横浜歴史さろん

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中華街の歴史(横浜中華街、幕末~、かつては職人の街)

中華街の前身、横浜新田

現在、横浜中華街となっている場所は、もとは1862(文久2)年に埋め立てられた横浜新田である。現在の広さは500m四方で、隣接する広大な吉田新田に比べるとさほど大きくはない。横浜新田が、元来の入り海だったころの海岸線に沿って並行に区画されたのに対し、吉田新田は広い入り海を干拓・埋立し、外側の海岸線に並行に区画した結果、中華街だけが、他の地域から見ると45度斜めに区画されている。そのため、中華街に行くと、方向を見失い迷子になると言われる理由はそこにある。
 日本には、他に長崎と神戸(いずれも幕末に開港)に中華街があるが、横浜が面積、店舗数など最大の規模を誇っている。

クリペの横浜絵図面(1865年)横浜開港資料館蔵
横浜観光情報サイトより

開港からの流れ

1859(安政6)年に、横浜が開港になると、多くの欧米人が、やってきた。当時、日本と清国(中国)の間には、条約が結ばれていなかったため、中国人は、公式には、入国することができなかったが、欧米人の使用人である、買弁(コンプラドール、仲介者)、コック、荷役労働者として入国してきた。彼らは、中国が日本より早く開国していて、欧米人との関わりを通じて、欧米の言語や生活習慣に精通しており、日本と同じ漢字圏であるため、筆談で、通訳をすることができた。そのため、ペリー艦隊の日米折衝の際の交換文書には、中国語のものもあった。通訳の他に、当時、日本で活躍していた中国人は、職業的には、両替商、絹織物やお茶の目利き、ペンキ職人、印刷業者、家具職人、ピアノ調律師、洋服の仕立屋、料理人など、日本人にとっては、目新しい技術を持つ人たちであった。

1930年頃の横浜南京町(wikipediaより)

中華街の町名

現在、中華街の住所は、全域に渡って、山下町となっている。しかし、1879(明治12)年から、1899(明治32)年にかけては、通りごとに、日本各地の地名がついた町が30町ほどあった。中華大通りは、前橋町、関帝廟通りは、小田原町という具合に。中華街に加賀町警察署というのがあるのもその名残で、他に、横浜スタジアムと中華街との間にある「薩摩町中区役所前」というバス停、また、開港道沿い、重慶飯店本館前とその向いにある2本の電柱には、尾張町と書かれた管理標識もある。

関帝廟と媽祖廟

中華街を語る上で欠かせないのが、関帝廟と媽祖廟という華僑の信仰に関わる施設である。関帝廟は、三国時代、蜀漢の武将、関羽を商売の神として祀ったもの。1862(文久2)年に、ささやかな堂を設けたのが始まり設けたのがはじまりというが、最初の本格的な関帝廟をもうけたのは、1871(明治4)年だった。それが、1923(大正12)年の関東大震災で倒壊すると、1925(大正14)年に、2代目の関帝廟が建てられたが、1945(昭和20)年の横浜大空襲で、焼失した。さらに、3代目の関帝廟が、1946(昭和21)年に建立されたが、1986(昭和61)年に、不審火で焼失すると、4代目にあたる現在の関帝廟が、1990(平成2)年に完成した。
 また、海の女神である媽祖を祀る信仰も初期の頃から伝わっていて、初代関帝廟の廟内と清国領事館に祀られていたという。その後、2代、3代の関帝廟内にも祀られていて、3代目焼失の時、難を逃れた媽祖像は、現在、箱根観音に祀られている。
 そして、媽祖廟建立に直接つながったのは、2003(平成15)年、(株)大京が、南門シルクロードの一角にマンションを建てる計画をしたことである。それに、「横浜中華街発展会協同組合」が、街づくりの観点から反対し、同所を大京から買い取り、媽祖廟設立発起人総会を設立した。そして、2005(平成17)年には、地鎮祭を行い、2006(平成18)年3月17日に開廟した。

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