横浜歴史さろん

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よこはま歴史仲間

大都市横浜には、郷土の歴史や文化について調査・研究している団体や、自主的に勉強しているグループがたくさんあるそうです。このページでは、そうしたお仲間の紹介や利用できる有益な施設の情報などを順次提供しています。

これまでにご紹介した団体、施設等の記事は「アーカイブ」にてご覧になれます。

横浜の歴史に関係する活動を行っているユニークなグループ、利用可の知られざる施設・建物などがあれば、紹介させていただきますので、ご連絡ください。
  rekishi@yokohamasalon.link

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★紹介コーナー No.13

たゆまぬ地道な研究で郷土の歴史に光を当てる「横浜西区郷土史研究会」

横浜久保山の寺町通りの研究

『横浜久保山の寺町通りの研究
―横浜久保山共葬墓地と関わって―』

―久保山墓地の全体像を明かすこの度の調査研究冊子もご紹介―

横浜西区郷土史研究会が、横浜に古くからある巨大な久保山墓地に関する調査研究を行ない冊子にまとめたとの情報を得て、取材を申し込みました。会長の田村泰治氏のお名前は昨年このページに掲載した「横浜郷土研究会」を調べていた時に何回か目にしていました。今回は例会での発表も拝聴させていただき、西区の歴史にも、開港地横浜ならではの影響が大きく関わっていることが分かり、なおいっそう横浜の歴史の面白さを実感しました。(取材/文:渡辺登志子)

1.例会発表「東が丘にあるナゾの『大洞窟』」

2020年11月28日の例会の様子。戸部コミュニティハウスにて。

横浜西区郷土史研究会(以降、西区郷土研と略す)の11月28日(土)月例会での発表は、会員の関根啓二氏による「東(あずま)が丘にあるナゾの『大洞窟』」だった。何がナゾかというと、東(あずま)小学校の校庭を支える石垣壁にある洞窟(小トンネル)入口である(今は入口が塗り固められて中へは入れない)が、それが何のためのものなのか、ずっとナゾだったというのだ。戦争中、洞窟内に入り200メートルほどまで行ったことのある人々の証言によると、中はアーチ状になっているところもあり、足元の低い所は水が音を立てて流れていたという。皆恐ろしくなって引き返してしまったので、その後あれこれと推論されていた。

校庭の下にあるナゾの入口

そこで一番説得力があったのが、パーマーによる近代水道敷設以前(明治20(1887)年10月給水開始)の水売り業のためのものであっただろうという説である。開港後、横浜村にどっと人々が押し寄せたものの、外国人、日本人とも居住者は水不足で苦しんでいた。この洞窟は人が入れる大きさで奥行200mもあり所々レンガ補強しているのだから、かなりの人手をかけている。財力と土木の知見を持った本格的な水売り業者に違いないというわけである。入手可能な資料を精査し、至った結論として、この水売り業を手掛けたのが明治中期の横浜の運河づくりで有名な伏島近蔵(ふせしまちかぞう)であり、取水するこの一帯の土地所有者は洞窟の入口付近から山側にかけては吉田健三(様々な経歴を持つ資産家で元首相・吉田茂の養父)、下流付近が上郎幸八(こうろうこうはち)(吉田健三の友人、横浜で財を成した人)であり、他の投資家たちとともに揺光社を興し、飲料水販売事業が行われたということであった。

この洞窟を再調査し、横浜市の産業遺産としてはどうかと会から働きかけたが、明解な証拠となる資料が提示されないかぎりは難しいとのことだったそうだ。

(文末に、西区郷土研の例会での主な研究発表論文項目と発表者を列記しました。項目を読むだけでも興味が湧き、想像が広がります。)

2.はじまりは約40年前の『横浜西区史』編纂事業から

西区郷土研のはじまりは、昭和56(1981)年11月で、西区40周年記念『横浜西区史』編纂事業の継続として、郷土の歴史研究と区民への啓発活動を進めるために発足、会員約30名、賛助会員20名をもって組織したという。現首相の菅義偉(すがよしひで)氏も会員で当初より秘書共々参加されていたそうだ。今回、第99代内閣総理大臣になられたので、会としてお祝いの電報を送ったとのこと。
 現在会員は約30名、会長は5代目で田村泰治氏が務められている。例会は原則毎月第4土曜日で、会員の研究発表・調査報告・会員意見交流が行われる。また、歴史散歩が原則年5回、第2土曜日に行われる。会報がこれまで第55号まで発行された。また、特集的な冊子の発行は3回目となっている。

3.冊子『横浜久保山の寺町通りの研究』の発行

広大で複雑な久保山墓地、ごく一部の風景。

横浜に長年住んでいる市民なら「久保山墓地」は昔からある大きな墓地であると知っている。しかし、お墓参りに行く人は、目的の場所にしか行かないし、ここには他にどんな人々が眠っているのか、とか、どれほどのお墓があるのかなど、久保山墓地全体を考えることはないと思う。
 しかし、歴史が好きで調査や研究をしている人は、どうしてもお墓に近づくことになる。人が生きて死ぬことが積み重なって歴史が紡がれていくのだから、赤の他人であっても、歴史上の人物が眠っている場所を知りたくなるのである。その墓石や碑から何かを読み取れればと思っている。久保山墓地にはかなりの著名人が眠っている。例えば、都市横浜形成の大元といえる「吉田新田」をつくった吉田勘兵衛である。では、なぜ吉田勘兵衛を始めとする吉田家の墓が久保山墓地にあるのだろうか。その答えのみならず、多くのことを解き明かしたのが今年5月に発行の小冊子「横浜西区郷土史研究会創立40周年記念『横浜久保山の寺町通りの研究 ―横浜久保山共葬墓地と関わって―』」(A5判)である。

開港したことにより横浜にどっと人々が押し寄せて、水不足で先に記した水売り業が繁盛していた頃、当然ながら土地不足にもなった。(以下、冊子より抜粋)「明治7(1874)年、神奈川県横浜地区は規模が膨らみ、行政区が横浜町となり、その総年寄役(現在の市長にあたる)に任命された保土ヶ谷宿本陣の十代目名主軽部清兵衛が横浜町の発展のため、市街地の再開発を進言、自分の所有地である保土ヶ谷駅岩間町字久保山の地を神奈川県に寄付し、市街地にある墓地や寺院を移転させて、その空き地を有効に使用しようとした。
 神奈川県はこの土地を『久保町共葬墓地』として設置許可を久保町字、大谷・林越・大丸・久保山にかかる29,857坪余に与えた。―中略― 新興住宅地・商業地となった横浜中心部には長者町(現在の福富町を含む)には吉田新田造成者の吉田勘兵衛が建立した常清寺があり、境内には大きな池や墓地を持っていたが、繁華街の傍に其の施設があるため、まず墓地の移転が命じられた。野毛には林光寺・大聖院という寺院もその対象となった。中心部の関内にあった蓮光寺は逆に山手丘陵の端、地蔵坂(石川町三丁目)に移り、元町の増徳院は根岸丘陵に移った。横浜市街地に人口が増えると、信者を獲得するため宗派の拡張を図るために説教場が(各地域に)開かれ、人々の安定や心の拠所として信仰者を集めた。―中略― 常清寺は明治7年11月から約半月をかけて墓地の移転のみを完了した。」  

墓地内にある「官修墓地」の説明板。(こういう説明はありがたい)

その後、久保山には墓石の石材店、お茶屋(墓参りに必要なものを揃えて、接待もする)が集まり、民営墓地(寺院、石材店、茶屋などが参入)が広がり、それらの所有、運営、委託などが入り組み、複雑な様相を呈するようになっている、とある。ここには、戊辰戦争で負傷し、軍陣病院のあった横浜へ移送され、そこで亡くなった武士たちの墓(官修墓地)もある。
 「寺町通り」という名称は田村会長の発案で、正式名ではないが、区境の尾根を走るバス通り上に多くの寺院、石材店、茶屋があることから、そう呼ぶことによって、久保山共葬墓地の存在感を高め広めたいとの思いがあるようだ。

現在の区域を示す番号。
一区域が広すぎて探せない。

本冊子は久保山共葬墓地の歴史的なことのみならず、現在の様々な問題点、そして今後のお墓や墓地のあり方にまで言及しており、また、相沢墓地(横浜根岸共同墓地)も含めて、墓地に眠る著名人のリスト(場所が特定できないものもある)もあり、平易で理解しやすい文面ながらも、実に奥が深いものとなっている。久保山には先に記した吉田健三、吉田茂の墓(健三とは全く別の場所)もある。吉田茂の墓に関しては、国葬(国家に功労のあった人の死去に際し、国家の儀式として、国費をもって行われる葬儀)にまでなった人物の墓にしては、何の変哲もない普通の墓であり、彼の偉業を称える顕彰碑が必要なのではないかと、例会でも話題に出ていた。
 しかしともかく、ここで一番必要なことは、お墓が3万基余りもあるので、区域を分かりやすく整理し、案内板を建てること、それを示す案内図の作成なのである。今も一応区画はあるものの、範囲が大きすぎて目当ての場所に辿り着くのに非常に苦労する。これまで横浜の高名な郷土史家が著名人のお墓を探し当てようと挑戦してきたがいずれも挫折している。西区郷土研としても、すべてが分かったわけではないが、3年余りの月日をかけての調査で、これまで曖昧だった多くのことが今回の調査で解明されている。(冊子をご希望の方は、当サイトのメール宛にご連絡ください。rekishi@yokohamasalon.link)
(行ってみるとわかるがとにかく広い、景色は最高だが、行き止まり、断崖崖っぷちも多く複雑で入り組んだ地形、無縁になった所も多い。奥まったところなどは足腰の弱い方は無理だろうと思う。これからの時代、中ほどにはトイレが必要、急な階段状のところや斜面は手すりが必要と感じた。)

4.新たな取り組み「七福神めぐり」

西区郷土研は設立40周年記念行事の一環として、1月3日~15日の約12日間『西区七福神めぐり』の実施を目指しているが、もちろん来年早々はコロナ禍により実施はできない。
 会が目指す「七福神」は宗教的よりも区民レクリエーションや町おこしの色彩が強く、西区の区制方針にも合致した軽スポーツ・区民コミュニケーション・西区の歴史を学ぶ場としての立場なのであるが、一部の寺社の関係者には宗教とかけ離れた活動と目され、宗派・祭神等で、関係のない神格を設置することに強い疑念を持たれていることもある。しかし、実施に向けて、すでに概略はできており、寺社との交渉も進めている。また、西区役所、西区ボランティア協会、西区文化協会、西区社会福祉協議会、西区連合町内会、西区商店連合会等の協力も得られるように交渉を進めており、何とか実現させたいと果敢に取り組んでいる。

役員の皆さん、右より:山口精一氏(副会長)、鵜沢秀男氏
(副会長)、田村泰治氏(会長)、杉森幹弘氏(会計)

5.会としての課題

会員・役員の老齢化が進み、特に役員の殆どが80歳以上となっているので、早期の若返り策が必要となっている。しかし、近年の会員は調べる・追及するという研究に向う人が少なく、先人からの知識習得が目的で例会や歴史散歩に出席しているように見える。そのため、今後はベテラン会員と新人会員の落差も考慮して、初歩的な古文書の解読、歴史事象の学習、身近な地域の歴史散策など、普遍的な内容も展開して会員を育てる必要があるのではないかと考えているそうだ。それは、歴史に興味を覚え、学んでみたいと思う初学者たちにとっては大変ありがたいことなので、是非、ベテラン会員の調査研究発表と並行して、取り入れていただけたらいいと思う。そうした中から次世代の研究者が育っていくかもしれないとの期待が持てるのである。

これまでの例会での主な発表一覧

(欠けている年・項目あり)(歴史散歩の項目は省く)

年号 西暦 タイトル 発表者
平成元 1989 西区の川と橋の研究 永井学
1990 戸部なる地名考 村上博通
語り継ぐ桜川と紅葉坂 野澤日出夫
昭和20年前後の戸部通り 小森雅男
1992 羽沢稲荷 小森雅男
1993 社宮司社の手洗い鉢 野澤日出夫
1995 横浜地域の文化財史跡 伝御所五郎丸墓の問題点 金子勝男
1996 市電停留所の変革 長谷川弘和
海防始末・阿部正弘 野澤日出夫
11 1999 横浜開港とユダヤ系資本の侵略 村上博通
横浜花街史稿①から④ 永井学
12 2000 混血児救済活動としての「五三会」と 平野威馬雄の活動について 田村泰治
久保山光明寺の忠魂碑 秋山佳史
14 2002 天保年間帷子川河口新田略絵図に見る 平沼新田と岡野新田の世界 田口康男
「平沼高校」校名の由来 山口精一
15 2003 消えた稲荷社と青面金剛像 野澤日出夫
16 2004 「歴史に学ぶこと」 マスコミが作る歴史や人物像 田村泰治
林大学頭と岩瀬忠震 野澤日出夫
17 2005 西洋歯科医学の開祖 WC イーストレーキ終焉の地 村上博通
神奈川奉行所に至る戸部役所考①~⑤ 田村泰治
18 2006 昭和17年11月30日 ドイツ艦船横浜港で大爆発 小森雅男
横浜道 ①~③ 田口康男
20 2008 文豪吉川英治の事実誤認から井伊直弼銅像・首切り事件 田村泰治
近代水道発祥と江戸の水道 田口康男
横浜外国人居留地の町名考 田村泰治
横浜軍陣病院の開設①~② 野澤日出夫
21 2009 横浜に於ける麻真田工業の盛衰 田村泰治
横浜における民権ジャーナリズムの進展 田村泰治
戦後ファッションショー小史序章 秋山佳史
22 2010 横浜開港期の見聞録を読もう 松代藩片岡志道見聞録①~⑩ 田村泰治
横浜商人と野毛山 田口康男
氷川丸の航跡 山口精一
1990 鳥羽伏見の会戦と英公使パークス①~② 野澤日出夫
23 2011 戦艦 三笠の生涯 小森雅男
世相史と流行―明治流行史略年表 秋山佳史
明治維新の裏側 村上博通
地中から現れた鎌倉 秋山佳史
24 2012 岡野新田と岡野欣之助 山口精一
横浜茅ヶ崎城址―中世城郭の典型 田村泰治
25 2013 三浦氏と和田義盛 倉島久男
芝生村物語――浅間町の今昔 藤江 武
26 2014 鎌倉御家人平子氏考①~⑤ 田口康男
27 2015 戦後70年、戦争と市民生活を考える 田村泰治
横浜の古道 鵜沢秀男
28 2016 横浜市内の庚申塔①~③ 鵜沢秀男
学童疎開 山口精一
世界遺産 富岡製糸場と横浜商人原富太郎 田村泰治
軽井沢古墳について 杉森幹弘
29 2017 佐賀鍋島藩と横浜―鉄道建設 川瀬誠治
横浜開港と佐久間象山・吉田松陰・岩瀬忠震 倉島久男
横浜久保山寺町探索と研究①~⑤ 田村泰治
テレビ時代劇の間違い 小森雅男
30 2018 水戸藩と天狗党の乱 倉島久男
吉田新田の開発開拓者 吉田家と常清寺・清正公堂 田村泰治
吉良氏蒔田城をめぐって 吉田欣司
足利尊氏 ①~③ 鵜沢秀男
横浜商人を育てた小野光景と横浜 田村泰治
戸塚の歴史研究―七福神と関って 有馬純律
仏像の見分け方①~③ 鵜沢秀男
三浦一族の攻防 三浦道寸 田村泰治
31 2019 横浜商人茂木惣兵衛と野澤屋 田村泰治
松尾芭蕉と私の研究 関根啓二
横浜開港にともなう下層社会の現出と動向 田村泰治
令和元 2019 鎌倉幕府成立の謎 麻生民次
日本の神話を読み直す①~③ 田村泰治
2020 (コロナウイルス蔓延つき自粛)
東小校庭「ナゾの洞窟」 関根啓二
3予定 2021 江戸庶民史 ③ 小森雅男
古事記を読み直す④ 田村泰治
奥の細道の原本について 鵜沢秀男

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