お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。
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横浜が開港して3年、外国人居留地から遊びに出かけたイギリス人たちが大名行列と行き会い、馬から降りずに行列に入り込んだため、武士に無礼打ちで殺傷された事件、この生麦事件は教科書に出てくるから、大抵の人は知っているでしょう。ここでは一歩進んで、事件の時代背景、事件勃発、その後の影響が徳川幕府による支配体制を揺るがしていく過程も見られます。
〽ずいずいずっころばし、ごまみそずい、チャツボに追われてとっぴんしゃん、ぬけたーらどんどこショ…〽 この誰もが知る面白い歌は、お茶壷(江戸の将軍家へ献上する京都の宇治茶)を大名に見立てて、豪華な駕籠に乗せて、「下に~、下に~」と東海道を下って行く お茶壷道中のことだという説がある。行列が通り過ぎる間、沿道の人々はひれ伏していなければならない。万一、子供が遊びに夢中で行列に入ってしまったりしたら、「無礼者!」と切り捨てられても仕方がない。だから、戸をピタッとしめて、家の中でじっと行列が過ぎるのを待っていた・・・。古文書には、お茶壷道中の役人たちが権威を笠に、横暴な振る舞いをした記録が多く残されている。それが身分制度が厳しい封建制度下の江戸時代の一面である。当時は、 武士以外の者の乗馬は禁じられていた 。馬車をつくることも許されなかった。
幕府は外国からの脅威に対抗するため、1回目のペリー来航の年、1853(嘉永6)年に 大名の大船建造の禁止を解除し、海防にあたらせた。これにより、有力各藩も西洋型船を導入した海軍の所有を進めるようになった。
安政5(1858)年日米修好通商条約が調印され、翌年横浜が開港 された。大老 井伊直弼は勅許を得ぬまま、通商条約を結んだため、 尊王攘夷(君主/天皇を尊び、外敵を斥ける。略:尊攘)運動が高まっていた。安政7年3月3日(1860年3月24日)、直弼が尊攘志士により 桜田門外で暗殺され、幕府の権威は失墜、尊攘派の浪士による外国人殺傷事件*が起きる事態となっていた。打開策として、 公武合体策(これからは朝廷と幕府が協力して政治を行う)を打ち出し、文久2年2月11日(1862年3月11日)、 孝明天皇の妹和宮(かずのみや)が将軍徳川家茂(いえもち)に降嫁された。が依然、尊攘派の不満は大きかった。
*外国人殺傷事件は1857~1868年間、生麦事件以外にも20数件起きている。
この頃、過激な尊攘志士たちが京都に結集しており、公家社会に不安が高まっていた。雄藩である 薩摩藩の12代藩主島津忠義の父 島津久光は、望ましい公武合体には、朝廷と幕府双方の改革、人事の刷新が不可欠であると考えていた。文久2(1862)年3月、久光は藩兵千余を率いて上京し、4月16日朝幕改革の意見書を朝廷に提出した。不穏な情勢のなか公家たちは久光の力を頼みにしていた。同日、 浪士鎮無の勅令が久光に下された。
数日後、九条関白襲撃を計画していた薩摩藩誠忠組急進派が上意討ちされるという 寺田屋事件*が起きた。京都政局において久光の存在感は高まり、遂に、幕政改革のため大原重徳を勅使として派遣することが決定し、久光が随行することになった。
*文久2年4月23日(1862年5月21日)旅館・寺田屋において、薩摩藩の事実上の指導者・島津久光が 同藩の過激な尊攘派を排除(上意討ち)した事件
久光は勅使大原を警護しながら江戸へ下り、幕府に攘夷の決行や幕政改革の勅令を伝えて、一橋慶喜の将軍後見役、松平春嶽の政事総裁職を認めさせた。この改革の中には、 参勤交代の緩和も含まれた。これは幕府確立以来の根本制度の変革であり、幕府権力のさらなる低下を意味していた。
久光は大役を果たし、文久2年8月21日(1862年9月14日)、藩士400余名を従えて、京への帰途、 生麦村へと差掛った。
(以下、文中「イギリス」、「英国」、「英」の3種類の表記があるが同じ国である。)
同じ頃、 4人のイギリス人が、遠乗りで川崎大師へ出かけようと、神奈川宿の方から生麦村に差掛っていた。横浜の生糸商人ウィリアム・マーシャルは、香港から遊びに来ていた義理の妹マーガレット・ボロデールを連れて、居留民に人気の川崎大師まで出かけることにした。マーシャルは友人でハード商会勤務のウッドソープ・クラークを誘った。クラークは、上海からの友人チャールズ・リチャードソンを誘った。リチャードソンは観光で日本に来ていた。その日は、 欧米人にとっては休日である日曜日だった。ちなみに日本人の休みといえば盆と正月だった。
当時、生麦は川崎宿と神奈川宿の中間にある立場(たてば:幕府公認の休憩所)で、生麦松原と呼ばれた、海岸に沿った道もあり、景色もよく絶好の休憩所だった。海岸沿いからは横浜が一望できるため、停泊している異国船見物で大いににぎわった。また 御菜八カ浦(徳川将軍家のために江戸城に海産物を献上していた漁村)のひとつ生麦浦があり、漁業を生業とする家が60軒あった。
4人は居留地から船で神奈川に渡り、あらかじめさし回していた馬に乗り川崎大師を目指した。午後2時過ぎ、生麦に差し掛かかって、久光の行列と行き会うこととなる。
4人は行列の中を何の妨害も受けずに、騎乗のまま街道の脇を並足で進んでいく。やがて、久光の駕籠を警護する数十名の武士からなる行列の本体に出会った。突然大男が先行していた2人(リチャードソンとボロデール夫人)を大きく制止したので、2人は神奈川方面へ向きを変えようとした。しかし、馬が驚いたのか、期せずしてリチャードソンは久光の駕籠に近づいてしまう。次の瞬間、その侍がリチャードソンに切りつけてきた。これを合図に、大勢の侍が4人を包囲して切りかかった。リチャードソンは、逃げる途中に若い侍にさらに切りつけられた。
リチャードソンは途中で臓腑を落とすほどの深傷を負いながらも、700m程神奈川方面へ走り、落馬して瀕死の状態になっていたところ、追いかけて来た数人の藩士に畑の中へ引きこまれ、そのなかの1人に「武士の情け!」と、とどめを刺され息絶えた。見ていた村人が、気の毒に思い遺体に葦簀(よしず)をかけたという。(トップ画像を参照)
マーシャルとクラークは重傷を負いながらも、アメリカ領事館となっていた神奈川の本覚寺に逃げ込んだ。そこで施療所(宗興寺)を開設していたヘボン博士の治療を受け、一命を取り留めた。ボロデール夫人は髪の毛を切られただけで、そのまま馬で走って横浜居留地までたどり着き、事件の報告をしたが、血を浴び、恐ろしく取り乱した様子であった。
彼女の報告を聞いて、居留民たちは生麦へ馬を飛ばした。イギリスとフランスの合同捜索隊がリチャードソンの遺体を発見、遺体は神奈川から船で居留地に送られ、W.G. アスピノ―ル(イギリス系商社アスピノール、コーンズ商会)の家に安置された。同夜遅く、英公使館付医官ウィリアム・ウィリス*による検視が行われ、その結果、10か所以上の傷が見つかり、どれも致命傷だったとの診断だった。
*ウィリスは後に、戊辰戦争での傷病兵の治療が認められ、その後鹿児島医学校校長、病院長を務めるなど、日本の医療に貢献した。ウィリスについては、当サイト「歴史すぽっと」の「ウィリアム・ウィリス―幕末・明治に多くの日本人を治療した英国人医師 」Part 1および Part 2」に掲載している。
一方、久光の一行は、予定を変更して、神奈川宿を通過し保土ヶ谷宿に直行した。これは薩摩藩の重職にあった小松帯刀(たてわき)の判断とのことで、神奈川奉行所がしばらくとどまるように要請したが、一行は翌日には保土ヶ谷宿を出発している。幕府はこの事件について、三田の薩摩藩邸から、「この犯行は、足軽、岡野新助の仕業で行方知れず」との報告を受けた。しかし、岡野新助なる者は実在しない。
チャールズ・レノックス・リチャードソン (Charles Lenox Richardson:1833-1862)上海で仕事をしていたイギリス商人。1833年4月16日ロンドンに生まれる。20才の時に上海へ渡り、主に生糸取引と不動産業に携わる。貯えもでき、上海の仕事をたたみ帰国することを決意、1862年7月、帰国前に念願の来日をし、上海に戻ったのち帰国の予定だった。
リチャードソンの自筆書簡が80通存在し、そのうち日本に関するものが30通である。父親宛て日本からの最後の手紙には日本の感想が述べられている。「日本はイングランド以外の場所で私が訪れた最高の場所です。山や海の景色は抜群です。」「江戸の官庁街ともいえる界隈はどの西洋列強にも引けを取らないでしょう。」その言葉からは日本への愛着が感じられる。遊歩地域外の江戸にも行っていたとは驚きである。また、「これからしばらくは手紙が送れないと思うので、手紙が届かなくても心配しないように」と父親を気遣う親思いの息子のように思える。
一方では、「上海で雇っていた苦力(クーリー)に何の理由もないのに極めて残虐な暴行を加えた科(とが)で、重い罰金刑を科された」という北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルース(エルギン卿の弟)の話も伝わっている。人間は二面性があるのでどちらもリチャードソンであるかもしれない。
ウィリアム・マーシャル(William Marshall:1827-1873)横浜の生糸商人、事件後、外国人商工会議所の会頭になった。1972(明治5)年の鉄道開業式に際して、居留民代表として、明治天皇の前で祝辞を述べた。翌年急死する。
マーシャルは居留地58番地から山手に引っ越した。山手の家は「ウインザー・キャッスル」と名付けられた。夫人は社交界の女王であり、親切なもてなしで有名で、横浜の住人、訪問者、外交官、陸・海軍将校などあらゆる人々が集まった。
ウッドソープ・チャールズ・クラーク(Woodthorpe Charles Clarke:1834-1867)横浜のハード商会勤務、リチャードソンと上海で交友があった。切られた傷がもとで生涯左腕が上がらなかった。
マーガレット・ワトソン・ボロデール (Margaret Watson Borradaile:1834-1870)香港在住イギリス商人の妻、マーシャルの義妹。帰国後も、事件のトラウマで神経症を病み、8年後難産と神経症のため死去。
生麦事件で生き残った被害者たちには事件の後遺症は多大で、いずれも短命であった。ボロデール夫人以外の3人は横浜外国人墓地に眠っている。
当サイトのアーカイブページに収録している「生麦事件をもっと知りたい?!それなら『生麦事件参考館』へ行こう!」の最終パラグラフ「親戚でもないけど、生麦事件犠牲者のお墓を新設」で、3人のお墓について詳しく書かれている。
奈良原喜左衛門 天保2(1831)年‐慶応元(1865)年
リチャードソンを最初に切りつけた薩摩藩士、供頭(ともがしら)を勤めていた。剣の達人であった。京に戻って3年後薩摩藩邸にて35才で病死。弟の繁(1834-1918)が実行犯との説もある。繁は藩の実力者だったため、喜左衛門が身代わりになったからという。繁は長寿を全うし、日本鉄道の社長、沖縄県知事を歴任し、爵位も得ている。また、一説には、事件の大きさ故に、喜左衛門は密かに切腹させられたとも言われている。
海江田武次、信義(有村俊斎) 天保3(1832) 年-明治39(1906) 年
薩摩藩士、瀕死のリチャードソンにとどめを刺した。後に、奈良県知事、爵位を得る。長女は東郷平八郎に嫁ぎ、妹は東郷平八郎の兄の妻となる。
久木村治休 天保14(1843) 年-昭和12(1937) 年
鉄砲組の薩摩藩士、当時20歳。リチャードソンに二太刀目を浴びせた。事件50年後の明治45(1912)年、戊辰戦争、西南戦争、日清・日露戦争に従軍した久木村は鹿児島新聞の記者に「50年前鹿児島湾の激戦」の取材を受け、生麦事件のことを語り、同年7月同紙に連載された。また隼人郷土読本にも久木村の生々しい談話が載っているという。さらに事件の74年後、昭和11 (1936)年(翌年死亡)、死を前にして、94才の久木村が語り、雑誌「話」に掲載された。(この全文は当サイト「歴史すぽっと『生麦事件で夷人を斬殺した私 久木村治休述』」に掲載)計3回も公に述べていることから、当時の真相を世に知らせたくてたまらなかったに違いない。薩摩藩は架空の人物を犯人にでっち上げていたため、事件後は厳しく箝口令がしかれていた。しかし、藩はすでになく50年以上を経て時効と考えたのだろう。
事件発生当日、居留地(現在の横浜市山下町)は異常な興奮につつまれていた。夜10時から居留民会は開かれ、保土ヶ谷に宿泊している久光一行を追撃して、久光或いは数名の主だった家臣を逮捕すべきとの強硬論が多数を占めた。翌朝開かれた会合では、英国代理公使ジョン・ニール中佐(英国公使R.オールコックは賜暇で帰国中)は、この強硬策を実行すれば、日本と開戦するに等しい結果になるであろう、そのような手段は容認できないと反対した。
本国の回答を得るまでの数か月ニールはまわりから“臆病者”と非難された。結果的には英国政府はニールの処置を認め、ニールの命令に背いて、騎馬護衛隊をひきいて生麦に急行した横浜領事ハワード・ヴァイスは、函館領事へ左遷された。
事件後、ニールの要請を受けて、幕府は東海道の安全対策として、遊歩区域内の保土ヶ谷から川崎まで、宿場を除いた東海道に、約5町(545m)毎に番所をもうけると約した。賠償金に関しては、本国からの訓令を待って交渉することを伝えた。
文久3年1月15日(1863年3月4日)やっと訓令(1862年12月24日付け)が届いた。当時、日本とヨーロッパ間の郵便は船で送られ、片道約2か月かかるので、事件発生後、本国のラッセル外相から訓令が届くまでは6か月近くもかかった。
イギリスは軍艦12隻を横浜に入港させて、武力を背景に交渉を開始した。2月19日(4月6日)、ニールは幕府に対して、謝罪と10万ポンド(40万ドル)の賠償金の支払い、薩摩藩に対して、賠償金2万5千ポンド(10万ドル)の支払いと犯人の裁判後の処刑を要求した。
一方、将軍家茂は、朝廷から和宮降嫁の条件である攘夷実行を迫られていた。遂に、文久3年5月10日(1863年6月25日)を攘夷実行日と約した。しかし、攘夷実行とはいっても、列強の圧倒的な軍事力を知る幕府は武力衝突を回避しようとして、開いた港を閉じる鎖港をもって、攘夷実行とする方針だった。
英国艦隊が横浜港に集結すると、戦争が起こるやもしれないという恐怖で、横浜中が極度の緊張と混乱に陥っていた。多くの住民は家財道具を保土ヶ谷や戸塚などの内陸部へ避難させ、横浜を離れた。居留民の召使や調理人、生活必需品を仲介する商人なども逃げ去った。英国駐日公使館の通訳生として横浜に着任したばかりのアーネスト・サトウの使用人も、給料の前借りをして、拳銃、短刀、スプーン、フォークなどをさらって逃亡してしまったというから、その混乱ぶりがうかがえる。横浜だけでなく、江戸や三浦からも避難する人々がいたという。
生麦村で名主をつとめた関口家の当主が書いた日記にも当時の様子が見て取れる。「3月17日村役人が神奈川奉行所に呼び出されて、イギリスとの応接次第では戦争になるかもしれないので、老人、女、子供、大切な品々を避難させるように言い渡された。翌日、息子、翌々日、祖母と母を内陸部へ避難させた。」と記されている。戻ってきたのは夫々4月11日12日であった。英代理公使ニールと仏公使ド・ベルクールに要求されて、神奈川奉行所が日本人の横浜帰還を促す布告を出したこともあって、住民は次第に横浜に戻ってきた。
賠償金を請求された時、将軍家茂は、家光以来229年ぶりの上洛中で、政事総裁職松平慶永、将軍後見役一橋慶喜も京都にあったので、これを表向きの理由として、幕府は回答を再三延期した。攘夷派の目があり、払いたくても払える状況になかった。ニールは、ド・ベルクールと協議をして、幕府に攘夷派大名の妨害を封じるための軍事援助を提案したが、幕府は提案に感謝を伝えたうえで、これを受け入れれば内戦の恐れありと断ったという。
私が意外に感じたのは、イギリス側のニールができれば強硬手段を避けたかったという事だ。彼は英国の海軍力(国力)を日本に示したいのではと思ったのだが、この件では陸軍は不参加であり、当地において艦船も兵力も不足している現況では強硬手段は得策ではなかったのだろう。
しかし、ラッセル外相は訓令で、幕府が支払いを拒否した場合、「キューパー提督に要請し、目的を達成するのに最も適当と思われる手段、例えば、船舶の捕獲、ないし海上封鎖、あるいはその両方を実施すべき。」と指示している。ニールはこの内容の深刻さにたじろいだという。横浜港で強硬手段が行われると、居留民の安全を確保しながら、幕府と事を構えなければならないので、それはニールにとって頭が痛いことだったに違いない。
交渉を重ねて、賠償金の分割払いに応じたニールであったが、5月3日、最初の分割金の支払日当日、幕府から支払い停止の知らせを受け、激怒し、幕府とのいかなる交渉も拒絶した。それでもキューパーに強硬手段を含めた事態の解決を一任したのは2日後の5月5日だった。だが、彼は強硬手段の実施と居留民の保護と同時に行うことはできないと主張。事実その後キューパーがとった具体的措置は3日後の5月8日(6月23日)にいたって、パール号と砲艦ハボック号の2隻を江戸湾に送り、幕府所属の汽船の動向を監視させることだけにとどまっている。
幕府はニールに会うことを拒絶され、フランス公使に調停を頼んだが失敗に終わり、イギリスの要求に応じる道しかないことを悟った。5月9日(6月24日)、幕府は5月10日の三港(横浜、函館、長崎)鎖港の通知と共に、第二次東禅寺事件の賠償金1万ポンドを含めて賠償金を全額支払った。これは老中小笠原長行の独断であったとも、慶喜の黙契があったとも言われている。
5月9日(6月24日)午前5時から2千ドル入りの箱(230箱)が続々と公使館へ届き始めた。貨幣が本物かどうか検査するシナ人の貨幣鑑定人が集められたが、この検査には3日間かかったという。これらの銀貨入りの箱は艦隊の甲板へ運び込まれた。ここに、請求から実に80日を要して賠償金(註)は支払われた。
横浜の外国軍による居留地防衛については、賠償金支払い前から神奈川奉行所とフランス側の接触で取り上げられていたが、幕府としては異国の軍隊が駐留するなど受け入れがたかった。しかし、もはや尊攘派の武士たちを抑え、居留地の外国人たちを守る力はなかった。賠償金支払い後に老中から横浜居留地防衛の委任状が出された。これが英仏軍に横浜駐留の大義名分を与えた出発点である。明治8年(1875年)3月2日に両軍の全面撤退が完了する。
幕府から賠償金が支払われた後、生麦事件に対する公式の謝罪文も届いた。そこで、ニールは鹿児島遠征に向うつもりでいた。ところが、下関砲撃事件がおこり、横浜に一時足止めされることになった。
賠償金が支払われた翌日は攘夷決行日と約されていた5月10日だった。この日、長州藩は独自に攘夷決行として、馬関(下関)海峡を封鎖した。最初に砲撃したのは停泊中のアメリカ商船だった。ペリー以来友好関係が続いていると信じていたアメリカのブリュイン公使は大きな衝撃を受けた。同様に、5月26日(7月11日)250年もの間貿易を許されてきたオランダも砲撃された。「オランダの国旗は250年間日本人に親しまれてきたので、攻撃を受けることはあるまい。」と艦長は判断し下関海峡に入ったのだった。英仏米蘭四か国は幕府に海峡利用の自由を保障するため、あらゆる手段を尽くすことを要請した。
キューパーに鹿児島遠征と下関攻撃は同時に行うことはできないとくぎを刺されていたニールは、下関には行かず、鹿児島へ向かうことを決定した。その決定を知らされた幕府は慌てて遠征延期を要請したが、引きとめることはできなかった。
キューパー提督率いる旗艦ユーリアラス号など7隻はニール英国代理公使と公使館員を乗せ、文久3年6月22日(1863年8月6日)横浜を出港したが、この時は戦闘など全く予期していなかったらしい。薩摩から独自の条約を求められる可能性も考慮し、政治的交渉に備え公使館員を同行させていた。
鹿児島までの航海は、天候もよく、快適であった。英国領事館医官ウィリアム・ウィリスの兄への手紙によると、航海をのんびりと楽しんだ様子がうかがえる。鹿児島湾の風景を「木立や草地の緑に燃え立つ山肌の雄大な眺めは、想像力を麻痺させるほどうっとりとさせるのです。」と形容している。ウィリスはアーネスト・サトウと一緒にアーガス号に乗船していた 。
6月27日(8月11日)英国艦隊は鹿児島湾へ到着した。翌朝、小舟が旗艦ユーリアラス号に近づいてきたので、要求書を手渡し、24時間以内の回答を求めた。この要求書には、犯人の逮捕と処刑、賠償金の支払いの他に次の刺激的な一文があった。「殺害騒動(生麦事件のこと)の時、堪忍の処置*を行わなければ、島津三郎(久光)を生け捕りにして、殺害するに至ったであろう。」 これは事件当時の居留民の激高状態をよく表している。ニールが止めなければ、居留民の一部は保土ヶ谷宿に泊まっている薩摩藩を襲撃し、久光を殺害しかねなかった。この一文は薩摩藩を大いに刺激したに違いない。
*自国民が殺傷されても、怒りを抑えて久光を許したことを言っている。
薩摩藩側からその日のうちに回答が届けられ、そこにはニール、キューパーの上陸が要請されたが、ニールは受け入れなかった。
翌6月29日(8月13日)、回答書を持参していると告げたため、数人の役人が家来と共に旗艦への乗艦を許された。3名が艦長室に入室を許されたが、甲板にいた家来の中に、生麦事件の犯人奈良原喜左衛門と海江田武次が紛れていた。実は回答書は持っておらず、合図の空砲があれば、ニールらの殺害を決行する手はずであった という。しかし、小舟が来艦し引き返すことを伝えたので、全員引き上げた。彼らは、久光、忠義と別杯を酌み交わした決死隊であった。でもどうしてこの計画が中止となったのであろうか?この計画が実行されていたら歴史は変わっていたかもしれない 。
同日夜にまた、薩摩側の回答が届けられたが、満足なものではなかった。ニールはその旨を薩摩側に通知して、キューパーに強硬手段に踏み切ることを要請した。この頃から天候が悪化してきて翌日は大嵐となった。
キューパーは、7月2日(8月15日)、先ず、湾内にある薩摩藩の所有船3隻を拿捕 したが、ニールはこの強硬手段によって、薩摩側が要求に応じることを期待していたらしい。ところが、薩摩側は同日正午にイギリス艦隊へ砲撃を開始 した。
パーシューズ号とパール号が応戦している間、コケット号、レースホース号、アーガス号に拿捕船の焼却命令が下された。水兵たちはいっせいに拿捕船の略奪を始めた。これが1時間ほど続いた後、船に火がかけられた。この間、旗艦ユーリアラス号の攻撃開始が2時間ほど遅れたのだが、それは、生麦事件の賠償金のドル箱が弾薬庫の扉の前に置かれたままで、それを移動するのに時間がかかったからだ と伝えられている。これを見ても、イギリス側が戦争になり、攻撃することになるとは予想していなかったことは明白である。
拿捕船の乗組員に対しては下船させる命令が出ていたが、青鷹丸の船長ともう一人の男が、下船すれば死罪になるかもしれないと言ったので、神奈川まで連れて行きそこで解放することにした。この二人とは後に大阪商工会議所初代会頭となる五代友厚 と外務卿、神奈川県知事となる松木弘安(寺島宗則) である。
イギリス側は薩摩の砲台を次々に砲撃、破壊した後、薩摩の町をロケット弾などで焼き払った。後日、この薩摩の町の破壊がイギリス議会で非人道的であると問題になった 。
翌日7月3日(8月16日)戦死者9名(11名という記述もある)の水葬の後、7月4日(8月17日)鹿児島湾を引き上げた 。戦死者の中には、弾薬庫を開けるのに手間取った旗艦ユーリアラス号の艦長、副艦長が含まれている。
この時乗っていた船ごとの犠牲者名、階級、年齢が刻まれた銘板が、現在、横浜開港資料館となっている旧英国領事官の廊下に取り付けられている。(ここでは13名の戦死者と1名の負傷者)隣の説明文は以下のとおり。
薩英戦争記念銘板
この銘板は、1863年(文久3)8月16日に鹿児島で起きた薩英戦争で犠牲になったイギリス将兵を記念して、横浜在住のイギリス人が作り、この建物にそなえ付けたものである(年代不明)。
薩英戦争は、1862年(文久2)8月21日に生麦村(現横浜市鶴見区)で起きた薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(いわゆる生麦事件)の賠償金をめぐって、薩摩藩とイギリス人が戦った戦争であり、横浜と関係が深いため作られたものと思われる。
薩英戦争を通して、薩摩藩は近代兵器の威力を思い知り、和睦をして西洋文明を取り入れようとする機運が生まれた。そして、支藩である佐土原藩の仲介でイギリスと和平交渉を進めるため、幕府と接触、イギリスもこの問題の解決のために、幕府に仲介を要請していた。
文久3年9月28日(1863年11月9日)幕府立会いの下、薩摩藩とイギリスの交渉が始まった。2回の会談は非難の応酬に終始したが、3回目にして、薩摩側は賠償金支払いのための交換条件として、2つの提案を提出した。①軍艦の購入についての周旋依頼、②拿捕船責任士官松木弘安(寺島宗則)と五代才助(友厚)の引渡し。この提案がなされた後、急に雰囲気が和やかになったそうだ。②の提案は2人がすでに神奈川で解放されているので却下されたが、①の軍艦購入の周旋に関しては、双方の友好関係を必須条件として引き受けるとした。
薩摩側は10月29日イギリス公使館を訪れて、明後日、賠償金2万5千ポンド(10万ドル)の支払い、犯人の逮捕・処刑は証書にして提出する旨を伝えた。賠償金は幕府からの借金で支払われたが、その後返済されることがないまま幕府は倒れた。この会談後、薩摩側からニールとキューパーに贈り物がされ、ユーリアラス号の士官には果物が送られた。
こうして、 文久2年8月21日(1862年9月14日)に発生した生麦事件は1年以上かって文久3年11月1日(1863年12月11日)解決に至った。この後、両者は急速に親密さを増し、薩英関係は新しい段階に入った。元治元(1865)年の寺島宗則、五代友厚らの使節と留学生のイギリスへの派遣、慶応2年(1866)年にはパークス英公使の鹿児島訪問も実現した。
以後、 薩長同盟、大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争、と時代は、明治維新へとまっしぐらに突き進んでいった。生麦事件発生後わずか6年、討幕派であった薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前の各藩)出身の若者たちが主軸となり、天皇を中心に据えた明治政府が、新たな日本の支配体制をつくっていく。