横浜の郷土史家 田村泰冶氏「史論集Ⅱ 郷土横浜を拓く」平成27(2015)年4月1日発行。
第六章、横浜人物伝 六、横浜起業家 高島嘉右衛門(157p~166p)。(著者より転載了承。)
原文は縦書き、漢数字使用だが、ここでは横書き、算用数字使用、難解な漢字はよみ等を追加、また重要箇所は太字、画像の追加、などの編集を加えてある。編集者による大幅な加筆部分は青字で示した。(Toshiko)
目 次
1. はじめに
2. 横浜での活動、そして挫折
3. 伝説的な生涯、易学的な感覚
4. 横浜での本格的事業
(1)日本全国の灯台建設
(2)高島旅館
(3)ガス会社・ガス灯
(4)高島学校
(5)鉄道敷設地埋立
上記項目は別ページ「横浜起業家 高島嘉右衛門1.」に掲載
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(6)定期航路開設
(7)高島遊郭
(8)四品食品市場
(9)岩伊座開場
(10)港座にガス灯
(11)木管水道敷設
(12)横浜共同電灯会社
(13)北海道炭鉱鉄道・横浜共同電灯会社
(14)高島牧場
5. 易学 ~高島易断~
6. まとめに代えて
資料 高島嘉右衛門と易断
(6)定期航路開設 明治4(1871)年、ドイツより船舶(レイン号)を購入。「高島丸」と命名、横浜~函館間運航
これは、オランダ領事タックの口車に乗せられ購入した船だが、当時は独仏戦争中で、このドイツ船を動かせば、仏軍から攻撃される状況だった。嘉右衛門の機転と押しの強さによってこの難局は切り抜けて、日本最初の郵船(定期飛脚船)明治3(1871)年「高島丸」を航海(横浜・函館間の定期航路)させた。しかし、当時はまだ政府に海運の重要性が理解されておらず、採算が合わず、補助金を受けられないことなどから、明治5年には中止になった。「世に先んじて事を企てることはむづかしいものだ」と、言わしめた。数年内には、岩崎弥太郎が定期航路を開き、政府の軍事輸送を一手に引き受け大成功する。
(7)高島町・遊郭建設 明治5年、鉄道用地外の土地、高島町と命名。翌年旧吉原町遊郭移転。10年契約。
鉄道敷設で埋立てたときの土地は嘉右衛門の所有となったが、これは停車場と鉄路に遮断されていることから、家を建てようとするものが現れなかった。そこで明治5年、県令陸奥宗光に会い、港崎町(この頃は「こうさき」と呼ばれていたようで、場所は現在の羽衣町・伊勢佐木町辺りにあったらしい。吉原町とも言われているが、実際はわからない)の遊郭を移すように許可願を出した。陸奥には、「教育に功労ある篤志家が女郎屋を作るとは何事ゾ」(「教育に功労」とは高島学校を言っている)とはねつけられたが、嘉右衛門は岩亀楼、神風楼という二大楼閣の主人と話をつけて、結局、高島町遊郭を実現させ、地代収入を得ることとなった。
(8)四品食品市場 明治5年、関内太田町・相生町に建設。四品とは青物・魚類・肉類(鳥)・果実物をいう。
明治4年陸奥宗光が神奈川県令のとき高島嘉右工門の市場開設の出願を許可して市内の衣紋坂 (今の横浜公園内) に欧米風の吹貫建築で本格的な食品市場を開設させた。後年の港町魚市場がこれにあたる。明治42年組合長太田徳次郎 高島氏より士地1270坪と建物一切の讓渡を受けた。これがその後の中央卸売市場開設(昭和6・1931年)へとつながる。
(9)岩伊座開場 明治6(1873)年、高島町一丁目
(10)港座開設 明治7年(1874)、関内住吉町、舞台照明にガス灯30基を使用
(11)木管水道敷設 明治7年、横浜商人有志と会社設立代表となる。多摩川の登戸から関内まで木槌で導水。
☆この詳細はアーカイブページにある「特集 横浜と水の今昔物語」を参照ください。
(12)横浜共同電灯会社設立 明治22(1889)年、社長就任。
(13)北海道炭鉱鉄道、東京市街铁道 明治25(1892)年、社長就任。
(14)「高島牧場」開設 明治25(1892)年、北海道石狩・十勝の開拓。
高島嘉右衛門は明治9(1876)年、実業界から身を引くと公表した。そして、高島台の自宅にて易の研究に専念するようになる。明治9年以降も多くの事業の役職に名を連ねているが、実質的な活動は行っていなかったようだ。一説には訴えられたガス局事件(後述)がこじれたことで嫌気がさしたのではないかと言われているが、やはり、自身の占例集ともいえる高島易断を完成させるためだったらしい。
明治13年「高島易占」刊行、明治19年「高島易断」、明治39年「高島易断 決定版」刊行。
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