横浜歴史さろん

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横浜天主堂と横浜天主堂事件 (中区山下町、1861~1906、開国後初のキリスト教教会)

天主堂跡地のキリスト碑

初代天主堂

1858年10月9日、日本が欧米諸国と結んだ修好条約の一つしてフランスと調印した条約の4条に「日本に在るフランス人自国の宗旨を勝手に信仰いたし、その居留の場所に宮社を建てるも妨げなし」とあるため、琉球にいたジラール神父(Prudence-Séraphin-Barthélémy Girard)(註1)が、日本教区長に任命され、フランス総領事ベルクール(Bellcourt)の通訳兼司祭として、1859年9月に江戸に上陸、10月16日に神奈川を訪れた。これは、プロテスタント最初の宣教師ヘボン(Hepburn)は、翌17日に着いたので、それより1日早い。フランスから来たジラール神父は、1860(万延元)年、横浜の外国人居留地に住む外国人のために天主教会堂を建設する計画を建て、居留地80番に約1,000坪の永代借地権を獲得し、日本に滞在する外国人からも聖堂建設の寄付金を集め、幕府にフランス語の教授を申し出たりしながら江戸との間を馬で往復しながら準備をすすめた。

ジラール神父

 11月には、新任宣教師ピエール・ムニーク(Mounicou)が到着した時には、すでに6人は住める司祭館が完成に近づいていた。同氏が、工事監督にあたり、12月から工事が始まり、約1年後の1861(文久元年10月9日)年1月11日に、開国後初の教会、聖心教会堂が落成し、在留外国人に対する布教が認められた。

ジラール神父の書簡によると美しい金色の十字架掲げ、ヨーロッパのゴシック様式と日本の寺の独特の様式を合わせた小さな教会で、日本人に対する布教は認められていなかったものの、新しい教会を見物に横浜、神奈川、江戸とその近郊から訪れる人が多く、「これよりご覧候へ」と鍵穴からのぞかせたという。

下岡蓮杖夫妻

 写真家の下岡蓮杖(註2)もその1人だという。見物人の中には、ジラール神父に話しかける人もいて、神父が流暢な日本語で教会堂の絵画の説明や、キリスト教の真理を解きながら答えるので、人気があったという。

1862(文久2年1月20日)年2月18日、そのことを快く思っていなかった神奈川奉行阿部正外(あべまさとう)が、伊勢詣での帰りを含む天主堂見物人、商人や農民55人を逮捕、33人を、戸部村の牢屋に入れるという事件が起きた。ジラール神父がすぐにフランス公使に伝え、公使が神奈川奉行に釈放を願い出た。しかし、「本件は、幕府の管轄である」と取り合ってくれなかったので、フランスと日本との国際問題に発展し、最終的には、幕府が神奈川奉行に釈放を命じ、3月13日(2月14日)までに全員が釈放された。皮肉にもこの事件をきっかけに、天主堂は、有名になり、以前にも増して連日、見物人が訪れたという。また、教会の正面に日本語で「天主堂」と書かれているのもけしからん削り取れという話もあったという。その後もキリスト教信者への迫害は続き、元町前田橋のたもとをはじめ、町のいたるところにキリスト教禁制の高札が建てられた。

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