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特集   井伊直弼銅像首切り事件?!その顛末と銅像建立をめぐる紛争  

横浜生まれで横浜育ちの郷土史研究家田村泰冶氏でさえも知らなかった掃部山(かもんやま)公園に建つ“井伊直弼(いいなおすけ)銅像の首切り事件”、田村氏はその真相を探るべく、入念に調査された。出版社への問い合わせ等も多々行ったにもかかわらず、間違ったことが事実として30年以上も放置されてしまった・・・こうした経緯を今一度振り返ります。 また、明治になり、井伊直弼を顕彰しようという旧彦根藩士の動き、それを封じようとする藩閥の閣僚たち、江戸末期の旧藩の確執はその後何十年も続きながらも、ついに井伊掃部守(かもんのかみ)直弼銅像は横浜の掃部山公園に建てられたのであるが、そこには両陣営の深い執念と怨讐が感じられます。

(「史論集II 郷土横浜を拓く」より。初出、神奈川県立図書館「郷土神奈川」47号(平成21〔2009〕年2月)

原文は縦書き・漢数字使用を、横書き・算用数字使用とし、難解な漢字はよみ等を追加、重要箇所は太字にした。また、適宜、取捨選択、追加なども行った。(編集:渡辺登志子)

田村泰冶

はじめに

歴史研究会の席上で会員の方から「掃部山公園に建つ井伊直弼銅像の首が切り落とされたと書いてある本がありますが・・・」、という素朴な発言があった。参加者皆が驚き、その話題が沸騰した。銅像は台座から11メートル余もある青銅製で、銅像の首をどうやって切り落としたのか…?
 著者もながいこと横浜の歴史に携わっていたがそんな話は一度も聞いたことがなかった。当該書物は、歴史専門書や高校の教科書や資料集等を発行している出版社から刊行されている歴史探訪のガイドブックで、信用度も高く、多くの人に利用されているものだった。

井伊直弼の銅像建立については多くの政治問題が発生し、長い闘争の末、横浜掃部山に決定を見て、開港50年祭に併せて銅像の除幕式が行われた。しかし、本当にその銅像の首が切り落とされた事件があったのか、横浜でこのような事象が歴史事実として存在していたのかどうか、その真偽を確かめる必要があると考え、銅像建立の経緯からその後のことなどを調べてみた

1. 事件の発端 -ガイドブックに記述されていたこと-

この部分は原文において、出版物の取り違いなどの混乱がありましたので、主意に変わりなく、編集者により修正させていただきました。

横浜市中央図書館で入手できた歴史関係の書物で、井伊直弼銅像の首切断に関する記事が掲載されていたもののなかで一番古いのは、山川出版社版全国歴史散歩シリーズ14「神奈川県の歴史散歩」1978年12月25日(1版4刷)発行で、編著者は神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会である。4種類(すべて同じ編著者)あったので、以下、各初版の発行順に並べてみる。

井伊直弼銅像
山川出版社“銅像の首切り”掲載のガイドブック(左から)
① 全国歴史散歩シリーズ14「神奈川県の歴史散歩」1978年12月25日(1版4刷)初版1976年6月25日
② 新全国歴史散歩シリーズ14「神奈川県の歴史散歩」上 2000年2月25日2版1刷発行(初版1987年5月25日)
③ 「横浜散歩24コース」 1999年3月30日(初版)発行
④ 歴史散歩14「神奈川県の歴史散歩」上 2005年5月15日(初版)発行
1975年山川ガイドブック
山川出版社のガイドブック
「神奈川県の歴史散歩」

①1976年6月25日1版1刷発行から、下記のようになっていたと思われる。

この銅像の除幕式は直弼こそ吉田松陰たちを死に追いやった安政の大獄の張本人だといって猛烈に反対した元老や大臣たちの圧力をおしきって、1909(明治42)年7月21日、大隈重信やイギリス総領事を招いて行われた。しかし、翌日には、銅像の首がきりおとされたり、さらに第二次大戦中は金属回収さわぎでとりはらわれるなどの受難をうけた。・・・ (58ページ)

2000年2月25日2版1刷発行(初版1987年5月25日の新全国歴史散歩シリーズ14「神奈川県の歴史散歩」上では、

・・・この銅像は幾多の受難を経て今日に至っている。まず除幕式に至るにも一波乱あった。というのは,当時の神奈川県知事周布(すふ)公平の父は萩(山口)藩士周布政之助である。井伊直弼は長州•萩の人々が尊敬する吉田松陰を安政の大獄で殺した人で,この人々の圧力もあって除幕式中止が命ぜられたのを旧彦根藩士らは除幕式を強行したのだった。しかし翌日には銅像の首が切り落され,また第2次世界大戦中の昭和18年,金属回収により取り払われるなど・・・ (96ページ)

③1999年3月30日(初版)発行の「横浜散歩24コース」、テーマ1,8、井伊直弼像の項では

・・明治15(1882)年ころから旧彦根藩の士族らは直弼の銅像建立を計画した。市の有力者からの助力などを断り、旧藩士だけでつくり、横浜開港50年を記念して1909年に除幕式を行った。その後、銅像は首を切り落とされたり、・・・ (94ページ)

と、書かれていた。この内容には他にも間違いがある。当初は銅像ではなく顕彰碑であったし、開港50年を記念して建てられたのではなく、藩閥側による様々な阻止で建立できなかった30年余の時間経過を解決するために、幸い開港50年式典があることに乗じて実行されたものであった。

④2005年5月15日(初版)発行の歴史散歩14「神奈川県の歴史散歩」上では、

…ところが除幕式は、当時の神奈川県知事周布公平(長州藩士周布政之助の息子)によって中止が命じられ、旧彦根藩士らが除幕式を強行すると翌日には、銅像の首が切り落とされていた。… (90ページ)

1976年から刊行されてから30年余(本稿初出2009年の時点)にわたって書き続けられているということは、確かな事実や歴史史料を元にしての出典からの引用されたものと考えたい。が、引用文献が明示されていない。これではどのように「首が切り落とされた」のか経緯が皆目分からなかった

2. 事実を調べる

(1)他社の出版物をみる

他の出版物にはどのように書かれているのか、元々がガイドブックだったので、同類の書物等を横浜市中央図書館で当ってみた。何冊か同様の記述があるのを見つけたが、それらは山川出版社版より後に書かれており、出典の明記がなく、内容表現から推し量って孫引き的な引用記述であったと判断した
 とりわけ、「横浜謎とき散歩~異国情緒あふれる歴史の街を訪ねて~」谷内英伸著 廣済堂出版社 1998年刊は表紙にもタイトル「首を落とされた井伊大老の遺恨」が記載され(トップ画像を参照)、その19ページには、かなり詳しく書かれていた。

・・・当初は1909年に横浜開港五十周年を記念して、旧彦根藩の士族たちによって造られた。ところが、これには因縁話がいくつかある。当時の神奈川県知事は、萩(山口)藩出身の父をもつ周布公平で、おなじ頃に吉田松陰をはじめとする長州・萩の志士たちが井伊大老の断行した「安政大獄」によって命を散らしていた。それからまだ五十年ほど、歴史の記憶に生々しい萩の関係者にとってみれば、心おだやかには見過ごされなかった。銅像の除幕式は、これらの人々の不穏な圧力によって、中止を命じられるというはめになった。収まらないのは、旧彦根藩士たちである。無理やりに除幕式を強行する挙にでた。その翌日、井伊直弼の銅像の首は切り落とされたのである。

と、ストーリー性が強くなっているが、これも孫引きと思われる。が、参考文献に山川出版社のガイドブックの名はなかった。
 後日のことであるが、この廣済堂に問い合わせ、首が切り落とされた事実はないことを指摘した。「著者が居所不明、絶版の予定でいます」との返事だった。しかし、再版され書店の書架に並べられているのを見たときは本当にびっくりした。

(2)当時の新聞記事を探る

明治42(1909)年は横浜開港50年祭でマスコミも大きく取り上げているので、関連した内容であることから新聞紙上に掲載されないわけはないと判断し、「横浜貿易新報」「東京日日新聞横浜版」を同年7月から12月末まで横浜市中央図書館のマイクロフィルムで隅なく調べたが、除幕式後の事件内容の記事は発見できなかった。銅像建立や除幕式にかかわる記事はかなりのスペースを割いて写真入りで書かれているのに、翌日の銅像を壊すことに関する記事がないことは、その事実がなかったことを意味するのではないか
 だが、偶然、後述する30数年後に起こった首切り未遂事件を新聞から発見し、この問題の根深さが浮き彫りにされた

(3)公的機関の刊行物から探る

では地方公共団体が関係して刊行している歴史書にはこの事件がどのように取り上げられているのだろうか。我々が一番信頼して引用したり、事実確認に採用している「横浜市史」通史編・資料編、「神奈川県史」通史編・資料編、「滋賀県史」、「彦根市史」、「横浜西区史」等々の書籍を当ってみたが、事件があったことを探すことはできなかった

(4)古老に聞く

掃部山公園近くの古書店主から、「父は小さい時から岩亀横町近くに住んでいて、掃部山の銅像の首切りの話を聞いていたが実際にはなかった」と、子どもの頃、聞いたことがあるという。また、西区文化協会の幹事会席上で、ある役員のご婦人から「私も小さい頃、聞いたことがある。でも誰から聞いたか記憶にない」とのことだった。古老の話をまとめた『ものがたり西区の今昔』『横浜中区史』等にあたったがこの事件に関する記述はなかった。しかし、街に風聞が流れていたとすれば何らかの事実があったと考えざるをえない。

3.歴史が一人歩きする

(1)ある講演会で

神奈川県青少年センター主催「第1回新春お楽しみKOUZA」が平成19(2007)年1月7日に開催され満員の観衆を集めて、文学講演・歴史講話・創作落語の3部形式の演出で行われた。その2部、歴史講話は「横浜開港余話」と題し横須賀の著名な郷土史家が担当した。話題のなかに、「銅像の首が切り落とされた」と話され、さらに、第3部の『落語』の部では「井伊家の招き猫」が演じられ、出演師匠はその枕ことばにこの首切り事件を使って演じられた

(2)NHKラジオ第2放送から

NHK東京放送のカルチャーアワー「文学探訪」の『横浜・鎌倉・湘南を歩く』講座で、2006~7年に放送された「文明開化の道」項目で講師の先生がテキストと放送で、「首切り」の件を取り上げていた。問い合わせたところ、直接、講師の先生から回答をいただいたが、「何かの本で読んだ気がする。」とのことで出典は不明であった。しかし、丁寧に対応してくださり、多くのご示唆とご意見をいただいた。

(3)吉川英治記念館ブログ「草思堂から」

東京都青梅市にある吉川英治記念館の学芸員が日誌として研究の一端を紹介するインターネットのブログから偶然にこの事件に関するカギが見出された。平成17(2005)年5月20日「横浜散歩―その6」に吉川英治の随筆のなかの「面白い思い出」として、

・・すると除幕式が終えてから数日経ったら、人々がアレヨアレヨと騒いでいるんだな。なんだと思ったら、掃部山の銅像の首がないという。それで、その日の横浜貿易新聞という僕らなじみのある新聞が「掃部頭の首が二度取られた」と書いていた

と述べ、資料館の学芸員も英治の事件記述はやや不正確なので、他の資料を参照しながら銅像事件をまとめたとしている。ここでは『首切り』の事実があったことから出発していた。問い合わせをしたところ、学芸員からは吉川英治の実体験のようだからそのまま取り上げたと説明された。

記事天照義団
「横浜貿易新報」1935.3.4

4.意外な事実の発見

除幕式の翌日、銅像の首が切り落とされたといわれた時から約30年後の昭和10(1935)年3月4日、「横浜貿易新報」の記事

掃部頭銅像の首を狙う天照義団
  深夜の街を壮漢の一隊
   斬奸状をふところに殺気疾風

記事天照義団
「横浜貿易新報」1935.10.8

という見出しで3月2日午前1時10分頃、伊勢佐木警察署の巡査3名が日之出町近くの長者橋でトラック2台を取り押さえ、8名の者を逮捕したことを報じていた。トラックの荷台には梯子、ロープなどを積み、「井伊直弼の銅像につぐ」という斬奸状があり、本署での取調べが始まった。
 この一団は横浜市中区長者町、山下幸弘方に事務所を置く天照義団(団長、山下幸弘)の団員で企画部長、宮崎県生まれ、37歳の田上実次ら団員7名であった。その日が桜田事変の日にあたり、掃部山に建設されている井伊掃部守の銅像の首を取り、銅像撤去をはかって日頃の目的を達しようと意図したものであった。彼らの主張は「井伊大老が違勅の不忠義者であり、安政大獄の張本人だ」として、横浜市に銅像の撤去を要求していたが当局が自分らの言い分に耳の貸さない態度に憤慨して暴挙に出たと主張した。
 当時、全国で右翼団体の騒擾(そうじょう)行動が続発、要人の暗殺等の不穏な動きが顕著になったため、政府は取締り強化方針を打ち出し、全国の警察署が警戒に入った矢先の逮捕であった。伊勢佐木署は恐喝罪を適用し起訴。10月7日横浜区裁判所では判決を言い渡している。(「横浜貿易新報」昭和10(1935)年10月8日付)

これらの記事内容が明治の事件と混同して吉川英治が記述しているように思える。また、古老の話もこの事件にかかわったものではないか。記憶違い、年代の誤差やズレは聞き取り取材には良くあるのかもしれないが・・・。

5.銅像建立をめぐる政争

(1)井伊直弼顕彰碑建立の動き

井伊直弼記念碑建設の動きは近江彦根から始まった。明治14(1881)年6月20日、旧彦根藩士の武笠資節、宇津木翼等の有志が彦根の楽々園で大会を開き、この件を協議したが、時期早尚の意見が多く、当分見合わせとなった。それには藩主井伊直弼の開港通商の功績と内政に関する評価とでは後者の方が明治藩閥体制では強く、不利であることが挙げられていた。
 今、専修大学の史資料課所蔵文書「井伊直弼像建設の沿革」や「新修彦根市史」八巻等を参考にしてその動きを年代順に追って見よう。

明治14
1881年
9月 建碑移文、建碑規約の決定 発起人:彦根 武節貫治・宇津木 翼・武笠資節・大久保章男 東京 日下部東作・横川源蔵
11月 在東京建碑委員を選定
明治15
1882年
4月 在彦根地方建碑委員を選定 記念碑建設の候補地として東京の上野公園、芝公園、靖国神社付近を公私内外に交渉した。
7月 建碑位置を横浜戸部不動山(現在の掃部山)に決定しようとして総会を開催したが東京に建設すべきとする意見が多数を占めてこの案が否決された。
10月 上野東照宮境内に建設申請をした。
11月 上野東照宮境内に銅像式銅標を建てる件が明治15年10月14日に東照宮より内申されるが、内務省は否決(第二局議案で)、その理由が述べられている。

元来公園ナルモノハ最モ其風致ノ存セルカ為ニ衆庶爰ニ来ツテ偕楽スル処ナルヤ勿論、・・・恰モーノ墓地ニ彷彿タルモノニ相成候テハ大イニ園内ノ風致ヲ破り、不都合ノ事卜存候間、・・ 且東照宮 官ニ於テモ固ヨリ同意ヲ表スルニ非スシテ、不得巳副願セシモノナルヤニ相見へ候     明治15年11月16日

明治16
1883年
1月 内務省は第二局否決を受けて申請された上野東照宮境内での建設を不許可(1月18日付)とした。
9月 上野東照宮、芝東照宮付近に建設しようとして交渉したがすべて不調に終った。
11月 建碑・位置の選定を委員に一任することにした。審議の末、横浜戸部不動山鉄道局所有地に決定して、その払い下げを同局長に出願した。
明治17
1884年
1月 その許可を得て、地所を開墾し、平地に均し、記念物設計に着手した。横浜に於いて多数の世話人を委嘱し、事業の進捗をみた。

この鉄道山の土地購入に関しては、当時、横浜正金銀行取締役であった相馬永胤(旧彦根藩士)が、銀行の社宅を作るということで土地取得している。右コラム(狭幅画面では下方)にある田村氏の「相馬永胤と井伊直弼銅像」で説明されている。

(補足)公園入口に立つ案内板の説明「(旧彦根藩士〈滋賀県〉らが一帯を買い取り庭園化し、井伊家に寄贈したことから、井伊掃部頭直弼にちなみ掃部山となりました。)「西区制70周年記念『温故知新』魅力アップ事業実行委員会 平成26年11月」

明治26
1893年
8月 神奈川県知事 中野健明が内務省警保局長小野田元に井伊直弼遺勲碑建設の是非につき問い合わせた。それに対し内務大臣井上馨が拒否の通告を発し、再び建碑は一時中止を見ることとなった。
 内務省の「公文別録」によると

警乙第四七号
故井伊直弼遺勲碑建設許否ノ件
・・・神奈川県知事ヨリ当局主務局長へ照会シ来レリ、依テ之レカ碑文ヲ調査スルニ頗ル直弼ノ功績ヲ賞賛敬慕スルノ言辞トス。然ルニ直弼ノ執政上是非得失ニ付テハ、今尚ホ識者ノ非難ヲ免カレサルノミナラス、同人ヲ殺害シタル者ハ現ニ靖国神社ニ鎮祭セラレアル儀ニ付、一応陸軍省へ内儀及候処、同省ニ於テハ異議無之趣、且一個人ノ意思ヲ表白スルモノニ過キサレハ、素ヨリ鎖末ノ事項ナルニ付許可スヘキノ見込ニハ有之候得共、目下ノ状勢少シク顧慮スル所ナキニアラス、・・・為念閣議ヲ請フ
     明治26年11月17日 内務大臣伯爵 井上馨 印

この文書と共に、同年8月9日付で、神奈川県知事中野健明が警保局長小野田元に宛てた「故井伊直弼(旧彦根藩主)遺勲碑建設ノ儀出願候者有之、碑文ノ概要ハ・・・」という書き出しで「本邦今日ノ外交アルハ、畢竟直弼ノ功労与リテ力アリト認ムルコト…当時国事ニ殉死セシ霊魂ニ対シ感情ヲ害スルノ嫌有之・・治安上穏カナラス…」として、県知事自身の反対的立場が読み取れる。さらに、建碑の場所が根岸村にある競馬場脇の民有地としているのも、この時期には戸部不動山と決めているし、申請も同様と考えられる。銅像建立の反対が先行しているからであろう。これから15年間、計画は中止され、建設計画は頓挫してしまった。
明治32
1899年
3月 東京府が日比谷公園を開設することになり、彦根藩下屋敷に近い場所であることから顕彰碑建設の適地と判断し、交渉した所、内諾がえられた。記念碑建設の活動が一気に活発化したが、5月19日に突然、内務省から横槍が入り、また計画は頓挫。これは「形像取締規則」(省令18号、明治33年5月19日)急遽発令して、願いを却下。その時の内務大臣は西郷従道であった。
明治40
1907年
2月 発起者間に於いて、明治36年、近年流行の銅像建立を望む声が広がり、建碑委員会はその変更を認めた。そして来る42年は横浜開港50年、盛大に祭典を実施することを知り、このチャンスを生かし初志を貫徹する見解をまとめ、遺勲碑から銅像に変更して戸部山に建設する事に決定し、趣意書を起草、設計に着手した。

1.容姿   衣冠束帯の正装
2.建設者  委員総代 相馬永胤
3.建設年月 明治42年6月26日
4.除幕式  同年(開港50年祭にあたる)7月1日
5.原型作者 工学士 藤田文蔵
6.鋳造者  岡崎雪声  鋳造高 1丈2尺
7.台石設計者 工学博士 妻木頼黄   台石高 2丈2尺
      「横浜復興誌」第3編 昭和7年刊 横浜市
掃部山公園入口
掃部山公園入口現在

顕彰に関する案がつくられたのが、明治14(1881)年、当初から東京を考えていたが、反対が強いことから、最終的に横浜で取得していた土地(当時は「鉄道山」と言われた一帯で、購入は明治17(1884)年)に決まり、銅像が建てられたのが明治42(1909)年なので、なんと着手してから28年も経っていた。

(2)除幕式の強行

明治42(1909)年6月横浜の掃部山に銅像が建てられた。7月1日横浜開港50年記念祝賀式が挙行される。その際、除幕式を行事に取り組み、同時に実施しようと祭典委員会は計画し、案内状やプログラムにも掲載し、招待者に配布する手はずであった。が、神奈川県知事周布公平(すふ こうへい)は藩閥政府要人たちの反対表明を受け、除幕式の中止を横浜市に申し入れた。強行すれば祝賀式典を政府要人がボイコットするとの強行意見があり、外国高官が参列し、政府の代表が欠けることは国際慣例上不都合になり、式そのものが成立しなくなる。この混乱を避けるため、旧彦根藩士らは当日の除幕式を延期して祝賀式典の開催を優先した。そして遅れること10日後の7月11日に反対を押切って除幕式を挙行した

除幕式
明治42(1909)年7月11日開催の井伊直弼大老銅像除幕式「開港50年記念帳」より

(3)除幕式の当日

当日の様子は新聞等に大きく書かれているが、横浜時事新報社から12月に発行された「開港五十年記念帳」から様子を見てみよう。

・・此時連日の霖雨漸く晴れて一天拭ふが如く式に列するもの東京横浜は勿論地方より来会せしもの頗る多数に及び定刻午後二時三十分に至り振鈴と共に嚠喨たる海軍々楽隊の奏楽起り銅像建設委員総代相馬永胤壇上に顕はれ事業の経過を報告し、尋いて直弼卿の嫡孫伯爵井伊直忠像前に進みて幕を引けば、美麗なる花崗石の台上に立ちし堂々たる束帯の像はきつ然として頭上に聳え英姿調爽恰かも生けるが如し、会衆皆蕭然敬意を表し暫時片言双話を発するものなかりしが、やがて拍手喝采の声は期せずして奏楽と共に起る、次いで来賓伯爵大隈重信は追悼的祝辞大演説を試みたり、次いで英国総領事ホール、又英語を以て祝辞を述べ法学博士増島六一郎其大意を通訳し茲に式を閉じ会衆皆余興を観覧する間に食堂を開き立食の饗応を為せり、宴酣なる時、大隈伯の発声にて会衆一同井伊家の万歳三唱し、子爵井伊直安遺族を代表し会衆及び建設委員に対し謝辞を述べ薄暮散会せり。 (明治四二年一二月二五日発行)

大隈重信
大隈重信

と、当日の状況を述べているが政府要人は欠席し、他の要人も気兼ねして出席していない。ただ、立憲改進党党首大隈重信のみが来賓として政府の一連の行為を非難し、600名を超える参会者や聴衆から大きな拍手で歓迎された。イギリス公使も祝辞のなかで大老の開港決断の功績をたたえた

水飲み施設
除幕式に合わせ 井伊家から寄贈された
水飲み施設

この土地は銅像の完成後、井伊家に寄贈された。その年、井伊家から横浜市に寄付の申し入れがあったが市会が「種々の事があって・・・」と中央政府との関係を考慮して、やんわりと断った。
 それから5年後の大正3(1914)年、銅像管理を条件として横浜市に寄贈され、公園として整備し、市民に開放された。加えて付帯設備として開港図書館が建設される場合にはその一部として2万円の寄付が申し入れされていたがそれは建設されなかった。

6.銅像の悲劇は続く・・・

(1)関東大震災の被害

銅像と掃部山と名づけられた公園は大正3(1914)年11月7日、市民公園として整備されて開園した。八重桜の名所で、海を見渡せる市民憩いの場として賑わった。しかし、大正12(1923)年9月1日正午直前、突然大地震が襲い、市内の家屋は倒壊し、火災によって多くの人命と家屋・財産を失い瓦礫の街と化してしまった。
 掃部山公園は付近の罹災者の避難場所となり、仮設住宅が建設された。幸い、銅像は倒壊せず、台石中央から約90度右にずれて、台石の端が欠けた程度ですんだ。震災復興事業として公園を整備し、銅像を中心とした部分では正面にもう一段、石の階段を作った。

(2)太平洋戦争による銅像撤去 ~金属回収令の発布~

わが国が昭和16(1941)年、戦争に突入し、長期化するに及んで米英に四海を包囲されると忽ち資源が枯渇し、生活物資から戦争機材の資源に至るまで不足し、「欲がりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」のスローガンをたて、配給制の生活が強いられ、軍需品の生産が優先されて金属資源が欠乏する昭和18(1943)年、全国に金属回収令が発令され、金属は門扉、金具、寺院の梵鐘、国民の身に付けている貴金属類まで供出させられた。(右コラムまたは下方に、補足説明として「戦時中の金属回収『資源特別回収綴』から」と題し、当時の金属(銅像)回収の基準が示されている。)
 当時の新聞記事でその経過を見てみよう。

 

   掃部さん応召  けふお名残りの離魂式
 ハマの名所掃部山からミナト横浜を一望に見降している開港に由縁ある井伊掃部頭の銅像が近く赤襷で応召する。16日午前10時から井伊家立会のもとに半井市長、田島・渋江両助役らが出席。銅像前で名残りの離魂式が行われる・・大正3年8月横浜市へ寄付されたもので、その条件として「永久に保存すること、若し保存が出来なくなった場合は井伊家へ返還する。」という一札が入れてあったので、市では井伊家と再三折衝を重ねた末、同家の承認を得て銅像回収に呼応することになったものである。 「神奈川新聞」 昭和18年6月16日号

また、「朝日新聞」同年12月26日付によると

  井伊掃部頭 市役所入り
    石膏像近く市民にお目見得

 出陣応召した横浜中区掃部頭の銅像を縮小した石膏像が24日午後市役所へ搬入された。像の高さ2尺5寸、台座が7寸5分だが銅像の型とそっくりもの。作者は鶴見区末吉町、清水青厳氏が半年の苦心の後完成を見た入念の作である。今、25日から市民博物館に陳列される。

と、紹介されており、現中央図書館脇にあった市民博物館に展示保管された。

(3)開港百年、銅像の再建立

昔の銅像
現在の銅像  

左:横濱絵葉書に見る金属回収前の昔の井伊直弼像。右:現在の井伊直弼像(2022.11.02撮影)。台座との対比で見ると、昔のほうがずっしりとした感じで、現在のものより一回り大きく見えるがどうだろう。

昭和18(1943)年以降、掃部山公園には台座のみが空しく残されていたが、1954(昭和29)年が横浜開港100周年に当ることから記念行事の一環として銅像を再興する動きがあり、神奈川県・横浜市・商工会、それに市民の協賛を得て計画が実行に移された。
 前年の12月、実行委員会は慶寺丹長父子に銅像再鋳を依頼、基礎となる模型を東京の井伊家菩提寺、豪徳寺の井伊大老の彫刻を、先の銅像の原型大に拡大して出来うるかぎり前彫刻と合致するものになるよう苦心した。昭和29(1954)年5月20日完成し、掃部山公園に据え付けた。11年振りの銅像再現であった。台座裏側には、この時の経緯が記されている。(その碑文は右コラム、狭小画面では下方に掲載している。)

銅像頭部
正面から撮影。頭部は確かに少し右に
向いて、横浜港方向を見ている。
 

新しい銅像は旧台石の上に正装の姿で建ち、正面を向き凝視している。いわば横浜港を見ているというより江戸(東京)方面を向く姿勢である。だがよく見ると井伊掃部頭の頭部のみは約10度ほど右へ傾け、開港場よこはまを見るような姿勢になっていることが当時の写真からも、新しい銅像からも判読される。
 著者も井伊直弼銅像を東京に建立させたいとする思いが当時は強かったことを受け、横浜に建立しても東京(江戸)を見つめる姿勢をとっていたと合点していたが、銅像は胴体は正面、頭は多少右向きにしていると了解している。
 しかしながら、いつも横浜港を見つめていた直弼像は現在は林立する高いビルに阻まれ、港湾も海も、もはやそこからは見ることができなくなってしまった。

まとめにかえて―銅像毀釈捏造の原点は―

(1)吉川英治の随筆「折々の記」から

横浜にゆかりのある文豪、吉川英治の書いた長編時代小説「井伊大老」のあとがきの文中に、掃部山井伊直弼銅像の除幕式にかかわる体験記風に書き綴った内容があった。昭和23年版で、その後「折々の記」に詳しく語られている。

・・・銅像建造運動も興り、明治38年、かれの衣冠束帯すがたが、開港横浜の紅葉山にそびえた。・・・
来賓の大隈重信が演説し、全横浜港は、花火や花車の開港祭りに賑わった

と、述べているが、正確性はなく、この短いの文章の中に3点の誤り(赤字)があった。
さらにこの小説の解説者清原康正氏は文中で吉川英治の随筆「折々の記」の一文を引用して

銅像を建てる運動が邪魔されたり、銅像の首がとられた

と、平成12年版で説明している。
 銅像毀釈の源はこの『折々の記』で吉川英治が記述していることが素因と考えられる。『折々の記』は記者と対談形式で話した内容を新聞の連載として発表し、後日まとめて1冊にして刊行したものである。

今回問題になるのはその随筆の中の「僕の歴史小説観」という項目の中で「歴史上の人物あれこれ」で語られたものである。

 井伊掃部頭が主義の邪魔者だというので、斬って時局を動かしたけれど、それから20年後には反対に井伊掃部頭の銅像が横浜に建ってしまい今度は開国の偉人ということになるでしょう。…僕にはその井伊大老について面白い思い出がありますよ

と、述べていて、銅像の除幕式の情景から、その間の経緯、闘争が書かれ、首が切られた様子が事実のように語られている

すると除幕式が終えてから数日経ったら、人々がアレヨアレヨと騒いでいるんだな。なんだと思ったら掃部頭の銅像の首がないという。それで、その日の横浜貿易新聞という僕らなじみのある新聞が「掃部頭の首が2度とられた」と書いていた。ほんとに、銅像の首が失くなってしまったんですよ。…銅像の首は地上へ降ろしたら大変な目方の物だったそうだが、いったい、どういう風にしてとったのかわからないんだ。それから京浜国道をトラックに銅像の首を乗せて運ぶところを、捕まったという別の記事を、それは何年も後ですが見たことを覚えている。新聞にはやはり水戸方のした事だと伝えていたようです。

(赤字は著者が誤認の箇所とした所である)

この見聞は吉川英治が13、14歳頃と述べているが考察すると、かなりの誤記があり、この文章自体が歴史事実ではなく、時代小説的なフィクションもののように思える。列記してみると

  1. 横浜貿易新報にはその記事は記載されていない。
  2. 13歳頃というが、英治は明治25年生まれ、当時は17歳になっていたはずだ。
  3. 銅像は台座が7メートル、像が4メートルほど、この高さの首をどうやって切り落とすのか。約4トン近い重量の青銅、首だけでも相当重いし、落とせば首に傷がつく。ハシゴくらいでは実行不可能。
  4. 京浜国道は明治42年時代には存在しないし、トラックという貨物自動車は存在していなかった。当時はタクシー、自家用車が普及しはじめていた時で、東京には60台の自家用車が存在していたという。万一自動車があったとしても公園内には横付できる広い道路はなかった。 
  5. 「犯人が捕えられた」のは旧水戸藩の仲間ではなく右翼団体「天照義団」で、29年後の昭和10年のことである。2台のトラックもその時である。

吉川英治はこの頃、横浜市西区西戸部の長屋に住み、年令を偽って横浜ドックの通称カンカン虫、船舶の錆落としの危険な作業に従事していた。掃部山際の岩亀横丁を毎日通っていたから、仲間たちからよもやま話を聞いていたかもしれないし、芝居小屋、寄席等が軒を連ねていたから講談や噺家、時代劇くずれの現代劇等で知識を得ていたのかもしれない。後日、仕事場で足場を踏み外し海に転落、1ヶ月の重症を負って十全病院に入院している。見舞い客からも市井の話題を聞いていたのかもしれない。もしも実際に事件が起きていれば器物破損、窃盗罪が適用されるから事件簿等に記載されるであろうし、昭和10年の事件のように報道されたであろうが、それもない。銅像写真を図書館で調べられる範囲で見たが首のない写真や頭部だけ違う形式とか、色彩(白黒写真)というより時代空間による表面陰影の違いを見つけることは出来なかった。

(2)歴史を志す者にとって大切なこと

横浜の、いや日本の、誇るべき文豪であり著名人である作家の体験記で語られれば、事実として、一般市民には受け入れられてしまうであろう。時代小説ならば作者の人生観や意図的構成をもって展開し、人物をイキイキと活動させ、主人公を浮き出させるために架空の事件や人物を配置するなど、フィクションでは当たり前のことで、歴史であって歴史でないことが事前の了解となっている。
 しかし、歴史は真実を、事実を、極めることが第一で、史実に忠実でなければならない。問題提起となったガイドブックは30年近く、この銅像の首切り問題を世間に開示して事実として主張した。編集者に問い合わせても返事も質問事項にも答えていただけなかった。出版社編集部の責任者は事実確認をしてくださり、近代史専門の顧問教授に調査していただき事実無根という結論に達しているのにもかかわらず、平成19(2008)年の新版発行の際は従来通りで発行している。理由は吉川英治が公表しているので、これを根拠に会社として継続いたしましたという。廣済堂出版社は著者が居所不明、絶版の予定でいますということで了解していたら、同様に再版されて書店の書架に並べてあったのには驚かされた。著者とコンタクトを取りたいと申し入れたのは何のためだったのだろう。

多くの読者が間違った事実が正しい事実として記憶されることは歴史関係者にとっては一番危惧するところである。その禍を避けるためにはガイドブックであれ、パンフレットであれ、事実確認を行い、出典にあたり、自分の手でしっかり事実を確かめて引用すべきであろう。そして引用文献を明記すべきであろう。責任をもって新しい情報、史実に沿った内容を提供しなければならないと考える。
 横浜市は平成20(2009)年、開港150周年を迎えた(本稿初出の2009年時点)。この時期、今一度、横浜の歴史、郷土の歴史を、再点検、再評価をしてみてはどうだろうか。

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