横浜歴史さろん

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岩瀬忠震 ー開国推進論者 岩瀬忠震とよこはまー

横浜の郷土史家 田村泰冶氏「史論集Ⅱ 郷土横浜を拓く」平成27(2015)年4月1日発行。第六章、横浜人物伝 二、開国推進論者 岩瀬忠震とよこはま(149p~156p)(著者より転載了承。)
原文は縦書き、漢数字使用だが、ここでは横書き、算用数字使用、難解な漢字はよみ等を追加、また重要箇所は太字に、などの編集を加えてある。なお、本稿には他稿からの抜粋を挿入した。(Toshiko)

目 次(下記目次項目をクリックすると該当箇所へ移動します。全文読むにはログインが必要です。)

1. 横浜開港の恩人として
2. 岩瀬忠震の出自
3. 岩瀬忠震の転進
4. 横浜開港と岩瀬忠震
(挿入)岩瀬忠震の横浜開港論
(挿入)日米修好通商条約交渉
5. 悲しい結末 ~罪人扱いにされて~
横浜開港の恩人は誰か? 岩瀬忠震支持 各論

1.横浜開港の恩人として

横浜開港に寄与した人物として、つぎの三人が挙げられ、その顕彰碑等が建てられている。

大老 井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ) 掃部山公園 銅像
松代藩軍師 佐久間象山(さくましょうざん) 野毛山公園 顕彰碑
外国奉行 岩瀬忠震(いわせただなり) 本覚寺境内 顕彰碑・レリーフ

岩瀬忠震顕彰碑  本覚寺門前(神奈川区高島台)

この三人のうち、岩瀬忠震が横浜の歴史上で言及されたのは郷土史研究家の森篤男氏が「横浜開港の恩人岩瀬忠震」(よこれき双書1/その改訂 1980 横浜郷土研究会)を発刊してからである。本来ならば第一に掲げなければならない人物が何故うずもれてしまっていたのか。
 今、神奈川区の本覚寺、開港当時アメリカ領事館になったこの寺の境内入口に顕彰碑が個人の方の善意で設置された。

この碑は1982年11月14日、「横浜開港の恩人岩瀬忠震」の著者、森篤男氏らの手で建てられた。当時の細郷横浜市長ら関係者約100人が出席し除幕式が行われた。この式典で、本稿執筆の田村氏が司会を務めたそうだ。

2.岩瀬忠震の出自

岩瀬忠震は三河以来の直参旗本、小普請組1400石取りの武家、設楽(したら)直之助貞丈(さだとも)の三男として文政元(1818)年11月21日に誕生した。幼名は愿、篤三郎、忠三郎と称した。母は林大学頭述斎の側室で、前原氏の三女、設楽貞丈に嫁した。忠震が26歳の時、直参旗本、岩瀬市兵衛忠正の長女と結婚、養嗣子となり岩瀬の姓を名乗った。 養父の忠正は800石取り、格は下がるが文化12(1815)年には書院番士、嘉永5(1852)年書院番の組頭に栄進、安政3(1856)年には先手弓頭になっている。

岩瀬忠震 (Wikipedia)

3.岩瀬忠震の転進

忠震は小さい頃から頭脳明晰といわれ、江戸湯島聖堂内でも頭角を現していた。天保14(1843)年、人材登用を図るため、十二代将軍家慶が口頭試問を上等席(謁見が許されている生徒)・下等席(下級士族の師弟)に試みたところ、優秀な成績を取った19人の生徒の中に、身分の低い下等席で、25歳の岩瀬忠震が入っていた。その後、めきめきと頭角を現し、31歳の嘉永2(1849)年2月、抜擢されて両番役(書院番と小姓組番)に配属され、小姓組では江戸城西の丸、番頭白須甲斐守に属し、切米300俵を受けた。この時期に改名して、岩瀬修理となった。
 同年10月、甲府学問所「徽典館(きてんかん)」の学頭(教授=文学)に任命され、手当30人扶持を受けた。この学校で今泉耕作(後に白野夏雲とか、太田耕作とか称した)と出会い生涯の子弟関係を結んだ。
 嘉永4(1851)年、忠震33歳のとき江戸昌平坂学問所の教授に任命されて勤務。今泉耕作も岩瀬に同行して江戸に赴き、以後忠震の秘書役として働くことになった。
 嘉永6(1853)年、35歳で西の丸御小姓組白須甲斐守組徒歩頭(かちがしら)に昇進した。「徒」とは将軍出向の際、先駆と道路警戒を任務する職務でその指揮官が頭である。一般に武官系の昇進コースの終着は「目付」で、その順序は小姓組 → 書院番士 → 徒頭、または小十人組使番 → 目付、となる。また、幕府およそ300年の歴史の中で身分階位は、「老幼之序規範」で、親の身分を越えて昇進することはできなかった(注:父子共、幕府の職に就いている場合)。しかし、忠震は出仕して4年目で、御徒頭、役高1000石となり、義父の800石を越え、従来の部屋住出身の家柄では到底考えられない昇進であった。

老中 堀田正睦 (Wikipedia)

老中 阿部正弘 (Wikipedia)

嘉永7(1854)年、忠震36歳、岩瀬修理忠震は目付に昇進。あたかもペリー再来航のとき、老中阿部正弘が交渉指揮していたが対応に苦慮、優秀な人材の登用を断行し職務を遂行しようとした。そこに選ばれた一人が岩瀬忠震であった。「栗本鋤雲遺稿」によれば

・・・父子共に職に在れば其子たる者、賢と雖も父に超ゆる能はさるの旧規を改めて、堀織部、永井玄藩、岩瀬肥後の三人を擢んで監察(目付)とせり・・・

と述べており、阿部正弘は適材適所にその時、22名も登用した
 期待に答えるように岩瀬忠震は目付に昇進すると海防掛、下田取締掛、松前蝦夷地掛、軍制改正掛、内海台場普請掛、大筒鋳立、大船製造掛、西洋伝小筒立掛、蕃書翻訳掛、講武所取建掛と、驚くほどの多くの職務をこなしている。 しかし、彼の本領はその後にくるペリー、ハリス等の条約交渉や諸大名等、開国通商反対勢力への説得に並々ならぬ力を発揮するようになるのである。

プチャーチン (Wikipedia)

安政2(1855)年、岩瀬等を登用した老中阿部正弘が病気で首座をさがり、後任に開明派の堀田正睦(まさよし)が就き、忠震は高く評価をもらい堀田正睦の側近として、外国との交渉、諸大名の説得に奔走した。安政4(1857)年、阿部正弘が39才、業半ばで逝去し、岩瀬忠震の存在が大きくなった。
 特に「日露和親条約」修正交渉ではプーチャーチン特使と交渉し、その際、下田港での安政大地震、大津波によるロシア船破損を救援、新造船で本国へ送った実績は外交上大きな成果となって現われた。

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