをチョット覗かせるのは中々の趣向で、他紙との差別効果満点の横貿にしか出来ない芸当であった。
 <他の新聞社と違って、貿易新報社さんですから、お話をしましょうが(中略)営業していた時の、種々なことはお客様に関係があってあまり申されませんよ。妾(わたし)の家に居た女共(おんなご)も夫々待合を開いてゐますので、障ってもいけません…>お客様に関係があってあまり申されませんよ、は花柳界の基本姿勢である。お倉は待合の女将として接待する中で多くのお客の弱みを確実に握っていた。話には富貴楼に来た30人を超える政府高官から財界人の名前がずらりと出て来る。
 私はお倉が曲がりなりにも直接話した富貴楼の顧客の記録は、見方を変えると当時の日本を写していると思う。以下はその抜粋である。

①明治4(富貴楼開業)~9年(1871年~1876年)
  御維新のころの横浜の繁盛は非常なもので、それは芸者や幇間の数が多かった事で分かる。儲かったのは甲州、信州、上州の生糸商人であった。富貴楼もそれで追々芽が出たのである。どう云うものか東京の紳士方は横浜で遊んだが、その理由としては外国人との関係であろう。伊藤博文、山県有朋、西郷隆盛は明治7年の佐賀戦争後遊びに来るようになった。もっとも県令の陸奥宗光、横浜税関長の星亨などはその前から遊びに来た。薩摩の五代友厚、土州では岩崎弥太郎、川田小一郎なども見えた。大久保利通は贔屓の妓がいたが、木戸孝充は芸妓は京都に限ると言っていた。

②明治10~19年(1877年~1886年)
お倉が憶えているところでは、東京の紳士方が盛んに横浜で遊んだのは西南戦争後から明治16、7年まであった。明治10年の西南戦争で陸海軍の出発や凱旋で横浜は兵隊で埋まり、金は降るように落ちた。 物価は高騰し舶来品は面白いように売れ、銀相場もあって、芸者などは忙しすぎて、ご祝儀を見てもありがたいとは思わなかった位であった。  三菱の威勢は豪気なもので、陸軍と三菱は大抵富貴楼で宴会をした。明治12、3年頃は早矢仕有的、渋沢栄一はたびたび来た。中村道太なども非常に全盛だった。とにかく豪奢をしたのは岩崎弥太郎であって、この人は特別であった。横浜の商人が外国人に抗議した聯合生糸荷扱所(れんごうきいとにあずかりしょ)の騒ぎ>(お倉が語る事件の内容は下の7①に掲載)は大変で、亀善(原善三郎)は徳の高い人望のあった大将株で、横浜商人たちは富貴楼で気勢を上げた。三菱汽船会社と共同運輸会社の争いで、三菱は富貴楼が共同側の陣所であると大層ご立腹、とある。>(お倉が語る事件の内容は下の7②に掲載)

③明治20~29年(1887年~1896年)
お倉は富貴楼だけでなく横浜の花柳界の全盛は日清戦争前後(明治27、8年)までとはっきりと言っている。これは日本が国家三権を確立した時代に入った事を示している。

生糸商人・外国商館・西南戦争・横浜正金銀行・明治十四年の政変・商権回復運動・日本郵船会社・日清戦争等の動きが、横浜の富貴楼に如実に反映していると私は思う。明治22(1889)年に大日本国憲法発布、東海道本線全線開通となった。明治23(1890)年に国会が開催した。日清戦争が終わると好景気となり、政府の高官、国会議員、各省の役人達は手近な新橋や赤坂の待合を多く使うようになる。相対的に横浜の花柳界が後退したと考えられる。富貴楼の役割は、お倉が育てた多くの女たちも活躍する東京での待合政治に引き継がれていった。

晩年のお倉
晩年のお倉、髪を総髪にして、
身だしなみは良かった。

6.お倉に会った人たちが語るお倉の姿

浅草にいた娘時代には、「江戸の一枚絵」にも描かれるような姿の良い美人であったようだが、残念ながらお倉の写真は晩年のものしかない。富貴楼の建物の写真もない。だが、彼女を実際に見知った者の感想が残されている。

「小児であった私は妙なことを憶えている。この大江橋を渡ると尾上町、その尾上町から右に入ったあたりに、富貴楼と言う料理屋があった。」で始まる小泉信三の『私の横浜時代』は子供の頃見たお倉の印象が書かれている。「横浜の女傑と称され、昔話にも名の出て来る富貴楼お倉が其の女主人である。お倉は、私の家にもよく来たので、私はその顔を憶えている。色が白く大柄で舞台効果のある顔、姿であった。その頃四十代であったろう。むろん六、七歳の私の目にはお婆さんに見えたが、人々は美しい女だといっていた。私が特にその人を憶えているのは、当時の名物女として人々がその噂をしていたからであろう。」(「小泉信三全集17巻 私の横浜時代」文芸春秋 1968年 小泉信三は経済学者(1888-1966)。横浜に数え年で4歳から8歳までいた。父の信吉が日本銀行から正金銀行に出向し副支配人となったためである。)(お倉の身長は160㎝位と言われている)
 少年の思い出として書かれているが、子供が女性の美醜を云うのは多分母親の受け売りに違いない。 名物女お倉は夜の商売の顔とは違った、素人の奥様にも極自然に美しいと思わせる人でもあったらしい。
 「四十代であったろう。お婆さんとして見えた。」は半分正しく、半分間違っている。竹越与三郎という国会議員等をした人が『読画楼随筆』という本に明治27(1894)年に会ったお倉の印象を書いている。既に50歳を超えている事、若い頃は定めて美人であったろう事が書かれている。明治27年は丁度小泉が見たという時と同じ頃で、鳥居民も50歳であったと竹越の方を正しいとしている。しかし実際は3人とも間違っていて、お倉は正しくは57歳であった。現代の事ではない。その当時の57歳は完全にお婆さんである。

『延壽芸談』には、お倉の様子が次のようなエピソードで語られている。
 富貴楼に伊藤博文が来ることになって万遺漏のないように準備をしていたのであるが、初春のことで朝からの雪が相当に積もった頃に伊藤が到着した。この時、お倉は三枚重ねの紋服で裾を引いた儘、雪の中をズーッと門のところまで行って迎えたと書かれている。歌舞伎などの舞台ではこの様に演ずるが、実際は雪掻きをしないはずはないし或いは雪掻きのあとに薄く雪が積もったのかもしれない。しかし延壽太夫は「このようなことはその頃でもちょっと他の人には真似が出来ません。」と言っているから、真偽は兎も角、芝居がかった事ができる人でもあったのだろう。

7.お倉の話に出てくる横浜の大事件

(前述のお倉の回顧談から)
お倉は、原善三郎と岩崎弥太郎の二人について他のお客と違った感想を言っている。

①原善三郎-聯合生糸荷預所問題
 横浜の豪商連につき何か面白い話は、の記者の問いに答えて、<そりゃ話は色々ありますが、新聞に書かれると困りますから、御免を蒙りましょう、只横浜の商人さん方で、外国人に抗敵したことは、妾(わたし)も覚えて居ります、確か14年の頃でした。生糸聯合荷預所というのが出来まして妾の富貴楼や佐野茂(幕末の横浜で最初に出来た大料亭)に、渋沢喜作さん原善三郎さん、その外に茂木惣兵衛さん、馬越恭平さん、朝吹英二さんとか浜で歴々のお方が毎日の様に集会して外国人との生糸取引を中止したのでしたが、その時の騒ぎは非常なもので、各地の荷主も続々と横浜に押し寄せて来る、仲裁が入る是が即ち商戦とでも申しましょう、その時の大将株は、亀善(=原善三郎)さんでした、なかなか仲裁をお聞き入れありません、東京からは福地(源一郎)さんや藤田茂吉さんも来て、大いに応援したように記憶しますが、ついに仲裁ができて、外国人も腰を折ったそうで、愈々内外人の大懇親会となって、その夜は富貴楼で徹夜の宴がございました。善三郎さんは徳の高い人望のあった商人の大将株でしたよ、茂木さんはきれいな良い方でした。…>と、かなり詳しく語っている。
 聯合生糸荷預所問題は、原善三郎を中心に横浜の生糸売込商と地方生糸荷主業者が外国貿易商を相手に戦った事件。日本側も、売込商と荷主の立場の違いから事件も起きた。原と茂木は横浜第二国立銀行、渋沢喜作は従兄弟の栄一の第一国立銀行、馬越は三井銀行を代表し、朝吹は三菱を代表した。しかし<外人も腰を折ったそうで>は、事実であったか。結局荷預所は出来ず、この時の商権回復は失敗で終わっている。原自身も「余輩は曾て理論を以て実際を律せんとする迷謬(めいびゅう。迷いと誤り)を抱き、明治14年に於いて商権回復を企て、大いに敗北したりき。」と結論付けた。亀善が大将株であったにしろ、徳の高い人望のあった人であったにしても、ここでは何か場違いの言葉である。さすがのお倉も彼の水泡に帰した努力を称える言葉に窮したのだろうか。
 瓦斯(ガス)局事件及び歩合金事件(両事件の概要は右欄、または最下方を参照)で生糸貿易商人は県に対して人民の権利と主体性を通すことに成功した。その延長上に「外商」と呼ばれた外国生糸貿易商人との不平等な関係を解消するために「聯合生糸荷預所」の計画をし、居留地貿易の実体を明らかにして地方荷主達の支援を集めた。結局、商権回復運動は成功しなかった。日本政府にとっても不平等条約の改正は生糸貿易だけの問題ではなかった。

②岩崎弥太郎-日本郵船
 西南戦争に際しての出征や凱旋で<横浜は兵隊を以て埋まった位で、金は降るように落ちました。三菱の威勢と云うものは豪儀なもので、陸軍のお方と三菱は、大概富貴楼でしたよ。…東京の紳士さんが、盛んに横浜で遊んだ頃は西南戦争後から、明治十六七年迄の間でした。兎に角豪奢をなさったのは岩崎弥太郎さんでした。此の人は別ですよ、薩長の貴顕紳士と少しも譲る所がなく、傲然と遊んだので…>と語っている。
 ワンマンの岩崎が、政府に対して一歩も引かない仕事と遊びの凄さは東京でも横浜でも群を抜いていた。豪奢という言葉は岩崎にしか使っていない。お倉は本当に商売抜きで、権力に媚びない岩崎の生き方を“別”としたと思う。
 <三菱と共同運輸会社の争いで、京浜の豪商、官吏の方も富貴楼にお出でになりましたが、三菱は、富貴楼は共同の陣所であると、たいそうご立腹でした、尤も程なく和解になったのですが、…>
 郵便汽船三菱会社の主要航路は内外他社との競争の末の独占であるが、それに対する不満は明治十四年の政変で大隈重信の下野後に表面化し、翌15年井上馨は政府40%三井等の民間60%で共同運輸会社を設立させた。猛烈な運賃ダンピングが行われたことは有名であり、横浜は最も過激な戦場となった。当時の読者はこの<共同の陣所とご立腹>の意味がすぐ分かったのだろうか。富貴楼が共同運輸や三井等の本丸であったとは思えないから、多分岩崎亡き後の三菱がお倉にサービスが悪いと八つ当たりしたのではなかろうか。三井三菱が競って催した京浜の豪商や官吏相手の宴会は、富貴楼にとっては商売であって、お客は敵でも味方でも無く、勝ち負けも関係ないのである。お倉の<和解になった>は日本郵船への合併を指すと思うが、実際は和解どころか、共倒れになりかねない末の政府による無理やりの合併であった。横浜聯合生糸荷預所の話しに比べてこの合併の話が極端に短いのは、お倉などが知る事が出来ない政治的決着であったからだろう。

ところで、聯合生糸荷預所、日本郵船の二つの出来事に渋沢栄一、益田孝(三井物産)が深く関わっている事は知られた事であった、そしてこの二人と、伊藤博文と若い時からのコンビである井上馨(共同運輸をつくった)の関係も切り離すことが出来ない明白な事実である。お倉は渋沢が横浜に来れば富貴楼に立ち寄った事と、特に商法会議所、正金銀行の関係であろう早矢仕有的等と一緒に明治12、3年頃に来たと言っているが、お倉と親しい筈の井上や益田の名前は何処にも出て来ない。個人の回想は、どうしても自分に都合が良い主観的な内容になりがちであるとは言え、そこにどんな理由があったのか大きな疑問が残る。

8.高島嘉右衛門の高島旅館と富貴楼

初期の横浜のインフラ事業に大きな足跡を残した横浜の偉人・高島嘉右衛門とお倉は会ったことがあるだろうか?二人に接点があるとすれば、旅館営業であろうか。嘉右衛門の旅館営業の期間は不明であるが比較的に短期間だったようで、旅館の閉店は埋立事業に連動していると思う。
 『呑象 高島嘉右衛門翁伝』(上村澄三郎 大正3年)に、<要路の人々を初め有識有力なる人士の定宿とし、以て之に接近するの道を講ずべし>と一大旅館を造り、雇人には旧幕府の茶坊主か小藩の留守居役等交際に習熟した者を採用して、給仕女もそれに類したものを選んだので、上は皇族から大臣参議等が門前市を成したと書かれている。加えて料理が売り物であったとしてある。一方、富貴楼の宴会の雰囲気は横貿のお倉自身の言葉で語った記録で良く分る。それは江戸時代から続く、芸者達による“お茶屋のもてなし”そのものであった。富貴楼は他の大手の料理屋と同じで旅館も兼ねていた。『横浜市史稿 風俗編』には、富貴楼の項目があって全体を詳しく説明している。しかし、「高島屋」について之に類した記録はない。
 詳しく調べてみると、高島旅館のあった場所(当時の表記で)「尾上町五丁目七拾八番地」と、富貴楼の住所「尾上町五丁目八十番地」は、つまり富貴楼と高島屋は隣同士で並んでいたとわかり、驚いた。
 私は、時期的に見て、お倉は嘉右衛門から土地を買って富貴楼を建てたと思っている。

9. お倉の話の中に出てこない三井とお倉の関係

お倉の関係図

明治6(1873)年、三井組は三井国産方を創り、井上馨は益田孝と「先収会社」を組織していた。明治7年井上の政界復帰で先収会社は三井国産方と合併して明治9年に「三井物産」となった。
 『延壽芸談』によると、当時の三井物産は日本から外国へ輸出する材料が少なく、横浜は生糸や茶を外国へ売り込み、東京は印刷局の製紙をアメリカへ送ったり、三池炭鉱の石炭をジャーデンマデソン会社へ売り込んだりしてどうやらその日その日を過ごしていた。

三井物産横浜店では、木綿の着物に角帯、前垂れ掛けと言う姿で外国人に外国語で応対した。会社には番頭、手代、小僧の三段階があって、番頭になれば洋服も着て馬車にも乗れる。手代は仕着せで満足しなくてはならない。東京でも横浜でも、馬車に乗っているのは大臣参議と商人である。支店は横浜、大阪、長崎、上海、香港、巴里、倫敦にあったようだ。横浜支店は馬越恭平の直轄で、その下に生糸掛りの番頭、茶方、輸出入掛り、勘定方がおり、他に手代、手代見習、小僧、賄方等合計二十人くらいの男所帯。番頭格だけが家族持ちで、他はみんな店の二階に枕を並べて寝ていた。
 お倉の夫亀次郎の弟(吉之助、早くに亡くなった)の長男・庄吉は、常に富貴楼に伊藤博文と来ていた井上馨に、三井物産が出来たのだから入社しろと言われて15歳で小僧になった。手代になってから三井物産を退職し、明治23(1890)年清元宗家(清元四世延壽太夫)の養子になり、岡本庄吉となった。お倉は庄吉の退職には不承知だったものの、井上に取り成して貰い、この件を収めた。庄吉は、明治27(1894)年五世家元延寿太夫を襲名、不世出の名人といわれ、弟子の芸者は全国に大勢いた。馬越は後年東洋のビール王と云われるまでになり、延壽太夫の有力なパトロンとなった。
 亀次郎の弟の次男・兼次郎が富貴楼の跡継となった。三男・秀作は三歳で五代目尾上菊五郎の養子となり、尾上菊之助となった。「残菊物語」のモデルで早世した。(以上、系図を参照)
 お倉自身には実子がいなかったことから、次世代は夫・亀次郎の血筋であったが、お倉のまわりには育てた養女たち、そしてお倉から巣立った多くの待合の女将や芸者たちがいた。それにしても、亀次郎が女が放っておかないような“名代の色男”だったことは、甥が清元家元や歌舞伎役者になったことを考えても、想像がつく。当時は、歌舞伎茶屋と歌舞伎役者と芸者は三位一体の関係であったというから、茶屋と芸の世界は切っても切れない関係であり、そこにパトロンとなって強力に支援する政財界の重鎮が深く絡んでいたことも待合政治の特徴と言えるかもしれない。

10.  要人の別荘地・大磯-お倉の別荘もあった

神奈川県大磯町には8人の総理大臣の別荘があった。大磯に明治18(1885)年陸軍初代軍医総監松本順の衛生思想による海水浴場開設が提案され、続いて明治20年に東海道線が横浜から国府津駅まで延長されることとなった。当初、停車場は戸塚、藤沢、平塚が予定された。加えて大磯駅誘致を推進した。海水浴場と鉄道の駅は大磯にとって車の両輪で、明治27年には海水浴客数は五万人になった。松本の言う海水浴は水泳に限らず、杭につかまり皮膚に強く海水を当てる、浜で甲羅干しをする等の医療の一種であった。
 新しく海水温浴旅館「招仙閣」(伊藤博文の気に入りの旅館)等もできた。海水浴のための茶屋はたちまち料理屋に変わった。その後、田畑山林を別荘地として提供し開発が始まった。当時の大磯の夏の賑わいはまるで東京の街と同じであったようだ。明治22年発行の『大磯名勝誌』には、「貴顕紳士の別荘」として山縣有朋、松本順など政財界人21人名前が書かれているが、その中に横浜商人として只一人、吉田健三がいる。この吉田健三(当時35歳)こそ、明治17(1884)年に大磯で最初の別荘を建てた人物と言われている。彼は第二次大戦後の日本を立て直した名宰相の吉田茂の養父である。健三から受け継いだ大磯の邸宅が吉田茂の住居だったことから、明治時代とは違った昭和の要人たちの大磯詣があったことは興味深い。ここは「旧吉田茂邸」として大磯に再建されている。
 明治25年に横浜富貴楼のお倉が別荘を建てた。29年には伊藤博文が小田原の別邸「滄浪閣」を大磯に移した。
 お倉は伊藤の大磯別荘の計画を知って、その付近に自分も別荘を持つことにしたのである。お倉が京浜の花柳界に影響力を保ち続けることが出来たのは間違いなく伊藤の存在である。同時に花柳界の女帝と云われたお倉が大磯にいるのであるから、滄浪閣を初めとする別荘での宴席には東西の芸者衆が引きも切らなかったのである。伊藤博文は明治の前半は東京でさしさわりのある話は横浜の富貴楼を使った様に言われたが、晩年は大磯の滄浪閣で重要な会議もしたであろう。

11. お倉の最期

明治28(1895)年、亀次郎没後、お倉は富貴楼を亀次郎の甥の兼次郎に譲った。しかし、3年後に兼次郎は亡くなり、富貴楼は明治31(1898)年に廃業した。お倉61歳である。その後、横浜日の出町(野毛山とも)に住んでいたが、東京高輪に移り(70歳)、明治43(1910)年大磯の招仙閣で避暑中に発病して9月11日に75歳(満73歳)で死去。「伊藤博文が愛用していた寝台の上で息を引き取った、」と各紙が伝えた。葬儀は、明治43年9月14日東京の増上寺で盛大に行われた。高輪の家から寺まで行列は三町の長さになり、式場には大隈伯爵、桂侯爵、岩崎男爵(代理)等と共に益田孝等の朝野の名士200余名が参列し、梨園・花柳界の者達で溢れた。
 天保生まれのお倉は人生の前半を江戸時代、後半を明治時代に送った一人であるお倉、亀次郎の墓は横浜市西区赤門町「東福寺」にある。

おわりに

“待合政治”は過去のことだろうか。今でも、高級料亭や高級クラブはある。男と女で人間社会ができている以上、根本はさほど変わらないのではないだろうか。しかし、富貴楼のような存在は、もう出てこないだろう。総理大臣が女たちを侍らし入り浸っている定宿などあれば、世間が許さない時代になったからだ。
 私はお倉について、江戸の一枚絵にも描かれたような美人であったから「富貴楼のお倉」になれたのではないと思う。村松梢風が書いた「富貴楼お倉」(湊書房 1951年)には、次のようなくだりがある。「花柳界や役者仲間の悶着ばかりでなく、何か事件が起きて官辺へ運動するような場合にお倉に頼むと誰に頼むより早く解決した。…お倉は遊びに来るお客の人物をよく見抜く才覚があったから、人から何を頼まれても直ぐにそれぞれのつるをつかむことができた。そういうことが私欲のためではなく、多くは情誼とか義侠心とかから発するのだから人から感謝されても、憎まれることは滅多になかった。
 「横浜の名物女お倉」という人は自分の強みと弱みを平気でさらけ出して伸し歩いた女性であった。その気性が明治の元勲を始めとする多くの人たちに愛されたのだろうし、明治維新期の時代の波に乗れ、運も良かったのかもしれない。

関連年表1
関連年表2

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