米軍住宅跡地のマンション街 パークシティ本牧けやき会「歴史カフェ」の取組み

管理棟にあるパークシティ本牧全体を示すジオラマ
これまで、いくつもの歴史サークル(郷土史研究・歴史散歩・古文書学習等)を取り上げてきましたが、その主体は退職後の高齢者(主に70歳代)が中心です。今回は自治会・老人会内での“歴史を学ぶ取組み”を取り上げました。
今年設立30周年を迎えたパークシティ本牧の老人会「けやき会」では4年前から「歴史カフェ」が行われ、その波及効果も種々あると伺いました。また、ここはかつて米軍住宅のあった地域であり、周辺には本牧の名所が多いことから、本牧の歴史にも焦点を当ててみたいと思います。(取材/文:渡辺登志子)

管理棟は古い洋館、山手250番館。その説明書きより:「〈パークシティ本牧〉のクラブハウス(管理棟)の建物の原型は、1929(昭和4)年、山手250番地に建てられた、スタンダード石油会社社宅(アントニン・レーモンド設計)である。後に、横浜インターナショナル・スクールの施設として使用されていたが、1985年3月に取り毀された。」この設計者は、山手のエリスマン邸でも知られている。なぜ、ここにあるのかの説明は見当たらない。
1.けやき会30周年記念講演「横浜・本牧30年の歴史」

30周年の祝辞を述べる西村会長
2022年9月7日(水)、敷地内にある管理棟の本牧ホールにて、けやき会30周年記念の式典が行われた。会長の西村春樹氏の挨拶のなかで、「30年前の1992年の流行語大賞は『きんさん・ぎんさん』。当時100歳で元気、それも双子だから更に珍しかっただろう。だが今では、高齢者が急増し、100歳以上といっても以前ほど珍しくなくなった。これからの老人会の在り方も時代の変化にともない、隣接する本牧原地域ケアプラザなど外部組織とも連携していきながら、変わっていくだろう」との話があった。
「横浜・本牧30年の歴史」と題する記念講演は、本牧元町にある横浜市八聖殿(はっせいでん)郷土資料館の館長 相澤竜次氏を講師に迎えた。相澤氏は歴史カフェ当初から顧問をされている。
お話は終戦直後の接収がどのように行われ、その過程やその後どのようなことが起きたのか、接収地には複雑な地権問題があり、返還の際にはそのための解決案が複数あり、どのように交渉され、どのように開発が進められたのかを、他の接収地域の状況も含めて説明された。
面白かったのは、この本牧の米軍住宅地域は、当時、我々日本人にとって「フェンスの中のアメリカ」であり、広い敷地に広い間取りの家、美しい緑の芝生、セントラルヒーティングなどの贅沢なインフラ完備、多くの遊興施設・大型ショッピングセンターがあり、アメリカ人のその豊かな暮らしぶりに羨望の眼差しを向けたものだったが、当時の米軍新聞によると、実はアメリカ人にとっても、この海岸沿い約8万坪につくられた住宅や施設は景観にも配慮した将校・下士官クラスに提供される最良の接収地住宅であり、憧れの住宅施設だったとのことだ。
2.新しい街づくり、けやき会と歴史カフェ

米軍住宅配置図。東側の海岸沿い一帯がArea1、市電道路の北側(山側)がArea2、現在の本牧神社(旧・十二天)がある。画像は市史資料室所蔵、八聖殿経由にて掲載。ここにはないが、根岸にあった米軍住宅はArea Xだった。
◆「パークシティ本牧」(中区本牧原)の敷地は、かつて 米軍の家族住宅地Area 1であった。1982年(昭和57)日本政府に返還されたのち、本牧では「よこはま21世紀プラン」に沿った21世紀にふさわしい国際性ゆたかな緑あふれる住環境を創ろうとする官民一体の街づくりが進められ、1988年竣工の「パークシティ本牧」はこの本牧をまさに象徴する街区となった。集会室、テニスコート、公園などがあり、住居棟9棟、総戸数666世帯の規模を誇る。当初、入居者は地元の人が1割程度、そのほかはこの新しくできた街の良好な住環境を求めて、近隣各地からやって来たと考えられている。ほぼ同時期、すぐそばにマイカル本牧という映画館やホテルを備えた大型商業施設が完成した。横浜市営地下鉄が延伸され、ここを通るという話もあり、大いに活況を呈していた時期もあった。しかし、地下鉄延伸計画は立ち消えた。最寄り駅(JR根岸線の山手駅か根岸駅、みなとみらい線 元町・中華街駅)からは遠く、公共交通はバスのみによる。みなとみらい地区が盛況となるにつれ外からの客足が遠のき、2011年に映画館やホテルのあったマイカル本牧が消え、総合スーパーのイオン本牧になるなど、かつての華やかさはなくなったが、高齢社会とともに、整備され落ち着いた住環境と心地良いコミュニティが愛されて、依然として高い人気で、資産価値としても高水準を維持している。

本牧神社の
鳥居の後ろ側
にあったマイ
カル本牧の
痕跡
◆「けやき会」(自治会の老人会)は、1992年9月、パークシティ本牧自治会参加のサークルの一つとして高齢者の社交、親睦を図ることを目的として設立された。当初はパークシティ本牧自治会全体の年齢層も若く、またバブル期に建設され入居者は富裕層も多く、老人会といっても、旅行などを主体に活発に活動していたようだ。
現在のけやき会会長の西村春樹氏は9代目で、2年前に会長職を引き継いだ。ここ数年の会員数は45名前後、平均年齢は70歳代後半で女性会員の方がやや多い。新しい会員を募ってはいるが、高齢であっても「まだ自分は高齢者(老人)ではない」と思っているのか、けやき会としては会員数がのびない。パークシティ本牧にどれほどの高齢者(60歳以上)がいるのかは、個人情報保護で明らかにされてないが、666戸の世帯数から考えるとかなりの数になるだろうから、まだまだ会員増加の余地はある。会費は月200円の半年払い、自治会や中区老人クラブ連合会からの補助金があるが、会費で賄えない場合は実費負担が原則。後述する歴史カフェへの参加費は無料で行っている。今日、コロナの影響も多いなかでも、けやき会としては、地味ながらも着実なあゆみを進めている。

パークシティ内にあるけやき通り、
ここから「けやき会」という名称と
なった。
◆歴史同好会「歴史カフェ」立ち上げ
約5年前、現会長の西村氏が「けやき会」の役員の一人となったころ、「コミュニティ・カフェ」という構想があった。せっかく集まるのなら目的を持って長続きするものを、と考え自分が好きで得意とする「歴史」を取り入れようと思いついた。当時、横浜の歴史の勉強会に参加していて、自分でテーマを考え、調べたことを発表したりしていた。八聖殿で毎月のように行われていた歴史講座・歴史散歩にもたびたび参加していたから、相澤館長とは顔なじみだった。ただ、西村氏は生まれも育ちも横浜ではなく、かつて両親がいたこのマンションに移り住んだのは2010年、退職後のことだったので、昔の横浜を肌で感じた経験がない。そこを補ってもらうためにも、横浜が地元でパークシティ在住の歴史仲間、橋田篤廣氏(現副会長)に声をかけ、歴史同好会を立ち上げることになった。ここでの歴史は、いわゆる教科書的な歴史ではなく、出来るだけ身近な自分との関係が見える歴史を目指した。けやき会からの承認も得られ、八聖殿郷土資料館館長相澤竜次氏を顧問として招聘、2018年6月2日、歴史カフェ発足講演会のチラシをパークシティ本牧の全戸に配布した。
発足は2018年(平成30)年6月9日、発足の記念講演は相澤館長による「パークシティ本牧地域の変遷」であった。(その後の歴史カフェの各回の活動記録は下方に掲載)
2019年3月には、コロナウィルスの流行の影響もあり、けやき会副会長の橋田氏を中心とする「歴史ウォーク」を進めていく方針となった。
3.「歴史カフェ」効果

歴史カフェ「外国人遊歩道を巡る」
2022年4月 根岸森林公園にて
これまでの活動では、「子供たちが通う本牧小学校」、「中区消防署」「横浜市営交通」など、各施設の創立百週年記念に合わせて講演を依頼した。また、けやき会の新会員の入会を図るために、敷地内の植栽の管理をする「横浜植木株式会社」や、身近な「横浜銀行」、「横浜開港記念会館」等にも講演をお願いした。新会員の参加促進にはそれなりの効果があり、現在の役員のなかには、歴史カフェに参加して、けやき会の存在を知り、入会し、さらに役員になった方もいる。役員の方々にはそれぞれの役割分担があり、とても職務に熱心に取り組んでいる様子が伺い知れる。
けやき会・歴史カフェと、八聖殿郷土資料館と、本牧原地域ケアプラザの、この三者の相互協力が展開されるなか、八聖殿の相澤氏が他の地域ケアプラザ等の公共施設で、その地域に合った、またその時々にタイムリーなテーマで講演するようになった。これには歴史カフェで培った経験の積み重ねが大いに活かされているにちがいない。地域ケアプラザ側などでは、有益な催し(歴史を踏まえたお話)が増えて喜ばれているという。
4. かいつまんで振り返る「本牧」という所

本牧十二天緑地。かつては海に突き出た崖の突端
にあった十二天は、今は道路脇に、そこだけ木
々に覆われたこんもりとした大きな岩の塊のような
感じで残され、説明板が何枚も並んでいる。
「本牧」という名称は複数の町名を含む周辺一帯をまとめた地域を指し、地図で見ると中区の下方、右下方向に海に出っ張ったところで、北は山手、西は根岸に接し、東・南は東京湾に面している。横向きの鼻の頭のようで、「ペリーの落書き」で有名なかわら版には「本牧鼻」とあるが、よく言ったものだと思う。

江戸時代、伊能忠敬作成の地図の本牧付近を拡大。
本牧本郷村と書いてあるようだ。上記の十二天の説明板
から転載。原典は国立国会図書館所蔵。
上方に横浜村の砂州が心もとなく伸びている。
◆漁業で繁栄した大きな村、本牧
かつて突端部の本牧十二天(旧本牧神社)と本牧元町・本牧三之谷の付近は海岸から断崖が切り立っており、「本牧岬」あるいは「本牧の鼻」と呼ばれ、潮流が複雑に流れて豊かな漁場であった。そのため、農業には不向きな土地ではあったが、漁業が盛んで、江戸幕府からの請負事業(煎海鼠〈いりこ〉生産)や廻船にも従事して繁栄した、非常に大きな村であったという。(編集者注:横浜村が約100戸、その数倍以上の規模)
開港後、外国人がやって来たことで本牧近辺には屠牛場が設営され、外国人遊歩道がつくられている。居留地に近く、変化に富んだ海があるゆえ、夏に海水浴、冬に狩猟と、本牧の地は馬や馬車でやってくる居留外国人のレジャーランドであった。
◆本牧にあった「チャブ屋」(風俗店)
チャブ屋なるものは、その元となるものは幕末に遡る。外国人遊歩道沿道に、幕府が外国人のための休憩所を開店させたことがその始まりのようである。その後の変遷を経て、大正時代には各地に散らばっていたものを石川町の大丸谷と、(本牧の)小港地区に集めて営業させるようになった。当時のチャブ屋は、遊郭とは違い、ダンスができるバー、喫茶店、キャバレーのような所で、お客は船員を中心とした外国人だった。接客には素敵な女性が揃っていたようで、各地を航海する船員たちの口コミで、本牧はこのチャブ屋で世界に名をとどろかせていたという。その後、日本人も多く出入りするようになった。第2次大戦の戦災で本牧のチャブ屋は跡形もなく焼失した。戦後は米兵相手のド派手な女たちが闊歩するようになり、昔の品の良かったチャブ屋の女性たちを懐かしむ、戦後まもなくの新聞記事が面白い。
◆今もある「三溪園」と「八聖殿」
かつて海に臨む風光明媚なこの一帯は別荘地で、有力な横浜商人たちが別荘を所有していた。原善三郎、小野光景なども広大な別荘を建て、政財界人・外国人などを招いていた。 1905年(明治37年)原三渓により、複数の歴史ある建物・庭園を備えた三溪園の造成が完成。翌年、三溪園の約6万坪を公開した。1933年(昭和8年)安達謙蔵(元 内務大臣)が本牧八王子山に精神修養の殿堂、八聖殿を設立。開殿式には時の首相(斎藤実)らも列席した。今では、両施設とも横浜市の所有である。現在、三渓園南門から続く海よりの一帯(八聖殿も含む)は「本牧市民・臨海公園」として整備され、新たな憩いの場・観光名所になりつつある。
◆かつてあった「横浜遊楽園」と「竜宮館」

須藤禎三氏の「昔の本牧」の表紙を拡大した。
この存在を知れば、今とは全く違う本牧の姿が想像できる。大正10年代に、二之谷の山の上に「横浜遊楽園」ができた。現在の立野高校の敷地のあたり。二之谷はすでに遠浅の海水浴場で知られていた。横浜遊楽園は、数年後の市電が間門までの開通を見込んでの開園だった。海に面した山の上に飛行塔が建ち、それに乗れば、ぐるり四方が一目で見渡せた。その他、水族館、動物園、運動具なども揃った遊楽地だったが、惜しいことに開園まもなく、関東大震災で潰れてしまった。竜宮館は、その後昭和になって同じ場所で開園した海水浴場で、館内は当時流行ったレビューなどができる舞台や、水族館が設置されていた。当時の本牧の海と浜辺がキラキラと輝いていた様子が目に浮かぶようだ。
◆埋立てで本牧から海が消えた

Google Earthで見る現在の本牧付近。
江戸時代の地図と見比べると面白い。
戦後、高度経済成長を遂げるために、工業地帯を確保する必要から、昭和30年代後半から昭和50年代初頭にかけて、本牧から根岸、磯子、金沢まで横浜沿岸は埋め立てられた。それにより、かつては風光明媚な海と崖の風景、良好な漁場であり良質な海苔の養殖場、そして市民憩いの海水浴場であった本牧からは、かつての海が消え、産業用の海になった。海岸線は遥か彼方へ遠のき、埋立地には巨大な工場施設、石油タンクが立ち並んだ。その昔、海に突き出た崖の突端にあった十二天は、今は道路脇に、そこだけ木々に覆われたこんもりとした大きな岩の塊のような感じで残されている。
本格的な埋立ては戦後しばらくしてからのことだったが、埋立てそのものは明治時代にすでに始まっていた。貿易新報には、明治30年代に、その権利を激しく争う様子が報道されている。
参考文献:「本牧のあゆみ」1986年、本牧のあゆみ研究会。「『横浜貿易新報』に見る 昔の本牧 明治31年4月~昭和16年12月」、2005年、須藤禎三。「『神奈川新聞』に見る 昔の本牧 昭和21年から昭和59年まで」、2019年、丹羽和子。その他「Wikipedia」など。

5. これからのけやき会と歴史カフェ
一般的なサークルは気楽な仲間の集まりだから、突然亡くなる以外では、各人、体力・気力が衰えれば自然と足が遠のき、退会することになる。しかし、地域の老人会は見守り・見取りの相互扶助的な役割も担っているため、最後までのお付き合いになることが多い。そこが普通のサークル活動とは性質が違う。住民の高齢化にともない、けやき会自体は、近い将来には親睦を図るよりも見守りに比重が置かれるかもしれないと考えている。
一方で「歴史カフェ」は、とにかく継続することが一番大事と考えているのだが、引き継いでいける活動的な会員が増えないことには存続が危うい。そのためにも、コロナの収束とともに、身近な歴史や地域を学ぶ機会を大いに増やし、その過程で解決策を模索していければと思っている。
取材者から:各地から集まった人々で新しく作られたマンションの街「パークシティ本牧」も30年以上経過すれば、もはや新しいとは言えないでしょう。そこは住む人々にとって郷土となり、そして歴史となっていくのです。老人会内での「歴史カフェ」の存在は普通のサークル活動とは多少違う面もありますが、その継続は人々の結びつきと、郷土への愛情を育てる重要な役割を担っているにちがいなく、老人会というコミュニティの新たな一面になるのかもしれません。継続と発展を祈念いたします。
パークシティ本牧 けやき会 歴史カフェの記録
実施日 | タイトル・内容 | 発表者 |
---|---|---|
2018年 6月9日(水) |
歴史カフェ」発足講演会「パークシティ本牧地域の変遷」 |
相澤竜次 八聖殿館長 |
7月4日(水) | 「パークシティ本牧地域の変遷(2)」 | 相澤竜次 八聖殿館長 |
9月5日(水) | 「マイカル本牧があった頃の思い出」 | 相澤竜次 八聖殿館長 |
10月3日(水) | 「本牧小学校の今昔」 本牧小の「学校要覧」 | 田中昌彦校長 |
10月21日(水) | 本牧小学校見学と給食体験(課外講座) 給食費用は一人290円 | |
11月7日(水) | 「マイカル本牧があった頃の思い出(2)」 | 相澤竜次 八聖殿館長 |
12月5日(水) | 「山手警察の歴史と年末年始のご注意」 | 山手警察署 村田警部補 |
2019年 2月6日(水) |
「横浜植木㈱の歴史とパークシティ本牧の植物」 | 横浜植木㈱ 高木課長 大柴麻衣子係長 |
3月6日(水) | 「市電から市バスへの歴史とバスの安全な乗り方」 | 横浜市営交通浅間町 営業所米山岳夫所長 |
4月3日(水) | 「幕末から明治にかけての横浜居留地の歴史」 | 関東学院大学 小林照夫名誉教授 |
6月5日(水) | 「160年前の外国人が見た日本の女性」 | 相澤竜次 八聖殿館長 |
7月3日(水) | 「中区消防百年の歴史と災害救助の実際」 | 本牧和田消防所 安西隆雄所長 |
9月4日(水) | 「横浜三塔(ジャック・キング・クィーン)めぐり」 | 横浜開港記念館 ガイド渡辺章氏 |
10月2日(水) | 「横浜銀行百年と身の回りの金融を知る」 | 本牧・新本牧支店 斎藤正宏支店長 |
10月27日(日) | 「磯子火力発電所の見学会(課外講座)」 | |
11月1日(金) | 「横浜港内遊覧船とふ頭の見学(課外講座)」 | |
11月6日(水) | 「山手警察のお話」 | 大後忠男巡査部長 高橋孝太郎巡査部長 |
12月4日(水) | 「図書館の楽しみ方」 | 中図書館 島田和久館長 |
2020年 2月5日(水) |
「加藤和枝が美空ひばりになるまで」 | 小柴俊雄氏 横浜演劇史研究家(パークシティ本牧) |
10月7日(水) | 「生麦事件ツアー(番外編)」 | 橋田篤廣 けやき会副会長 |
11月4日(水) | 「パークシティ本牧周辺ツアー」 | 橋田篤廣 けやき会副会長 | 2021年 4月7日(水) |
「外国人遊歩道」を巡る歴史散歩 | 橋田篤廣 けやき会副会長 |
7月7日(水) | 「外国人遊歩道」を巡る歴史散歩 | 橋田篤廣 けやき会副会長 |
11月3日(水) | 「横浜開港と神社仏閣の変遷」 | 橋田篤廣 けやき会副会長 |
12月1日(水) | 「渋沢栄一と横浜本牧」 | 相澤竜次 八聖殿館長 |
2022年 4月6日(水) |
根岸競馬場跡、馬の博物館ほか歴史散歩 | 橋田篤廣 けやき会副会長 |
6月1日(水) | 「横浜とシルク貿易」 | 松村㈱ 松村俊幸社長 |
7月6日(水) | 「私の好きな本牧通り」 | 本牧リボンファンストリート商店会 羽生田靖博会長 |
9月7日(水) | 「横浜・本牧30年の歴史」 | 相澤竜次 八聖殿館長 |
以上