横浜歴史さろん

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コバテル先生のハマ歴ワンポイント みなと横浜③

テル先生イラスト

コバ・テル先生

みなと横浜(Part 3) 明治期の横浜港の歴史を物語る「象の鼻」
~長期間議論に終始した横浜港の改修築事業~

1)外国人に不評の横浜港 ~「豚屋火事」を契機に見直しが~

横浜港は、短期間の突貫工事による突堤主体に築造された港なので、外貿港としては粗末極まりない。それ故、大洋を横断する300トンや400トン級の本船は接岸できず、輸出入貨物の荷積みや荷卸しには、艀(はしけ)を介しての沿岸荷役と本船荷役(冲取り)が伴った。そんな状況なので、過酷な作業を要求されたのは港湾運送に係わる人足たちだった。接岸可能な艀も、レオン・ロッシュ(Léon Roches)の側近、海軍士官E.スエンソン(Edouard Suenson)が著書『江戸幕末滞在記 』(長島要一訳、講談社学術文庫)で書いているように、「海の向こうから来る北向きの風には無防備で、まるっきり防げなかった」ので、荷の積卸が容易でなかったことが想像できる。

大桟橋「象の鼻」の変遷


港の問題を含め、都市横浜の転換期は、慶応2(1866)年10月20日、末広町(現在の中区尾上町1丁目あたり)の豚屋鉄五郎宅から出火した大火災「豚屋火事」であった。この大火災で、運上所をはじめ関門の内(現在は関内と称されている)の三分の二が灰燼に帰し、外国人商館を含め焼失家屋は1,600戸ともいわれている。その時、坂東玉三郎と壇れいが演じたお園と花魁・亀遊でお馴染みの岩亀楼(芝居『ふるあめりかに袖はぬらさじ』)があった港崎遊郭(その地は現在の横浜公園)も壊滅した。この大火災によって、居留地の外国人の居住環境の改善要求が一段と強まった。その交渉は、「横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書」(「第三回地所規則」)として、同年11月に妥結した。この約書によって、近代的な西洋式公園(現在の横浜公園)や日本大通りをはじめとしたインフラ整備が行われた。

2本の突堤から成る横浜港の改修も「豚屋火事」後のことであり、イギリス公使パークス(Sir Harry Smith Parkes)による幕府への要請ではじまった。パークスは要請が認められると、イギリス人技師ウィットフィールド(Whitfield)を推薦した。そうした経緯があって、波止場の改修築工事をウィットフィールドとドーソン(Whitfield & Dawson)事務所が請負うことになった。ウィットフィールドは、ヨットの建造もやっていたので、風向きについては専門家であった。そうした彼の技量も加わり、東西2本のうちの東側を、波止場を囲い込むような湾曲の形状にして波よけとした。それが今日の「象の鼻桟橋」の誕生である。

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