- 1684年から1923年までの西暦と和暦の年号と干支との対照表です。
- 年号:元年(1年)の横の数字は、改元の月日を示しています。
- ○の中の数字は閏月を示します。③の場合、3月の後が閏3月になります。
- 干支については下記の説明をご参照ください。
昔は、現在使われている西暦もメートル法などもありませんでした。東西南北よりも、子丑寅卯辰巳・・・などの十二支を使って方角、そして時刻も表していました。
昔は、暦、方位・方角、時刻など殆どすべてに、吉凶があるという俗信に従って生活していたので、現在の私たちには分かりにくいことが多々あります。
とはいうものの、昔の人々がどのような基準を使って生活していたのか、ある程度の知識を持っていれば、歴史を理解するのに役立つと思われます。主なものを取り上げてみました。
(江戸時代~第二次世界大戦前)
「干支(かんし)」は、十干(じっかん)と十二支の組み合わせのことをいいます。60年で一回りするので、60才になると還暦というわけです。
(陰陽五行説:世界は木・火・土・金・水の5つの要素から成り立つ)
10日一旬となっています。昔の暦のついたカレンダーをみると確かにそうなっています。
これを句にして「きひつかみ えとのえは兄(あに)、とは(おとうと)」と言うと憶えやすいそうです。
この十干は、一般的には音読みして、順位を表すものとして知られています。
戦前では、軍隊での甲(コウ)種合格とか、通信簿では甲(コウ)・乙(オツ)・丙(ヘイ)・丁(テイ)で採点されていました。暦と方角と時刻に同じ十二支を使うのが、昔の宇宙観が反映されているように思えます。下記のとおり、子丑寅・・・の12字をもって、毎年替わるので、12年で一巡します。
子、丑、寅… の十二支のことを「えと(干支)」ということがありますが、正確には、「干支」は十干・十二支を合わせた干支(表)のことをいうのであって、十二支のみを干支というのは間違いだそうです。
太陰太陽暦は太陰(月) の朔望(みちかけ/サクボウ)をもとに日を数え、月を建てます。月は平均29.53日(29日12時間44分3秒)の周期で、朔から上弦・望一(満月)・下弦という変化を繰り返します。したがって、その12か月の1年の日数は354日余りにしかなりません。
実際の1年(太陽年、回帰年ともいう)の長さは365.2422日(365日5時間48分46秒)なので、毎年その差は約11日となります。このため、3年弱で1か月近い不足を生じます。そこで、誤差が1か月になったときに、29日または30日の閏月(うるうづき)を設けて調整します。旧暦では平年は12か月354日前後ですが、閏年には13か月384日前後となります。旧暦の日付を太陽暦と対照するときに、大ざっぱに1か月ずらすことがありますが、その前後に閏月があったりすると、大きく狂うことがあります。
旧暦では、毎年月の大小の配列が違うことがあります。一朔望月は29.53日なので、30日の大の月と29日の小の月と交互に組み合せればよいようですが、月の運動は非常に複雑で、そうはなっていません。太陽暦のように(小は)「西向く侍(2、4、6、9、11)」とはなっていません。
貞享元年(1684)渋川春海(はるみ)(安井算哲(さんてつ)がこれまでの宣命暦という中国からの暦の誤差に気づき、長年の観測によって、日本で編纂された最初の暦法「貞享暦」をつくりました。
春海が務めた幕府天文方では暦法に従って、科学的内容の計算のみを行い、それを京都に送って、陰陽頭の配下である暦博士(こよみはかせ)が、迷信的な暦註を記入し、完成した雛形を全国の暦師に配布しました。頒暦には伊勢暦、会津暦、三島暦、江戸暦、京暦など、様々なタイプやスタイルがあったそうです。
十二支による方角は各々の間隔が30度となるため、45度の東北、135度の東南、225度の西南、315度の西北は、うしとら、たつみ、ひつじさる、いぬい、というように隣接する十二支と組み合せて呼称としました。これを四隅(しぐう)といい、艮(ゴン)(うしとら)、巽(ソン)(たつみ)、坤(コン)(ひつじさる)、乾(ケン)(いぬい) という漢字で表すこともあります。
暦、方角、易、占いなど、昔は密接に関係していたので、方角に対する禁忌は盛んでした。最も恐れられた方角としては艮(うしとら・東北)の鬼門とその対称の方角である。坤(ひつじさる・西南)の裏鬼門でした。日光東照宮や上野寛永寺は、江戸の鬼門を塞ぐ目的で造営されたとのことです。
また、江戸時代後半には地図や絵図などの多くが南を上、北を下に描かれていました。
指南とは指導することですが、もちろん良い方に導き、敗北=負ける、には北があります。南北とは言うが、北南とはあまり聞かない。死ぬと北枕で寝かせられる…など、まだあるかもしれませんが、こうした例をみても、南と北には特別な意味があったと考えられます。
江戸時代の時刻には、天文学や暦法で使用する定時法によるものと、夜明けと日暮を基準として昼と夜を分け、それぞれを六等分する不定時法によるものの二種類があり、一般には後者が使用されていました。
定時法によるものは、1日を12辰刻(とき)に分け、各辰刻を初刻から四刻に四等分しました。したがって、1辰刻は現行時の2時間であり、1刻は30分でした。1刻は10等分され、それを1分(ぶ)(現行の3分)と呼びました。
しかし、庶民の生活では、時間の感覚としては「半辰刻(はんとき)」 (1時間)、 「四(し)半辰刻(はんとき)」(30分)くらいが実用されていました。
一般的に用いられた不定時法では、夜明け(薄明、かはたれどき(「彼は誰」))から日暮(薄暮、たそがれどき)までを昼とし、それを6等分したものが昼の一辰刻となり、日暮から夜明けまでを6等分したものが夜の一辰刻となります。夜明けは日出のおおよそ35、6分前で、手のひらの三本の線が見え始めたころ、日暮は日没のおおよそ35、6分後で、三本の線、が見えなくなる頃とされていたそうです。
したがって、不定時法では季節ごとに昼と夜の一辰刻の長さに相違ができます。
江戸の場合、昼の最も長い夏至では、昼の一辰刻は現行時の2時間38分にもなるのに対し、夜の一辰刻はわずかに1時間22分にすぎません。
各地に、時刻をしらせる「時の鐘」が設けられました。(時鐘の数は「時刻法(不定時法)」の図を参照) このため、時刻は十二支よりも、鐘の数でよばれていました。
一日の始まりは、天文学や暦法では今と同じ真夜中、つまり子の刻が日の境でしたが、一般には夜明けつまり明け六つから一日が始まると理解されていましたが、武家社会ではそれより一辰刻早い寅の刻、または暁七つをもって日の変り日と考えていたそうです。
この時刻制度に関しては、以下のサイトがとても分かりやすく、楽しいイラストで説明されているので、参考にしてください。 こちらでは1辰刻(いっとき)を1時(いっとき)で表しています。これのほうが理解しやすいかもしれません。 お江戸の科学 江戸の時刻制度“不定時法”
一年の始まりは、正月元日と決まっているわけですが、旧暦では実際の季節を知るために、二十四節気を使いました。二十四節気では立春をもって年初としています。よく「暦の上では、今日何々」といわれますが、その暦の上というのは二十四節気の季節をいう場合に使われる表現です。
暦については「こよみのページ」が詳しいです。米の生産高を単位として江戸時代の経済・政治支配が成り立っていたが、この石高を計る枡が、全国的に統一されることがなかったそうだ。その理由として「…日本がメートル(法)条約に加盟したのは1885(明治18)年のことであるが、それが普及徹底したのは1945年(第2次大戦後)であったことからも、うかがえるのではなかろうか。」(事典 しらべる江戸時代 柏書房 2001年 p801)とあるように、地域に根づいた慣行は変えることが極めて難しかったかららしい。
秤は枡に比べると、貨幣経済の発達とともに普及拡大のスピードが速かったということで、秤の全国的統一(座による独占)を容易にしたようである。
貨幣価値を計る秤を統一する重要性が古い慣行をしのいだとの見方ができると思う。
はかりに関しては「はかりの歴史館」というサイトが詳しいので、ご参考にしてください。
1,000合÷365日≒3合 一人あたり1日米3合を食べていました。
1石=2.5俵(約150Kg、石は容積の単位ですから正確には約180L) 1俵≒60Kg
昔(江戸時代など)は田んぼの面積1反(たん)あたり1石(こく)の米が収穫されると計算していました。(現在はその3倍以上収穫されています) つまり1反(約10アール)は、成人が1年間に食べる米が収穫できる田の面積でした。
参考文献:
「事典 しらべる江戸時代」柏書房 2001年
資料「古文書解読教室‐はじめての古文書‐」横浜市歴史博物館