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ウィリアム・ウィリス―幕末・明治に多くの日本人を治療した英国人医師 ― Part 1

ウィリアム・ウィリス

ヘボン博士はアメリカ領事館がおかれていた神奈川の本覚寺で、生麦事件の負傷者の治療を行ったことで有名ですが、ウィリアム・ウィリスは生麦事件の被害者チャールズ・リチャードソンの検視を行ったイギリス公使館付医官です。1862(文久2)年5月に来日して1877(明治10)年8月に帰英するまで15年余り、幕末から明治にかけての日本の激動の時代に、日本の医療と医学の近代化に貢献しました。この心優しき大男(身長192㎝体重127キロ)の人生を見ていきたいと思います。

1.来日までのウィリス

ウィリアム・ウィリス(William Willis)は、1837年5月1日、小役人(収税吏や治安維持官)の傍ら借地農場主であった父ジョージ・ウィリスと、母ハナの間に、7人兄弟の第5子(四男)として、北アイルランドのファマーナ州エニスキレン郊外に生を受けた。エニスキレンは湖沼が点在する美しい街である。ウィリスが8歳から12歳の1845年から4年間、アイルランドは大飢饉に襲われ、病気や飢餓で人口の約八分の一が亡くなったと言われている。
 1855年にスコットランドのグラスゴー大学医学部に入学し、その後同じくスコットランドのエジンバラ大学に移り1859年5月19日に卒業した。医学部で勉学できたのも、ウェールズのモンマスで開業医をしている長兄ジョージの援助によるものであった。ウィリスは医学士の称号を受けて、ロンドンの最も大きな医師養成病院の一つミドルセックス病院で、住込み外科医として勤務を開始した。ところが、その病院の看護助手(マリー・フィスク)との間に不義の男子エドワードをもうけることになる。後にエドワードは長兄ジョージの養子として育てられた。
 ウィリスはミドルセックス病院に一年半勤務した後、英国外務省の国家公務員任用試験を受け合格した。その後の彼を日本へ追い立てたのは、マリー・フィスクと距離を置くためだったかもしれないし、エドワードの養育費を稼ぐためでもあったようだ。また、アーネスト・サトウのように日本を紹介した『エルギン伯使節団の物語』を読み、日本に興味を持ったのかもしれない。

2.日本では攘夷の嵐が吹き荒れていた

ウィリスは上海、長崎経由で、1862(文久2)年5月23日に横浜に着任した。25才であった。因みにウィリスの親友アーネスト・サトウは同年9月8日(8月15日)に19才で来日している。ウィリスは日本滞在中、長兄ジョージへの借金返済やエドワードの養育費はもとより、実家への援助や母親へのプレゼントなどのため、せっせと長兄ジョージに送金している。当時のウィリスの年俸は500ポンドであった。

●第二次東禅寺事件 1862年6月26日(文久2年5月29日)

 この一年前の第一次東禅寺事件の後、オールコックが横浜に公使館を移していたが、オールコックが賜暇の間、代理公使となったニール中佐が、公使館を江戸高輪の東禅寺に戻した矢先の出来事だった。日本側の護衛500名余、英国側騎馬護衛兵12名、レナード号の海兵隊員30名で警護されていたにもかかわらず襲われたのであった。襲撃犯は公使館の護衛を命じられていた松本藩の警備兵伊藤軍平衛と判明した。もともと外国人の横暴な振る舞いを憤慨していた軍平衛は、藩の財政を逼迫させる公使館警備の任を解こうとして犯行に及んだ。その背景には、開港後急増する輸出に物資の生産が追い付かずに、物価が高騰し、庶民や下級武士の生活を圧迫していたという事実があった。

 その事件の様子を、長兄あての手紙で鮮やかに伝えている。「夜の12時半から1時の間に、突然異様なけたたましい騒音で目が覚めました。たけり狂った野獣のような叫びや、日本の太鼓の響きや、確かに襲撃の物音が聞こえてくるのです。」「私は極度に不安におののきながら、これまでの人生の移り変わる光景が、はっと息をのむような早さで脳裡に浮かびました。お母さんや、あなた方一人ひとりのことが、そしてあなた方が耳にする私の最後の悲劇的な話が、頭を横切りました。」彼は危険を冒して、部屋を出て、海兵隊の士官に危急を報告します。「我々外国人に友好的だと思われていた大名の家来に襲われた事実から考えると、この国はいたるところに敵がいると言わねばなりません。…日本人警備兵らは我々の殺害計画を知りながらその警報すらもせず、凶行は連中の同意と承認のもとに断行されたのです。」この襲撃で英国の警備兵2名が死亡し、犯人は自害した。

●生麦事件 1862年9月14日(文久2年8月21日)
 事件は欧米人にとっては休日の日曜日の午後に起きた。英国人4名、上海のイギリス人商人チャールス L. リチャードソン、横浜在住のウッドソープ・クラークとウィリアム・マーシャル、マーシャルの義理の妹で香港在住のボロデール夫人が乗馬で川崎大師に向かっていたところ、東海道の生麦で大名行列と遭遇してしまった。はじめ道をよけるように言われて、わきを進んでゆくと、薩摩藩主の父、島津久光の駕籠が見えてきた。彼等は次に引き返すように指示され、馬首を巡らせようとしている時、数名の薩摩藩士に切りつけられた。リチャードソンは瀕死の状態で落馬し、その後、藩士にとどめをさされて殺された。クラークとマーシャルは重傷を負いながら、神奈川のアメリカ領事館であった本覚寺へたどり着いて、ヘボンの手当てを受けた。ボロデール夫人は無事に横浜居留地にたどり着き、皆に急を告げた。居留民たちは、すぐに武装して事件現場へ向かった。
 サトウは次のように書いている。「先着者の中でも、おそらく誰よりも一番先に駆け付けた人は、ドクトルのウィリスであった。自分の職責に対する強い義務の観念から、ウィリスは全く恐怖のなんたるかを感じなかったのである。」ウィリスは事件の一報を聞き、医療機器を携えて、リチャードソンを殺害した薩摩の大名行列のそばを通り抜ける危険を冒して、現場に向かった。残念なことに、生麦で発見したのはリチャードソンの遺体であった。

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