横浜歴史さろん

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吉田新田一つ目沼地の難事業‐吉田南家の没落

(中区、蓬莱、万代、不老、翁、扇、寿、松影町/ 1870~1876年/8代目吉田勘兵衛、吉田常次郎、ウオルッシュ・ホール商会)

吉田新田一つ目沼地
明治3年吉田新田の状況
明治3年吉田新田の状況

事業の始まり

1667 (寛文7) 年に吉田新田は完成したが、新田の海に近い部分は「一つ目沼地」と呼ばれ、開港前まで遊水地として残されていました。
 1870年(明治3年4月26日) 神奈川県知事井関盛艮(いせき もりとめ)はこの沼地の埋立計画を発表し、この事業を自費で引き受ける者を公募しました。吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫である地主8代目吉田勘兵衛と名主吉田常次郎は、一つ目沼地は先祖伝来の地であり、この公募に大変驚いて、この土地を守るべく願書を提出しました。応募者は殺到しましたが、県側としては、新田開墾以来の農民が埋立整備内に居住している事もあり、吉田家に許可を与えるのが筋であるので、吉田家に許可を与えました。しかし、最終的に、8代目吉田勘兵衛は万一を考えて、家名を永続させる為に、危険を避け参加を取り止めました。吉田常次郎、親戚筋の吉田寅松は自分たちだけでは資金的に不安があったため、横浜商人4名、福島長兵衛、橋本弁蔵、熊谷伊助、中村惣兵衛を加え6名でこの事業を請負う事となりました。

予想以上の難工事

さて、この事業は次の5つの工事に分けられます。①中村川の堀広げと浚渫、②中村弥八ヶ谷戸の切下げ、③新川(堀割川)の掘削、④滝頭海面へ埠頭の築造、⑤一つ目沼地の埋立。特に、122尺(37m)もある弥八ヶ谷戸と呼ばれる丘陵の開削は、人力で掘削していくため、多くの労力(延べ約4万人)を必要としました。また、3つの村々の田畑を掘割り、滝頭まで堀割川(長さ1,456間4分(2,622m)、幅20間(36m)、水深5尺(1.5m) )を開削する工事も難しいものでした。その上、近辺に土取場がないため、運河を堀りながら、その開削した土を埋立地まで運ぶ必要があり、大変な難工事となりました。

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