横浜歴史さろん

コーヒー コーヒー
絵図「御貿易場」

お茶でも飲みながら、横浜の歴史を語り合ってみませんか?
ここは、横浜の歴史や文化について気軽にくつろいで楽しめる私たちの”さろん”です。
まずはヴァーチャルな空間で、そして、いつかあなたの顔を見ながらも…。
これからたくさんの面白い情報を載せていきます。

絵図「御貿易場」(開国開港期:1854-1867) (表示スペースに合わせるためやや横広に修正) 横浜市中央図書館所蔵
左上方の白い建物「異人屋鋪」とあるのが、英一番館らしい

お知らせ

★New「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」を開始しました!

  • 歴史すぽっとページに「泥亀新田」および「大熊弁玉」を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part 2) ~横浜開港:横浜村の変貌にオールコックが驚愕、 とは言え、お粗末な港湾機能の下の荷役作業~」を掲載しました。
  • 「横浜歴史さろん」の弟妹サイト「横浜歴史さんぽ」http://sampo.yokohamasalon.link/に「レトロな鶴見線 京浜工業地帯繁栄の面影」を掲載しました。
  • 仲間・施設ページに「緑区生涯学級『横浜線ものがたり』」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川の由来は金川」を掲載しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part3-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「コバ・テル先生 みなと横浜(Part1)~開港前夜に米国人がみた横浜の風景~」を掲載しました。
  • 歴史すぽっとページに「神奈川でのヘボンの施療」と「江戸時代の刑罰」を 掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 有料会員の期間のうち、半年会員を廃止し、年会員のみに変更しました。
  • トップ特集「横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part2-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「生麦事件参考館」の紹介記事を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページ「コバ・テル先生のハマ歴ワンポイント」
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART II) ―多才な彼は発展途上国日本には打ってつけの人材、その資質の源泉は―掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「吉田新田一つ目沼地の難事業‐吉田南家の没落」追加しました。
  • 仲間・施設ページに「ドラマチックな郷土史探究 鶴見歴史の会」の紹介記事を掲載しました。
  • トップ特集「横浜nbsp;英一番館 幕末にやって来た巨大商社 -ジャーディン・マセソン・ヒストリー、Part1-」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 八聖殿郷土資料館の2017年度歴史講座を掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 「テル先生のハマ歴ワンポイント」始まりました!
    横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART Ⅰ) ―彼が夢見たのは鉄道技師、しかし来日時は灯台技師―
  • 「歴史すぽっと」に6件追加しました。
    ・おもしろプレート(ワシン坂、飯田道、ラインマン)
    ・神奈川落語① 大山詣り
    ・神奈川落語② 三人旅より神奈川宿
    ・神奈川落語③ 新作落語「横浜(はま)の雪
    ・神奈川落語④ 抜け雀
      ・神奈川落語⑤ ミルラー事件関係
  • イベント情報更新しました。
  • 「昔の生活ツール」の年号対照表を見易く作り直しました。お役立てください。
  • イベント情報更新しました。
  • トップ特集「横浜と水の今昔物語」掲載しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「謎の八聖殿と歴史講座」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
    スマホ画面でも見やすいように調整しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 会員制スタートしました。
    有料会員による会員交流広場開始しました。
  • イベント情報更新しました。
  • トップ特集「横浜歴史のブラタモリ的地形考察」掲載しました。
    仲間・施設ページに「NPO法人  神奈川区いまむかしガイドの会」の紹介記事を掲載しました。
    前回掲載の特集と紹介記事はアーカイブページにて、ご覧になれます。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「ホテルの歴史 in Yokohama」追加しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 歴史すぽっとページに「パンの歴史 in Yokohama」追加しました。
  • イベント情報更新しました。
  • 仲間・施設ページに「神奈川歴遊クラブ」の紹介記事を掲載しました。
  • 横浜歴史さろんホームページ開始しました!

特集  横浜 英一番館 幕末にやって来た巨大商社

―ジャーディン・マセソン・ヒストリー, Part 3―

長崎で茶再製工場と兵器売込みに力を入れていたグラバーでしたが、特に後の明治政府の一翼を担った薩摩藩との関係は深かったようです。1868年の兵庫開港・大阪開市になると、グラバーはジャーディン・マセソン商会の兵庫・大阪代理業者になります。その後、ジャーディン・マセソン商会からの資金が打ち切られることでグラバー商会は破産します。また、ジャーディン・マセソン商会も、日本が国力を増すにつれ、政府の外資排除方針が徹底されていったこともあり、高島炭鉱への融資からも撤退し、徐々に衰退して行くこととなりました。

コハクチョウ

7.グラバーとジャーディン・マセソン商会(これまでの1~6a. b.の項目番号を引継ぐ)

T.グラバー
トマス・グラバー
五代友厚
五代友厚

c. 薩摩藩・長州藩への援助

ジャーディン・マセソン商会(以降、JM商会と略記)は、のちに明治政府の中心となる薩摩・長州・肥前3藩とは船舶取引を通じて密接な関係が生れていました。グラバー商会を介して、とくに薩摩藩との関係は重要でした。有名な五代才助(友厚)の上申書(英国に学ぶために留学生を派遣すべきほか、様々な提案を記した)をもとに、薩摩藩は1865年にイギリスヘ留学生を送るとともに五代に小銃・弾薬・紡績機械などの買付に当らせることにしましたが、そのさい、グラバー商会の職員が同行して世話をするとともに、JM商会とロンドンのマセソン商会が様々な援助を行ったのです。

特に、送金の便宜、手形の決済などによる資金面における援助により、イギリス・フランスでの五代たちの外交活動は当然ながら、買付けた小銃・弾薬は、幕府の兵器注文(Part 2の「悲惨な結果となった幕府への兵器納入」をアーカイブページで参照ください)とは対照的に、1866年中に続々と到着しはじめて同藩の軍事力増強に役立ったのです。そうした活動は財政窮乏に陥っていた薩摩藩では、単独では到底不可能だったでしょう。

長州ファイブ
長州ファイブ、「マセソンボーイズ」ともいうらしい。
「You Tube 明治維新2、長州ファイブの英国留学・・・」より

公使パークスがイギリスの対日政策を実行してゆく上で、イギリス商人グラバーと緊密な協力関係を保ち、その仲介で薩摩藩へ接近したとすれば、グラバーの薩摩藩その他との結びつきを、経済的に支えていたものこそJM商会の大きな資金力と人脈だったのです。

長州藩士への援助といえば、横浜に最初に来たウィリアム・ケズウィックの弟が、長州ファイブと言われた5人の長州藩士の英国留学を世話したことが有名です。

吉田健三
吉田健三

 上海行きの船に秘かに乗せたこの5人の青年のなかに、伊藤俊輔(博文)井上聞多(馨)がいました。彼らはわずか半年前、御殿山に建築中の壮大な英公使館を焼き払った犯人だったのです。さすがにケズウィックや英公使館員も、英国留学を切望する青年たちのなかに攘夷派のテロリストがいようとは思ってもみなかったにちがいありません。伊藤たちがロンドンに到着したとき、かれらを援助したのがマセソン商会社長のヒュー・マセソンでした。

ちなみに、吉田茂元首相の養父である吉田健三(元 福井藩士,1849-1889年)は、1868年頃、イギリスから戻ったのち、横浜でJM商会横浜支店(英一番館)の支店長に就任し、日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげたそうです。

8.1866年恐慌とその後の活動

1866年に世界的な恐慌が起り、競争相手だったデント商会をはじめ多くの外国商社、外国銀行が倒産しました。JM商会も1865-68年にかけて資金繰りが逼迫したのですが、ロンドンのマセソン商会がJM商会の総負債の半ばに達する700万ドル台の融資を続けることによって、窮地を救ったのでした。

1868年1月1日からの兵庫(神戸)開港・大阪開市なるや、JM商会の兵庫・大阪代理業者には、他にも名乗りを上げた商人がいたものの、グラバーか指名されました。グラバーはこれまでにJM商会にかなりの負債があったため、巻き返しのチャンスと乗り出したのですが、その後の活動はうまくいきませんでした。
 グラバーは、のちの大阪造幣局となる政府機関に、貨幣鋳造機械を売込もうとしましたが、取引は不調に終わりました。また、膨大な量の金銀を毎月引き渡すという取引からもJM商会からの支援資金欠如のため撤退せざるを得ませんでした。肥前藩と協力して長崎にある高島炭砿への投資(1868年6月)を始めますが、この頃、JM商会は、グラバーが同商会の資金を使って利益をあげているにもかかわらず、JM商会に適正な報酬を払わないことを批判するようになりました。 

後藤象二郎
後藤象二郎
岩崎弥太郎
岩崎弥太郎

グラバー商会は結局1870年8月に破産するのですが、その負債勘定70万ドルに対して資産勘定は22万ドルしかなくオランダ貿易会社からの40万ドル融資によって辛うじてほかの債務をほぼ弁済するという状態でした。

グラバー商会はJM商会パートナーたちの知らぬ間に様々な債務を累積させていたのでした。グラバーは高島炭鉱をオランダ貿易会社へ抵当に入れていたので、これを知って驚いた香港本店のW・ケズウィックは、至急グラバー商会に対する全債権を回収すべく命じたのでした。

グラバー自身は、その後、岩崎弥太郎経営の三菱の顧問となって、明治30年(1897)には東京に移転し、裕福な余生を送ったとのことです。

高島炭鉱はオランダ貿易会社から政府が買い上げ、その後、後藤象二郎率いる蓬莱社へ55万円で払下げられました。その間、JM商会横浜支店のE・ウィッタルは、後藤を信頼し親交を深め、当初は独断で多額の融資(最高時130万ドル以上)を行っていったのです。払下年賦金と蓬莱社負債の支払のために高島炭鉱は増産へと邁進していったのですが、その結果が1876年の大火災であり1878年の坑夫暴動という悲惨なことになりました。蓬莱社は破綻し、後藤の巻返し策も効かず、福沢諭吉の仲立ちで、高島炭鉱は三菱の岩崎弥太郎に売却されました。1874年の払下時から岩崎弥太郎に引渡す1881年までの6年余りの間、JM商会の高島炭鉱への融資の経緯は、多くの政治家たちの関りもあり大変複雑であり、同商会にとって、どのくらいの損失になったのか、よくわかりませんが、結局、挫折・撤退を余儀なくされました。最後は20万ドルの支払いを受けることと中国での石炭販売権が約束されたことで終結となりました。

高島炭鉱
現在、高島には、当時の竪坑の坑口がいくつか残っており、北渓井坑跡は2014年に
国指定史跡となっています。また、島内には、炭鉱開発にあたったグラバーの別邸がありました。

日本が産業興隆を本格化させる1886年頃から、JM商会はこの動向に対応し取扱品目を多様化するとともに、アメリカに支店を積極的に設けて生糸・茶輸出を伸ばし、中国から砂糖を大量に輸入、ロシア石油を率先して輸入するとともに、政府・民間の兵器・機械需要を開拓していくなど、同商会の対日貿易活動は活発でした。しかしながら、昔のような買取方式ではなく、貿易の基本目的は手数料収入におかれるようになっていきました。運輸・通信手段の発達による世界市場の変化は、かつての巨大商社時代のような独占的な活動を消滅させたのでした。

9.日本政府の外資排除方針と外商・外国銀行の衰退

上述のとおり、恐慌後(1866年)、再び、JM商会は対日取引を活発化させることができたのですが、開港当初のような独占的取引で巨利を獲得するようなことはなくなりました。そこには日本政府の外資排除の政策方針が貫かれているためでもありました。

横浜正金銀行
妻木 頼黄(つまき よりなか)設計の横浜正金銀行本店。
現、神奈川県立歴史博物館

関税自主権を否定された日本でしたが、通商条約の内地通商権否定条項により、内地にまで外商が侵入することを阻んでいました。また、日本抗法(1873年公布、外国人の鉱山投資の禁止)により、高島炭鉱への直接投資が阻止されました。外商が国内流通機構や生産分野にまで手を伸ばし、金融的支配を展開することになれば、日本側での自律的な資本蓄積の可能性は失われて、従属国になる可能性が十分あったのです。日本の為政者たちは対外的に自立するために、当面の措置として外資へ依存するという危険な手段を選択してはいましたが、根底には、つねに外資排除の方針を持っていたようでした。

1880年代初頭に日本銀行(1882年開業)・横浜正金銀行(1880年開業)を核とする日本の金融機関体系が整備され、売込商・引取商たちが金融的にバック・アップされることによって、かれらが買弁的存在(外商側の手先として働くこと)となることを止められました。紆余曲折はあったものの、一貫した日本政府の外資排除方針の下で、日本が国力を増強してゆくにつれて、外商・外国銀行は衰退していきました。今日の日本は、そうした歴史の上に成り立っているわけですね。

おわりに

英一番館跡
横浜シルクセンター横にある史跡。碑文「安政6年6月2日(1859.7.1)横浜が
開港した。イギリス人ウイリァム・ケスウィックは、開港と同時に帆船で
横浜に来航し、居留地一番館において貿易を始めた。この建物は、
ジャーディン・マセソン商会と称したが、当時の人々が「英一番館」
と呼んでいたのは、この地点である。  横浜市&横浜市観光協会 」

JM商会は、香港が中国に返還(1997)される前に1984年、登記簿上の本社を、タックスヘブンといわれるイギリス領バミューダ諸島・ハミルトンに移転していますが、現在も香港をビジネス拠点に、傘下に多くの会社を所有するジャーディン・マセソン・ホールディングスという世界規模の巨大な国際コングロマリット(複合企業)として存続しています。経営の中核は今もケズウィック一族によるとのことです。
 横浜にはもはやJM商会の支店はありませんが、古くからの外国企業なので日本の大手企業及び政財界人とも様々な繋がりがあり、「ジャーディン・マセソン」という名前は表には出ていなくとも、私たちが気づかない形で多くの事業や資本投入を展開しているようです。

参考文献:
・「近代日本とイギリス資本 ジャーディン=マセソン商会を中心に」 石井寛治/著 東京大学出版会 1984.6
・「横浜山手 日本にあった外国」 鳥居民/著 草思社 1977.6
・「長崎・グラバー園 GLOVER GARDEN」ホームページ
・ フリー百科事典Wikipedia 「吉田健三」
・「香港 アジアのネットワーク都市」 浜下武志/著 筑摩書房 1996.9
・ 歴史放談 http://rekishihodan.seesaa.net/article/386132264.html
・ 長崎市公式観光サイト https://www.at-nagasaki.jp/gunkan/intro/takashima/

トップへ戻る