横浜歴史さろん

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神奈川でのヘボンの施療

太平洋戦争の末期。空襲での焼失を恐れた明治学院では、保存していたヘポンの資料を仙台の東北学院へ移動した。文字にかかわる書類と聞く。成仏寺時代の原稿ではなかったかと思われる。

1890年横浜で撮影されたヘボン夫妻の金婚式の記念写真
1890年横浜で撮影されたヘボン夫妻の
金婚式の記念写真(Wikipediaより)

寛永十六(1639)年からの鎖国を解き開国を余儀なくされた幕府は、安政六(1859)年五月二八日、神奈川・長崎・箱館の三港を貿易の窓口とし、六月二日神奈川(横浜)・箱館の二港を開港した。リンカーンが米国大統領となる前年である。
 三人の子を病気で亡くした四四歳のヘボンとその妻は、米国長老教会の宣教医として一人息子のサミエルを知人に託しての自費による来日であった。同年九月二三日、まだ一漁村の横浜村洲干渡船揚から小舟に乗り、洲崎神社前の宮の河岸に着いた。開港間もない神奈川は混迷を極め、攘夷の風が吹き荒れ、切支丹禁制の監視も厳しく布教どころではない状況であった。商取引その他一切、外国人とかかわりを持つ時は届出が必要と度々触書も出されていた。ヘボンは、こんな四面楚歌のなかで成仏寺に住いを定めたが、施療にも日常生活のためにも早急に日本語習得の必要を迫られた。(そのことが『和英語林集成』やヘボン式ローマ字に結実している。)

文久元(1861)年四月より成仏寺の川向こう宗興寺にシモンズ(宣教師・医師)の後を受けて施療所を開いた。同年七月、奉行所からヘボンの施療に関する触書が出されたことが、『差上申御請書之事』(文久辛酉元年七月御触書幷用留帳成仏寺門前名主源七=神奈川県立公文書館蔵)に記されている。(文末参照)

その概要は「治療を受けたい者は、一旦宿内に宿を取り、当人か、看病人からその事を宿役人に申し出ること。宿役人は当人の地頭姓名・国郡村名を聞き、また御府内であったら町所・家主など細かく聞き糺(ただ)しその始末を書付け、歩行困難の病者だったら付添いの者に宿役人が付き、本人の時は旅宿から「どこどこの者に相違ない」との書付を貰い、宿役人と戸部の奉行所(4.5km先)へ願い出て鑑札を貰う。それを持ち帰り施療所前の詰所で改めを受け、それから役人がヘボン方へ案内する」というものであった。文書の最後に、「仰せ渡しのあった御仕法は、宿方の者・旅籠屋にも厳しく達して、御役所が請けなかった者は立ち入らせないよう取締りを厳重に致します。」と書いて、神奈川宿役人が奉行所へ連印の上提出した請書である。一般人はこの手続きを経てヘボンの治療を受けた。  外国人の身辺の安全確保を名目に、寺の周辺は竹矢来の高い塀を巡らし、四人の門番を配置して外国人との行動調査の報告もさせた。時節柄、狼藉を働く者がないようにとの配慮を謳っているが、布教を警戒した幕府の圧力も垣間見え、約五ヶ月後の九月にはヘポンの施療所は閉鎖となる。

「宗興寺における施療は盛況で、最初は患者も僅かでしたが、まもなく非常に増加し、その三ヶ月間は一日平均百人、助手がいないので正確な記録がありませんが、三千五百人の患者にカルテを書きました。瘢痕性内反の手術二O回、翼状片の手術二回、眼球摘出一回、白内障治療一三回、痔瘻手術六回、直腸炎手術一回、チフスの治療三回」とヘボン書簡集(九二頁)にある。患者の六割は眼病であり、治療費は取らず殆ど私財で賄われた。

 井伊大老桜田門外の変、寺田屋騒動、米国公使館通訳ヒュースケン暗殺、横浜本町通りでオランダ商船乗組員デ・ホス、商人デッケル殺害。米国では南北戦争が始まる、等々。国内外の社会情勢は険しくなるばかり・・・。

文久二(1862)年八月ニー日、東海道生麦で事件が起きた。島津久光の行列に四人の外国人が騎馬で近づき、護衛の薩摩雁士に斬りつけられ一人は死亡、女性一人は居留地に戻るが、負傷したあとの二人は本覚寺(アメリカ領事館)に逃げ込みヘボンの手当てを受けた。この事件、「外国との戦争の可能性大、女子供・大切な品物避難」と神奈川奉行所から御触も出された。「戦争一条」!それは回避されたものの、後に下関事件や薩英交戦へと発展する。

神奈川在住約三年後、ヘボン夫妻は十一月九日新築した横浜居留地三九番に移転、明治九(1876)年に閉鎖するまで施療所は続いた。来日後三三年のうち医療にかかわったのは約十年間。宣教師・翻訳者・教育者としての使命を果たした七七歳のヘボンは、明治二五(1892)年十月二二日、内湾を埋め立て鉄道が敷かれ、国際貿易港として日々に変貌していく横浜港より帰国の途についた。
 “ジェームス・カーチス・ヘップバーン”明治四四(1911)年九月ニー目、イースト・オレンジにて九六歳の生涯を閉じた。王政復古の成った明治も次の時代に変わりつつあり、息子サミエルもまたヘポン没後アメリカヘ帰国したが、子がなく家系は絶えた。(後略)

藤原千鶴子<神奈川宿古文書の会会報第9号2001.6.23より転載許可済>
原文が縦書きのため、漢数字が使われている。西暦年は編集者により算用数字に直した。>本人より「多少の間違いなどあるやに」と。

(2017. 8.31)

   

<参考>

      差上申御請書之事

外国人宿寺御警衛其外御取締向之儀ニ付而者、品々厚御趣意も被 為在候ニ付、亜国医師へホン儀施療いたし候処、追々承伝諸方より病者相越勝手次第同人出張所立入候儀之処、当節柄、若哉宿内江如何之もの紛入狼藉等相働候族等有之候而者、以之外ニ付、以来者左之通り
一、療治請度もの一旦宿内宿を取、当人歟亦看病人等之内よ其段役人方申出させ、当人地頭・国郡村名、御府内之ものニ候得町所・家王等巨細承糺始末書付認、若当人歩行難相成程之病者ニ候得差添之ものニ宿役人付添戸部町御奉行所願出、御聞済請候得御鑑札御渡被成候間、右持返り当詰所差出し御改請、夫より御役人中ヘホン方御案内被成候事、
   但宿役人共御用多ニて差支候節、幷ニ旅籠屋共何等之手支候砌代之もの差出し候而も不苦候旨奉畏候
右之通今般御仕法被仰渡候ニ付而者宿□(方ヵ)之もの幷旅籠屋共篤与相達置、御役所御聞済不請もの為立入申間鋪、都猥之儀無之様御取締筋厳重ニ相守可申旨被仰渡、逸々承知奉畏候、依之御請書差上申処如件
     (  → 原文では行末に表記されている  → )      当御預り所
 文久元酉年七月 (→ 原文では行末に表記されている) 東海道神奈川宿
     (  → 原文では行末に表記されている  → )      役人連印
   御役所様
前書之通仕法被仰渡、御請書之趣、私共一同承知奉畏候、仍連印仕候処如件
     (  → 原文では行末に表記されている  → )      町限小前
     (  → 原文では行末に表記されている  → )      連印

【引用者注=この文書の行変えは追込みとしている。解読の便宜上、読点を付した。】

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