横浜歴史さろん

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コバ・テル先生のハマ歴ワンポイント みなと横浜①

テル先生イラスト

コバ・テル先生

みなと横浜(Part1)~開港前夜に米国人がみた横浜の風景~

1)言葉にみる「みなと」

「横浜歴史さろん」、今回のコバテル・シリーズは「みなと横浜」の話。ところで、昨今、「みなと」を「」と記述しているが、「港」という漢字はいつ頃から用いられてきたのだろうか。江戸時代のはじめという説もあるが、幕末期になると「港」という字が頻繁に用いられている。幕末期に開港の「横浜港」も表記の一例である。

日本では、「みなと」が河海などの出入口に造られたので、「水の門」と称したり、時には「水戸」や「瀬戸」といったりした。現在の西宮(にしのみや 兵庫県の南東部、阪神間の中間に位置する)付近に所在したといわれている務古水門(むこのみなと)や石巻(いしのまき 宮城県東部に位置する)の旧称である伊寺水門(いしのみなと)はその例証である。当時はそのほかに、那珂川(なかがわ 栃木県那須町)の河口部を「水戸」と称し「みなと」を意味し、また、土佐の浦戸(うらど)のように「戸」をあてて「みなと」を指すこともあった。
『港湾産業事典』(北見俊郎・小林照夫他編著、成山堂書店、1993年)の「水門(湊・港)」の項にも記載されているが、南北朝時代から室町時代に書かれた『庭訓往来』には「泊・湊・浦」という呼称がみられた。その後の時代になると「」と書き「みなと」と称することが一般化する。しかし、昨今では「」と書く。

2)外圧による鎖国体制の崩壊―「港」の字が付された「みなと」の誕生

ペルリ提督以下横浜村上陸図

ペリー随行絵師ハイネのリトグラフ(日米和親条約調印地)

嘉永6(1853)年に黒船が来航した。それは多くの論議を呼んだ。当時、外国との交易は、幕府が寛永以来堅持してきた鎖国政策に相反したもので、「開港」そのものが幕府内では重大な政治的課題であった。そのため、幕府のみならず各地で、「黒船問題」が発生した。

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