横浜歴史さろん

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よこはま歴史仲間

大都市横浜には、郷土の歴史や文化について調査・研究している団体や、自主的に勉強しているグループがたくさんあるそうです。このページでは、そうしたお仲間の紹介や利用できる有益な施設の情報などを順次提供しています。

これまでにご紹介した団体、施設等の記事は「アーカイブ」にてご覧になれます。

横浜の歴史に関係する活動を行っているユニークなグループ、利用可の知られざる施設・建物などがあれば、紹介させていただきますので、ご連絡ください。
  rekishi@yokohamasalon.link

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★紹介コーナー No.11-①

横浜郷土研究会、60年のあゆみ
その1 横浜の郷土研究の中核をなした専門家集団(前半の30年間を見る)

60年以上の長い歴史を持つ「横浜郷土研究会」を2回にわたってご紹介します。最近のお話は事務局長の安井恵子さんからを伺いました。今回の前半30年間の内容は、これまでの資料に基づきます。(取材・文 渡辺登志子)

横浜の郷土研究の源「横浜郷土研究会」

横浜市立図書館蔵書検索で「横浜郷土研究会」と入力すると78もの書籍や冊子が表示される。古文書、歴史散歩、埋立・新田、古道、芸能関係、昔の本の復刻版等々、非常に多岐にわたる。横浜の歴史を学んでいる人なら、「横浜郷土研究会」の名をきっとどこかで見ていることだろう。ただ、名称が古風というかスタンダードすぎて印象に残りにくいから、気がつかなかったかもしれない。出版社や著者が違い、検索にはひっかからなくても、横浜郷土研究会が編集・校訂した書籍は数知れない。また会員個人が独自に執筆・出版したものも多々ある。一団体がなぜ、これほどのことを成しえたのだろう?

最初の市図書館

昭和2年竣工の横浜市図書館

始まりは図書館から

横浜郷土研究会は横浜市図書館の提唱により、昭和33(1958)年5月に発足した。その当時の事務所は横浜市図書館(現・横浜市中央図書館)であり、会長は図書館館長が兼務した。当初の会員数は不明だが、会費は年250円(現在は4000円)だった。昭和33年といえば、高度経済成長の初期段階で、東京タワー完成、特急「こだま」が運転開始となり、テレビ放送も間もない頃で「月光仮面」が放映され、ロカビリーブームで第1回ウエスタンカーニバルが開催された年、戦後10年以上が過ぎて、人々は豊かさを享受し始め、これから日本はずっと良くなるぞ、と誰もが信じて疑わなかった時代でもある。

図書館の話

現在、横浜市には中央図書館のほかに各区に図書館があり、それらが連携するシステムになっていて、どこからでも読みたい本を取り寄せることができる。実に便利だが、このようにできるようになったのは横浜市中央図書館完成後の平成6(1994)年からのことである。中央図書館の前身は昭和2(1927)年にできた横浜市図書館(通称“野毛の図書館”)だった。その後、昭和49(1974)年に市内に2番目の図書館として磯子図書館が開館した。(「横浜市の図書館のあゆみ」参照)つまり、47年もの間、大都市横浜に市立図書館は1館だけだったのである。ということから、そのむかし郷土研究を目指す方々は、自然と野毛の図書館に集まっていたようである。これが横浜の郷土研究の礎となったのは当然のことのように思える。

専門家たちによる郷土研究への取り組み

横浜郷土研究会(以下、郷土研と略称)が設立40周年を記念して発行した「年表で綴る横浜郷土研究会40年のあゆみ」には、40年分(1958~1998)の記録が凝縮されていて、それを追うことで横浜の郷土研究がどのようになされていったのかを知ることができる。

当初は、「例会」と称して、会員による研究発表が盛んに行われ、それが「会報」の形で残されていった。「郷土研究」と一言で言っても、分野は様々であるが、なかでも一次資料としての古書・古文書の研究は最重要であり、それを足掛りに各自の専門分野(原始古代、中世・戦国、近世、幕末・明治など)へとつなげていくことが見て取れる。また、現地調査が盛んに行われて、遺跡調査、重要文化財調査、古道探索、社寺調査、墓碑などの金石調査などが横浜市内全域で実施された。そうした会員の多くは各分野の専門の研究家が多く、「横浜市史」の執筆者にも、その名(秋本益利氏、石井光太郎氏、服部一馬氏など)を見ることができる。当時は、大学以外では市図書館が横浜市に関する“知”を結集した空間であり、そこで郷土研究が育まれ、その成果として郷土研究の展示、講演会、書籍や冊子の発行となったようだ。推測であるが、出版に関する資金面では市立図書館持ち、つまり行政が負担するのであるから、郷土研のメンバーは良い研究をして、それを形にすることに専念できたらしい。そうした会の活動や会員の活躍はしばしば神奈川新聞や全国紙の横浜版で報道されている。

講演会なども盛んに行われ、なかでも1959年10月24日に社会主義者の荒畑寒村が「明治30年代の横浜を語る」と題して講演している。荒畑寒村は横浜市永楽町(南区)の横浜遊郭内で生まれているから、生粋のハマッ子なのだ。また、横浜各地で会員が講師となり、歴史講座も開催された。
 1966年11月4日の神奈川新聞で、「136年前のらんかん 横浜郷土研究会 熊野神社付近で発見」と報じられたと記録にある。
 ところで、研究のもととなった当時集められた膨大な史資料はどこかに残されているのだろうか? 興味のある人には垂涎の“お宝”がきっとたくさんあるに違いない。

17年かけた「関口日記」、139年分の解読

この会での偉業のひとつに「関口日記」の解読・刊行がある。関口日記は、生麦村(現 横浜市鶴見区)に住んでいた関口家の歴代の当主が宝暦12(1762)年から明治34(1901)年までの139年間(途中欠年あり)、書き続けた日記(98冊)である。これほど長期にわたって書かれた農民の日記は全国的に見ても珍しく、当時の生活をうかがい知ることのできる大変貴重な史料である。生麦村は東海道に沿っていたこと、また江戸湾に面したところには船着場もあり、商業活動が発展し、多数の商人がいたこともこの日記が伝えている。

関口日記

「関口日記」(「開港のひろば」第15号より)

「関口日記」の解読は、郷土研の古文書講読会で昭和43(1968)年9月から始められた。3年後、第一巻が刊行されたが、最終巻が刊行(1985.3)されるまで、17年間もかかっている。(全23巻に別巻3冊)指導者は初め石井光太郎氏、そののち内田四方蔵氏という横浜の著名な郷土史家ではあるものの、この講読会は素人の集まりで古文書をあまり読めない人も多かったことから脱落していった者もあり、最終的に10名の一般市民が毎週土曜日の午後、野毛の横浜市図書館の一室で悪戦苦闘しながら読み進めていった。「日記があるかぎり読み通していこうとの考えで、どのくらいかかるかは気にしなかった」と内田四方蔵氏は、「開港のひろば」第15号(S61.5.1横浜開港資料館発行)の『館長対談』のなかで語っている。メンバーの一人で、家庭の主婦であった森芳枝氏は、最初はほとんど読めなかったというが、この会でひたすら研鑽し、古文書に関する高い読解力を身に着け、内田氏の右腕として活躍した。1979年11月には、社会教育功労者として表彰されている。内田四方蔵氏は数々の功績を讃えられ、第35回横浜文化賞(昭和60年度)を受賞している。

ピーク時は200名以上の会員数

記録で見る限り、1962年に43名だった会員が、その後増え続け、ピーク時は1971年の260名だった。その後も、60年余りの歴史の中で前半30年間は200名前後の会員数を維持していた。会費は1983年には3000円となった。30年間で当初の250円から12倍になっているから、それが日本経済の急成長と物価上昇を物語っているようだ。会報は30年間で62号(初期のガリ版刷りは入っていない)出している。
 特筆すべきこととして、1982年11月14日、神奈川区高島台・本覚寺山門前に当時の副会長森篤男氏らの手で「岩瀬忠震顕彰碑」が建立された。細郷横浜市長(当時)ら関係者約100人が出席し除幕式が行われたという。森篤男氏は「横浜開港の恩人 岩瀬忠震」を執筆、よこれき双書1として刊行されている。幕末期、本覚寺はアメリカ領事館として使用された建物であり、神奈川宿の歴史散歩では必ず訪れる場所である。この山門前ではガイドさんたちは必ず、アメリカ領事館になったとき、山門は白いペンキで塗られた(日本初のペンキ塗装)話と、岩瀬忠震の功績と悲話をすることになっている。こうした名所をつくってくれた横浜郷土研究会に感謝するべきだと思うが、誰がなぜ建てたのかを知る人はほとんどいないと思う。
 最後に、確認はしていないがこの前半30年間に登場している方々は、残念ながらほとんど他界されていると思われる。

横浜市図書館 郷土研究会新年会 (昭和)44.1.16(於 蛇の目家)
「年表で綴る横浜郷土研究会40年のあゆみ」から

次回、その2につづく

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