横浜の郷土史家 田村泰冶氏「史論集Ⅱ 郷土横浜を拓く」平成27(2015)年4月1日発行。第六章、横浜人物伝 二、開国推進論者 岩瀬忠震とよこはま(149p~156p)(著者より転載了承。)
原文は縦書き、漢数字使用だが、ここでは横書き、算用数字使用、難解な漢字はよみ等を追加、また重要箇所は太字に、などの編集を加えてある。なお、本稿には他稿からの抜粋を挿入した。(Toshiko)
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1. 横浜開港の恩人として
2. 岩瀬忠震の出自
3. 岩瀬忠震の転進
4. 横浜開港と岩瀬忠震
(挿入)岩瀬忠震の横浜開港論
(挿入)日米修好通商条約交渉
5. 悲しい結末 ~罪人扱いにされて~
横浜開港の恩人は誰か? 岩瀬忠震支持 各論
横浜開港に寄与した人物として、つぎの三人が挙げられ、その顕彰碑等が建てられている。
大老 井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ) 掃部山公園 銅像
松代藩軍師 佐久間象山(さくましょうざん) 野毛山公園 顕彰碑
外国奉行 岩瀬忠震(いわせただなり) 本覚寺境内 顕彰碑・レリーフ
岩瀬忠震顕彰碑 本覚寺門前(神奈川区高島台)
この三人のうち、岩瀬忠震が横浜の歴史上で言及されたのは郷土史研究家の森篤男氏が「横浜開港の恩人岩瀬忠震」(よこれき双書1/その改訂 1980 横浜郷土研究会)を発刊してからである。本来ならば第一に掲げなければならない人物が何故うずもれてしまっていたのか。
今、神奈川区の本覚寺、開港当時アメリカ領事館になったこの寺の境内入口に顕彰碑が個人の方の善意で設置された。
この碑は1982年11月14日、「横浜開港の恩人岩瀬忠震」の著者、森篤男氏らの手で建てられた。当時の細郷横浜市長ら関係者約100人が出席し除幕式が行われた。この式典で、本稿執筆の田村氏が司会を務めたそうだ。
岩瀬忠震は三河以来の直参旗本、小普請組1400石取りの武家、設楽(したら)直之助貞丈(さだとも)の三男として文政元(1818)年11月21日に誕生した。幼名は愿、篤三郎、忠三郎と称した。母は林大学頭述斎の側室で、前原氏の三女、設楽貞丈に嫁した。忠震が26歳の時、直参旗本、岩瀬市兵衛忠正の長女と結婚、養嗣子となり岩瀬の姓を名乗った。 養父の忠正は800石取り、格は下がるが文化12(1815)年には書院番士、嘉永5(1852)年書院番の組頭に栄進、安政3(1856)年には先手弓頭になっている。
岩瀬忠震 (Wikipedia)
忠震は小さい頃から頭脳明晰といわれ、江戸湯島聖堂内でも頭角を現していた。天保14(1843)年、人材登用を図るため、十二代将軍家慶が口頭試問を上等席(謁見が許されている生徒)・下等席(下級士族の師弟)に試みたところ、優秀な成績を取った19人の生徒の中に、身分の低い下等席で、25歳の岩瀬忠震が入っていた。その後、めきめきと頭角を現し、31歳の嘉永2(1849)年2月、抜擢されて両番役(書院番と小姓組番)に配属され、小姓組では江戸城西の丸、番頭白須甲斐守に属し、切米300俵を受けた。この時期に改名して、岩瀬修理となった。
同年10月、甲府学問所「徽典館(きてんかん)」の学頭(教授=文学)に任命され、手当30人扶持を受けた。この学校で今泉耕作(後に白野夏雲とか、太田耕作とか称した)と出会い生涯の子弟関係を結んだ。
嘉永4(1851)年、忠震33歳のとき江戸昌平坂学問所の教授に任命されて勤務。今泉耕作も岩瀬に同行して江戸に赴き、以後忠震の秘書役として働くことになった。
嘉永6(1853)年、35歳で西の丸御小姓組白須甲斐守組徒歩頭(かちがしら)に昇進した。「徒」とは将軍出向の際、先駆と道路警戒を任務する職務でその指揮官が頭である。一般に武官系の昇進コースの終着は「目付」で、その順序は小姓組 → 書院番士 → 徒頭、または小十人組使番 → 目付、となる。また、幕府およそ300年の歴史の中で身分階位は、「老幼之序規範」で、親の身分を越えて昇進することはできなかった(注:父子共、幕府の職に就いている場合)。しかし、忠震は出仕して4年目で、御徒頭、役高1000石となり、義父の800石を越え、従来の部屋住出身の家柄では到底考えられない昇進であった。
老中 堀田正睦 (Wikipedia)
老中 阿部正弘 (Wikipedia)
嘉永7(1854)年、忠震36歳、岩瀬修理忠震は目付に昇進。あたかもペリー再来航のとき、老中阿部正弘が交渉指揮していたが対応に苦慮、優秀な人材の登用を断行し職務を遂行しようとした。そこに選ばれた一人が岩瀬忠震であった。「栗本鋤雲遺稿」によれば
・・・父子共に職に在れば其子たる者、賢と雖も父に超ゆる能はさるの旧規を改めて、堀織部、永井玄藩、岩瀬肥後の三人を擢んで監察(目付)とせり・・・
と述べており、阿部正弘は適材適所にその時、22名も登用した。
期待に答えるように岩瀬忠震は目付に昇進すると海防掛、下田取締掛、松前蝦夷地掛、軍制改正掛、内海台場普請掛、大筒鋳立、大船製造掛、西洋伝小筒立掛、蕃書翻訳掛、講武所取建掛と、驚くほどの多くの職務をこなしている。 しかし、彼の本領はその後にくるペリー、ハリス等の条約交渉や諸大名等、開国通商反対勢力への説得に並々ならぬ力を発揮するようになるのである。
プチャーチン (Wikipedia)
安政2(1855)年、岩瀬等を登用した老中阿部正弘が病気で首座をさがり、後任に開明派の堀田正睦(まさよし)が就き、忠震は高く評価をもらい堀田正睦の側近として、外国との交渉、諸大名の説得に奔走した。安政4(1857)年、阿部正弘が39才、業半ばで逝去し、岩瀬忠震の存在が大きくなった。
特に「日露和親条約」修正交渉ではプーチャーチン特使と交渉し、その際、下田港での安政大地震、大津波によるロシア船破損を救援、新造船で本国へ送った実績は外交上大きな成果となって現われた。
横浜の郷土史家 田村泰冶氏「史論集Ⅱ 郷土横浜を拓く」平成27(2015)年4月1日発行。第六章、横浜人物伝 一、洋学の先覚者 佐久間象山(131p~148p)。(著者より転載了承。)
原文は縦書き、漢数字使用だが、ここでは横書き、算用数字使用、難解な漢字はよみ等を追加、また重要箇所は太字に、などの編集を加えてある。(Toshiko)
目 次(下記目次項目をクリックすると該当箇所へ移動します。全文読むにはログインが必要です。)
1. 佐久間象山と横浜
2. 佐久間象山の生涯
3. 象山の海防論と開国論
4. 藩主真田幸貫の支援と象山の軍議顧問役
5. 象山と横浜警衛、横浜開港論
6. 洋学者、佐久間象山
洋学への関心
7. まとめ ~ 佐久間象山のめざす改革とは~
横浜野毛山公園の高台に開港百周年を記念して昭和29(1954)年、佐久間象山顕彰会が「横濱開港の先覺者 佐久間象山の碑」を建立した。
だいぶ汚れて読みにくくなっているが、以下、碑全文。
横濱開港の先覺者 佐久間象山の碑
安政元年一八五四年米国の使節ペリーが来朝のおり、松代藩軍議役として横浜村にいた佐久間象山先生は、当時の新思想家でありまた熱心な開国論者であった。先生は日本が世界の先進国からとり残されることを憂え、幕府の要路に対してしばしば欧米諸国との通商交易の必要なことを献策した。またその開港場として、横浜が最適地であることを強く主張し、幕府の決意を促して、国際港都横浜の今日の発展の緒を作った。不幸にも先生はその後、京都に遊説中攘夷派刺客の兇刃のために、木屋町三絛で客死した。時に元治元年一八六四年七月一一日のことであった。本年はたまたま開国百年の記念すべき年に当るので、われわれ有志相はかりその功績をたたえるためにここに顕彰の碑を建て、永く後世に伝えることとした。
昭和二十九年十月一日 佐久間象山顕彰會
横濱市長 平沼亮三書
現在、開国の恩人として佐久間象山、井伊直弼、そして岩瀬忠震が挙げられており、直接的横浜開港論者は時の外国奉行岩瀬忠震である説が有力になり、神奈川区青木町本覚寺門前に顕彰碑が建てられた。また、掃部山公園には開港50周年に旧彦根藩士等によって大老井伊直弼銅像が建てられ種々の経過を経て公園地共々横浜市に寄贈されて現在に至っている。(編集者注:田村泰冶氏による「開国推進論者 岩瀬忠震とよこはま」もこの歴史すぽっとに掲載)
今回は佐久間象山の生誕地や上田方面への研修視察の機会を得たので、横浜と関連して佐久間象山が洋学の研究と開国強兵論の形成がどのように進められ、横浜商人中居屋重兵衛等にどのような影響を与えたのかを検証してみたい。
佐久間象山は信濃国(長野県)松代藩の家臣佐久間国善(一学)の子として文化8(1811)年に松代有楽町(現 象山神社境内)で生まれた。名は国忠、後に啓(ひらき)・大星と改めた。字は子明、号は、滄浪、曲水、観水、養性斎主人、清虚観道士等を用い、中年以降は象山としている。この号は松代市内にある小山の名称「象山(ぞうやま)」から採ったもので、読み方に「しょうざん」(漢音発音)と「ぞうざん」(呉音発音)があり、漢音が一般的になっている。
彼は小さい時から藩老、鎌原桐山に学び、漢学を修め、天才と呼ばれる程頭角を現していた。天保3(1832)年、21歳、父を亡い、翌年江戸に出て佐藤一斎門下に入った。3年後、松代に帰り、25歳で藩の文武学校の教授となり子弟の教育に当たった。
天保10(1839)年、再び江戸に出て神田お玉が池に「象山書院」なる私塾を開き、さらに松代藩邸の学問頭取となって朱子学の振興と子弟の教育に努めた。彼を洋学に傾注させたのは藩主真田幸貫(ゆきつら)が老中職につき、海防事務に当たったことから、象山もその研究に当たり『海防八策』を藩主に建言し、さらにそれを極めるため江川太郎左衛門に海防の基本、大砲術を学んだ。そこで洋式火器の威力を知り、更なる西洋技術の究明を図ろうとした。弘化元(1844)年、黒川良庵に蘭学を学び、替わりに漢学を黒川に教える交換条件で江戸で同棲し洋学の研究に没頭した。その間、松代藩から郡中横目役(郡政視察見廻り役)が与えられ藩政にも関わりながら江戸と松代を往復していた。嘉永元(1848)年、オランダ人ベウゼルの原書から大砲鋳造技術を得て、数門の大砲を製作し、各藩の注目するところとなった。幕府に対しオランダ辞書の発行を願い出たが認められなかった。しかし、欧米諸国の艦船が来航しはじめ、海防の急務が生じたため、彼の私塾には各藩の藩士らが西洋技術の習得に入門してきた。その中に勝海舟、坂本竜馬、吉田寅次郎(松陰)、小林虎次郎等がいた。坂本龍馬はわずか四ヶ月ではあったが砲術作法、大砲鋳造術等の講義を受けて洋式武器の威力を学び、その威力を背景に日本に迫り来る外国の情勢や対外関係の重要性を学んでいった。
嘉永4(1851)年、木挽町に塾を移し、塾生500人を数えた。翌年、易と砲の理論を軸にまとめた「礮卦(ほうけ)」一編を著した。また、この年、41歳になった象山は勝海舟の妹、順子(16歳)と結婚。25歳も離れた夫婦であった。新婚生活も束の間、嘉永6(1853)年浦賀沖にアメリカ艦隊四隻の黒船が来航し、国内は大混乱に陥った。象山は老中阿部正弘宛てに『急務十事』を進言した。
嘉永7(1854)年、再びペリー艦隊が来航した際、塾生の吉田松陰が洋の事情を自分の目で見たい知りたいと熱望するあまり海外密航を策したが失敗し、象山は連座して伝馬町の獄に繋がれ、地元松代の聚遠楼に蟄居させられた。その間にも彼は洋学に専念し、若い士族がひっきりなしに教えを受けにきていた。本人も『省録』を著し、元込銃の試作、電池の実験を行ったり、開国交易説の必要性を説いたりしていた。
文久2(1862)年、罪を許されて自由の身になったが国内は混乱し、尊王攘夷論が横行し、幕府の権威が消失しつつあった。そこに生麦事件の発生、公武合体論を主張する開国派と攘夷鎖国派との抗争が続き、洋式軍備(洋式火器・鉄製軍艦等の)拡張が西国大名を中心に広まっていった。この翌年の攘夷決行勅語をうけた長州藩の外国船への砲撃事件、薩摩鹿児島湾のイギリス艦隊の報復攻撃は日本の軍備と西洋近代兵器との格差を歴然とさせ、欧米諸国の優位性を認めざるを得なかった。
象山は幕府の命を受け、元治元(1862)年、上洛し朝廷・公家をはじめ、「開国論」の必要性を説き反幕派の鎮静化に努力していた。彼は常に乗馬で往来し、洋式の鞍を堂々と付けて京の町を通行していたので「西洋かぶれ」と攘夷論者の顰蹙をかってしまうことになった。さらに天皇の彦根遷都説を展開したため、7月11日、刺客によって三条木屋町通りで斬殺されてしまい、若妻は文久3(1862)年春、江戸に戻った象山との再会が最後となり、訃報を知り自らも殉じようとしたが周囲に止められ、落飾して仏門に入り、冥福を祈ることとなった。
天主堂跡地のキリスト碑
初代天主堂
1858年10月9日、日本が欧米諸国と結んだ修好条約の一つしてフランスと調印した条約の4条に「日本に在るフランス人自国の宗旨を勝手に信仰いたし、その居留の場所に宮社を建てるも妨げなし」とあるため、琉球にいたジラール神父(Prudence-Séraphin-Barthélémy Girard)(註1)が、日本教区長に任命され、フランス総領事ベルクール(Bellcourt)の通訳兼司祭として、1859年9月に江戸に上陸、10月16日に神奈川を訪れた。これは、プロテスタント最初の宣教師ヘボン(Hepburn)は、翌17日に着いたので、それより1日早い。フランスから来たジラール神父は、1860(万延元)年、横浜の外国人居留地に住む外国人のために天主教会堂を建設する計画を建て、居留地80番に約1,000坪の永代借地権を獲得し、日本に滞在する外国人からも聖堂建設の寄付金を集め、幕府にフランス語の教授を申し出たりしながら江戸との間を馬で往復しながら準備をすすめた。
ジラール神父
11月には、新任宣教師ピエール・ムニーク(Mounicou)が到着した時には、すでに6人は住める司祭館が完成に近づいていた。同氏が、工事監督にあたり、12月から工事が始まり、約1年後の1861(文久元年10月9日)年1月11日に、開国後初の教会、聖心教会堂が落成し、在留外国人に対する布教が認められた。
ジラール神父の書簡によると美しい金色の十字架掲げ、ヨーロッパのゴシック様式と日本の寺の独特の様式を合わせた小さな教会で、日本人に対する布教は認められていなかったものの、新しい教会を見物に横浜、神奈川、江戸とその近郊から訪れる人が多く、「これよりご覧候へ」と鍵穴からのぞかせたという。
下岡蓮杖夫妻
写真家の下岡蓮杖(註2)もその1人だという。見物人の中には、ジラール神父に話しかける人もいて、神父が流暢な日本語で教会堂の絵画の説明や、キリスト教の真理を解きながら答えるので、人気があったという。
1862(文久2年1月20日)年2月18日、そのことを快く思っていなかった神奈川奉行阿部正外(あべまさとう)が、伊勢詣での帰りを含む天主堂見物人、商人や農民55人を逮捕、33人を、戸部村の牢屋に入れるという事件が起きた。ジラール神父がすぐにフランス公使に伝え、公使が神奈川奉行に釈放を願い出た。しかし、「本件は、幕府の管轄である」と取り合ってくれなかったので、フランスと日本との国際問題に発展し、最終的には、幕府が神奈川奉行に釈放を命じ、3月13日(2月14日)までに全員が釈放された。皮肉にもこの事件をきっかけに、天主堂は、有名になり、以前にも増して連日、見物人が訪れたという。また、教会の正面に日本語で「天主堂」と書かれているのもけしからん削り取れという話もあったという。その後もキリスト教信者への迫害は続き、元町前田橋のたもとをはじめ、町のいたるところにキリスト教禁制の高札が建てられた。
この記事は、関写協機関誌 No. 61・1999・5月号に掲載されたものです。「関写協」は関東写真館協会のことで、協会は、発足して60年を越える関東一都六県で構成される「街の写真館」の団体です。記事の著作権をお持ちの熊谷美波氏(故・熊谷守美氏のご息女で、藤沢にある片瀬写真館の三代目)より、許可を得て転載しています。ご親戚で、横浜歴史さろん会員の熊谷明子様より情報提供していただきました。スペースの都合上、レイアウトは変更、また読みやすくするために、行換え・段落のとり方の変更、多少の補足などしました。(Toshiko)
下岡蓮杖師と清水東谷師の写真
神奈川 熊谷守美
ー左から、大倉喜八郎、熊谷伊助、高島嘉衛門(嘉右衛門)と説明されているー
着流した町人風の3人、幕末から明治4年の断髪令以前に横浜写真の開祖下岡蓮杖師によって撮影され、原画は湿板から鶏卵紙に焼きつけられた名刺判くらいのものだが、被写体はというと、右側で腕組みをしているのが現在の高島易断の開祖高島嘉衛門(嘉右衛門)氏、左端の若い人は、旧大倉組(今の大成建設)、ホテルオークラの創設者で、後に男爵となった大倉喜八郎氏である。
さて中央にいるのは嘉永6年、黒船来航の際、井伊掃部頭との間に入り、通訳として活躍し、ペリーより信頼を受けて直接自筆サイン入りの貴重な写真を受け取った、私の曽祖父熊谷伊助(本誌97年第50号参照=当サイト「熊谷伊助①」)である。
いずれも開港直後広く事業を興し、明治初年には天下の財閥として前記の2人は名を残したが、曽祖父伊助は堪能なる語学力を買われ、アメリカより進出してきた商社ウオールス・ホール商会(本誌96年第41号松浦清文氏の記事参照)に望まれて勤務し、同社の出資援助のもとに、県の指令による根岸の堀割川開削と吉田新田沼地埋立の事業に出資者側として参加。明治3年より同9年2月までかかったが、途中ウオールス社へ融資した英国の銀行が本国で資金が必要となり即時返還を迫ってきたが、埋立会社は如何ともし難く、米英大使・時の中島県令が間に入り、政府大蔵卿と交渉し、利息はおろか、元金も半額に満たない30万円の返済で解決し、土地は一部を残して殆どが官有となった、埋立会社も同時に解散し、現在の横浜中心部発展の基礎となった埋立へ全財産を注ぎ込んでしまった。時運熟せず同商会の財産の保護に当たるべき立場の伊助も責任を痛感したことであろう。
その年の6月、取引上のことで親しかった井伊大老とは意見を異にしていた旧水戸藩の宴席へ呼び出しを受け、自身気の進まぬまま死を覚悟して止むを得ず出席したが、果たせるかな毒酒を盛られ、帰宅途中の駕篭の中で息を引き取ったと伝えられている。享年56才。親友勝海舟がその死を悼んだ追悼の句碑が、千葉県市川市行徳の自性院という寺の境内に残されている。(熊谷伊助①の最後に掲載)
この記事は、関写協機関誌 No.50・1997・7月号に掲載されたものです。「関写協」は関東写真館協会のことで、協会は、発足して60年を越える関東一都六県で構成される「街の写真館」の団体です。記事の著作権をお持ちの熊谷美波氏(故・熊谷守美氏のご息女で、藤沢にある片瀬写真館の三代目)より、許可を得て転載しています。ご親戚で、横浜歴史さろん会員の熊谷明子様より情報提供していただきました。スペースの都合上、レイアウトは変更、また読みやすくするために、ふりがなの追加、行換え・段落のとり方の変更、多少の補足などしました。(Toshiko)
曽祖父がペリーにもらった本人の写真
軍服の正装が自慢の家宝
神奈川・藤沢 熊谷守美
ここに同じような二枚の写真がある。被写体は皆さんよくご存知のように徳川300年の鎖国政策を打ち破り、わが日本を開国に導き、今日の繁栄の基礎を築いた亜米利加合衆国の水師提督ペリー。左側は私が物心ついた昭和初期以前より国定教科書をはじめ、あらゆる書籍から今日の TV などに至るまで一般に使用されているもの。右側は私の曽祖父熊谷伊助が嘉永 6年(1853)ペリー来航の折り、井伊大老との間に通訳として活躍し、ペリーより名刺代わりに直接受け取った自筆のCom, m, c. Perryのサイン入りのもの。当家の家宝として代々受け継ぎ、私の手もとに所蔵している。
同じ原画のように見えるが、よく見ると、左側のものはダブルの軍服のボタンが全部かかっているのに対し、私の所蔵しているものは、右の一番下のボタンがはずしてある。近くにお住まいだった元駐米大使をなさった方などいろいろ伺ったところ、これが正装とのこと。 一般に使用されている写真は、その昔、他家より拝借したものを出版に際し、役所で複写、修整し、事情も知らず気をきかせたつもりで、誤ってボタンを付け加えてしまったものと思われる。撮影は台紙にもあるようにBRADY PHOTO NEWYORKとあり、当時から文人や知名人などを多く撮影した由緒ある写真館である。
ホテル・ニューグランド
横浜で、名前に“グランド”とつくホテルとしては、ホテル・ニューグランドは3代目である。
初代は、1870(明治3)年に居留地20番に開業したグランドホテル。このホテルは、1年ほど営業した後、放火騒ぎをきっかけに廃業した。2代目は、1873(明治6)年、同地に、同名で開業したグランドホテル。このホテルは、当時、横浜最大級の規模のホテルで、作家の獅子文六もその印象を書き残しているし、そのレストランで明治の時代にバニラアイスが提供されていたことでも知られる。しかし、このホテルも関東大震災によって、倒壊してしまう。そして、以前のグランド・ホテルとは、資本的な繋がりはないものの、3代目となるのが、1927(昭和2)年に山下町10に開業した現在のホテル・ニューグランドである。
震災前のグランドホテル
1923(大正12)年の関東大震災からの復興のシンボルとして、当時の横浜市長有吉忠一によってホテル建設が、市議会に提案され可決され、当時の横浜商工会議所会頭井坂孝をホテル設立委員長とする設立委員会が、横浜市復興会会長の原富太郎の助力を得て、1925(大正14)年に、スタートした。市長自身は、フェニックスホテルという名称を希望したが、かつて、ホテル建設地近くにあった横浜を代表するホテルの名前にちなんで、ホテル・ニューグランドと命名された。なお、市長が推したフェニックスは、メイン・ダイニングの名称に起用された。また、ホテル名が「ニューグランド・ホテル」でなくて、「ホテル・ニューグランド」となっているのは、支配人に、スイスからアルフォンソ・デュナン(Alfonso Dunant)、初代総料理長にサリー・ワイル(Saly Weil)を招き、当時の最新式のホテル、本格的なフランス料理を標榜したことにより、フランス式に、ホテルを頭にもってきたためである。
開業当時の全景
開業は、1927(昭和2)年で、同時期にオープンしたホテルとしては、熱海万平ホテル(昭和19年閉鎖)、雲仙ホテル(平成7年閉鎖)、逗子なぎさホテル(平成元年閉鎖)、宝塚ホテルなどがある。
ホテル本館の建物は、上野の国立博物館や日比谷の第一生命館をてがけた渡辺仁が、設計し、清水建設が施工した。アール・デコ調で、ファサードは、三層構成。2階の部分がピアノ・ノビーレ(piano nobile)となり、3、4階が客室となっている。玄関を入ると大きな階段があり、2階がフロント・ロビーになっている珍しい構造でもある。かつてのバンドの雰囲気を残しており、横浜市認定歴史建造物となっている。
ホテル・ニューグランドの初代総料理長サリー・ワイルには、2つのこだわりが、あった。
まず1つ目は、グリルの導入。これは、計画されていたバーカウンターを隅っこにして、1Fに、グリルと呼ばれるカジュアルレストランを作ったこと。ドレスコードもなく、喫煙自由で、ア・ラ・カルト(一品料理)が注文できる(当時は、ホテルのレストランと言えば、コース料理が当たり前だった)気軽に入れるレストランを作ったこと。
2つ目は、料理人の在り方の改革。当時の日本では、料理人は、1つの持ち場にずっといて、その分野を極めるという考え方が主流だったのが、魚料理しかできない料理人では、いけないと、あらゆる部署をローテンションして回って、いろいろな仕事が出来る料理人に、育てることであった。そのために、ホテル・ニューグランドの調理場では、見習いであるアプランティ(apprenti)からセクションの調理人であるコミ(commis)になると、野菜やスープ担当のアントルメテエ(entremeter)、テリーヌやオードブル、サラダの仕込み、サンドイッチ、冷製料理の盛り付け担当のギャル・マンジェ(garde manger)、魚や肉の下準備や下ごしらえ担当のブーシェリ(boucherie)、フライや焼き物担当のロスティール(roustir)、魚の総合的な調理、盛り付け、仕上げ担当のシェフ・ド・ポアソニエ(chef de possonier)、肉の総合的な調理、盛り付け、仕上げ担当のシェフ・ド・ビアンド(chef de viande)、ソース担当のソーシエ(saucier)などのセクションをローテーションで担当するという。
現在、横浜中華街となっている場所は、もとは1862(文久2)年に埋め立てられた横浜新田である。現在の広さは500m四方で、隣接する広大な吉田新田に比べるとさほど大きくはない。横浜新田が、元来の入り海だったころの海岸線に沿って並行に区画されたのに対し、吉田新田は広い入り海を干拓・埋立し、外側の海岸線に並行に区画した結果、中華街だけが、他の地域から見ると45度斜めに区画されている。そのため、中華街に行くと、方向を見失い迷子になると言われる理由はそこにある。
日本には、他に長崎と神戸(いずれも幕末に開港)に中華街があるが、横浜が面積、店舗数など最大の規模を誇っている。
1859(安政6)年に、横浜が開港になると、多くの欧米人が、やってきた。当時、日本と清国(中国)の間には、条約が結ばれていなかったため、中国人は、公式には、入国することができなかったが、欧米人の使用人である、買弁(コンプラドール、仲介者)、コック、荷役労働者として入国してきた。彼らは、中国が日本より早く開国していて、欧米人との関わりを通じて、欧米の言語や生活習慣に精通しており、日本と同じ漢字圏であるため、筆談で、通訳をすることができた。そのため、ペリー艦隊の日米折衝の際の交換文書には、中国語のものもあった。通訳の他に、当時、日本で活躍していた中国人は、職業的には、両替商、絹織物やお茶の目利き、ペンキ職人、印刷業者、家具職人、ピアノ調律師、洋服の仕立屋、料理人など、日本人にとっては、目新しい技術を持つ人たちであった。
1930年頃の横浜南京町(wikipediaより)
現在、中華街の住所は、全域に渡って、山下町となっている。しかし、1879(明治12)年から、1899(明治32)年にかけては、通りごとに、日本各地の地名がついた町が30町ほどあった。中華大通りは、前橋町、関帝廟通りは、小田原町という具合に。中華街に加賀町警察署というのがあるのもその名残で、他に、横浜スタジアムと中華街との間にある「薩摩町中区役所前」というバス停、また、開港道沿い、重慶飯店本館前とその向いにある2本の電柱には、尾張町と書かれた管理標識もある。
中華街を語る上で欠かせないのが、関帝廟と媽祖廟という華僑の信仰に関わる施設である。関帝廟は、三国時代、蜀漢の武将、関羽を商売の神として祀ったもの。1862(文久2)年に、ささやかな堂を設けたのが始まり設けたのがはじまりというが、最初の本格的な関帝廟をもうけたのは、1871(明治4)年だった。それが、1923(大正12)年の関東大震災で倒壊すると、1925(大正14)年に、2代目の関帝廟が建てられたが、1945(昭和20)年の横浜大空襲で、焼失した。さらに、3代目の関帝廟が、1946(昭和21)年に建立されたが、1986(昭和61)年に、不審火で焼失すると、4代目にあたる現在の関帝廟が、1990(平成2)年に完成した。
また、海の女神である媽祖を祀る信仰も初期の頃から伝わっていて、初代関帝廟の廟内と清国領事館に祀られていたという。その後、2代、3代の関帝廟内にも祀られていて、3代目焼失の時、難を逃れた媽祖像は、現在、箱根観音に祀られている。
そして、媽祖廟建立に直接つながったのは、2003(平成15)年、(株)大京が、南門シルクロードの一角にマンションを建てる計画をしたことである。それに、「横浜中華街発展会協同組合」が、街づくりの観点から反対し、同所を大京から買い取り、媽祖廟設立発起人総会を設立した。そして、2005(平成17)年には、地鎮祭を行い、2006(平成18)年3月17日に開廟した。
ウィリアム・ウィリス
Part 1につづき、幕末から明治にかけての日本の激動の時代に、日本の医療と医学の近代化に貢献した心優しき大男、ウィリアム・ウィリスのその後の人生を見ていきたいと思います。
ウィリスは新政府から要請を受けて、横浜の軍陣病院で戊辰戦争傷病兵の治療に当たることになった。新政府東海道総督府は、1868年6月(慶応4年閏4月)野毛町の旧漢文学校修文館(今の老松中学の地)に横浜軍陣病院を開いた。当初東京に開設しようと考えていたが、ウィルスが江戸と神奈川の副領事に昇進したこと、公使パークスの息子の病気治療中であること、2点を考慮して横浜への開設となった。この病院は日本初の公立外科病院であった。
開設時に7名であった傷病兵の数は9月には207名まで増加し、野毛山下の太田陣屋(今の日ノ出町駅近く)も使用された。負傷者の多くは戦場から横浜へ2、3日掛かって、船で運ばれた。その年の11月に閉院するまで、6か月余り軍陣病院として使われ、その後江戸下谷の津藩邸(藤堂屋敷)に移された。この移転先の病院が、旧幕府の医学所を含めて大病院となり、やがて東京大学医学部へと進展していった。軍陣病院が移転した後、その地には中病院が移転し、1873(明治6)年12月に十全病院となった。これは横浜市立大学医学部付属病院の前身である。
新政府から、越後の戦傷者の治療のため、ウィリス派遣の要請があった。パークスは直ちに許可を与えたが、「新政府の負傷者だけでなく、捕虜になったものの治療にも当たる。」という条件を付けた。これはウィリスの希望でもあったが、パークスとしては、人道上の理由ばかりでなく、あくまでも局外中立の原則を保持しようとしたからであった。また、新政府は初めウィリスに給料を払うつもりでいたが、出張という形をとることになり、新政府から一切報酬は受けなかった。
ウィリスは1868年10月5日(慶応4年8月20日)に越前藩士25名に護衛されて、江戸を出発し12日掛けて高田へ到着。その後、柏崎、新潟、新発田、会津若松と移動し、寒さと食料の不足に耐えながら、患者の治療と日本人医師の教育に奮闘し、パークスへの報告も怠らなかった。ウィリスからの第一報を受け取って、「まだ旅行が始まってから5日だというのに、これほど興味深い報告に接するのだから、この出張でウィリスがどれほど多くの情報を集めてくれるか、実に楽しみである。」とパークスは述べている。
その後も、ウィリスは忙しい治療の合間に、各地での見聞を覚書にまとめパークスに報告している。その中で、繰り返し触れているのは、治療してきた沢山の負傷兵の中に幕府軍の負傷者がいないという事であった。「これまで私は様々な機会をとらえて、敵方の負傷者にまだ一度も出逢わない失望感を表明してきた。‐中略‐ とりわけ文明諸国は、負傷した敵兵の無差別の殺戮が日本の戦争の特徴であることを知れば、憎悪をつのらせるであろうと言っておいた。そして、私としては、日本政府のヒューマニズムを示す機会に出逢いたいものだと述べておいた。」
新発田(しばた)での治療活動の後、若松行きの要請を受けたが、新政府の要請書には「新政府軍の負傷者ばかりでなく、会津側の負傷者の治療にも当たってもらいたい。」と述べてあった。若松で2週間滞在の間、ウィリスは700名の会津側の負傷者の治療をした。敵味方区別なく人道的な治療ができて、ウィリスの願いが叶った。
ウィリスは3か月にわたる治療の旅を終えて12月28日(11月15日)に江戸へ戻った。踏破した距離は約600マイル(960キロ)にのぼった。600人を自ら治療し、1000人に治療の指導をしたとウィリスは報告している。その内900人が御門の軍隊で、700人が会津兵であった。
ウィリアム・ウィリス
ヘボン博士はアメリカ領事館がおかれていた神奈川の本覚寺で、生麦事件の負傷者の治療を行ったことで有名ですが、ウィリアム・ウィリスは生麦事件の被害者チャールズ・リチャードソンの検視を行ったイギリス公使館付医官です。1862(文久2)年5月に来日して1877(明治10)年8月に帰英するまで15年余り、幕末から明治にかけての日本の激動の時代に、日本の医療と医学の近代化に貢献しました。この心優しき大男(身長192㎝体重127キロ)の人生を見ていきたいと思います。
ウィリアム・ウィリス(William Willis)は、1837年5月1日、小役人(収税吏や治安維持官)の傍ら借地農場主であった父ジョージ・ウィリスと、母ハナの間に、7人兄弟の第5子(四男)として、北アイルランドのファマーナ州エニスキレン郊外に生を受けた。エニスキレンは湖沼が点在する美しい街である。ウィリスが8歳から12歳の1845年から4年間、アイルランドは大飢饉に襲われ、病気や飢餓で人口の約八分の一が亡くなったと言われている。
1855年にスコットランドのグラスゴー大学医学部に入学し、その後同じくスコットランドのエジンバラ大学に移り1859年5月19日に卒業した。医学部で勉学できたのも、ウェールズのモンマスで開業医をしている長兄ジョージの援助によるものであった。ウィリスは医学士の称号を受けて、ロンドンの最も大きな医師養成病院の一つミドルセックス病院で、住込み外科医として勤務を開始した。ところが、その病院の看護助手(マリー・フィスク)との間に不義の男子エドワードをもうけることになる。後にエドワードは長兄ジョージの養子として育てられた。
ウィリスはミドルセックス病院に一年半勤務した後、英国外務省の国家公務員任用試験を受け合格した。その後の彼を日本へ追い立てたのは、マリー・フィスクと距離を置くためだったかもしれないし、エドワードの養育費を稼ぐためでもあったようだ。また、アーネスト・サトウのように日本を紹介した『エルギン伯使節団の物語』を読み、日本に興味を持ったのかもしれない。
ウィリスは上海、長崎経由で、1862(文久2)年5月23日に横浜に着任した。25才であった。因みにウィリスの親友アーネスト・サトウは同年9月8日(8月15日)に19才で来日している。ウィリスは日本滞在中、長兄ジョージへの借金返済やエドワードの養育費はもとより、実家への援助や母親へのプレゼントなどのため、せっせと長兄ジョージに送金している。当時のウィリスの年俸は500ポンドであった。
●第二次東禅寺事件 1862年6月26日(文久2年5月29日)
この一年前の第一次東禅寺事件の後、オールコックが横浜に公使館を移していたが、オールコックが賜暇の間、代理公使となったニール中佐が、公使館を江戸高輪の東禅寺に戻した矢先の出来事だった。日本側の護衛500名余、英国側騎馬護衛兵12名、レナード号の海兵隊員30名で警護されていたにもかかわらず襲われたのであった。襲撃犯は公使館の護衛を命じられていた松本藩の警備兵伊藤軍平衛と判明した。もともと外国人の横暴な振る舞いを憤慨していた軍平衛は、藩の財政を逼迫させる公使館警備の任を解こうとして犯行に及んだ。その背景には、開港後急増する輸出に物資の生産が追い付かずに、物価が高騰し、庶民や下級武士の生活を圧迫していたという事実があった。
その事件の様子を、長兄あての手紙で鮮やかに伝えている。「夜の12時半から1時の間に、突然異様なけたたましい騒音で目が覚めました。たけり狂った野獣のような叫びや、日本の太鼓の響きや、確かに襲撃の物音が聞こえてくるのです。」「私は極度に不安におののきながら、これまでの人生の移り変わる光景が、はっと息をのむような早さで脳裡に浮かびました。お母さんや、あなた方一人ひとりのことが、そしてあなた方が耳にする私の最後の悲劇的な話が、頭を横切りました。」彼は危険を冒して、部屋を出て、海兵隊の士官に危急を報告します。「我々外国人に友好的だと思われていた大名の家来に襲われた事実から考えると、この国はいたるところに敵がいると言わねばなりません。…日本人警備兵らは我々の殺害計画を知りながらその警報すらもせず、凶行は連中の同意と承認のもとに断行されたのです。」この襲撃で英国の警備兵2名が死亡し、犯人は自害した。
●生麦事件 1862年9月14日(文久2年8月21日)
事件は欧米人にとっては休日の日曜日の午後に起きた。英国人4名、上海のイギリス人商人チャールス L. リチャードソン、横浜在住のウッドソープ・クラークとウィリアム・マーシャル、マーシャルの義理の妹で香港在住のボロデール夫人が乗馬で川崎大師に向かっていたところ、東海道の生麦で大名行列と遭遇してしまった。はじめ道をよけるように言われて、わきを進んでゆくと、薩摩藩主の父、島津久光の駕籠が見えてきた。彼等は次に引き返すように指示され、馬首を巡らせようとしている時、数名の薩摩藩士に切りつけられた。リチャードソンは瀕死の状態で落馬し、その後、藩士にとどめをさされて殺された。クラークとマーシャルは重傷を負いながら、神奈川のアメリカ領事館であった本覚寺へたどり着いて、ヘボンの手当てを受けた。ボロデール夫人は無事に横浜居留地にたどり着き、皆に急を告げた。居留民たちは、すぐに武装して事件現場へ向かった。
サトウは次のように書いている。「先着者の中でも、おそらく誰よりも一番先に駆け付けた人は、ドクトルのウィリスであった。自分の職責に対する強い義務の観念から、ウィリスは全く恐怖のなんたるかを感じなかったのである。」ウィリスは事件の一報を聞き、医療機器を携えて、リチャードソンを殺害した薩摩の大名行列のそばを通り抜ける危険を冒して、現場に向かった。残念なことに、生麦で発見したのはリチャードソンの遺体であった。
以下の記事は「神奈川宿古文書の会会報」第41号に掲載された鈴木富雄氏による論稿であり、許可を得て転載させていただきました。
生麦事件後は箝口令がしかれていて、誰も真相を語るものがいなかったのですが、犯人の一人であった久木村治休が94歳(数え年)の時、死を前にして病床で語ったことと伝わっています。70年以上経ってからなので、細かい点は記憶違いがあるようですが、何と言っても、当人が語る内容は非常に鮮烈であり、他のどんな説明より真実味が感じられます。文中にある(筆者注・・・)の部分は、当時の口述筆記をした書き手の方によるものと推察します。
昔の仮名書き、旧漢字など入り混じっています。読みやすくするために、ふりがな、助詞、句読点など、多少手を加えました。(Toshiko)
「資料紹介」 生麦事件の真相
…(略)昭和9年から17年までの約9年にわたり活動した「横浜史料調査委員会」の調査活動史料の中に、生麦事件に関する史料があり、薩摩藩士で、生麦事件で夷人を斬殺した久木村治休翁の口述が昭和11年に雑誌「話」に所載された史料があり、この所載史料を紹介する。
「生麦事件で夷人を斬殺した私」
初めて公表する事件の真相
九十四翁 久木村治休述
昭和十一年四月十一日発行「話」所載
文久二年五月それは私が二十歳の時である、尊王討幕、開港攘夷と國を挙げて狂奔してゐた頃だった、私共の薩摩は討幕へ邁進してゐた。京都から勅使大原重徳卿が東下され、その護衛の大役を命ぜられたのが私の主君島津三郎久光公であった。薩摩藩主久光公は此の重任を無事に果たされ、其年の夏を過ぎて秋風の立ち初むる頃風雲徒らに急を告ぐる京洛の地に帰任する事になった。
時は文久二年八月廿一日(西暦一千八百六十二年九月十四日)の朝まだき、我等一行三百人餘りの大行列は大々名薩摩様の威容に邊を拂いつつ三田の薩摩屋敷を出発し、東海道を西へと上洛の途についたのであった。大井・大森を過ぎる頃から次第に初秋の残暑が身に應へ出した。川崎の宿に休息して昼食をすませた一行は「下に下にツ」の警蹕(けいひつ)の声に路傍に蹲(うずく)まる旅人の中を西へ西へと炎熱の東海道を進んだ。私はその行列の鉄砲組の中に居た。行列の先頭は押足軽、次は挟箱と長柄組、次が鉄砲組である。鉄砲組は二人づ々並んで、赤い毛布で包んだ鉄砲を交替に担ぐのであった。主君の御駕籠はそのずっと後方に多数の御駕籠脇護衛の武士に護られてゐた。
昼下り…今で云ふと午後二時頃…我々一行は武州生麦の里を通行してゐた、行交ふ旅人も此の炎天を避けたか稀であった。
丁度此の頃我々の一行と肥馬にゆるく打たせた四人の夷人とが出会った、当事世にやかましかった黒船の夷人、それが遠乗りにでも行くのであろうか、男三人に女を交へ見事な手捌きでやって来た。
夷人共は私共の行列から見て右側即ち山手側を通って居る、彼等は此の大名行列に行遭って少々ためらってゐるらしい、一行とお互に左行違になって行過ぎようとした。
当事私共薩摩藩士には夷人となると何だか妙に心理が働いたものだった 排他的な気風を多分に有って居た私共は口々につぶやいたものだった。「夷人の癖に馬に乗りやがって…女の分際で…彼奴等商人の分際で…」
「乗り打ちは無礼…冠り物も取るらず…一言の挨拶もせない…」色々と我々は不平を云ったものだった。
四人の一行は馬の足掻きをゆるめて左側を注意に注意を重ねつつ通行した、私共は何となし小さな腹立ちさ、誰に当たらうもない、憤りを感じつ々そのま々通り過ぎるより他に仕方がなかった。私等の先方部隊はそのまヽ無事に通り過ぎた。
此両方が如何に行過ぎたかは従来史家の間に於て問題となっているさうであるが、私ははっきり之を申上げ置く、即ちお互に左行過ぎになったのである、夷人一行はおとなしく通って行った、夷人が馬乗のま々行列先へ踏み込んで来た何のと云うが、それは想像に過ぎない、腫物に触るやうな気で通ったのだ。
後方部隊の方で只ならぬどよめきの声があった。私は「すは……」何事が起った事を直覚したので、行列左方脇に飛び出し後を振り返った、私の眼に映した光景は一大事件の惹起した事を明らかに物語ってゐた。強烈な秋の陽光が野芒の如き抜刀にきらめいて居た夥しい人が右往左往し叱咤し怒号しその中に先の夷人が四角八面ににげまどってゐる、さてはあの夷人の狼籍といふ事は直に看取られた。と見る瞬間私の眼の前に一人の夷人が馬上に打伏加減になって左手で脇腹を押へ、右手に手綱を握って野芒の如き抜刀の武士を足蹴にしつ々駆けてきた。「やったなツ…」見れば夷人は左脇腹から夥しい鮮血を流している、誰かに斬られた事は瞭然であった、私は矢庭に腰の愛刀波の平安国二尺六寸五分に手を掛けた、疾風の如く私の前を駆け通る、行列は乱れてサッと左右に道を避けた夷人は私の目の前に迫った、あわや行過ぎようとした、その時遅く彼の時速く私は愛刀を腰の捻りと共に抜き放ちその力を利用してその侭大きく輸を描いて右後方へ払った、右片年打の横一文字だ。「ダッ…ギッヤッ…」愛刀は彼夷人の左脇腹を刀は前腹部から喰ひ込って背後へ後上りにバラリズンと斬られたのだった。二尺六寸五分の大業物の切先が僅かに三寸程か々つた。夷人は私の此の深傷に物凄い叫声をあげてそのまま駆けて行った。人々は此咄嵯の場合だ只抜刀のまヽ呆気にとられてゐる。私は尚も彼の夷人の後を抜刀のまヽ追った。然し残念なから一方は徒歩その間は次第に離れるばかりであった。事実は只是丈である。その間時間にすればほんの数分否私が騒ぎを知ってから夷人を取り逃がす迄は一分もかヽらぬ電光石火の間に行われたのであろう。私が当時の状況から想像し又同僚が其後日に話した事などから推察すると次の様な有様であった事が想像される。