横浜歴史さろん

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コバテル先生のハマ歴ワンポイント ブラントン①

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コバ・テル先生

横浜の近代都市形成のプランナー・ブラントン(PART Ⅰ)

―彼が夢見たのは鉄道技師、しかし来日時は灯台技師―

R・H・ブラントン(Richard Henry Brunton、1841-1901年)は、英国のアバディーンシャー(Aberdeenshire)の小さな漁村マカラス(Muchalls)の出身である。彼は鉄道技師としての活躍を夢見て、1864年に、ロンドン・アンド・サウス・ウエスタン鉄道(The London and South Western Railway) に従事した。翌年の1865年から67年にかけて、ミッドランド鉄道(Midland Railway)等で鉄道建設に携わった。しかし、1860年代後半には、英国の鉄道は「山間僻地津々浦々」という表現が過言でないほどに敷設され、鉄道ブームに翳りが見え始めていた。ブラントンがそんな現実に直面していた時、彼の胸をときめかせたのが灯台技師としての訪日であった。

ブラントン胸像

横浜公園に設置されているブラントンの胸像

日本の灯台技師招聘は、1858(安政5)年の「安政の五カ国条約」での開港・開市問題を含む未解決問題の追加協定とも言える1866(慶応2)年6月の「改税約書」に基づく。この約書に「航行安全のための諸施設」に関する規定があり、その建設の推進のために灯台技師が招聘されることになった。幕府は灯台技師の招聘、建設に必要な機器類の購入に関する協力を英国に依頼した。依頼を受けた英国公使パークス(Sir Harry Smith Parkes)は本国の外務省に問い合わせた。外務省から商務省、そしてトリニティ・ハウス(Trinity House;灯台の建設、維持を業務とする非省庁型公共機関) を経て、デヴィッド・アンド・トマス スティーヴンソン会社(The David and Thomas Stevenson Ltd.)に協力依頼があった。スティーヴンソン兄弟の呼びかけを介して選ばれたのがブラントンであった。余談だが、多くの日本人が読んでいる小説『ジキル博士とハイド氏』の著者ロバート・ルイス・バルフォア・スティーヴンソン(Robert Louis Balfour Stevenson)はトマスの息子である。

燈明台役所が描かれた浮世絵

明治期の横浜の表玄関弁天橋の先に燈明台役所が
描かれた浮世絵(横浜開港資料館所蔵)

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