横浜歴史さろん

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コバテル先生のハマ歴ワンポイント みなと横浜④

テル先生イラスト

コバ・テル先生

みなと横浜(Part 4) パーマーと横浜港の改修築事業
~パーマー計画案採用の背後に外相大隈重信の決断が~

沖に停泊する本船に向う

欧米使節団正使の岩倉具視、艀で
「象の鼻桟橋」沖に停泊する本船
に向う(明治 4(1871)年 11 月)

1)横浜商法会議所の「横浜波止場建築ノ建議」と東京築港問題

横浜港の改修築は、明治14(1881)年3月23日の横浜商法会議所第9回定式会議による「横浜波止場建築ノ建議」以降、「本船の接岸埠頭を早急に」を合言葉に高揚した。それは、原善三郎、小野光影等の横浜経済人と神奈川県令野村靖や横浜税関長本野盛亨等による官民一体となっての改修築論でもあった。また、そうした明治14年の横浜港改修築熱望論の高揚は、前年の明治13年に、第7代東京府知事 松田道之により東京港の築港調査が始まったこととも無関係ではなかった。

ムルデル

ムルデル

明治14年に内務省に答申された東京港計画は、土木工師オランダ人ムルデル(Anthonie Thomas Lubertus Rouwenhorst Mulder)の大規模構想に基づくものであった。彼の計画は、「品川台場以内の海面をもって本港となし、第一砲台、第三砲台より沖へ4キロメートルの突堤を造り、品川海岸と第一砲台の間を閉塞し、第三砲台より石川島に達する接続提を造り、隅田川を石川島の北端で締切り、河流は上総溝に放流させる。つまり、港内を浚渫後、東京港を大きな漏斗型の池のようにして、細い口(港口)を海に出して、港口付近の水深を大船が出入りできるように維持する」(『東京市史稿』港湾編第四、1926年、24頁) 東京港築港に関しては、その後も議論が重ねられ、明治18(1885)年2月、次の第8代東京府知事芳川顕正は海港案品川沖築港に関する「品海築港之儀」を内務卿山県有朋に提出した。その築港の費用は1255万円と概算された。その後、「品海築港之儀」は「品海築港」という形で検討された。

ムルデルの東京湾築港計画図(明治14年) 『東京市史稿』港湾編第四

東京港の誕生は、横浜港衰退の要因になり、自他ともに認められていた日本一の港・横浜港の危機にもつながるが、事は動き、山県内務卿は府知事の上申を受け入れた。明治18年10月8日、築港費総額1893万円という巨費であったが、内務省は承認した。しかし、巨額の築港費ということで、太政大臣の許可が出ず立ち消えになった。芳川は巨額の工費を棚に上げ、「曽(かつ)テ拙者ヨリ建議シ、廟議殆ド其(東京築港)ヲ採用セラルルニ際シ、神奈川県ニ於テ之ヲ聞キ騒然要路ニ向ヒ県下ノ事情ヲ具セシ為メ、遂ニ廟議ニ変更ヲ来タセシナリ」(前掲書、329頁)として、断念せざるを得なくなったのは、神奈川県の政治的反対によると謗(そし)った

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