
絵師を志していた青年は、薩摩藩下屋敷で偶然「写真」と出会った。それ以来、その虜となり辛苦の末、ついに横浜で写真館を開業した。
横浜の郷土史家 田村泰冶氏の著書「史論集Ⅱ 郷土横浜を拓く」平成27(2015)年4月1日発行。第六章、横浜人物伝 十三、起業家 写真家 下岡蓮杖と横浜 265p~279p。(著者より転載了承。)
原文は縦書き、漢数字使用だが、ここでは横書き、算用数字使用、難解な漢字はよみ等を追加、また重要箇所は太字、画像の追加、その他読みやすくするため、統一性を保つためなどの編集を加えてある。
◎画像は本稿中に掲載されたもの、ネットから転載したもの、他の書籍から転載したものが含まれる。本稿から以外は出典を記した。(Toshiko)
明治維新前、撮影機材を背負い撮影旅行に出立しようとする下岡蓮杖と、晩年の肖像(左上円内)
[『歴史寫眞』大正六年十月號(歴史寫眞會1917年)より転載]
〈この画像と説明は、「幕末・明治の写真師列伝」森重和雄著、雄山閣発行、2019年より〉
下岡蓮杖顕彰碑 2025/8/12撮影
横浜市中区弁天通4丁目67
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1. はじめに
2. 伊豆下田で誕生
3. 写真機の発明
4. 下岡蓮杖の写真術修得
5. 本格的な写真館開業
6. 蓮杖その他の起業
(1)乗合馬車「成駒屋」開業
(2)石版画
(3)牧畜業
(4)創作業――「浄瑠璃台本」
(5)私設「公衆便所」の開設――浅草公園五区四九番地
(6)油絵茶屋・パノラマ写真営業業
7. まとめとして ~晩年の蓮杖~
下岡蓮杖こと、桜田久之助は日本近代写真の父と呼ばれ、横浜中区の馬車道に顕彰碑が建立されている。伊豆下田の生まれ、幼い時から絵を描くことが得意で日本画家を目指していた彼も幕末、開国通商の波に飲み込まれ、波乱に満ちた人生を送ることになってしまった一人である。下田湊で問屋を営む家に生まれ、何の不自由もない生活から波乱万丈に満ちた91年間の動向を、特に明治9 (1876)年、53歳で 東京浅草に転居するまでの開港場横浜での活動を中心にその人生を追求してみたい。
下田で半問屋を営む、桜田与惣右衛門の三男として、文政6(1823)年1月16日(2月12日)に生まれた。半問屋とは江戸湾廻航の船を下田で検閲し、手形を発行する船番所の勤番役を兼任する商人のことで、身分は同心と苗字帯刀を許された下級武士身分の立場であった。父は相州浦賀番所の船改め役人であったため、下田の同心役を長男が継承し、次男が船問屋を引き継いだ。三男の久之助は自ら望んで、下田岡村の名主、土屋善助夫妻へ6歳前後で養子に入った。しかし、養母が病気で亡くなり、養父一人では子どもを育てられないと、実家に戻そうとしたが久之助が拒否し、父子での生活となったが、10歳になった時、今度は養父との死別に遇い、とうとう実家に戻ることになった。
久之助は幼い時から絵が好きで、画家を志望し、13歳のとき、無断で家を飛び出し、江戸に向かった。絵の師匠に巡り合えず、上京した江戸で京橋鉄砲洲の加賀屋足袋店に奉公した。主人田野宇吉の妻が下田の宮本家の出身という関係から身を寄せることができた。しかし、得意客といざこざを起こし、辛抱出来ずに再び下田の実家に戻った。
天保13 (1842)年、異国船の渡来が続き、沿岸の警備が急務になっていった。下田湊でも、警備のため砲台の建設が始まり、15名の砲台付き足軽が徴用され、久之助も組み入られて砲術・剣道を仕込まれる毎日になった。そこで、仲間の一人から、江戸浜町で弟が狩野菫川(とうせん) 絵師に師事していることを聞き、口利きを依頼し、紹介を得て、憧れの絵描きの門弟となった。狩野菫川は狩野派の流れを汲む武家お抱えの絵師であり、久之助は才能が認められて師匠から「薫円」という雅号が与えられた。大名宅での襖絵等の制作に関係していた時、薩摩藩下屋敷で偶然、オランダ渡りの「銀版写真」を見る機会があり、その写真の正確さ、繊細さに驚き、未知なる写真に興味が移って未知なる「写真」を目指すことになるのはこの時からであった。
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