横浜歴史さろん

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佐久間象山 ー洋学の先覚者 佐久間象山ー

横浜の郷土史家 田村泰冶氏「史論集Ⅱ 郷土横浜を拓く」平成27(2015)年4月1日発行。第六章、横浜人物伝 一、洋学の先覚者 佐久間象山(131p~148p)。(著者より転載了承。)
原文は縦書き、漢数字使用だが、ここでは横書き、算用数字使用、難解な漢字はよみ等を追加、また重要箇所は太字に、などの編集を加えてある。(Toshiko)

目 次(下記目次項目をクリックすると該当箇所へ移動します。全文読むにはログインが必要です。)

1. 佐久間象山と横浜
2. 佐久間象山の生涯
3. 象山の海防論と開国論
4. 藩主真田幸貫の支援と象山の軍議顧問役
5. 象山と横浜警衛、横浜開港論
6. 洋学者、佐久間象山
   洋学への関心
7. まとめ ~ 佐久間象山のめざす改革とは~

1.佐久間象山と横浜


横浜開港の推挙者 佐久間象山の碑  野毛山公園

横浜野毛山公園の高台に開港百周年を記念して昭和29(1954)年、佐久間象山顕彰会が「横濱開港の先覺者 佐久間象山の碑」を建立した。
 だいぶ汚れて読みにくくなっているが、以下、碑全文。

   横濱開港の先覺者 佐久間象山の碑
安政元年一八五四年米国の使節ペリーが来朝のおり、松代藩軍議役として横浜村にいた佐久間象山先生は、当時の新思想家でありまた熱心な開国論者であった。先生は日本が世界の先進国からとり残されることを憂え、幕府の要路に対してしばしば欧米諸国との通商交易の必要なことを献策した。またその開港場として、横浜が最適地であることを強く主張し、幕府の決意を促して、国際港都横浜の今日の発展の緒を作った。不幸にも先生はその後、京都に遊説中攘夷派刺客の兇刃のために、木屋町三絛で客死した。時に元治元年一八六四年七月一一日のことであった。本年はたまたま開国百年の記念すべき年に当るので、われわれ有志相はかりその功績をたたえるためにここに顕彰の碑を建て、永く後世に伝えることとした。
        昭和二十九年十月一日   佐久間象山顕彰會
            横濱市長 平沼亮三書

現在、開国の恩人として佐久間象山、井伊直弼、そして岩瀬忠震が挙げられており、直接的横浜開港論者は時の外国奉行岩瀬忠震である説が有力になり、神奈川区青木町本覚寺門前に顕彰碑が建てられた。また、掃部山公園には開港50周年に旧彦根藩士等によって大老井伊直弼銅像が建てられ種々の経過を経て公園地共々横浜市に寄贈されて現在に至っている。(編集者注:田村泰冶氏による「開国推進論者 岩瀬忠震とよこはま」もこの歴史すぽっとに掲載)
 今回は佐久間象山の生誕地や上田方面への研修視察の機会を得たので、横浜と関連して佐久間象山が洋学の研究と開国強兵論の形成がどのように進められ、横浜商人中居屋重兵衛等にどのような影響を与えたのかを検証してみたい。


佐久間象山 国立国会図書館蔵
大男で日本人離れした風貌、強烈な
個性の持ち主であった。

2.佐久間象山の生涯

佐久間象山は信濃国(長野県)松代藩の家臣佐久間国善(一学)の子として文化8(1811)年に松代有楽町(現 象山神社境内)で生まれた。名は国忠、後に啓(ひらき)・大星と改めた。字は子明、号は、滄浪、曲水、観水、養性斎主人、清虚観道士等を用い、中年以降は象山としている。この号は松代市内にある小山の名称「象山(ぞうやま)」から採ったもので、読み方に「しょうざん」(漢音発音)と「ぞうざん」(呉音発音)があり、漢音が一般的になっている。
 彼は小さい時から藩老、鎌原桐山に学び、漢学を修め、天才と呼ばれる程頭角を現していた。天保3(1832)年、21歳、父を亡い、翌年江戸に出て佐藤一斎門下に入った。3年後、松代に帰り、25歳で藩の文武学校の教授となり子弟の教育に当たった。

天保10(1839)年、再び江戸に出て神田お玉が池に「象山書院」なる私塾を開き、さらに松代藩邸の学問頭取となって朱子学の振興と子弟の教育に努めた。彼を洋学に傾注させたのは藩主真田幸貫(ゆきつら)が老中職につき、海防事務に当たったことから、象山もその研究に当たり『海防八策』を藩主に建言し、さらにそれを極めるため江川太郎左衛門に海防の基本、大砲術を学んだ。そこで洋式火器の威力を知り、更なる西洋技術の究明を図ろうとした。弘化元(1844)年、黒川良庵に蘭学を学び、替わりに漢学を黒川に教える交換条件で江戸で同棲し洋学の研究に没頭した。その間、松代藩から郡中横目役(郡政視察見廻り役)が与えられ藩政にも関わりながら江戸と松代を往復していた。嘉永元(1848)年、オランダ人ベウゼルの原書から大砲鋳造技術を得て、数門の大砲を製作し、各藩の注目するところとなった。幕府に対しオランダ辞書の発行を願い出たが認められなかった。しかし、欧米諸国の艦船が来航しはじめ、海防の急務が生じたため、彼の私塾には各藩の藩士らが西洋技術の習得に入門してきた。その中に勝海舟、坂本竜馬、吉田寅次郎(松陰)、小林虎次郎等がいた。坂本龍馬はわずか四ヶ月ではあったが砲術作法、大砲鋳造術等の講義を受けて洋式武器の威力を学び、その威力を背景に日本に迫り来る外国の情勢や対外関係の重要性を学んでいった。
 嘉永4(1851)年、木挽町に塾を移し、塾生500人を数えた。翌年、易と砲の理論を軸にまとめた「礮卦(ほうけ)」一編を著した。また、この年、41歳になった象山は勝海舟の妹、順子(16歳)と結婚。25歳も離れた夫婦であった。新婚生活も束の間、嘉永6(1853)年浦賀沖にアメリカ艦隊四隻の黒船が来航し、国内は大混乱に陥った。象山は老中阿部正弘宛てに『急務十事』を進言した。
 嘉永7(1854)年、再びペリー艦隊が来航した際、塾生の吉田松陰が洋の事情を自分の目で見たい知りたいと熱望するあまり海外密航を策したが失敗し、象山は連座して伝馬町の獄に繋がれ、地元松代の聚遠楼に蟄居させられた。その間にも彼は洋学に専念し、若い士族がひっきりなしに教えを受けにきていた。本人も『省録』を著し、元込銃の試作、電池の実験を行ったり、開国交易説の必要性を説いたりしていた。

文久2(1862)年、罪を許されて自由の身になったが国内は混乱し、尊王攘夷論が横行し、幕府の権威が消失しつつあった。そこに生麦事件の発生、公武合体論を主張する開国派と攘夷鎖国派との抗争が続き、洋式軍備(洋式火器・鉄製軍艦等の)拡張が西国大名を中心に広まっていった。この翌年の攘夷決行勅語をうけた長州藩の外国船への砲撃事件、薩摩鹿児島湾のイギリス艦隊の報復攻撃は日本の軍備と西洋近代兵器との格差を歴然とさせ、欧米諸国の優位性を認めざるを得なかった。
 象山は幕府の命を受け、元治元(1862)年、上洛し朝廷・公家をはじめ、「開国論」の必要性を説き反幕派の鎮静化に努力していた。彼は常に乗馬で往来し、洋式の鞍を堂々と付けて京の町を通行していたので「西洋かぶれ」と攘夷論者の顰蹙をかってしまうことになった。さらに天皇の彦根遷都説を展開したため、7月11日、刺客によって三条木屋町通りで斬殺されてしまい、若妻は文久3(1862)年春、江戸に戻った象山との再会が最後となり、訃報を知り自らも殉じようとしたが周囲に止められ、落飾して仏門に入り、冥福を祈ることとなった。

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