みなと横浜(Part 2) ~横浜開港:横浜村の変貌にオールコックが驚愕、
とは言え、お粗末な港湾機能の下の荷役作業~
安政5年6月19日(1858年7月29日)に、日本とアメリカ合衆国との間で「修好通商条約」の締結をみた。その条約の第3条に神奈川開港が規定された。しかし、幕府は条約に盛り込まれていながらも、開港場を「神奈川」から「横浜」に変更した。その理由は、神奈川と違って、横浜は東海道の街道筋から外れているので、外国人居留地を隔離し、内外人との紛争を回避することにあった。幕府は説得を重ね、横浜開港を押し切った。しかし、ハリス(Townsend Harris)が危惧したことは、横浜の地を開港場とすることで「新たな長崎出島」がつくりあげられることであった。最終的に、ハリスは横浜開港場を受け入れることになったが、居留地に牆壁(しょうへき)を設置しないことを条件とした。
幕府が開港場建設に投じる経費は、安政6年4月10日の外国奉行の上申段階では、総計9万2089両計上されていたが、戸部に設けられた神奈川奉行所やその役宅、その他道路・橋梁の建設費、用地の買収費等を含めると13万両にのぼったともいわれている1)。その費用もさることながら、横浜開港に伴う経過には目を見張るものがあった。安政6年2月22日、外国奉行による幕府への開港場建設計画に関する建議が行われ、3月上旬に工事が開始された2)。早くも、「5月27日には『芝生村新道より道端見分九分通り出来』とあり、6月11日には『波止場始役宅住居道橋等残仕事皆出来』とあって、横浜の建設は完成し、戸部の役所も『八分通り出来』と3)」ある。特に、運上所や波止場の建設は、開港直前の3ヵ月間にほぼ工事を終えていたことになる。
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