この記事は、関写協機関誌 No. 61・1999・5月号に掲載されたものです。「関写協」は関東写真館協会のことで、協会は、発足して60年を越える関東一都六県で構成される「街の写真館」の団体です。記事の著作権をお持ちの熊谷美波氏(故・熊谷守美氏のご息女で、藤沢にある片瀬写真館の三代目)より、許可を得て転載しています。ご親戚で、横浜歴史さろん会員の熊谷明子様より情報提供していただきました。スペースの都合上、レイアウトは変更、また読みやすくするために、行換え・段落のとり方の変更、多少の補足などしました。(Toshiko)
下岡蓮杖師と清水東谷師の写真
神奈川 熊谷守美
着流した町人風の3人、幕末から明治4年の断髪令以前に横浜写真の開祖下岡蓮杖師によって撮影され、原画は湿板から鶏卵紙に焼きつけられた名刺判くらいのものだが、被写体はというと、右側で腕組みをしているのが現在の高島易断の開祖高島嘉衛門(嘉右衛門)氏、左端の若い人は、旧大倉組(今の大成建設)、ホテルオークラの創設者で、後に男爵となった大倉喜八郎氏である。
さて中央にいるのは嘉永6年、黒船来航の際、井伊掃部頭との間に入り、通訳として活躍し、ペリーより信頼を受けて直接自筆サイン入りの貴重な写真を受け取った、私の曽祖父熊谷伊助(本誌97年第50号参照=当サイト「熊谷伊助①」)である。
いずれも開港直後広く事業を興し、明治初年には天下の財閥として前記の2人は名を残したが、曽祖父伊助は堪能なる語学力を買われ、アメリカより進出してきた商社ウオールス・ホール商会(本誌96年第41号松浦清文氏の記事参照)に望まれて勤務し、同社の出資援助のもとに、県の指令による根岸の堀割川開削と吉田新田沼地埋立の事業に出資者側として参加。明治3年より同9年2月までかかったが、途中ウオールス社へ融資した英国の銀行が本国で資金が必要となり即時返還を迫ってきたが、埋立会社は如何ともし難く、米英大使・時の中島県令が間に入り、政府大蔵卿と交渉し、利息はおろか、元金も半額に満たない30万円の返済で解決し、土地は一部を残して殆どが官有となった、埋立会社も同時に解散し、現在の横浜中心部発展の基礎となった埋立へ全財産を注ぎ込んでしまった。時運熟せず同商会の財産の保護に当たるべき立場の伊助も責任を痛感したことであろう。
その年の6月、取引上のことで親しかった井伊大老とは意見を異にしていた旧水戸藩の宴席へ呼び出しを受け、自身気の進まぬまま死を覚悟して止むを得ず出席したが、果たせるかな毒酒を盛られ、帰宅途中の駕篭の中で息を引き取ったと伝えられている。享年56才。親友勝海舟がその死を悼んだ追悼の句碑が、千葉県市川市行徳の自性院という寺の境内に残されている。(熊谷伊助①の最後に掲載)
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